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 〜ナチュラルに生きる方法論序説
不登校の理解
 不登校の理解

不登校の話題が出ましたので、一度基本的に考えてみましょう。

不登校については、「学校に行かなければいけない」という枠を一回外して考えるというのが、私の方法です。

そうすると、自然に学校に行く意志や主体性は、誰に、どこにあるのか? という疑問が浮かんでくるのです。

義務教育は、中学までですよね。

そうすると、高校に行くときに、子どもは「お父さん、お母さん、私はまだまだ社会人になるには十分に成長していません。勉強したいので、どうぞ高校にやってください」とお願いする儀式を行うのがいいのではないか、というのが私の考えです。
(ただし、我が家では「そんなの子どもがかわいそうだ」と家人に感情論で一蹴されて実現しませんでした(笑)。
ですので、純粋に理論として聞いてください)

高校に上がるときに、そのような確認作業がないと、誰の意志で進学するのか、わからないのです。親の意志か、子どもの意志か、世の中の意志か。
「なんとなくみんなそうするから」と高校、大学と進学すれば、7年間、子どもは意志がはっきりしない生き物として生きることになるわけです。
そして、不登校になるときも、そもそも自分の意志で行っていたわけではないので、そのことについて考えるための基準がないのです。
「なんとなく」行っていたから、「なんとなく」行ったほうがいいのだろうという気はするけれども、「なんとなく」行く気がしない……。

自分の意志で行っていれば「こういう意志で行っていたけれども、高校では十分に満たされなかった。だから、こうしよう」という方向が出てくるはずなのです。

不登校にならなくても、日本の若者は成長期のいちばん大切な時期を自分の意志ではなく、もやっとした「なんとなく状態」で7年間生きることになります。
これは、かつての日本社会では、まだ「なあなあ」で通用したかもしれませんが、今のアメリカナイズされたマニュアル社会では、本人にとって大きな損失です。
アメリカの社会は意志の社会ですから。

成功を目指す上昇志向の強い人は競争に参加して、なんとか社会の支配的な層に入ろうとします。それ以外の人は、格差社会になって、「社会の中間的な層になんとなくいる」ということが難しくなっているのです。
中間以下は、格下の「マニュアル通りに動けばいい人」「いくらでも交換可能な人」の層へと一括されようとしています。

つまり、「積極的に競争に勝ちに行く人」以外の人の存在価値が低くなり、あやふやになっているのです。
そういうことを直観的に分かっている子どもは、競争に勝つか負けるかの選択肢しか見えないので、悲観的になります。

それで世間は、そういう矛盾を「競争に勝て!」という叱咤で解決しようとします。
それで負けるようなヤツは仕方ない、という論理が次第に幅を利かせてきます。
サラリーマンの成功もののハウツーとかもすべてそうです。
「キミが勝てばすべて解決するじゃない? 方法を教えてあげるよ」と甘言を弄するのです。

しかし、同じ競争をすれば勝つのはほんの一握りなのです。
経済は限りなく発展するわけではありません。
これからは、金があるところに金が集まる現象が加速していくだけです。

だから、私は競争に参加しないでも、使えるお金が少なくても、楽しく生きる方法が5年後くらいには流行ると思います。今、もうそれが必要なのですが、流行るのはもう少し先です。

今までは、人々は競争に勝とう、より多くのお金を稼ごうと努力してきました。
でも、そういう努力が嫌いな人もたくさんいるのです。
不登校や引きこもりもだいたいそういう人です。

こういう人たちは不活性になっているので、自分を楽しくするアクションもあまり起こさないのです。
競争に参加する努力と、自分を楽しくすることは全然種類も方向も違うのですが、ではどうしたらいいか、という想像力が働かないのです。

何でもいいから自分の好きなほうに少しずつ動いていく。これが肝心です。
1日1ミリでもいいのです。
動かないと情報が入ってきません。
また自分の中に発見がありません。

若いときは、自分をいろいろな場に連れていく時間です。
どんなことが好きで、どんなことが得意か、何にどきどきして、何がやりたいか。
学校行かなくてもいいから、親のスネをかじれるうちにそういうことをたくさん試しておくことです。

そういうこともせずに、1年過ごしてしまうと、復学しても、1年下の生徒と同学年になります。そうすると、1年前以上になじみにくいし、なんとなくやましい気分になると思うのです。

不登校になってもいいけれども、そのときは自分が何がしたいのか、真剣に考えるときです。それも頭の中で考えるのではなくて、実際に少しずつ動いていろいろなことを確かめないといけません。
それは自分の意志で行うのですから、学校に行くこととは全然意味が違うことです。

昨日のメールでも、「自主制作映画を作っている」と書いていたので、少し安心したのです。そのように自分の意志で動くと、世界はただ一方的に与えられているときとは全然違うように編集されて見えてくるものですから。



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Comment








続けて書き込み失礼します。

この内容は、不登校の話ではなくなってますよね。どっちかというと進路指導とかのように読めましたが、アメーバを比喩にされていたメルマガを思い出しました。

一応不登校ということでコメントすれば、
学校に行かないで、他の道を選ぶことには肯定しますが、それは学校に行きたくない場合だと思います。
不登校というのは、本来、学校に行きたくても行けない状態です。行きたいけど行けないから問題なんです。
行けるのであれば、学校に行きたいという子どもがいるのです。そういう子どもは決して少数というわけでもありません。
行きたくない子どもを無理やり行かせる必要はありませんが、行きたくても行けない子どもが自分で動けるようになるまで見守り支えるのも大事かと思います。その過程で他の道に目覚めるのであれば、それもいいかと思います。

ちょっと話が変わりますが、今回の内容で不登校ということに、何か違和感を私は感じました。
不登校から始めると学校を前提としなければいけませんが、その前提を超えたところに着地しようとしてるので、何かわかりにくいんでしょうね。言われたいことは分かるんですけど。
要するに不登校を例にして、普遍的なことを言おうとしてらっしゃるだろうなと。
大事なのは、やりたいことの方にじんわりと進むということなんだなと改めて思いました。その方向に、学校や映画や仕事があるわけですよね。そう考えると、学校に行かないという選択肢があるわけではなくて、他のやりたいことにじんわりと進めばいいのでしょうね。
from. RYO / 2009/09/29 9:29 PM
>高校に行くときに、子どもは「お父さん、お母さん、私はまだまだ社会人になるには十分に成長していません。勉強したいので、どうぞ高校にやってください」とお願いする儀式を行うのがいいのではないか、というのが私の考えです。

私も、それが正しいと思います。
高校に限らず、小学校時代の習い事も、
子供が「これがやりたい」と頼んできて、
「お父さんが汗水たらして働いた大事なお金で習わせてもらうんだからしっかりやりなよ」
というのが本来だと思うので、そういう形にしてます。
建前上は。

…が、私の場合、親のほうに、内心「○○(水泳でも剣道でも英語でもいいのですが)をやりたがって欲しい」という下心があるのがいけませんね。

いざ習い始めて、思っていたのと違うなどで本人がやる気を失ったとしても、親から見てどうでもいい習い事は
「あなたがちゃんとやらないから辞めるよ」
というくせに、内心もうちょっと続けさせたい習い事は、なんとか誘導して続けたがるように持っていったり…。

子供は、無意識にでもやっぱりそのへんを見抜いているのかな。

今後、高校に入る時、子供と話をして、
「自分の意志で高校に行く、行かせてください」という確認の儀式をしたとしても、親の自分が内心「高校くらい行ったほうがいい、行くように誘導したい」と望んでいそうです。

それでは意味がないんですよね。たぶん。
まずは、親側の覚悟が必要ですね。
from. / 2009/09/29 5:08 PM
>何でもいいから自分の好きなほうに少しず つ動いていく。これが肝心です。
1日1ミリでもいいのです。
動かないと情報が入ってきません。

ここの文章に うんうん、と頷いております。
私は、いい大人なので不登校ではありませんが、最近、人と会うこと、外に出ることが
億劫になっていて“このままではダメだ!”と、じっとしている自分に、ただただ焦燥感だけを募らせておりました。
でも
1ミリなら 進めるかな…って思いました。

村松先生
1ミリ背中を押して頂き、有難うございましたm(__)m
from. TOKO / 2009/09/29 4:02 PM
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