INNER LIFESTYLE DESIGN
 〜ナチュラルに生きる方法論序説
混沌の死 意識と無意識7

荘子の内篇、応帝王篇第七に有名な話があります。

〖南海の帝を儵(しゅく)といい、北海の帝を忽(こつ)といい、中央の帝を混沌(こんとん)といった。儵と忽とはときどき混沌の土地で出会ったが、混沌はとても手厚く彼らをもてなした。儵と忽とはその混沌の恩に報いようと相談し、「人間にはだれでも〔目と耳と鼻と口との〕七つの穴があって、それで見たり聞いたり食べたり息をしたりしているが、この混沌だけがそれがない。ためしにその穴をあけてあげよう」ということになった。そこで一日に一つずつ穴をあけていったが、七日たつと混沌は死んでしまった。〗

中央の帝、混沌。まあ、神様みたいなものだと思いますが、これが感覚器官の穴を穿たれて死んでしまった、という話です。

混沌は、つまり閉じた内的な宇宙を生きていたわけです。

昨日、無意識は赤ちゃんの状態と言いましたが、内的な宇宙を生きる混沌とはまさに無意識の状態であり、赤ちゃんのことなのです。

儵(しゅく)と忽(こつ)とは、岩波文庫によれば、迅速を表す言葉であって、人間的有為、意識の世界を表しています。

荘子は架空の人物とも言われますが、今から2300年くらい前の人らしいです。
そんな過去の人が私と同じことを考えていたとはすばらしい!


……というのは、嘘で、私のほうが老荘思想に学び、同調しているのです。
人の本質は古来変わっていません。
だから、本質的な知恵は核心をついて古びないのです。


混沌は中央の帝ですから、最も力が強い中心を成しているのです。
大切なことは、混沌は感覚器官を持たないまま、生命力に満ちているということです。

外を知る必要もなければ、外の存在に評価され、認めてもらう必要もありません。
無目的にしか見えないけれども、自分の内部の宇宙だけで創造的な状態なのです。

内部だけあって外部がない。これが神様の一つの形です。
このような神的な存在が人の内部にもあります。
それが生命というものです。

しかし、人には

>〔目と耳と鼻と口との〕七つの穴

が穿たれています。

直接いっぺんに穴を開けると即死してしまいますから、少しずつ開いていくのが乳幼児の成長過程です。
これによって、人は無意識の暗黒を上手に意識で包み込んでいきます。
そして、無意識の暗黒と意識の光の間に緩衝地帯のような薄明の領域を作り出しています。

こうして、無意識と意識が共存することによって、二つの矛盾する存在の間に人の高度な精神活動が成立しているのです。

矛盾というのは、実生活では障害と捉えられやすいですが、矛盾がないところには創造がないのです。
人は最大の矛盾を内に抱えることによって、最大の創造性を持っているのです。



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意識と無意識 / comments(0) / trackbacks(0)
無意識と意識の対照表   意識と無意識6
概念が、なかなか把握し辛いと思うので、無意識→意識の対照表を作ってみました。
大雑把に次のような対立的な構造があります。

無意識→意識

言葉以前→言葉以後
先天的→後天的
無用なもの→有用なもの
無意味→意味
無秩序なもの→秩序立てられたもの
身体的→頭脳的
自然→人工
本能的→教育的
時間的→空間的(むずかしい。考え中……)
個別的→普遍的

前者は、おおよそ、生まれたばかりの赤ちゃんを想像してもらえばいいのです。
それが成長につれて後者の世界に入っていきます。
そう考えればとても単純でしょう。

いわば前者をベースにして、その上に後者が構築されていく、という時間的な流れがあるのです。
私たちは、無意味の暗がりから、意味という光の中にひっぱり出されるわけです。
しかし、私たちの本体、故郷は無意味の中にあるのです。

ここ大切です。
この後の話を理解するためには、一つ一つ、納得がいくかどうか感じてもらいたいのです。
短いけれど、本日はここまで。


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意識と無意識 / comments(0) / trackbacks(0)
嗅覚と視覚とクラヤミ食堂とトーキングヘッズと現代美術   意識と無意識5
 先日のコメントに

>私は遠い記憶を鮮明に呼び起こすものとして「香り」の不思議な存在を挙げたいです。

と、具体的にレポートしてくれたものがありました。
今回はここから話を始めたいと思います。

香りと記憶の不思議な関係は、昔から言われています。
誰がいつ命名したのか、はっきりわかりませんが、プルースト効果、という言葉で検索するとたくさん出てきます。

嗅覚は、五感の中で他の四感と違って、脳の中の情動的な部分、記憶を司る部分、古い皮質の部分に結びついているようです。

しかし、脳科学に還元するのではなく、私は心の領域で一つの話をしましょう。

嗅覚の一つの特徴は記号化されていない、ということです。

最も記号化されているものは、視覚です。

いま、このブログを読んでいるあなたも、文字というものを読んでいるわけですが、それはもともと視覚刺激なのです。
視覚的な刺激に意味を持たせて、たいへん高度な意味伝達をしているわけです。

文字だけではなく、デザインされたシンボルでも、交通標識やトイレなどは一目でわかります。

しかし、嗅覚に対して、「右折禁止」というようなメッセージを送るのはたいへんに難しいものです。もっと原始的なのです。

つまり、視覚情報はたいへんに強く「意味」に訴える力があるのです。
意味の世界というのは、つまり、意識の世界、言葉の世界とほぼ同じものです。
(厳密に同じものと言っていうのは、微妙。ちょっと考え中…)

クラヤミ食堂をご存じでしょうか?

目隠しをして、視覚情報なしで食事をするという企画です。
この企画は大反響、大人気で、短期間の開催なので、参加は抽選になっているようです。

こどもごころ製作所/クラヤミ食堂

たとえば、目隠しして、エリンギなんか食べたら、なかなか何を食べているかわからないのではないかと想像します。
すぐに当たる人は感度のいい人だと思います。

知り合いが集まる席で、たまたまいろいろな銘柄があったので、ビールの目隠しテストをしたことがありますが、自信たっぷりの人も芳しくない成績でした。
ブランドやパッケージのイメージで、みな好き嫌いを決めていますが、目隠しをして飲み比べると、思ったよりずっと味の差は微妙なのです。
つまり、私たちは、ブランドイメージを飲んでいる部分がかなりあるのです。

ふだん私たちは、目で見て、エリンギという意味を確認しています。
だから、エリンギを食べている、という意味や先入観がある分、感覚を発動していない可能性が高いのです。

闇の中で正体のわからないものを食べると、名前のない、意味の定着していないものと、素の感覚で出会うことになります。
そのときに、自分も本来の生き物としての本能に近いものを部分的に発動するのだと思います。そういう状態の中では、自分が会社員だ、OLだ、医者だ、弁護士だというような肩書きも無になるでしょう。

そういう遊びです。

名前がないものと出会うと、自分も意味の世界から離れて名前がないものになります。
肩書きも名づけられたものであり、意味ですからね。

つまり、

人間的・人工的なものは意味・意識の世界に属しています。
生命・本能・自然は無意味、無意識の世界に属しています。

この概念がわかりにくいのは、「無意味だ」というのが、意味の世界、日常の世界の中では、否定的な意味を持って使われるからです。

しかし、無意味にも意味がある、というと、意味がわからなくなってしまいますが、無意味というのは人に必要なのです。

トーキングヘッズというバンドに『ストップ・メイキング・センス』というアルバムがあります。これは「意味づけするな」、直訳だと「意味を生成するな」になりますね。
これは、先ほど書いたエリンギやビールと同じ事です。
「これは××である」と決めてしまった途端に、人はそのものの本質と出会わなくなってしまうのです。

以前に悟りについて書いたことと似ているでしょう。

名前をつける、ということは、その対象を差異、差別の世界に置いて分別するということになります。

現代美術などを見ると、保守的な人は「意味わからない」と言うでしょう。
それは現代美術としては正しいのです。
意味がわかってしまったら、それは芸術ではなくなってしまうのです。
意味でとらえきれないものを前にして、クラクラする感覚を味わう、というのが、現代美術です。
そのときに、作品の無意味に対応して、意味にとらわれていない自分というのが垣間見えるのです。

だから、現代美術は単純に意表を突かれてびっくりするのがいいのです。

しかしながら、現代美術を言葉で語ろうとすると、とたんに意味になってしまいます。
評論家などは知的な文脈にあてはめて語りますから、何か難しい理屈があるのか、と勘違いするのです。
評論家がそのように知的になるのはいいのですが、作家がそういうものを本気にすると、とても貧しい作品ができます。

そういう目で見ると、現代美術は誰にでもわかります。
(そして、たいていの作品は面白くありません(笑))

ちょっと難しいかもしれないので、簡単にしておきます。

頭で感じるのが意味で、身体で感じるのが無意味(意味以外の領域)です。
心を元気にするためには、身体で感じたことを大切にしていくことが肝心です。

*
おまけ

クラヤミ食堂のシェフ、たかはしよしこさんには、『達磨』の出版記念バーティにケータリングをお願いしました。
クラヤミではありませんが、おいしかった!
私の演奏風景もチラリと載っています。

たかはしよしこブログ


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意識を超えて、無意識を刺激します!
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意識と無意識 / comments(5) / trackbacks(0)
記憶とインデックス 意識と無意識4
 記憶というのはよく考えると不思議なものです。

古い知人にあって、何十年も前のことを聞いて、「あっ、そういうことがあった!」と急に思い出したすことがあります。

これは、「忘れていた」と同時に「覚えていた」という現象です。

何十年も意識に昇ってこなかった事柄。その人に会わなければずっと思い出すこともなかったであろう事柄が、記憶の底にはきちんとキープされていたのです。

私が意識と無意識ということをわかりやすく考えるようになったのは、こういうことからです。

言葉の光が当たっているものが意識、当たらないものが無意識であれば、これは一つのきっかけによって、意識から無意識に沈んでいたものが、無意識から意識の領域へと上がってきたものであるといえます。
無意識そのものは認識できませんが、意識と無意識の間には、交通、交流があるのです。

思い出すことができる、ということは、きちんと無意識領域にはキープされていたわけです。

今は何事も「捨てる」のがブームですが、私はけっこう古い名刺を捨てずに持っています。
住所も電話も役職も変わっていて現実の役には立たないと思うのですが、名刺一枚で忘れていた人のことを鮮やかに思い出すことができます。
思い出せない人の名刺は直近に会った人でも捨ててしまいます。

この古い名刺が何の役に立つかというと、小説を書くときに、キャラクターの下敷きにしようと思っていたのです。しかし、いっこうに小説を熱心に書く気配はありません。『達磨』一編だけです。そういう場所塞ぎの存在ですが、古い名刺はなかなか捨てられません。

部屋の片付けをしていても、過去の仕事やその資料などが出て来て、思い出が蘇り、ぼぅっとしてしまって、その先の片付けが手につかないことなどがよくあります。

私はこういう記憶が芋づる式に出てくる「きっかけになるもの」をインデックスと呼んでいます。
検索すると出てくる見出し、タイトルです。
パソコンでも、検索をかけると忘れていたファイルが出てくることがありますね。
それと同様のことが人の記憶機能にもあるのです。

コンピュータはもともと頭脳を目指しているものですから、たいへんアナロジーとして理解しやすいのです。
たとえば、あるファイルをデリートするときに、ハードディスクから全てを消すのではなくて、インデックス(パソコン用語わかりません(笑))に当たるものだけを消すそうです。
そうすると、もう検索にひっかかりません。
そして、そのデータの上に上書きをしていくらしいです。
頭脳も同様だとすると、インデックスを持たない呼び出せない記憶(それはもう記憶とは呼べないかもしれませんが)もかなり蓄積されているのかもしれません。

ここで断っておかなくてはいけないのは、コンピュータは脳のアナロジーとして語ることができますが、心のアナロジーではないということです。

記憶そのものは脳の機能ですが、それを呼び出して使うのは心の機能です。

コンピュータには、さまざまなデータが入っていますが、その中の何を呼び出してどう編集し、何をアウトプットするかは、人(心)の領域です。
コンピュータが私が書くような文章を書くことはありません。

自動的に文章を作成するソフトも次第に面白いものが出てきていますが、それは類型的な語彙を組み合わせると、意外にそれらしいものが出来てしまうというパロディです。
そこには、意志はないし、本質的なものを創造するということもありません。

意志はとても大切です。
記憶という図書館に似ています。
整えられたインデックスによって、そのとき必要なものを取り出してくる、司書のような機能が心にはあります。
その司書を使いこなすのが意志です。

意志は、司書に対してこういう情報がほしいと命じます。
意志があやふやであると、司書もあやふやになり、混乱します。
明確な意志があり、優秀な司書がいると、図書館は非常に活発に活動します。

意志が不在になると、司書はヒマにまかせて勝手なムービーを放映したりするようになるわけです。
こういう司書に本来の仕事を教え、機能的な図書館にするには、意志が明確な指示を持つことです。

大きい図書館がいい図書館とは限りません。いらない情報をたくさん抱えて混乱した図書館よりも、こぢんまりとしていても、機能的な図書館のほうが役立つでしょう。

記憶というものは、データですから、それを整理メンテナンスしながら活用するのが大切です。

話が違うほうへ流れてしまいました。

無意識に話を戻しますと、忘れかけた記憶、忘れてしまった記憶も、無意識には詰まっているかもしれません。それから、何を忘れて何を覚えているかも、意識的な操作には限界があります。意図的に覚えていることはできても、意図的に忘れることはできません。

ということは、無意識の中にそれを制御するメカニズムもあるということです。
非常に辛い記憶を抑圧しているという話は、よく心理的なドラマに出て来ますね。
それも無意識の働きです。

記憶、夢、身体……3つのもので、無意識の輪郭を探ってみました。
これですべてではないでしょう。
もっと本能的なものもあり、また個人の無意識を超えた集合的無意識のようなこともあるでしょう。
しかし、ここでは言葉で自分が意識する以外の心の部分がある、ということが確実にわかればいいのです。

意識というのは、こういう無意識の構造に支えられた氷山の一角なのです。
心を捉えようとするときに、言葉という水面上に見えているものだけを相手にすると、間違います。

心が自由である、というのは、この無意識の声を聞くということ、意識と無意識が一つに連動するようになっていくことです。



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意識と無意識 / comments(2) / trackbacks(0)
夢 意識と無意識3
 昨日、

>「夢」も無意識のあらわれの一つですか?


というコメントをいただきました。

たしかに無意識といえば、夢が付き物です。

夢も、あきらかにその個人の心の働きです。
そして、コントロールが利くという意味での意識領域でもありません。
かなりはっきりした無意識領域の露出部分です。

フロイトやユングも深い関心を持って夢を分析していますね。

私は夢には今のところ、あまり深い関心がありません。
夢日記をつけるのが面倒くさいのです。
関心が低いから面倒くさいのでしょうけれども。

しかし、関心があれば夢日記などをつけてみるのは、面白いでしょう。

夜、眠る時間は、無意識の作業時間です。
意識が受け入れた大量の情報を消化しているのです。
どのような作業をしているのかは想像するしかありませんが、一日に入ってきた記憶や印象の振り分けはしているでしょう。
記憶については次回書くつもりですが、人が一日に受け取っている印象というのは、じつは膨大なものです。
ターミナル駅にいけば、何百人という人の顔を見ます。
それは自分にとって意味のない赤の他人の顔なので、意識はすぐに忘れます。
しかし、無意識にはインプットされています。
いわばデジタルの動画をつねに回しているけれども、片端から消去上書きされているような状態ではないかと想像されます。
意識はじつに多くのことを記憶していますが、無意識にはその何万倍、何億倍(比率はわかりません)のものがインプットされ、忘れられていくはずです。
そういう記憶を消去したり、いずれ呼び出す必要があるものはインデックスをつけてしまい込んだり、ということの最終処理は寝ている時間にしているはずです。

それから、外からきたものではなく、自分の内側から湧いてくるものもあるでしょう。
夢で神様のお告げを聞いたりしますね。
そういう内側からのメッセージも入ってくるはずです。

夢は、その処理を行っているときに発生するノイズのようなものです。
あるいは処理の残りカス。
しかし、それを分析していけば、無意識が何をしているかがわかるかもしれないし、宝物のような内なるメッセージが含まれているかもしれません。

しかし、茫洋としていて迂遠な感じはします。

フロイトやユングの夢判断も、背景にキリスト教の強い抑圧があるので、日本人に同じシンボルがそのまま適用できるという気がしないのです。

だから、あまり分析的にならずに夢と戯れるのがいいでしょう。

夢というものは面白いもので、楽しい夢だと、意図して続きが見られるという人がときどきいます。
またマレーのセノイ族は、夢を操り、その中で自由自在に行動できるようになる文化があると言われています。
いま、ネットで検索すると、1951年にスチュアートという人が書いた本は眉唾だとありましたが、これも後に書かれた批判的な本を鵜呑みにしています。
大泉実成さんという方が実際にセノイに会いに行き、1996年に本を出しています。
私は著者にインタビューでお会いしていますが、たいへんにまじめな方です。


だから、根も葉もない話ではないのです。

夢にはまだ開拓されていない部分があります。
何ができるかわかりません。
しかし、たいていの人は方法論を知らないし、ある程度以上の継続的な努力をはらおうとしません。

知っている人は秘かに楽しんでいるのだと思います(笑)。

私が夢をコントロールできるようになったら、仙界に行ってみたいですね。

次回は記憶について書く予定。


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意識と無意識 / comments(1) / trackbacks(0)
身体と無意識 意識と無意識2
無意識に〜する、という言葉は日常よく使いますが、無意識というものが本当にあるのか、あるとしたら、どこらへんにどういう輪郭であるのか、ということまで考えたことがある人はそんなに多くないでしょう。
今日はそこからです。

一つのわかりやすい形は、身体にあります。

身体は言葉が話せないでしょう。
そして、明らかに自分の一部です。
だから、無意識なのです。
身体は言葉とは違う形でメッセージを発します。

人前で話すときに、どきどきしてしまう、上がってしまう、ということがありますね。
そういうときは、舌はもつれて、練習してきた台詞もどこかに吹っ飛んでしまいそうになります。

そういうときに、意識がいくら「落ち着け! 落ち着け!」と言葉で言っても落ち着きません。
身体が興奮して、いつもと違うテンションに上がってしまっているのです。
言葉の次元と身体の次元が違うということがはっきりとわかる場面です。

神経性の下痢や胃炎というものがあります。
これを身体が「イヤだ」というメッセージを発しているのです。

現代人は、そのメッセージを聞かずに、胃腸薬で止めてしまいます。
身体のメッセージを薬品で黙らせてしまいます。
しかし、メッセージそのものが消えたわけではないのです。
いわば火災警報の警報は止めて、火事はそのままにしてあるようなものです。

そもそも神経性のものに薬品は大して効きません。
だから、大量の薬を飲んだり、他種類の薬を飲んだり、より強い薬に乗り換えたりすることになります。

その結果、どうなると思いますか?

身体は聞いてもらえるようにメッセージをより大きな声で伝えようとします。
それでも耳をふさいで、薬品でごまかし続ければ、メッセージは最大級になります。
やがて心が壊れるか、身体が壊れるか、します。
そうしなければ生命の全体が破壊されてしまうからです。

仕事で無理を続けた挙げ句に、何ヶ月も休職せざるをえないような大病をする人がいます。

客観的に見れば、上記のようなとても単純で破壊的なプロセスなのですが、多くの人は平然とこの道を歩みます。
意識はときに傲慢にも無意識を存在しないものとして無視したり、奴隷のようにただ命令を聞くものとして扱うのです。
それは、まったく得策ではありません。
しかし、無意識の声を聞かない人は、当然他人の忠告も聞かないので、自分で気づくしかありません。

無意識がメッセージを発したら、まず立ち止まってそれをよく聞く必要があります。

それをまるで聞かない人、言葉で表せる領域だけが自分であると思っている人は、無意識の警報をだまらせようとしたり、耳をふさいで逃げ回っている人……
そういう人にとっては、無意識の声というのはだんだん恐ろしいもののように思えてくるのです。
そして、いろいろな形でメッセージが発せられると、自分にだけなぜ災難がふりかかってくるのか、理不尽極まりない、と嘆くのです。

しかし、無意識はいうまでもなく自分自身なのです。
じつは意識よりももっと自分の本体であるといえます。
意識と無意識は本来味方同士であって、一体化して一つの方向に向かえば、何もその行く手を阻むことはできません。
60億の細胞の一粒一粒まで、一つの意志で統合されていたら、かなり超人に近い存在になるだろうな、と私はよく夢想します(それは簡単なことではありません)。

それに対して、意識の自分と無意識の自分がお互いに声を聞かず、いがみあっていれば、すべてのエネルギーは浪費されてしまうだけでなく、自分自身を傷つけることになります。

心の中で意識は氷山の一角に過ぎません。
氷山の水面下はずっと巨大な無意識が支えているのです。

自分の心とつきあうときには、この言葉を持たない部分の声を聞くことが大切なのです。

(この項続く)

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意識と無意識 / comments(2) / trackbacks(0)
定義と宿題 意識と無意識1
 いよいよ今日から「意識と無意識」という私の理論の中でも大切な概念に入って行きたいと思います。

ユングやフロイトの無意識概念は、なにやら複雑ですが、私の無意識の概念はとても単純です。

それは次のように定義されます。


「意識は心の中でも言葉で表現できる領域。無意識は言葉にならない領域」


言葉が光だとしますと、その光が当たる部分が意識、光の当たらない闇の部分が無意識です。

この単純な二分法を使って、心についてじつにいろいろなことを考えることができるのです。

心と言葉の関係については、すでにこのブログでも何度か言及してきていると思いますが、より本質的な理解に進んでいくことになります。

*

では、最初に読者の皆さんに宿題を出してみましょう。

私の定義に従って考えてください。

問い1 

「無意識は言葉にならない領域」と言いますが、心の中に言葉にならない無意識の領域は本当にありますか?

問い2

あるとしたら、自分の無意識領域を人はどのように知ることができるでしょう?

それが「私」の一部である、ということはどうして言えるでしょうか?

*

つまり、「無意識など存在しないのではないか」という考え方の人がいたときに、無意識の存在について語りかけるとしたら、どのようにしたらいいか、ということです。

その話を明日からして行こうと思いますが、皆さんも考えておいてください。


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