INNER LIFESTYLE DESIGN
 〜ナチュラルに生きる方法論序説
投影とリアリティ 認知の歪み7
 
さて、認知の歪み10パターンに一瞬戻りますと、メールをくださった方は、「〜ねばならない思考」について書かれています。
たしかにそういう考えで自分を縛ってしまうことはありますね。

しかし、そういう物を10パターンも自分にあてはめると、あっちを意識している間にこっちを忘れたり、なんだかバタバタしてわからなくなってしまいそうです。

そのように複雑なのはよろしくない。
これはたった一つのシンプルな言葉に集約できるのです。

それは

「投影するな」

自分に対しても、他人に対しても、世界に対しても、過去や未来に対しても、何も投影するな、ということです。

これを生涯言い続けたのは、クリシュナムルティという出自が神秘主義と深く関わる哲学者です。紹介するのは面倒臭いので、調べてください。ウィキペディアを読むと、何やら難しいことが書いてありますが、私にとっては、「投影するな」ということだけを言い続けた人です。
(自分の記憶と印象だけで書くので、若干実体とズレているかもしれませんが、そんなに大きくは違わないと思います。興味が湧いた方は本人の著作を読んでみてください)

投影するというのは、主に「現実」に対して「理想」を投影する、ということです。
「〜ねばならない思考」というのは、自分に対して「こうあらねばならない」ということを投影しているわけです。

あるいは、世の中に対して、「こうあるべきだ」という理想を投影する人がいます。
そういう人にとっては、理想は高く美しく、世の中の現実は低く醜いものとなるでしょう。そうして自分の中には、不満と恨みが溜まります。

このように理想を投影することによって、じつは対立と分裂が生み出されるのです。
投影することによって、人はリアリティと向き合わないようになるのです。

よく犯罪者のニュースに対して、「こういうヤツは許せない」という日記を書く人がいますが、犯罪者は法によって裁かれるので、許せないと言ったからといって罪と罰の目盛りが重くなるわけではないのですが、人はそこに「あるべき姿」を投影しないと気が澄まないのです。

親は子にいい子でいなさい、いい学校に入りなさいと投影し、女性は自分にもっと痩せるべきだ、スタイルがいいべきだと投影し、恋愛はこうあるべきだと投影し、医者は平均体重はこうだから、この体重を過ぎたらメタボだと投影し、ビジネスマンは金銭的な成功を投影します。
自分にも他人にも世界にも投影だらけです。
テレビでも雑誌でも、いつもあるべき姿が無数に投影されます。
近頃流行の心理学もどきも、心を自由にするどころか、こうあってはいけない、こうでなければいけない、という新たな投影の回路を作り出します。

このような投影をすべてやめたときに、どうなるのでしょうか?
そのことにクリシュナムルティは言及しません。

なぜなら、「投影をやめればすばらしいことが起きる」と言ってしまったら、「人々が投影をやめた世界」という理想を今の現実に投影するという自己矛盾に陥るからです。
たぶん、言いたかったと思うのですが(笑)。
町の人に会っても、世界のインテリと対談しても、ただくどいほどに「投影をやめなさい」と同じことを繰り返し続けたのです。

私はご本人ではないので、別に少しくらい矛盾していても平気です。
クリシュナムルティに変わって、投影をやめることについて、もう少し考えてみましょう。

多くの人は、投影をやめることを恐れています。

よりよい世界の理想を投影することをやめたら、世界は混乱と悪徳に陥ってしまうのではないか?
自分自身に理想を投影することをやめたら、進歩や努力をやめて、わけのわからないただの怠け者のような存在になってしまうのではないか?

さて、どうでしょう?

ちょっと投影をやめてみてください。


*

人が全く投影しないということがありうるのか、どうか。

人が象を見て象だと認識し、自動車を見て自動車だと認識することも、ある種投影だと言えます。子どもの頃、絵本で見た象を動物園で見たとき、「あ、象だ」と一致したときに、そこで認識活動はある満足を得たような気がします。
もし、絵本で見たこともなく、名前も知らなければ、大きくて全くヘンな生き物だ、ともっとよく観察したかもしれません。

投影というのは、そのような認識の省略形でもあります。
投影が起きた時点で、人はリアリティへの接近をやめることになります。

さらに、この投影に、世俗の欲望や理想を結びつけたときに、より差別的な世界観を肯定し、その中に一体化することになります。

悟りとは、差取り、だとは、前に書きました。

悟りとは、投影をやめて絶対的なリアリティと出会うことです。
理想を投影することは、リアリティに対する恐れでもあります。
リアリティというものが、どこまでも深い暗黒だとすると、そこにペタペタとレッテルを貼って浅く、自分の取り扱えるものにするのが投影です。

リアリティが「どこまでも深い暗黒」だというのがわからない人もいるかもしれません。
リアリティには、どこまで見たら見終わったといえるかわからない際限のなさがあるからです。
たとえば、ある人を「知っている」というのは、どういうことでしょうか? あの人は、会社員です。いい人です。ゲームが好きです。そういう属性を増やしていけば、その人を知ったことになるでしょうか。
人はそのような他人の投影に影響されてその範囲で生きることが多いものです。
でも、そこから逸脱する部分の自分が必ずいるのです。
極端な場合、いったんその投影を逸脱して、猟奇的な殺人者などになってしまうと、世間からはどういう人かもうまるでわからなくなります。
「心の闇」などという慣用句をレッテルとして貼り付けて扱うよりなくなるのです。

(犯罪者といっしょにして恐縮ですが)芸術家や哲学者、宗教家なども、みんなそういう闇を抱えて、リアリティの際限のなさと向き合っています。そうでない者は偽物です。
ニーチェに有名な言葉があります。

「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ」 

ニーチェ、かっこいいのです。
だけど、こんな状況たいていの人はいやですよね。

(ちょっと深入りしすぎたので、ここらで次回に仕切り直し)


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心理学というもの / comments(5) / trackbacks(0)
Comment








じつはそれがいちばん難しいのです。
from. 村松恒平 / 2009/09/26 1:05 PM
あるがままを受け入れる。

大事なことですね。

from. sawa / 2009/09/26 7:43 AM
そうです。赤子は投影しません。

無の境地であろうと、あこがれは投影です。
0,001秒であっても、時間が入り込めば投影になります。

now or never!

です。


*

海巳さん

今の成功ブームは、強者が弱者を喰っているに過ぎませんね。

いじめは、いじめと総称すること自体が問題として固定化してしまうかもしれません。
根絶させようと考えると難しいですね。
from. 村松恒平 / 2009/09/25 10:25 AM
ユートピア(理想郷)という言葉の語源は、ラテン語のウ・トポスという「どこにもない場所」という意味の言葉だそうです。急に思い出しました。
最近の成功ブームを見ると、「みんなが効率よく努力すればユートピアは作れる!」みたいな勢いになりそうで怖いですね。

「いじめはいけない」というのも常套句ですけど、「いじめられっ子」というレッテルを貼ったら、もうすでに「いじめる側の視点」のように思います。
「いじめって、根本的には面白いよね」というひどい事実を確認しつつ、「そもそもいじめってなんだっけ」という所に戻っていくのが、中立視点に入る道でしょうか。
from. 海巳 / 2009/09/25 10:08 AM
投影しないでおくには、言葉じゃなく五感を生かして生まれたての赤子のようになればいいんでしょうか。

無の境地にあこがれます。あこがれも投影ですか?

迷路にはまりそうです。
from. 花 / 2009/09/24 9:30 PM
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