INNER LIFESTYLE DESIGN
 〜ナチュラルに生きる方法論序説
過去とは何か 認知の歪み3
 映画のシーンに、スタローン演じるランボーのようなタフガイが自分の体内に入った弾丸をナイフで切開して取り出すようなシーンがあります。
映画で見るのは簡単ですが、これは、相当な胆力、判断力、精神力がなければできることではありません。

普通の人なら、弾丸をすぐに取り出さなくてはいけないと判断して、それを実行することは難しいです。

自分で自分の心を判断し、それに対処するのはある意味、それ以上に難しいことです。
心には弾丸のような具体性、物質性がありませんから、そもそも診断することが難しいのです。

そして、診断よりも変えていくことがずっと難しい。

ある心のクセには、過去の根っこがあります。
雑草を抜こうとして、思わぬ根の深さに手こずったことがあるでしょう。
過去のある経験をきっかけとして、心によくないクセがついてしまうと、そのクセは繰り返すたびに根を張り、強化されていきます。
「自分はダメだ」とすぐに自己否定するクセがついた人は、自己否定してはいけないと理屈でわかっても、心の動きのクセまではなかなか直りません。頭でわかっているのと、それを実行するのはあきらかに違うのです。それで直らないことをもって、自分はダメだ、とまた思ったりします。

では、根を張っている過去とは何か、と考えますと、それは物質的には実在しないのです。
過去は私たちの記憶の中にあって、イメージすることはできますが、手で触れることはできません。
またイメージですが、変えることはできません。
ある人に不用意な一言を言って傷つけてしまった。あるいは傷つけられた、そういう記憶があるとすると、それを個人の意志で編集し直して別の話にすることはできません。

そういう存在として過去は心の中にあります。
しかし、それを想起する機能は現在の心のものです。
つまり、現在の心が、何かのきっかけによって、過去の姿を映画を映すように映し出しているのです。

すごく辛く悲しいムービーがあって、何かのボタンを押すとそれが映写されてしまう。
そういう自動性が過去ではなく「現在の心」にあるわけです。

自分という範囲は、制御できる領域です。
コップを取りたいと思ったら、それをつかんでくれるのが自分の腕です。
それが自分をボカボカと殴ってきたら、それは自分ではなく他者です。

そうすると、何かの刺激によってムービーが勝手に映写されてしまう状況も、制御を失い他者に支配された状態ということになります。

心の連動性が低いのが自由である、ということは書いた気がするのですが、外からの刺激によって、自動的になにごとかが喚起されてしまうのは、最も不自由なことです。
制御を取り戻さないといけません。

つらい過去であっても、過去そのものは否定したくないと意識的にも無意識的にも執着する人は多いのです。
しかし、過去はいまの心の中にあります。

実在しない心の中のムービーなのです。



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