INNER LIFESTYLE DESIGN
 〜ナチュラルに生きる方法論序説
精神のサイズ
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地球が1メートルくらいの大玉だとすると、大気圏はそれを取り巻くほんの1ミリくらいの層だと聞いたことがあります。
富士山が高い、エベレストが高いといっても、その1ミリにも満たないわけです。

大玉と言っても、宇宙の中では豆粒です。
太陽の直径は地球の109倍。
体積でいうと、地球の129万5000倍だそうです。

太陽に比べると地球はごくごく小さい豆粒です。
人はその恵まれた表面で棲息しているカビのようなものです。

宇宙ができたのは、137億年前で、地球ができたのは、46億年前。人類が誕生したのは400万年前。
宇宙誕生から今までを1年にたとえると、12月31日の午後9時半なのだとか。
宇宙の歴史の中に地球の歴史があり、その中に人類の歴史があり、その中でも有史以後というのはごくわずかで、その中で個人の人生は長生きしても、たかだか100年くらいでしょう。

アレキサンダー大王やチンギスハンが広大な世界を征服しても、ビル・ゲイツやジョージ・ソロスが想像を超えたような資産を作っても、せいぜい彼らの支配が及ぶのは100年に過ぎません。

では、人というのは限りなく卑小かというと、そうも言えません。
こうして宇宙のことを解明することもしているし、それを言葉を使って共有してもいます。インターネットというものを使って、限りなく早く広く物事を伝えることもできます。

そういう精神活動の大きさというのは、物理的には測りようがないのです。

人そのものが小宇宙である、ということはよく言われます。
人が宇宙だから、こんなに宇宙のことを想像し、理解できるのでしょう。
他の動物、ミミズやオオカミやゾウやモグラにも宇宙があるかもしれませんが、人が認識し想像する宇宙よりずっと小さな限定されたものでしょう。

つまり、人は、いくらでも自分の内なる精神宇宙を開拓できるのです。
火星や月にロケットで鉱物を掘りに行くよりも、今ここにいて、ずっとすごい開発をすることができます。

それが人の生命の意味、絶対的な価値を考えて行くときの出発点になります。

そこから考え始めると、今までこのブログで相対的な価値と呼んできたものが、実際に相対的であるのがわかるでしょう?







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答 エネルギー的な見方
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前にも書いたように、「分際を知る」というのは、上から目線で言われると反撥したくなるような言葉です。しかし、「分をわきまえる」というのは、かつては庶民の美徳であったのです。
そんな古いカビの生えたような道徳を物置から引っ張り出してくる必要があるのか、と思うかもしれません。しかし、日本語の独特の言い回しには知恵があることが多いのです。

固まった結論を押しつけられる道徳は御免ですが、心のエネルギーの制御という観点で、「分をわきまえる」ということを捉えてみましょう。

今の時代は、どういう時代かといいますと、簡単にエネルギーが拡散してしまう時代なのです。
私が関心がある領域でいいますと、物を書くという本筋以外に、テレビ、ゲーム、映画、DVD、マンガ、小説、音楽、アート、お酒、グルメ、カラオケ、ダイエット、囲碁、将棋、麻雀……細かく分けていくともっとあります。

電子機器の時代になって、電源タップも大型になりタコ足配線になったでしょう。
それと同様に人の心からもエネルギーが多方面に微弱電流のようにダダ漏れしているのです。

お金も同様です。携帯の通信費など、毎月数千円という人が多いでしょう。本を5,000円分というと、なかなか買いませんが、いつのまにか引き落とされている費用というものには人は鈍感になりやすいのです。

最近テレビで家計費の節約物をときどきやりますが、お金を貯めよう、余裕を出そうとしたら、まず出費の見直しからするでしょう。
それと同じで心の出費を見直さないと、日々を送るのが精一杯で、新しい創造的な活動に回るエネルギーが出ないのです。

>肝心要の進みたい人生の方角もわからないまま、自分の基準もわからないまま、今に至ってしまいました。

これは何か一つに、自分の関心、エネルギー、時間、お金を注ぎ込まないと出てきません。どんなこともある一定量以上の自己投資をしないと、その楽しさも奥行きも、また自分に合っているかどうかもわかりません。

しかし、つねにエネルギーが多方面に漏れて余裕のない状態であれば、半歩は近づいても、2歩、3歩とその世界に歩みいることはできません。
そうして傍観者でいるうちに簡単に何年も経ってしまうのです。

私はそのように心のエネルギーの世界でものごとを見ます。そういう観点と社会的成功とか、お金が儲かるということは別次元なのです。
ただし、エネルギーがダダ漏れ状態では社会的に成功するということもないでしょう。

>無名の大学から世界に冠たる大企業に入社してどんどん出世していく、とか。あるいは、矢沢永吉のように、ロックで成り上がり、大スターになる、

無名の大学から大企業に入るには、何か強力な意志力とアピールが必要でしょう。
たとえば、食品会社に入りたくて、1年生のときから、有名なラーメン屋を渡り歩いてアルバイトしていたとか、ですね。

そうすると、一般にはその人がしたことを見るかもしれませんが、私はその人が捨てたことを見ます。どれだけ多くを捨ててエネルギーを制御したか。
人が遊んでいるときも、時間やお金をただの気晴らしのためには使わず、自分の本筋と結びつかないことは捨ててしまう。
それができる人には、頭脳が優れている人以上にある面で期待できます。
大手企業が無名大学の学生を取るとしたら、そういうところを見ると思います。

矢沢永吉にしても、成り上がるには音楽しかなかったという状況があったでしょう。いわゆるハングリーであった。そして、今でもハングリーで在り続けているでしょう。

矢沢にしても、ミック・ジャガーにしても、普通の人の望む以上のものは全て持っています。だけど、ロックンロール以外はいつでも捨てられる。そうでなければ、あの若々しい身体は維持できません。

彼らをビッグにしたのは、欲望しょうか?
それは多くて半分でしかありません。
その影にあるものは制御です。

彼らはその気になれば、セックスもドラッグも美食もつねに思うままに手に入れることができるでしょう。
しかし、彼らは小室哲哉や、のりピーのように放埒に陥って破滅したりはしません。

「分をわきまえている」人というのは、じつはエネルギーをムダにしないという意味でたいへん強い人なのです。
自分を実力以上の存在に見せようとしたり、手にあまる役割や仕事を引き受けてしまえば、破綻しそうなものを必死に繕わなければいけませんから、たいへんなエネルギーのムダ遣いをします。
そういうことは一切しないで、必要なときにエネルギーをドンと出せる人が何かを成しとげます。

>私の知人は「俺は全然もてねえし、女はみんな態度がでかくて気に食わないからマンガやアニメの女の子でいいわ」と言っています。

これは「分をわきまえている」というより、もう単なる怠惰ですね。女性とつきあうより、アニメの女のコでダダ漏れしているほうが楽でいいわけです。
女性というのは、男にとって、「わけのわからない現実」というものだと思うのです。
男は女にさまざまなものを投影しますが、たいていの場合、ことごとく間違っています。実際につきあってみると、そこには全然別のリアリティがあります。

そういうところに妙味も人生修行もあるわけですが、たぶん、今の若い男性のある層には、そういう試行錯誤の機会が少ないのでしょう。
そういう環境であって、しかも、アニメやマンガの世界には、男性が投影した通りの女性がいますから、そちらに流れてしまうわけです。そういう仲間もたくさんいて、孤立感もありません。

つまり、投影した通りのものが現れるので、そこに心理的抵抗は生じません。
これはエネルギーの節約とは違います。
成長期には、抵抗や摩擦があって心が発達するので、そういう現実の代わりに、都合のいい幻想を与えていると、そもそも心が開発されていない未発達の状態で放置されることになるわけです。
したがって、節電する以前に発電量が少ない状態なのです。

女性とつきあう試行錯誤をした経験もなく、発電量も低いのでは、リアルな女性とつきあうのは、山登りの経験がない者が突然崖を登れと言われるようなものでしょう。
そういう意味では、その人は実際に女性と付き合おうとしても、たいへんだと思います。

でも、それは「分をわきまえる」以前ですね。何でも実際にやってみたときに、体験から自分の分をわきまえるということが出てくるので、最初から怠惰や臆病で行動しないのであれば、自分のことはわかりません。 


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分際を知る生き方
 相対的な価値は多様です。

頭がいい。顔がいい。スタイルがいい。いろいろなスポーツが得意。お金持ち。稼ぎがいい。歌がうまい。絵がうまい。文がうまい。料理がうまい。手芸がうまい。

……細かく上げていけばキリがありません。
100個でもあ゛けられるのではないでしょうか。

生まれつきの要素が大きいものもあるし、努力である程度どうにかなるものもあります。
人生に大きな影響があるものもあるし、さほどでもないものもあります。

私は走るのが遅かったのですが、小中学校のときはそれはかっこ悪いし、大問題でした。しかし、大人になると、ほとんど影響がありません。

そして、大切なのは上には上がいるということです。

スポーツでも、地区予選では強くても、県大会で負けるかもしれません。県大会で強くても、全国では弱いかもしれません。
日本ではトップレベルのアスリートでも、世界レベルでは凡人になってしまうことがあります。
オリンピックなどでも、メダルが獲れなかった人、10位以下の人に世間は冷淡です。
金メダル、あるいはメダル以外は敗者ということであれば、人は必ずどこかで敗者になるのです。

私は将棋は2段ですが、これは初心者から見るとかなり強いはずです。
でも、3段4段の人から見るとたぶん隙だらけです。
プロが相手だったら、100局やっても1局も勝てないでしょう。

私が将棋を覚えた頃は、相手は父親や友人でした。
勝って喜んだり、負けてくやしがったり、それが楽しかったのです。
でも、将棋道場などに行って他人とするようになると、上には上がいるというのがわかってしまいます。
そうすると、非常にまじめに努力しないと上に上がれないとわかります。
いくら努力しても自分にはあるレベルで限界があるだろう、ということも想像がつきます。

それを楽しむ人もいるのでしょうが、私はそこでむきになるのはしんどいし、自分の感じていた楽しみとは違います。
同じくらいの強さの相手と、大して上達もしないで勝った負けたと言っているのが私には性に合います。
趣味については無限の競争に身をさらすよりは自分の世界で楽しみたい。

「分際を知る」とか、「分をわきまえる」という言葉があります。
他人から「分際を知れ!」と言われるのはイヤなものですが、自分で「分をわきまえる」というのは、快適に生きる一つの秘訣です。
それは自分自身を知ることであり、自分の生きる世界をちょうどいいサイズに整えることです。

自分に100を望んでいて50くらいしか達成しなければ、その人は大変不満に思うでしょう。しかし、10を望んで10を満たしている人は満足です。
等身大のサイズで生きている人は、無理をしないし、他人に迷惑をかけません。そして、人と比べたらささやかな世界でも、自分の楽しみを持って円満な気持ちで暮らしています。
それは他人と比べるという相対的な価値のモノサシをあまり使わないからです。

いま、「誰でも一億円稼げる秘訣教えます」みたいな本やセミナーが多いでしょう。
「ついては私に10万円ください。一億円稼げるのだから安いものでしょう」みたいなことがよく書いてあります。
これは、私たちの世代の言葉でいうと、「浅ましい」という一言に尽きます。
そういうビジネスをするほうも浅ましいけれども、これにひっかかるほうも浅ましいのです。

身の丈に合わない夢を見ると、つまらないことにエネルギーと時間とお金を浪費して消耗することになります。








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依存する人
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人は絶対的な価値としては自立しているけれども、相対的な価値の世界では、ときどき不安になり、人に支えてもらいたくなります。

片足を持ち上げたときに、ふらふらすると、片手を軽く壁につくと安定するでしょう。
あれと同じで、いわば一つの「基準」というものを借りればいいのです。
全身で寄りかかる必要はないのです。
どうしてかというと、一瞬ふらついただけで、自分自身で立てるのだから。

不安なときは、誰かしっかりした人、話せる人のところに言って、相談するといいでしょう。「ああ、そういうのあるよね」「自分はそういうときこうしているよ」というようなことを話してくれます。

相談しなくても、その人の落ち着いた物腰や話し方に触れるだけで安心できるかもしれません。そういうことが「基準を借りる」ということです。

ところが、いつも不安な人は、基準を借りるのではなくて、つかみに行ってしまう。体重を相手にかけなければ不安なのです。
これがいわゆる「依存」ということになります。
(これは前に書いたように、幼年期に絶対的な価値というものを承認されなかったという経験から来ることが多いのです)

自転車の乗り方を覚えかけのとき、誰かに押さえてもらっていると思うと安心しますが、手を離されると急に不安になって身体が固くなり、余計な力が入ってグラグラしてしまいますね。
力を抜いてスピードを出すほうが安定するのです。
グラグラするから不安になるのではなく、不安になるからグラグラするという面が大きいのです。
そういう悪循環は自分自身でどこかで勇気を持って切らないといけません。

そうして、不安定な人がつかみに行きますと、しっかりした人はそれを受け止めません。自分が不自由になるし、そういう不安定な体勢は長く続きません。また受け止めることが本人のためにならないということもわかっているのです。
一見冷淡に見えるかもしれません。
でも、長い目で見るとそのほうがいいのです。

それを善意でガシっと受け止めてくれる人は、本人も不安定な部分を持っていることが多いのです。
こういうつながりがいわゆる「共依存」ということになっていきます。

不安定な者同士が両手でつかみあえば安定するか、というと、そういうことにはならないのです。一人一人が自分で立っていなければ、重心がグラグラと移動して、複合的不安定になります。それはどこかで破局するか、ぎりぎり保ってもお互いに怖くて手を離すことができない状態です。

第一、それでは歩くこともできません。
人の心というのは、じっとしていれば安定しているかといえば、そんなことはないのです。
歩くこと、前進することで自己調整し、安定するのです。

自分は一人で立っている、という前提から始めること。
つかむのではなく、基準をちょっと借りる、ということ。
これが大切です。

自分を理解してくれる人、尊敬できる人、何でも話せる人。
そういう人が基準になってくれる人です。
そういう人を周囲に探し、作りましょう。
同年齢だけではなく、少し年長の人もいいかもしれません。

そういう人がいれば、とくに話さなくても、存在するだけで心の支えになってくれます。不安に沈まないためには、そういうしっかりした支えをできれば複数持つことです。

そういうことがわかってくると、自分のすきなアーティストの本やCDや絵でも同じ役割を果たすことがあります。要するに、基準だけを借りられればいいわけですからね。
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絶対の価値
近頃は、みんな忙しいので、ちょっと会いたい、ちょっと呑みたいと思っても、アポイントメントを取っていないと難しいですね。
最近は若い人も忙しいので、同じような状況ではないかな。
以前より職場や学校の人間関係も希薄になっているようだし。

でも、誰かに会ってちょっと話したいという気持ちは、突然来たりする。

何か自分の不安な部分を話して、相談したり、人はどうかと聞いてみたかったり。
あるいは、すぐれた友人と会えば、その相手が自分を友人として認めてくれることで自分がやっぱりオーケーと思えたり。
そういうちょっとした確認がほしいときがあります。

学校の成績でも、絶対評価と相対評価ってありますね。
私たちは、生命として絶対的な価値を持っています。
生命としてはいつも1であって、0,5でもなければ、2でもない。1つ命が無くなっても予備にもう一つある、という人はSFの世界にしかいません。

その生命が、ご飯を食べて生きているというのは、それだけで立派なことなのです。
植物も動物も、生命として生きています。
そして、必要最低限しか他の生物に干渉しません。
ライオンがシマウマを喰い殺すのも生きるのに最低限必要なだけだと言われますね。
生命に善悪の基準はありません。エゴイズムもありません。
それを人からどう見られるか、ということも気にしません。

人も同様で、生きているという絶対的な基準はみんな持っているのです。
衣食住が足りないと、人も真剣に考え、必死に行動します。第二次大戦後、物のない時代には、人々はいまとは全然違う真剣さで生きていたと思います。
衣食住が足りてしまうと、人は動かないで考え始め、心の悩みが増え始める、という傾向があるようです。
毎日のご飯の心配で自殺するという人はあまりいません。
それ以外、それ以上の何かの価値に執着して、命という基準を失ってしまうのです。

つまり、それが相対的な価値です。
他の人と自分を比べます。
誰々は自分より頭がいい、美人だ、人気がある、お金がある、育ちがいい、才能がある……、ということを比べるのです。
つまり、自分自身の外にある価値のモノサシで自分を測り始める。

自分以外のものを投影しはじめるといってもいいでしょう。
自分でないものを投影して、自分の持っているものを測ろうとする。
これは、あまり意味ないのです。
私はイチローのように野球がうまくないし、キムタクのようにかっこうよくない。
そういうことを言っても意味ないでしょう。

しかし、そういう考えはいくらでも増殖できるのです。
もっと身近な人に対して、どうしてあいつばかりが人気があるのだろう、とか、どうしてあいつが評価されて出世するのだろうとか。
そういう考えを持つ人は少なくありません。

そのような投影の世界に入っていくと、人は絶対評価の世界からはぐれてしまうのです。

だから、ときどき自分のことを他人に認めてもらわないと、自分の価値がぐらぐらと不安定に感じるのです。






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心の不完全燃焼
 私が若いとき、夕方とかに突然誰かに会いたくなって、それが付き合っていたり、気になっている女性だったらいちばんいいけど、彼女がいないときもあり(かなり)、そうでなくても気の合う友だち、気が合うというほどでもないけども、まあまあな友だち、そういうのに順番に電話していって(当時はメールなんてないから)、誰も捕まらないとき、いてもいい返事がもらえないときは、しょぼーんとしてしまうことがありました。

大げさにいうと、誰も自分という人間を必要としていないのではないか、自分は無意味な人間ではないか、という気持ちに急に襲われて、さみしさが増幅するのですね。
電話帳を開いても、5〜6人の決まった候補しかいないのが、非常に貧しいような気がしたり。

そういうふうにして気分が落ち込んだときには、なかなか回復しません。
テレビを見たりしても、どこか気分はチリチリしています。

そういうときに、いちばんいいのは、布団をかぶって寝てしまうことです。
人は一晩寝ると気分が変わって、ほとんど別人になります。
翌日がいい天気だったりしたら、昨晩さみしかったことなど忘れて、今日は何をして遊ぼうかな、というようなものです。

でも、今だったら、そういう寂しさをネットや携帯で紛らわし、埋めている可能性は高いでしょう。そうすると、神経が冴えてきてしまって、本来人に会いたかったものをネット上のつながりで、半分だけ満足させるということもあるでしょう。
しかし、前に書いたように本来人に会うときの栄養素の半分以上はネットでは欠けているので、不完全燃焼になります。

そういう今の時代だったら、安眠もできず、ぷすぷすと朝までくすぶっている自分が見えるので、きっと今の時代にもそういう人がたくさんいるだろうな、とわかるのです。


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静かな時間が怖い
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静かな時間、沈黙してる時間、自分と向き合う時間が怖い、という様子をしている人をときどき見かけます。
いつも、外からの印象を自分にインプットしてせかせかとしている。
とても本人にとっては意味ありげなのですけど、騒がしいだけであまり実がない人がいます。

北欧の映画や絵画を見ると、日本人の感覚からすると、とても無口で静かに生活している人が出てきますね。
昨年、ウィルヘルム・ハンマースホイというデンマークの画家の展覧会のレビューを書いたのですが、北欧のイメージが知りたければ、このリンクの絵を見てください。


絵を見ただけで静まりかえっていて、違う精神が流れていますでしょう。こういう世界にはテレビのお笑い番組がガンガン鳴っているなどはありえません。

この展覧会を見たあと、スウェーデン人と結婚した女性に話を聞く機会があったのですが、映画や絵画だけでなく、北欧人は実際に物静かで個人の領域と時間を大切にしていると聞きました。

だから、いつも何かのノイズで気を紛らわしている、というのは、人の心の共通の性質ではないのです。
人の身体が共通の構造、性質を持つように、人の心も共通の構造、性質があります。その共通性の上に、地域の文化、時代の文化というものが成り立って、差異が生じているのです。

北欧人が正しい基準というわけではありませんが、日本の数十年前と比べても、現代の日本はやや狂躁的な加熱状態にあります。
自分の静かな時間を大切にして、それを奪われることを苦痛に思う、という人が世界にはたくさんいます。
そういう基準を失うべきではありません。

ところが、日本人には、立ち止まって静かな時間が来ることを恐れている人がたくさんいるように見えます。

どうしてこんなにせかせかとしてしまうのでしょうか?

(まだ空虚に入りませんでした……流れのままに…予告しないことにします)


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内面の声を聞く 2(瞑想の意義)
テレビの悪口を書きましたが、私も何かイライラしたときなど、感情紛らすために、テレビをつけてダラダラとザッピングしたりします。
そういう気分転換の道具としてはけっこういいのです。

ただ一日の中のある時間は、そういう刺激を切って、自分の内面と向き合うことが大切です。
忙しければ、5分か10分でもかまわないのです。
日常の心の波立ちをおさめた素の状態、これを一つの基準として身体と心が忘れなければいいのです。

素に戻るというのは一つの瞑想なのです。
目をつぶり、音楽もかかっていたら消して、外から入ってくる情報を消します。
外から入ってきた印象の残像、耳鳴りのようなもの、そういう波立ちがおさまるまで静かに座っていましょう。

波立ちが収まってくると、今度は内側から雑念が湧いてきます。
でも、雑念は外から入ってきた印象ではなくて、内側から来ています。
この変化が大切です。

ここでいう「内側」の本質は「言葉以前」のエネルギーです。
だから、体験していることを無理に言葉に置き換えないほうがいいのです。
それでも言葉が出て来たら、どんどん出るに任せましょう。
干渉したりコントロールせずに、ただそのまま感じていることが大切です。

5分と言ったら「そんなに短くていいの?」と思いませんでしたか?
でも、実際に目をつぶって座ると5分は短くないです。

短時間でも、外側から来た印象の波立ちがいったん切断される、ということが大切です。
地形が道路で切断されたような場所で、地層の切断面が見えることがありますね。
一回断ち切る、ということさえすれば、自分の心の客観像が一瞬垣間見えるのです。
そして、自然に変化が生まれます。

瞑想というと、何か難しいことのように思うでしょうが、本質はそういうシンプルなことだとわかれば、生活にとりいれやすいでしょう?
超能力が身に付いたり、神様や龍のイメージが出てくるようなことを期待する人もいると思いますが、それは迷妄に陥りやすい道です。
ここでいうのは、そういうプラスアルファを求めることではなくて、ゼロにリセットすることです。

目盛りをときどきゼロに戻すと、感受性も基準を取り戻して、大きくズレていくことはなくなります。

ただ、そういう素の状態に戻るのさえコワい、という極端な場合のことを次回に書きます。
(空虚さについて書くはずが瞑想に寄り道をしてしまいました。それは次回に)






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内面の声を聞くこと
 テレビを時代の大きな状況のほうから眺めましたが、今度は心の側からテレビを眺めましょう。

こちらから眺めると、テレビとネットというのはよく似た要素があります。

*アクセスするのがイージーである。
*一方的に見ていてアクションを要求されることがない。
*時間的に際限がない
*見ているだけで変化がある

ゲームや携帯もかなり似ています。
ゲームは変化は少ないし、自分がアクションをする必要があります。
携帯もメールはかなり自分も書かないといけませんね。

しかし、すべて液晶画面を見て、ヴァーチャルな世界にアクセスするという面ではこれらの4つは共通しています(テレビも携帯も現実そのものではないという意味で仮想現実に近いのです)。

人はテレビやネットに何を求めているのでしょうか?

私はある経験から、その一つの側面を知ったのです。

ある仕事先の家に何度か電話をしたことがあるのです。
そうすると、電話の背後で、いつもテレビがすごい音で鳴っているのです。
たぶん、家にいる間中、テレビをつけっぱなしにしているのでしょう。
一人暮らしの三十代の男性です。

そのときに、この人にとってテレビとは何だろう? と思ったのです。
それはノイズの発生器です。
いつも心を波立てるノイズをテレビによって鳴らしている。

もしテレビを切れば、誰もいないシーンとした家に自分一人。
そうすると、心の中からいろいろな声が聞こえてきます。
自分はこのままでいいのだろうか、という思いとか、さみしさとか、過去を悔やむ気持ちとか、空虚感の中にいろいろなものが浮かび上がってきます。

ノイズのない空白の時間そのものは、こわいものではありません。
しかし、多くの人にとって、自分自身とじっくり向き合うのは少し怖いのです。

こういう空白の時間を極端に恐れるようになると、つねに内部にノイズを取り込んで心を波立てておこうと思うようになります。水面に波が立っていると、池の底もよく見えませんね。
そのような小さな波をつねに立てておくのに便利なのが、テレビとネットです。
携帯メールをほとんど切れ目なくやっている人も同様です。
いつも心を外とつなぎとめておいて、内心の声を聞かないようにしているのです。

内心の声というのは、逃げても聞いてもらえるまで追いかけてきます。
だって、他人ではなく自分自身の声なのですから。
そして、逃げるくせがついてしまうと、この声を聞くのが本当に恐ろしくなってしまうのです。

だから、ネットも携帯メールもしない人は、つねに他人に対して苛立っているという形で、いつも心を波立てています。
自分の心が安らがないのは、他人のせいだと眉間にシワを寄せています。

引きこもりがネットばかりしてはいけない、と私がいう理由は、ここにあります。
せっかく引きこもっているのだから、それをネットやゲームだけで埋めてはいけません。
ときには静かに自分の心やさみしさと向き合わないといけません。

そうすると、ものすごく空虚を感じますけど、それでいいんです。
人はみんな多かれ少なかれ空虚なのです。
空虚であることを認めないと、自分を責めたり、足りないものを探していつまでも落ち着きません。
空虚であることを認めてしまえば、なにも財産も荷物もない旅人のようなものですから、とても気楽になります。
何者でもないのだから、自由に何かをはじめることができます。

「ああ、空虚なんだ」と心の中の小さな言葉のスイッチを切り替えてしまうと、心の中のエネルギーの流れが全部変わってしまうのです。

(次回はさらに空虚について考えます。「ネットを離れたら何をするか」という宿題にはなかなか行き着きません(笑))



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テレビの影響力
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均質化の圧力は、多様です。

たとえば今の教育体制はいわば大量生産方式です。
大量生産というのは、つまり均質なものを作り出すこどてす。
教育全体はテーマが大きすぎるので、改めて書くことにしますが、少しだけ。

文科省は、お役所なので、そもそも教育に向いていません。
個性を埋没させているお役人が「個性重視」なんてことをいうと、ますます話が複雑骨折するのです。文科省の右往左往が、個性という言葉の値打ちを下げ、概念を混乱させてしまった面があります。
学校や先生をカリキュラムだなんだでガチガチに縛っているわけですから、個性を発揮しにくい先生に子どもの個性が育てられるわけがありません。
「うちは役所なんで画一的な教育しかしません」と四角四面なことだけやっていたほうが、まだ混乱が少なく、個性は生きる隙間を見つけやすいのではないかと思います。

……と私はすぐ発言が過激になってしまうので、教育のことはまた機会があったら書くとして。

ここで書きたいのはテレビです。

テレビは日常に密着しすぎていて、最近は誰もその影響を語りません。

僕が子どもの頃は(40年くらい前!)、テレビは子どもの教育や精神の発達に悪い、ということが了解事項でした。
学校や家庭で「テレビを見るのは30分以内」というようなことが必ず言われていたのです。ほとんど守られませんでしたけれども、

ゲームも30分以内とか、1時間以内とか言われていました。これももちろん守られませんでしたけれども。

しかし、そう言われていた子どもたちが親になる時代になって、すっかり寛容、ゆるゆるになりました。

そして、誰もテレビを批判しなくなりました。

テレビはテレビを批判しないし、新聞社はみんなテレビ局を持っているので批判しません。テレビを利用して製品を売っている広告主も批判しません。したがって、広告を出してもらっている雑誌も批判しません。

マスメディアが取り上げない論調というのは、力を持たないので、テレビは子どもに有害だという考え方は表向きほとんど消えてしまいました。

このブログは社会批判をすること自体は目的ではありません。ただ、心は独立して存在しているわけではなくて、社会、経済、法律、教育などのシステムの形がさまざまな形で反映している、ということは一度見ておかなくてはなりません。
一例を挙げるなら、裁判員制度も、日本人のメンタリティには合わないし、ただならぬプレッシャーを与えると思うのです。そういう変化の波をいつも心は消化していきます。
とくに今日のような情報化社会では、心は毎日さまざまな情報を受け入れて、ただならぬ影響を受けます。

均質化の圧力という話に戻しますと、たとえば、NHKの全国放送が始まる前は、方言とか、訛りとかは、現在の比ではなかったのです。
今も方言はありますが、誰でも標準語はしゃべれるのでバイリンガルです。
しかし、数十年前は訛りのきつい人とか、それで悩む人とか、たくさんいたのです。

方言には、地方の生活文化、匂い、ニュアンス、距離感、いろいろローカルな味わいがありますね。
しかし、テレビの発達とともに、日本全国、誰もが標準語を話すようになったのです。

均質化と私が言っているのは、何も高度で抽象的なことではなく、そういう当たり前の現象が積み重なっているということです。

最近、私が注目しているのは、テレビコマーシャルです。
コマーシャルというのは、15秒とか30秒という短い時間で、商品のイメージを視聴者に焼き付ける技術を磨いてきました。
イメージを焼き付けるとともに、実際にそれを購買するような行動を取るように誘導しているのです。

いまNHKの受信料が1,300円ほどです。東京だと民放が5局ありますから、これらの局が同様に受信料を取っていたら、6,000円以上になるわけです。
したがって、それ以上の金額、広告企業などの利潤を乗せれば何万円かの金額をテレビを見ることで使わされていると考えたほうがいいでしょう。

これは、よく考えると小さな洗脳のようなものです。
特殊なイデオロギーへの洗脳ではありませんが、消費社会に適応するように日々方向づけられている、ということは言えます。

商品開発においても、今日のマスマーケティングは、事前に消費者の動向を調査し、データを吸い上げては、最大多数に働きかけるような投げかけを行ってきます。

テレビを見る人は、つねにそういう働きかけのシャワーを浴びているのです。

最近気になるのは、異様にコマーシャルの量が増えていることです。
番組によってはものすごい頻度でコマーシャルが入ります。
たぶん、単価は安くなっているはずなので、その分詰め込んでいるのです。
また番組だかコマーシャルだかわからないタイアップも増えています。

かつては、番組に対するコマーシャルの割合はきびしく規制されていたと思うのですが、いつのまにか緩和されていたのでしょうか。

心をエネルギーとしてとらえると、テレビコマーシャルが心を消費に向かわせようと干渉してくるエネルギーも決して小さなものではないと感じられてくるはずです。


 
 











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