INNER LIFESTYLE DESIGN
 〜ナチュラルに生きる方法論序説
体罰は「問題」なのか?〜言語による世界の分節化について
最近、元学校の先生の話を聞くことがある。定年まで勤めた人たちだ。
先日聞いた話は、元教師同士(どちらも女性)が話し合う「刺されたり殺されたりしないことに精一杯だった」という恐ろしい話だった。

芯がしっかりした人たちだと思っていたが、そこまでハードな世界を生き抜いたとは想像していなかった。
ある割合で、そういう学校、地域もあり、教師は日々、暴力やその可能性に直面しているのだ。

僕の行っていた都立高校はわりと穏健であったと思うが、それでも、「オレ、卒業式には××(教師の名前呼びつけ)シメるからよ」とか「体育館裏に呼び出してバットでなぐってやる」とか不穏な発言をする者がいた。
実行はしなかったと思うが、教師の立場であったら聞くだけで冗談ではない。

体罰について考えるときは、こういう学校環境も照らし合わせないといけない。

「だからこそ体罰やむなし!! 」と声を大きくする人もいるかもしれないが、それでも僕は体罰はいけないと思う。

命の危険を感じていた二人の元教師も「だからといって体罰で何かを変えられるものではない」、という意見だった。

教師が命の危険を感じるという現実があって、体罰も肯定しない、という二つの離反しがちな方向を受け入れるとする。

では、どうする?

そこからが創造、思考、工夫の領域なのである。
教師の安全と体罰の否定、これを同時に実現せよ、と考えたときに、ようやく話は本質的領域に入る。

体罰に賛成、反対を言って、その根拠を持ってくることには何の矛盾もない。したがって創造の芽もない。ただ自分の既存の意見を強化しているだけだ。

これに対して、上記の二つを同時に考えて行くとどうなるか? 「体罰」の「問題」にとどまることなく、「教育」について人は考えざるを得なくなる。
体罰は教育の一部で起きる現象である。それは教育界のさまざまな要素とつながっている。
体罰を「問題意識化」することは、その部分だけを切り取ることだ。

医学でいうと、患部は切り取って捨てろ、という考えだ。橋下徹知事の発言などはそういう場当たりのイージーさに満ちている。
しかし、体罰は昔から何度も「問題」として浮上したが、何十年も解決していない。

だから、体罰だけを切り取ることなく、教育全体を見渡していかなくてはならない。

ところが教育を「問題化」すると、行政や官僚制度まで視野を広げることになる。
やがて国とは何か、まで考えないといけなくなる。
さらには世界規模でいま何が起きているのか、ということも視野に入ってくるだろう。

そうなると事態は容易に動かないとわかるから、人は絶望的になる。そして、体罰という「問題」の中で論じることに閉じこもる。

教育や国家を論じるには我々の議論の仕方はあまりに未熟である。
実のある議論は期待薄だし、議論できても結論はでない。結論が共有できても、それを実現する手段がない。実現する運動を始めても、拡大するにつれて、いつか所期の理念とは違うさまざまな原理が働きだし、あらぬほうへ行ってしまう……。

世の中の矛盾について考えるとき、我々はいつもそこで壁に突き当たって、またすごすごと個別の「問題」へと引き返してこなかっただろうか。

そこでどうするかが人によって分かれるところだろう。

僕は単純に最も可変的であるのは、我々の思考や意識であろうと思う。
だから、一人で考える。人の意見も聞き、議論もするが、それは相手を打ち負かすためではなく、結論を共有するためでもなく、思考を深めるためのものだ。
個別の「問題」には絶対に思考を分岐・分割しない。
つねに全体を考え続ける。

それは一見徒労のように思えるだろう。しかし、そのようにして練り上げたものだけが、いつか新しい世界が始まるときの設計図になるかもしれない。
今はそういう想いしかない。
その設計図は必要とされるときまでは現実のプロセスに関与しない。

亡くなった偉大な学者、井筒俊彦氏は、その著書『意識と本質』の中で「言語による世界の分節化」について語っている。

人は言語によって分節化された世界しか受け取ることができない、という所説である。

僕がいま感じているのは、分節化のあり方自体に、すでにこの世の中の仕組みを肯定保全する機能が濃厚に含まれていることだ。
言葉という考える道具自体がつねに既存の現実に吸収されてしまうクセのあるベクトルを持っている。
言葉数が多ければ多いほど、粗雑に使われるほど、既存の原理に回収されてしまう。

SBAで僕が始めたのは、分節化自体を変える運動だ。
変えると言ってもささやかにそのごく一部を揺さぶるほどのことだが。
とにかく揺さぶるのだ。

SBAでは、人の概念の分節化の仕方が二つの領域で違う。
意識/無意識の定義も違う。

そこでは、言葉はつねに体感と結びつけられる。
言葉は言葉以前のものに何度も濡れる。
言葉が乾いた言葉だけの原理で自己組織化されることがない。

あまり長く説明するのはやめよう。

言葉の分節化を変えるということは、世界の骨格をバラして再構成するほどのことだ。
それは世界を畸形化してしまうかもしれない。
99パーセントの人には、「問題が解決しないこと」よりずっと恐ろしいことであるかもしれない。
しかし、目の前の世界はどうか? すでに十分に壊れていないか。

1パーセントの人々は恐れずに進むべきだ。

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