INNER LIFESTYLE DESIGN
 〜ナチュラルに生きる方法論序説
精神の自由 自由な精神
 精神が自由であること。
これは大切な理想で、精神が不自由なほうがいい、という人はいないと思います。

しかし、では、自由とは何か?
精神が自由である状態とは、どういう状態か?
そんなことを立ち止まって考えたことがある人はそんなに多くないと思います。

「自由とは何か? その定義を述べなさい」
という問題があったら何と答えますか?

*

私は精神の自由というと、いつも南アフリカのネルソン・マンデラ氏を思い出します。
マンデラ氏について、私はごく外面的なプロフィールしか知りませんが、27年間を政治犯として過ごしたあと、南アフリカの大統領になった人です。

27年間、身体的行動の自由を奪われていたわけですが、彼は自らの志を変えませんでした。
行動の自由は奪っても、精神の自由は奪いようがなかった、という例だと思うです。

刑務所の中にいても、精神の自由はありえるのです。

ところが、正反対のケースもあります。
ときどき電車の中で、見るからにストレスを溜めた若い人を見ることがあります。
身体的には、健康そうで可能性に満ちているのに、なにごとか悩みに囚われている。

会社や勤め先でイヤなことがあるのかもしれません。
毎日勤めていれば、ときにはイヤなこともあるでしょう。
しかし、半年も一年も悩みを溜め込んだ表情を見ると、なんと不自由なことであろうか、と思います。

勤め先で継続的にイヤなことがある場合でも、無数の選択肢があるのです。
たとえば、イヤな上司がいた場合、

*対応策をとって事態を改善する
*仕事を変わる
*少しのイヤなことは無視して、気分転換を早くする。

大きな選択肢だけで3つあります。
そして、対応策をとるときにも、

*誰かに相談する
*上司が何を望んでいるかをよく聞く
*配置換えを要望する
などなど具体的な選択肢があるでしょう。

誰かに相談する、という「誰か」にもいろいろ選択肢があるでしょう。

このように枝分かれを考えると、選択肢は無数にあるのです。
それなのに、自分が非常に不満な状態で放置している。
事態を自分で変えられる、という可能性は眼中に入らないのです。

こういう人の内面で何が起きているか、覗き込んでみると、たいてい、みんな同じことが起きています。
「悪いのは自分ではない」という言葉がぐるぐる回っているのです。
相手が悪い、周囲が悪い。従って、自分は何も態度を変える必要がない、ということになるのです。

相手が悪いということに理があるかどうかは、この場合、少しも重要ではありません。
ある家の前を通ると、毎回犬に吠えられてイヤな思いをするとします。
そのときに、毎回不快な思いをしながら、「犬が悪い」「犬の飼い主が悪い」といって、自分の正しさを主張し、他人を責める気持ちになって意味があるでしょうか?

ただ、普通に歩く道を変えればいいでしょう。

【他人が飼っている犬の性質を変えることはできませんが、自分の行動を変えるのは簡単です】

自分が不快なのに、「他人が悪い」といって、行動パターンを変えようとしない。
こういう糊ではりついてしまったようなのを、膠着状態というのです。

こういう膠着状態にはまった人は、本人は自由勝手に振る舞っているつもりでも、少しも自由ではありません。








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