INNER LIFESTYLE DESIGN
 〜ナチュラルに生きる方法論序説
老人と社会デザイン
 JUGEMテーマ:

赤ちゃんの自他の未分化の状態が悟りの境地に似ている、ということを書いたわけですが、この時期は目覚める前のまどろみにも似て、気持ちがいいのです。

といっても、気持ちがいいと認識したり、言葉を発する主体もないですから、気持ちいいという形容が近いだろう、と想像することになるわけですが。
生まれる前の状態から物質世界に降りたって、ゆっくり目覚めていく時間です。

こういう時間はとても大切なので、知識を詰め込む形の英才教育をして掻き乱してはいけません。
人としての枠組みをゆっくり形成させてあげないと、あとで何か支障が起きる可能性が高いのです。
しかし、そんなことを因果関係として観察してデータをとるのは難しいですから、学者はそういうことは言わないのです。私は学者ではないから、データなしでも、不自然なことをしたら、不自然な結果が起きるはず、という単純なこととして言うのです。

赤ん坊の対極には老人がいます。
赤ん坊が物質世界にフェードインしてくるのに対して、老年は物質世界からフェードアウトしていく時間です。

有吉佐和子は、「恍惚の人」というタイトルの小説で痴呆症を初めて描きました。
それまでは恍惚というのは、いい音楽を聴いたり、幸せや快感に陶酔してぼうっとしていることを指していたのですが、この小説ですっかり使われ方のニュアンスが変わってしまいました。

老人性痴呆症は、家族や周囲にとってはたいへんなことです。
だから、書きにくいのですが、じつは老いて現実感が遠ざかるのも赤ん坊のまどろみと相似形の人生の中で大切な時間です。

しかし、現代の老人はお金を稼ぐ現場から離れた途端に、急速に生きる意義を失ったり、所属するコミュニティを失って、あまりいいボケ方をしません。
だから、ときの総理大臣に「高齢者は働くことしか才能がない」と言われるのでしょう。
そして、老いの境地に入った本人も、いつまでも仕事があること、死ぬときはぽっくり行くことを望みます。
 
江戸時代の落語には、よくご隠居さんというのが出てきますが、裕福な商人などは40代で隠居することも珍しくなかったようです。
裕福ではなくても、大したお金を使わなくても、それなりの余生の過ごし方の文化があったと想像されます。

余生というのは、いい言葉です。
本の頁も余白があるから読みやすいでしょう。
まだ文字が詰め込めるからと、頁に余白のない本を作った人はいません。
それが人にとって快適なのです。

隠居した人が半分は世の中から身を引きながら、習い事をしたり、ちょっとした楽しみを見つける。
その人生経験から人が知恵を借りに来たり、半分はコミュニティと関わりを持っている。
そういう状態に自然に入れるような社会のあり方がいいのです。

今はお金を稼がなくなった途端に極端にいうと余計者です。
社会の構成員としての働きがばったりと無くなってしまいます。
ボランティアなど自分で動く人にはそれなりの世界がありますが、社会全体としては、やはり仕事に従事しなくなった老人に対して冷淡で排除的なデザインであるように思われます。

戦後の高度成長以降、国民総生産が右肩上がりにどんどん上がってきたようなことを言っていますが、そこで生まれた経済余力はどこに吸い上げられているのでしょうか?
なぜ老人はいつまでも働かなくてはいけないのでしょうか?

これは心のブログなので、あまり社会・経済問題に深入りしてはいけません。
しかし、心というものが社会の影響を受けないことはありえませんから、無関係ではありません。
社会のデザインを心のあり方から考えるのは大切なことです。

わたしが子どもの頃には、公園や道端にいつも声を上げて遊んでいる子どもたちがいました。
老人たちの存在もいまのように肩身の狭い感じはなかったと思います。
病院が老人たちの社交場というようなことが言われてはいけません。

子どもたちがのびのびとしていること。
老人たちが安心して余生を楽しんでいること。
子どもと老人の微笑ましい大らかさが人々の目に触れること。
働く人々が、いつの日が自分も裕福ではなくても、楽隠居をして人生の秋を楽しもうと思うこと。

そんなことが人の心を和ませます。
社会における心の余裕のバロメーターです。
日本社会は採点すればこの点では、20点から30点ではないでしょうか。

人というのは、だいたい成人する頃になると、自分が子どもであったことを忘れてしまいます。
そして、そのあと、30年間くらい、自分の身に老いが忍び寄るまで、自分もまた老いるのだということを全く想像しません。
老人というのは自分とは別の人種だと思っているのです。

しかし、子どもと老人にとって住みにくい国は、中間の年齢層にとっても住みにくいのです。住みにくい国は、そこから整えていけば、わかりやすいのです。

これはどういうことかといいますと。

工事現場によく「安全第一」という標語がかかっているでしょう。

建築の仕事をしていた人からうかがった話ですが、あの標語ができたことで、安全性が高まっただけでなく、仕事の効率も上がったというのです。

安全を確保するということは、現場を乱雑にしておかない、作業を秩序正しく行う、コミュニケーションをよくするなど、さまざまなことと結びついています。

あれが「効率第一」というような標語であれば、その場その場を急いでやっつけようとして、事故や不手際が増え、かえって効率も落ちるはずだ、というのです。

だから、今はどこの工事現場にも「安全第一」という標語がかかっています。

この標語と同じことです。
バリバリと生産に従事する世代に焦点を当てるよりも、「老人と子どもを大切にする」という一見ぼんやりした基準にしたほうが実は社会のことをずっと深く考えられるのです。

そのような眼で世間を見回してください。
きっと昨日とはちょっと違った眼で人の姿を見られることでしょう。







心のエネルギーの法則 / comments(2) / trackbacks(0)
Comment








腑に落ちたのは、脳ではなくて、身体の細胞が同意したということ。
私もうれしいです。
from. 村松恒平 / 2009/08/24 10:26 AM
今の私には、とっても腑に落ちる内容でした。なんか嬉しい☆ 
from. てくてく / 2009/08/23 8:52 PM
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