INNER LIFESTYLE DESIGN
 〜ナチュラルに生きる方法論序説
人に認めてもらいたい!
 
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相対的な価値の中でふと不安になったとき、人はときどき誰かに自分を認めてもらいたいと思います。
よく「自分を理解してくれる人がいる」という言い方をしますね。
それは幼いとき、若いときほど大切なことです。

こういう承認欲求は、まず両親、家族に無条件に満たしてもらったほうがいいのです。
しかし、そうならない場合もあります。
根本的に愛情が欠けている場合もありますが、教育熱心な場合もあります。

教育熱心というのは、よその子と比較したり、子どもの欠けたところを指摘することになりやすいですから、相対的な価値の世界に子どもを置くことになりやすいのです。

まず絶対的な価値を全面的に承認した上で教育しなければ、子どもは非常に不安定になっていくでしょう。
しばらくは無理が利いても、いずれは子どもの心に欠落感が生じていきます。
親は「愛の鞭」のつもりでも、「ただの無知」になってしまいます。

最近、親の早期教育、英才教育で出てきたスポーツ選手や芸術家が多いでしょう。
そういう教育法のエピソードをテレビでやるたびに、これを見て安易に真似をする親が増えたらイヤだなあ、と私は思います。

子どもの才能、やる気、親の教育に対する理解・信念、ムラのない意志、理想的な環境があり、さらに幸運があって、トップレベルの存在は生まれます。
『一将功なりて万骨枯る』という言葉がありますが、一つの成功の影には無数の悲惨な失敗があります。

子どもに自分の欲望を投影してはいけません。
英才教育が途中で挫折したケースは、テレビには出てきません。
愚かなだけで、面白くもないし絵にもならないからです。

娘をプロスポーツ選手にしようと本気で狙って挫折した知り合いがいます。
そのあと娘はかなりグレた、と聞いています。
親は子どもに何かを詰め込もうとするより、まず承認してやることです。
そして、いろいろな才能が現れる「環境」を用意してやることです。
そこまでは失敗はありません。
すぐに何の才能も現れなくても心身とも健康ならいいではありませんか。

そして、子どもはある時期に、親の承認では物足りなくなります。
親よりも学校の友人たちの承認のほうが重要になります。
そうすると、親に対して愛想がなくなったりします。

それも成長の証明ですね。







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具体的な対処法
 

では、対処法をざっと見て行きましょう。


1は、「お前が悪い」という言葉のレベルでの対立
2は、それが過去の発散できなかった怒りや悲しみとして、恨みとして定着すること。
3は、パブロフの犬の反射のように、怒りや自虐の感情に伴う脳内麻薬に中毒してしまうこと

1は、とりあえず言葉をやり過ごせばいいのです。
いつもなら自分が反応するところで反応しない。いつもなら、茶の間で論争になるところを個室に引き取ってしまう、などです。

とにかく、相手の言葉の攻撃に空を打たせ、トゲに反応しないことを続けなければいけません。その歯車が噛み合わなければ、相手の調子も変わってくるはずです。
ただし、すぐではありません。数ヶ月、ときには数年かかります。
今までであれば、そこで「あのときもこんなひどいことを言った」と自分も2と連動してしまったでしょう。しかし、それと結びつけない新しい習慣をつけないといけません。

2は、時間とともに蓄積したものなので、凝り固まったものを解凍するのにもそれなりに時間がかかります。たとえば、親と別居していたり、死別していたりしても、恨みというものは残っています。
いちばん大切なことは、そういう恨みがあるということを認めることです。

多くの人は、恨みを抑圧し、否定しています。

幽霊が「恨めしや〜」と出てくると、人は怖れる、逃げる、戦って殺そうとする(刀で斬りかかるとか)、など忌まわしいものを見たときの反応をします。
そうすると、幽霊はどこに逃げても追いかけてきて、逃げた人を取り殺してしまうでしょう。

あれが、恨みの姿です。
幽霊が出て来たら、そこでどっかと腹を据えて座り、「そうかそうか、お前もいろいろ言いたいことがあるんだな」と言って全部聞いてやることです。
恨みとは、「誰も聞いてくれない言葉」のエネルギーなのです。
それを聞いてやれば、恨みは次第にエネルギーを失います。

たまたま何かで恨みが爆発したとき、それは幽界から顕界に恨みのエネルギーが放出されたときです。
そのときに、その現象を否定しない、ということがいちばん大切なのです。
否定しないで、「ああ、お前(自分ですが)はこれが言いたかったんだ」と、ただ観察すればいいのです。
げっぷやおならと同じです。出てしまったものは仕方ない。
おならを自分の中に戻そうとは誰も思わないでしょう。

ところが、たいていの人は、恨みが爆発したあと、後悔し、自己否定をし、自己嫌悪に陥るのです。
せっかく「誰も聞いてくれない言葉」が出てきたのに、またそれを否定するのです。そうすると、「誰も聞いてくれない言葉」のほうは、またも聞いてもらえなかったので、再び幽界に戻ってより強いエネルギーを持つようになります。

恨みを爆発させたあと、どうもあの狂ったような姿は自分ではない。
自分は本当はきれいで、恨みは汚い。汚いものは自分ではない、といって差別しているのです。
しかし、恨みは自分の一部が変化してできたデキモノのようなものです。恨みも自分の中にある「誰も聞いてくれない言葉」を吐き出して元の自分と一体化したがっているのです。
「誰も聞いてくれない言葉」が暴れて仕方ないから、それを包み込むことでデキモノになっているのです。

それを聞いてあげなければかわいそうなのです。

3もきちんと自覚して、自分の中のパブロフの犬にしばらくエサをやらなければ縮んで行きます。

もともと強烈な苦痛とバーターで少々の快感を得るものなので、1,2と連動しなければ、力を失っていきます。





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家族の心の膠着5(脳内麻薬)
 家族の心の膠着の第三の段階の話をしましょう。
でも、少し遠くから話は始まります。

かつて、不思議な小冊子を手にしたことがあります。
「拷問の耐え方」という冊子です。
拷問を受けたときにいかに耐えるか、ということをまじめに書いた冊子でした。
戦前に共産党が非合法活動であったときに、特高警察に捕まり拷問を受けることがあったのです。その頃に作られた冊子の復刻版が70年安保の頃にミニコミで出ていたのです。

いろいろな拷問方法が書いてあるのですが、肝心の耐える方法、というのは、「しばらく耐えていると感覚が麻痺してきて耐えやすくなる」という一点張りなのです。

当時はバカバカしいと思いましたが、今考えますと、これは脳内麻薬の働きについて述べているのです。

人は耐え難い苦痛が続くと意識を失いますが、その手前の状態では、大量に脳内麻薬を出して、苦痛を緩和し、破壊的なショックから逃れようとするシステムがあるのです。

人が格闘技をするとき、喧嘩をするときにも、アドレナリンが出て、痛みをあまり感じなくなるといいますね。
そういう緊急時の麻薬分泌システムが人には内蔵されているのです。

じつは精神的な苦痛にも、同じシステムが働きます。
これは、私自身の体験で、若いときに肉親の死と失恋が重なりまして、半年くらい苦悩していたことがありました。
そのときに、かなり自虐的な気持ちになって、自己否定したり、いつまでもウジウジと過去のことを悔やんだりしていました。そうすると、苦しいのですが、その苦しみの底に少しだけ甘美なものがあるのです。
だから、半分無意識に、自分を苦しめるような考えを選び、いつまでも、その傷口を弄り回していたことがあります。

いわゆるマゾヒズムというのも、この脳内麻薬の中毒であるのでしょう。

家族の中である不和のエネルギーが固着し、爆発して、怒声や悲鳴を上げるときに、たいへんな苦痛とともに、その苦痛を和らげたり、興奮を高めたりする脳内麻薬が出ているのです。
そして、意識では全く別のことを考えながら、無意識にこの麻薬の快感に中毒して、いさかいを反復する、ということがあるのです。

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家族の心の膠着3(堪忍袋の話)
お互いに「相手のほうが悪い」と思いこんで、膠着する、これが第一の事態。

第二の事態は、そこで生まれる不満、不和、怒りの感情が蓄積されることです。

これについて見ていきましょう。

*

近頃は、頭に来てキレた、 という言葉には、正常な回路がプツンと切れた、というニュアンスを感じます。

しかし、かつてはよく「堪忍袋(かんにんぶくろ)の緒が切れた」という言い方をしたものです。

昔の人は、自分の中にある、「堪忍」と書いた袋に、不満や怒りを貯めていたのです。

本当に物質的な考えに慣れてしまっている人は、心には形がないのに、そんな袋がどこにあるのだ、というかもしれません。(そういう人がいることを私は恐れます(笑))。
心の中は、そういうものが「ある」と思えば「ある」ようになるし、「ない」と思えば「なく」なります。心にはそういう「物質とは違う」性質があるのです。

かつての人は、そういう我慢の袋が自分の中にあるのを感じ、それが一杯になって、もう中のものを吐き出さずにいられなくなると、「堪忍袋の緒が切れた」といって爆発させたものです。

考えてみれば、こういう堪忍袋の文化が成立するには、いくつかの条件があります。

*ちょっとしたことなら自分が我慢して、場を丸く収めて、和をもって円滑に生活していこうという姿勢がある人がいること

*堪忍袋の緒が切れたときには、あとさき考えず、腹の中にあるものを全部吐き出す姿勢

*相手の堪忍袋が切れたときには、いろいろ今まで腹に収めていてくれたことがあるのだな、とある程度畏まって聞く姿勢

こういうメンタリティが今は少なくなってしまいましたね。

さて、堪忍袋ですが、そこにいろいろなものを入れておいても、いつの間にか消化されてなくなったり、あるいは、相手の別のいい面で帳消しにされたりして、うまく回っていたのです。
ときどき「緒が切れて」も、そのときに全部吐き出して、クリア、リセットされるので、また空になるのです。

胃袋と同じで、堪忍袋もある程度、縮んだり膨らんだりする柔軟性が大切です。

しかし、現代では、「我慢が美徳」というようなことを家庭でも、学校でも、世間でも教えなくなりました。我慢するより、その場その場でクレームをつけて解決することが大切というわけです。

企業ならクレーマーに根気強く対処してくれることもありますが、個人が個人に対してクレーマーになり、お互いにクレームをつけあったら、泥沼になります。

このときに、堪忍袋というものがきちんと形成されていないと、小さな不満も溜めておくことができません。
それ以上に困るのは、きれいに吐き出すということもできないのです。

したがって、不満は心の中に滞留します。











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家族の心の膠着2
人は、意外に発想や行動のパターンが決まっているものです。
2人の人間の間で、この歯車が噛み合わない、あるいは、悪い意味で噛み合ってしまう、ということがあります。

1人の行動のパターンではなくて、2人がいがみ合うのもパターン化してしまうのです。

家族が不和になると、こういうパターンができあがって溝が深くなってきます。
表面的な形は、違っていても、本質的にはあるパターンの繰り返しです。
つまり、相手に対して「お前が悪い」ということを認めさせたいのです。
いっしょに何かしようとしても、それをうまくやることよりも、「お前が悪い」と証明することのほうが優先されてしまったりします。

溝が深くなると、車輪が轍に落ちるように、簡単にパターンにはまるようになります。

これは、表面的な喧嘩の形を取るとは限りません。
たとえば、親が子に幼いときから「お前は悪い子だ」と烙印を押すようなことを言い続ける、という形もあります。
そう言われ続けた子どもは、自分を愛せなくなったり、さまざまな形で表現するようになります。子どもは表面的に抵抗はしなくても、どこかで「自分は悪くない」と思い続けていますから、いつか親をうらんだりすることがあります。

あるパターンに陥っただけなら、どちらかが回避すれば、外すことができます。

しかし、膠着状態には、さらに2段階の深みがあります。
これを理解しないと膠着は断ち切れません。






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家族の心の膠着
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心の中に不調和な事態があるときに、それを自分を変えることで回避、解決するのではなく、「相手が悪い」と思ったとき、事態は膠着状態に陥るということを書きました。

膠着という形、概念を数学の公式のように、他のケースにあてはめて観察しましょう。

膠着状態が最も著しく、また恐ろしいのは家族内でのことです。
前回は仕事の例で書きましたが、仕事は配置転換や何かの都合で、まだ自然に関係が変化することがあります。
しかし、家族の血縁というものは一生変わりません。
状況もなかなか変わりません。

プロレスにデスマッチというものがあります。
お互いの身体を手錠でつないだり、金網の中で逃亡できないようにして闘う、というスタイルです。
狭い家族関係の中で、とくに同居状態で不和がある、というのは、まさにデスマッチ状態です。
誰かが通勤、通学などの外出で家を空けるときだけ休戦というのでは息が詰まってしまいます。

こういうケースを観察し、どうすればいいかを考えて行きましょう。



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