INNER LIFESTYLE DESIGN
 〜ナチュラルに生きる方法論序説
[大人の成長塾]クロニクル第5号  「不思議な話。不思議の話」
■村松恒平です。

ずいぶん久しぶりのクロニクルになります。というのは、[大人の成長塾]の
執筆がまだ終わっていないのです。本当は3か月くらいで書き上げて、次の仕
事に行きたかったのですが、そんなにきれいに行きませんでした。
いまも1か月分の原稿のストックもありません(笑)。
[大人の成長塾]には、あれも書こうこれも書こうというアイデアがたくさん
あるのですが、書いているうちに、どんどん膨らんだり、予定と違う道に進ん
だりします。

予定と違う道ではあるのですが、脇道にそれたのではないのです。
いわば地球儀のような立体を文章という線的な手段で表そうとしているので、
一筋道がとりにくいのです。
伝えるべき内容を一覧にして各回に振り分けるようにして書いているのではな
いのです。
最初そうしていましたが、書いているうちに予定がどんどん壊れてしまうので
す。
それは内容が自らもっともっと書いてくれないと困る! と訴えて膨れ上がる
ような感じなのです。その結果、中身は非常に濃く深くなっております。
なるべく短い文章の配信の積み重ねにしたかったのですが、文章が長い回が増
えています。

フォーラムという[大人の成長塾]専用の掲示板で読者の反応を知ることがで
きます。
内容についてきて、すごい! 得した! と言ってくれる人もいます。
自分の問題と絡めていろいろ質問する人もいます。
そういうことで理解の程度を測っています。

ここに何も書いてくれない人の反応はわかりません。
途中でついてこれなくなった人もいるかもしれません。
それは「わからん」と言ってもらわないとこちらにもわからないのです。

なるべくわかりやすく書いていますが、抽象的思考に慣れていない人は疲れる
かもしれません。
たぶん、何年か経ってから、「あ、そういう意味だったのか!」と気づく人も
いるでしょう。

合計すると80通くらいのメールになりそうです。
これは、本にまとめてもダメなのです。
時間をおいて配信されるというふくらみの中で、読者の経験と一つになって織
物のように形成されていくのです。

内容の深さには、自信があります。
いますぐにでも入塾できます。

無料のテストくらいしてみてくださいね。
面白いですよ。

成長力基礎テスト
http://seicho.hiden.jp/s_test.html

やはり無料のステップメールが15通ついていますから、これも必読。
自分自身の状態を知れる独立したコンテンツになっています。


■[シンクローム]サイト。大リニューアル!

[シンクローム]サイトを久しぶりに新しくしました。
http://synchrome.asia/

今回は有名なアート・ディレクター、元岡本太郎美術館の副館長、能の観世流
シテ方の3人の方にそれぞれ体験談をいただきました。トップページにありま
すので、ご覧ください。


■シンクローム・セミナー再起動! &ボランティア募集!(1名)

お待たせしました! [シンクローム]セミナー再起動。
10月11月12月にそれぞれ一回設定しました。
毎月一回やります。
たくさんの人に[シンクローム]を使えるようになってもらいたいです。

http://synchrome.asia/2016/10/01/1244/

また当日、開場の1時間前に来て、受付その他手伝ってくれる人募集。
申し込みのメッセージください。
先着、若干一名です。
いつも友人に頼んでいますが、今回公募してみます。

資格はドタキャンしない人。特典は楽屋裏が覗けます(とくに何もないけど)

参加費が無料になります。
セミナー、お話会は普通に参加できます。

今回のシリーズは普及のために料金安めに設定しています。
この機会にぜひご参加ください。


――――――――――――――――-

『不思議な話。不思議の話』

[シンクローム]は、不思議です。
いまだに不思議。

今回は、[シンクローム]5周年で、サイト・リニューアルとセミナー起動を
記念して不思議の話をします。

*

不思議という言葉を不思議に思ったことがある人はいますか?
不思議とは、科学や人間の常識からは外側にある現象をいいますね。

不・思・議。
これでどうして「ふしぎ」という意味になるのでしょう?

と思って調べてみました。

そうすると、「思議する」という言葉があったのです。
「思議する」は、「思いはかること。考えめぐらすこと」

もともとは不可思議だったようです。
「思議する」べからず。

神秘現象を言葉で推し量ろうとしてはいけない、という仏教用語だったようで
すね。

神秘の現象を人間の浅知恵のレベルに落として紐解こうとしてはいけない、と
言っているのです。
通常使われるケースでは、考えてはいけないというより、考えてもわからない
からそのまま受け取る、というニュアンスが強い氣がします。

というわけで、不思議という言葉については「思議」してしまいました。
もう不思議ではなくなりました。

*

[シンクローム]のトップページに登場するヒロ杉山さんを見ていただけます
か。
http://synchrome.asia/

彼は、非常に尖ったアート・ディレクターとして、またアーティストとして独
特の活動をしている巨匠です。
彼のイマジネーションはファッショナブルですが、本質的なものと結びついて
いて強力です。
エンライトメントという集団を率いています。
http://elm-art.com/

文中、僕のことを先生と呼んでくれていますが、それは彼のサービスで、昔、
エディトリアルの仕事をいっしょにした仲間です。

彼がもう一生治らないと諦めていた膝が、[シンクローム]でひょいっと治っ
てしまったのです。
彼は3回と書いていますが、たぶん1回です。
1回だと信憑性が薄いので、配慮して3回にしてくれたのではないかと思います。
あるいは2人の記憶が食い違っているかもしれません(笑)。

僕の記憶では1回だけして、そのときに彼は座り仕事が多いので、「椅子の高
さを調節してぶら下がりもせず、余りもしないジャストにしたほうがいいよ」
とアドバイスしました。
それだけで数ヶ月後、「治りました」と言われたので、僕のほうがびっくりし
ました。

[シンクローム]は手も器具も身体に触れない施術なのです。
物理的接触なし。
もちろん薬もなし。
触れていないのによくなる。
こういう奇跡的なこと、わりとあります。
これは不思議でしょう。
ところが実際に起きると少しも不思議でない。
自然に治ったのと見分けがつかないのです。

でも、そう簡単に結果がでないこともあります。
結果が出る、出ないはどう違うのでしょう。

サイトをリニューアルしたときに、こういう説明を考えました。

「コップに一定量の水が流れ込んでいます。
でも人は気づきません。
コップから水が溢れたときに、人は気づきました」

働きかけは一定量なのです。
効果がすぐに現れるかどうかは、その人の状態によるのです。
コップのへりまで水が入っていた人は、すぐに溢れます。

かなりよい説明だと思うのですが、誰も感心してくれません……♪

さて。

たとえば、薬品の効果をみてみましょう。
強い毒薬であれば、誰でも死んでしまいます。
強い睡眠薬であれば、誰でも寝ます。
強い鎮痛剤であれば、誰でも痛みがとれます。
強い自白剤であれば、自白がとれます。

そのように一律に効果があるものはとても考えやすい。
自分を科学的だと思っている人は、こういうものを基準にしていることが多い
ですね。

科学実験は、複数の同一のものに対して、違う条件を与えて結果を比べますね
(この領域に関しては正式な術語やスマートな表現を知りません)。

しかし、人には同一の個体は決して存在しないのです。
同一人物でも、ショックなことを聞かされた数秒後には全く違う身体になるで
しょう。

人の中には記憶があり、精神活動の内容が身体の緊張としていつも現れていま
す。
また遺伝的要素も複雑で、全く同一条件の身体を揃えることは難しい。
これは生体の場合です。
死体はもっと近似性があるでしょう。

一律でない個体に、一律でない効果を生むものに対して科学がどういうアプロ
ーチをしているのか僕は知りません。

前述のように薬品は一律の効果を生むものがあるのでわかりやすいのです。
あまりに強力に人為的な介入をするので、個体差が問題にならない場合がある
のです。
青酸カリを飲んで死なない人はいないように!

でも、実情は、同じ薬、同じ療法でも効く人と効かない人がいるように、大き
な個体差があるのです。同じ病名でも身体の状態は違います。
同じものを同じ量食べて、1人は太り、1人は太らないというようなことは当た
り前にあるのです。
実験用のラットの場合は、年齢と体重が同じものを揃えれば、個体差は問題に
ならないレベルだと思います。
しかし、人は違うのです。

[シンクローム]は、一律に「こうだ」、という効果を生み出すわけではあり
ません。
ですから、変化の観察にはていねいに一人ずつ見ていくことが必要なのです。
それはメールでします。会って話を聞くよりもどかしいのですが、時間をかけ
て、ていねいにしていきます。
一冊の本になるほど多くの要素があるので、説明は省きます。
一律にこうなる、とわかっているものはわかりやすいですが、そうでないもの
を理解するには知性が必要です。

[シンクローム]は、不思議といっても、体系だった理論はあるのです。
ただ、「なぜ遠隔でできるのか?」と聞かれると、量子力学とか、宇宙物理学
とか、そういう説明になります。
物理学の世界では、「時空」という概念があるのです。時間と空間はもともと
1つのエネルギーなのです。分かれていません。
そう考えると、「ここ」と「あそこ」という物理的な距離も存在しない次元が
あるとわかります。
これが怪しい、インチキだ、と言ったり考えたりするのはとても簡単なことで
す。

僕も別に量子力学を体系だって説明できるわけでもないし、ましてシンクロー
ムを数式で証明することなどできないのです。
ですから、最終的にそこには論理の飛躍、あるいはギャップがあります。
しかし、論理よりも現実に起きた現象のほうが優先されます。

その部分は不思議というしかありません。

全部言葉で説明できることなんて、何の魅力もないのではありませんか?

名画『モナリザ』の魅力を語る言葉は、千万言も集めることができるでしょう。
でも、本物の一枚の絵がそこにあることがなければ意味がないのです。
いくら語っても、語りつくせない。
だからこそ、あの微笑は『謎』の魅力を秘めているのです。

「謎なんか存在しない。あれは平らな板に一連の絵の具を塗ったものだ」と主
張して、自分の知性を勝ちほこる人がいたら、オツムの程度が知れますね。

ですから、[シンクローム]を「それは論理的にありえない」と否定すること
は自分の限界を示しているにすぎないのです。

偶然とはとても言えない濃度で、さまざまな治癒現象が起きているので、シン
クロームは5年も続いているのです。偶然であれば、リピーターもいないし、
僕自身のモチベーションももちません。

あるびっくりする不思議なできごとが目の前で起きた。
そのときにあなたはどうしますか?

「これは何だろう?」と立ち止まり考えるあなた。
あなたはすばらしい。

「こんなことは起きるはずかない。なぜならば……」と考え出す人。無視する
人。
その人はすばらしくない。
自分の感覚が、「教え込まれたこと」に逆らえないのです。
頭の中の枠組みが目の前の現実より先行するのです。

ある人物がこんなことを言っていました。
「信じない人は目の前でコップが浮遊しても信じない。『こんなことは現実で
はない』と主張する」

あなたは種もしかけもないコップが目の前で宙に浮いていたら、不思議だと思
うでしょう?
あるいは合理的説明を求めて、種やしかけを探すかもしれません。
手品の種が見つからなかったときの態度が分かれ道です。

「不思議だけど、こんなことあるんだなあ」
という人と、
「これはありえない。何かの間違いだ」
と目の前の現実を打ち消す人がいます。

打ち消す人は弱い人、精神の構造が硬直してもろい人なのです。
それを受け入れると、既存の構造が壊れて耐えられないから拒否するのです。
その柔軟性がないからです。

イエスかノーか、黒か白かでいつもジャッジしている。
柔軟な精神は、その中間に「わからない」「グレー」という箱があります。
すぐには飲み込めないけど受け取っておこう、という。
この中間の箱がない人は処理に困ると、既存の構造を維持するジャッジをする
のです。

いわゆる半信半疑という状態にもしなったとしたら、悪い状態ではないのです。
中間の箱をちゃんと持っている証拠です。

むかーし。
糸井重里さんはコピーライターとして1980年に、「不思議、大好き。」という
コピーを西武百貨店のために書きました。
これはあざやかなコンセプトのキャンペーンとして一世を風靡しました。
時代の気分を射抜いていたのです。

2016年には、このコピーはヒットしないでしょうね。
みんな日々のジャッジに忙しく、情報は洪水で慌ただしく、「不思議」なんか
にかまっているヒマはなさそうに見えます。

あなたはいま「不思議、大好き。」ですか?


**

第2部♪

気分を変えて。
ちょっとだけ不思議な話を書きましょう。
すごーく地味な話です。

じつは僕はUFOも霊も見たことがありません。
とくに霊感はないのです。
かろうじてスプーン曲げを見たことがあります。

[シンクローム]は霊能ではないのです。
むしろ電気に近いものだと考えています。
つまり、それはあるのです。
しかし、人の役に立つように取り出すことができるようになるまでは、「存在
しなかった」のです。

だから、電気が当たり前ならば、[シンクローム]も当たり前と言いたいので
す。
でも、まだ普及していないから、不思議と言わなければいけません。
電灯だって初めて灯ったときには不思議だったに違いありません。

では、不思議な話を。

ある知り合いの陶芸家の方を中央線沿線のある街に訪ねていったときの話です。

彼は近所の温泉に連れていってくれました。そこで湯に浸かりながら聞いた話
です。

彼の周辺にどうもなにかのドラッグを常習しているグループがいて、彼は苦々
しく思っていたのだそうです。

「それであるとき説教してやったのよ」
と彼は言いました。
「ドラッグというのは、一回はいい(彼の意見です)。意識の拡張、特殊な状
態はこういうものであると知れば、一回でたくさんなんだ、と言ってやった。
それで証拠を見せてやったのよ。じつは僕、空中浮遊ができるの」

意外な秘密を打ち明けられました。

「僕は昔カソリックだったんだけど、あるとき、瞑想室で瞑想していたんだ。
そしたら、通りかかった先輩があとで、『お前あのとき空中に浮いてたぞ』と
いうんだ。自分では全然そんな意識がなかったし、浮遊したいとも思っていな
かったんだけれども自然に浮いてたらしい。それで先輩が『何を言われるかわ
からないから、周りには秘密にして他人には見せるな』と忠告された。それか
ら僕、空中浮遊しようと思えばできるのよ」

どうやら宗教の世界でも、空中浮遊は、神の奇蹟の証明とされるよりは異端と
して排除されるようです。

そのドラッグ集団は、意識について一家言あるヒッピー的な人たちだったよう
ですが、空中浮遊を見せると「ははーっ」と恐れ入ったようです。
どれくらい本質的に反省したかはわかりませんが。

この話を聞いたとき、すぐ「空中浮遊見せてもらいたいなあ」と思いました。
でも、先ほどの「目の前でコップが浮遊しても信じない」という話が頭に浮か
んだので、言うのはやめました。

見ても信じない、という態度があるなら、見なくても信じる、という反対の態
度もありうるわけです。そちらのほうがかっこいい。
相手の人柄も知っているし、その人が「空中浮遊できる」と言ったら、それは
本当だろうと受け取ったわけです。

疑いはほとんどありませんでした。
ただ一度実際に見てみたいという好奇心はありました。
でも、「見せて」というのは、僕の感覚ではダサいのです。

温泉に浸かりながら、そうかあ、浮けるのかあ、と不思議な気分にも浸ったの
です。

実際、オームの麻原はできたそうですが、これは怪しいから勘定に入れないで、
他にもできる人の話を2,3聞いたことがあります。
「誰々(固有名詞忘れた)が浮くのを何度も見た」というような親しい友人の
話ですから、僕は本当だと思います。

「うちのじいさんは座布団ごと浮いてすっと移動できた」という話も聞きまし
た。
人が浮くのが不思議なら、座布団もいっしょに浮いても不思議はありません。

スプーンを曲げた話なら、10回くらい聞きました。
お母さんとか、おばさんとか、お祖母さんとか、女性のケースが多いです。
テレビ見て真似したらできちゃったみたいな、考えすぎない素直な人がいいよ
うです。

あるセミナーで指導したら、大部分の人が曲げたみたいな記事も読んだことが
あります。
誘導次第では、そういうこともありうるでしょうね。

あとは、人と違うものを見る人はたくさんいます。
しかし、言うと仲間はずれにされるから、子どもの頃から親しい人にしか話さ
ないのです。

美術関係にはとても多い。
そういう感覚をベースに他の人は思いもつかないような表現をしている人がい
ます。
二人きりになったときに、あるいは親しい人だけになったときに、ぼそっとそ
ういう話を聞くことがよくあります。
あるいは僕のほうから「何か見えてる?」と聞くことがあります。

他の人と共通ではない色や形が見えているのです。
たぶんピカソや岡本太郎も、何か特異な視野を持っていただろうと想像してい
ます。

それは、現代医学でいうと、統合失調症という病気に分類されてしまうかもし
れません。

でも、僕はそれは一つの感覚だと思っています。
人の感覚はとても限定的な使われ方をしているのです。

お面をかぶると、目の穴からしか覗けなくなって、人の視野は狭くなりますね。
そのような視野狭窄が人同士の共通項になっているのです。

それに慣れてしまうと、お面を外した広い視野は脳で処理できなくなってしま
います。
そうすると病気という形で現れるのです。

何かが見えるアーティストの人たちは、このお面に普通の人と違うもう一つの
穴が空いているとか、穴が普通の人より広いとか、そういう感覚の違いがある
のです。
それを病気というネガティブな方向ではなく、ポジティブに使っているのです。

本来、人はお面をかぶらない全面的な視野に耐えられるのです。
適切な理解と教育、トレーニングがあればです。

(しかし、国はそういう創造的な人が増えてしまうのを望んでいません。
建前では、創造性と言いながら、画一的な人間が大部分なのが、労働力として
都合がいいのです)

つまり、物質的な視野とは違う何かが見えるというのは、人の可能性なのです。
可能性の一部が露出して来ているのです。

芸術表現、小説も含めてを上手になりたいと思うなら、この感覚の開発に意識
的でなくてはなりません。

どうしたら開発できるかは、一冊の本になってしまうのでパス。
([大人の成長塾]は、表現論ではありませんが、これに役立つ基礎的な考え
方があります。興味ある方はどうぞ)


空中浮遊もスプーン曲げも、それ自体が有用なことはなく、ただ人の「可能性」
を示しているのです。
スプーン曲げたって不便になるだけだし。金属加工に使えるわけでもありませ
ん。
空中浮遊で海外旅行に行ったという話も聞きません。

もっとも仙人は雲に乗ってどこにでも行けたようですから、そういうこともで
きるかもしれません。

仙人の話は明らかなファンタジーだと思うかもしれませんが、僕は現実とファ
ンタジーに線引きをしたくないのです。

実際のところ、現代は僕が子どもの頃のファンタジーを実現しているSF社会な
のです。
スマホのような携帯通信機器プラスコンピュータのようなもの。これはSFでし
た。
将棋や囲碁で人間を打ち負かす人工知能、ヴァーチャルリアリティ、高機能ロ
ボット、インターネット、遺伝子操作、すべてがあっという間に実現してしま
ったのです。

ファンタジーには人を導く機能があるのです。

科学技術はむしろ危険なくらいの勢いで、ファンタジーの領域に突入していま
す。
AIはあと10年で人間の仕事をほとんど奪うと言われています。
そうなると、ブラック・ファンタジーが実現していきます。

そうならないためにはどうするか。
人の内的な可能性を新たな開拓地にしていくしかないのです。
そういう可能性の拡張をしないままでは、多くの人は格差の広がりの中でたい
へん行きづらい思いをするでしょう。
あらゆる面で効率があがり、生産性が上がるのに、人が生きて行く環境は苛酷
で貧しくなっていくのです。

ホイミ! ベホイミ! 私たちは、ゲームの中では、魔法の世界に生きています。
しかし、ゲーム以外の世界では、まったく保守的に等身大の既存の現実しか信
じようとしません。幸せでない人ほど目の前の現実で頭がいっぱいなのです。
まるでそこにしがみついていれば何かが保障されているかのように。
しかし、現実は次第に激流になり、滝壺に落下していくかもしれません。
不思議領域、ファンタジーの領域をまじめに開発しましょう。
[シンクローム]セミナーは、そういう仲間達が集まる入り口です。


**

不思議話どうだったでしょうか?
自分のほうがよほど不思議な話を知っている。自分も人は言えない感覚や能力
を持っている。
そういう人もたくさんいるのではないでしょうか。

何か言いたくて、むずむずした方は、文章に書いてメールをください。
面白いのが来たら、このクロニクルで取り上げたいと思います。

匿名、ペンネームがよい人はそれを明記してください。

では、不思議の世界に少しばかり自分の生活と意識を拡張したい人!
セミナーでお待ちしています。
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