INNER LIFESTYLE DESIGN
 〜ナチュラルに生きる方法論序説
「放射能、俺は別にいいけど……」という言葉がイヤな3つの理由/当事者であること/2つの原発
放射能について、50代、60代の人が放射能の害について嘆きながらも「俺は別にいいんだけどさ」という言葉を聞くとがっかりする。
「あと15年か20年も生きればいいからさ」と続くことが多い。
ニーチェであれば、そこに「デカダンスの兆候を読み取る」だろう。
僕はがっかりする。

親しい人にもいて、それは決まりごとのようにいうから、その場ではあまり強く意見もしない。
でも、ここにがっかりする理由を書いておく。
3つの理由がある

1つはあと20年生きられるかどうか、ということである。
生きられるにしても、健康で活動的にでなくては、幸せではない。
僕の父は7年間の苦しい闘病の末に亡くなった。
僕も50代で大病をしたから、病気で自由を奪われたときの感覚が容易に想像がつく。

20年後のガンの死亡率か何パーセントとか言われるけど、あれはトリックだから、真に受けてはいけない。

統計の数字で残るということは、つまり公的な数字である。
ということは、賠償金が出た死亡と考えていいと思う。
日本の補償に対する現況をみれば、いかに賠償金というものは支払われにくいものかわかるだろう。
つまり、賠償金を払わざるを得ないほど因果関係がはっきりした死についてだけ、統計に現れていると考えたほうがいい。
そして、ガン以外の死は、統計には入っていないし、当然因果関係も法的医学的には認められなかったであろう。

放射能の害というのは、つまり免疫力を消耗すると考えれば簡単だと僕は考えている。
人の持つ免疫力、回復力、治癒力は一定であると考えるべきだ。
放射能はここに働く、というように限定的に語られているが、そこで免疫力のエネルギーを消耗してしまえば、他のところで不足する。
だから、その表現はあらゆる形で人の身体に現れる。
その人の弱いところがはっきりと症状化する。
病気がない人などほとんどいない。
既往症が放射能のために体力を削がれて悪化するケースも当然でてくる。
それは多様であり、予測がつかない。もちろん因果関係など証明できるものではない。
仮に証明したところで、健康な身体は戻らない。

つまり、統計に現れたガンの死亡率は氷山の一角どころではない。
何百分の1、何千分の1の現象をとらえているに過ぎない。

「俺は別にいいんだけど」という人は、そういうことを全く考慮しない。
ぽっくりきれいに逝けるとイメージしていると思われる。
僕は人々の身体の機能がじわじわと低下していく苦痛のプロセスをどうしても想像してしまう。
痛い、苦しいという人が病院につめかけてパンクしてしまうような世界が見えてしまう。

しかし、そういう不吉なことは、人には面と向かって言えることではないのでここに書いておく。
(言っても真に受けないんだけどね)

第2の理由。

先日とてもよいツイートがあった。もう見つからないから、うろ覚えで内容を書く。

老いた夫婦の奥さんが「私たちはいいけど、子どもたちには安全なものを食べさせましょう」というと、夫が「親からもらった身体だ。いくつになっても祖末にしては駄目だ。俺は安全なものを食べる。お前もそうするんだ」と言ったという。

こういう旦那が本当の硬派だと思う。
「放射能なんか気にしてられねえよ」というのは、「匹夫の勇」だ。ただの鈍感である。

身体は親からもらったものである。大事にしなければいけない。
そして、身体の元となる生命は親が作ったか、というとそうではない。元を辿れば神(自然)が作り出したものだ。
僕らの魂は神様の作った肉体に仮の宿りをしているものだ、という考えが僕は好きだ。

身体を私有財産としてしかとらえられないと、考えは痩せて行く。
極端にいえば、自殺するのもその人の自由ではないか、というところまで行きつく。
そのような考えは一面的で物質的だ。
全否定はしないが、生命を粗末にする思想は、いいものではない。

第3の理由
これが今回、いちばん書きたいことだ。

それは、「俺は別にいいけど」と言明することによって当事者ではなくなる、ということだ。

「俺は別にいいけど、子どもたちがかわいそうだ」「若い人はかわいそうだ」というのは、「俺は何もする気ないよ」と同義に聞こえる。

作業服などのユニフォームを来た人たちの集団と街の食堂で同席すると、必ず「俺、カレーでいいや」と注文する人がいる。
この語法については、エッセイなどでさんざん批判されてきたけれども、いっこうになくならない。

別にその食堂でカレーが余って困っている訳ではない。
食べたければ、カツ丼を食べても、ラーメンを食べてもいいのだ。
だから、「カレーでいいや」ではなく「カレーがいいや」でなくてはならない。
仕方なく食べるような語法は食事を作る人に対して失礼というものである。

「カレーにする」といえば、自分が欲し、選択し、決断したことがわかる。
「カレーでいいや」では、欲しいのかどうか、選択したのか、誰が決断したのかわからない。
状況に流されて、自分には責任がないと言っているようである。
一体なぜカレーを頼むことの責任を逃れようというのか?

「俺は別にいいけど」はこの語法に似ている。
「俺は20年生きられればいいや」。

それは生命に対して失礼だと思う。
僕は「自分は別にいいや」と思ったことは一度もない。
人はいずれ死ぬ。
それは事実だ。
しかし、自分の不摂生で病気になったり死ぬのは仕方ないが(いや、生命は大切にしないといけないけどね)、他人にそれをひどく侵害されて、侵害した側が何の反省もせず、罰も受けずにのさばっていられるのはかなわない。

●●当事者であること●●

いわばこれは税金なのだ。原子力村は、我々の税金や電気代を陰でむさぼるばかりでなく、我々の生命、健康すらも血を吸うように吸い上げることを常態化しようとしている。
そういう吸血マシーンが日本の中枢にはあって、この事態になっても、いまだに動きを止めようとしていない。

僕が原発反対だと書くのは、そのような国に住み、納税しているのがイヤだからだ。、税金を納めているということは、この国の体制の維持に協力していることである。
国民をやめて税金をおさめなくてもいいならそうするが、国民は国の金づるであり、逃がしてはくれない。税務署はある意味、警察より恐ろしい。
税金の不払いは当面の選択として僕にはありえない。

それならば、このマシーンに巻き込まれない税の不払い以外の手段をいろいろ考えてみなければならない。

そのように僕は当事者として考えているのである。

僕は被曝者であり、納税者である。
その当事者として語っている。

福島や、より近県の人は、僕のような東京在住者よりずっと深刻だと思う。
若者や、子どもたちのことを考えると悲痛な気持ちになりかけるときもある。
しかし、僕はそのような共感からは語り出さない。
その人たちは、その人たち自身の言葉で語るべきだ。
僕は聴き、必要だと思ったら広めるだろう。

でも、僕はあくまで被曝者として、あるいは政府や行政の非道で不条理な対応に憤る一納税者として語る。
さんまの刺身も塩焼きもキノコも、「放射能はどうかなあ」ということが頭をよぎらずには食べることができなくなった。
これからは日本人のソウルフードである米だって危ない。あらゆるものが危ない。
美しかった昨日は戻らぬ。
そのことに対して、農業者や漁業者には何のうらみもない。
政府、東電、保安院といった原子力村の連中に対して、必要な責任をとらせたいだけだ。
そういうことのオトシマエがついてないぞ、ということを胸にしまっておけないから話している。

僕は誰の代弁もしない。
福島の人や子どもたちの代わりに語ることはできない。
この文章を読んでくれているあなたや、その他の読者たちの代弁者でも、代表者でもない。
僕は読者たちもまた、これを読んで語り出すことは期待している。
誰かの権威を借りずに、こんなに素朴に感じたことを語っていいのだ、と勇気づけたい。
そのような触媒であれればいいな、と思っている。

『不安であることの正しさについて』を書いたときには、僕は「僕ら」という言葉を多様した。
それは自然な選択であった。だけど、ちょっとした歴史がある。
僕は30年前に月刊『宝島』の編集部にいたが、この雑誌が一時期「僕ら」という言葉を多用したのだ。
でも、そのうちに「僕ら」という言葉でさすものが曖昧になって、自然に遣わなくなってしまった。
それをあのときはリバイバルしたものだ。

いま、僕は「僕ら」という言い方に再び少し用心深くなっている。
それぞれが当事者であるときに、僕らは「僕ら」として出会える。
『不安であることの正しさについて』を書いたときには、まさに僕らは当事者であった。
当事者として、マスコミも知識人やコメンテーターたちも、全く自分たちを代弁してくれない事態に震えていた。
自分を代弁する言葉が見つからないとき、僕らは当事者である。

今は僕らはいくらでも自分の言いたい近似値のことを言っている人を見つけることができる。
その人をRTして、自分を託すことができる。
でも、僕は誰かに託してしまった人、あるいは託された人、誰かの代弁をしている人を含めて「僕ら」とは呼ばない。
僕は議論をしているうちに、当事者ではなくなってしまうことを警戒している。
「架空の正義」について語り出すような論調に対して警戒している。

代弁することの危険について話そう。

先日、ツイッター上で、小さな『AERA』バッシングを発見した。
小さなというのは、言葉の調子は激烈であったが、無理があるので思ったほど火がつかなかったのだと思う。

それは、『AERA』が福島の子どもたちの手紙を掲載したことに対して、「子どもをダシにして言いたいことをいうのはケシカラン」という内容だった。狭い範囲でかなり炎上していた。
つまり、子どもには主体性も考える力もない。大人がイデオロギーを吹き込んで、子どもに教え込んだことを無理に言わせようとしていると言いたいようだった。

しかし、子どもたちは当事者である。
彼らも怯え、不安に思い、何が起きているか見極めようとしている。
より曇りのない裸の目で事態を見ている。
ただ社会的に無力なだけである。
僕の友人が被災地で子どもたちにアートのワークショップを行っているが、その場で子どもの押し込められた激しい感情が爆発する場面に出会った話を聞いた。

子どもたちこそが当事者なのだ。
ところが子どもたちに発言させることがケシカランという人々はどこに住んでいるかも明らかではない。
まったく当事者ではない自分たちは宙に浮いた立場のない存在として、正義のものさしを当てようとする。
そのような正義はもっとも無用だ。
これは、反原発、推進どちらのサイドでも同じことだ。
当事者が発しない言論は言論の名に値しないということを共通認識にしていかなくてはいけない。
そのような言葉が人と人の間を分断する。

人は自分の立場から、最低限のことを言えばいいと思う。

たとえば、「反反原発」という、それこそ、最初から当事者性に欠けた、立場ともいえない立場の人たちがいるようだ。

この人たちの書くものを読むと、「大した被害もない東京の人間が反原発だ、放射能の被害だと騒ぎ立てることで、福島の人々の心を傷つけている(ケケケ)」というようなものが多い。
(ケケケというのは、僕に聞こえる彼らの心の声だ)
福島の人々というような抽象的な人々はいない。東京の人間だって一人一人違うように、個別の人がいるだけだ。

「福島の人々を傷つけている」というのは、たいへん卑怯な論法だ。

昔、「話し方のコツ」というような安手のハウツー本を読んだときに書いてあった。
自分は安全な場所にいて人を傷つけるのにいちばんいい論法は「××さんたちがあたなのこと悪く言っているみたいだよ」というものだという。
自分は善意のふりをして、他人のあやふやな悪意を伝える。
言われたほうは、言った当人が「嫌いだ」と言ったわけではないから、反論も弁解もしようがない。
「たいへん卑怯な論法だから、使ってはいけません」
と書いてあった。

このような論法はまともに相手にしてはいけない。
また自分自身が誰かを代弁しようとしてもいけない。

誰かを代弁することで自分の正義を強めようとしてはいけない。
自分自身を当事者として話しはじめた言葉がいちばん強い。
バソコンに起動ディスクというものがあるけれど、つねに僕らは僕らの言葉を自分の内側から起動しなくてはいけない。
それはいろいろな立場から事実を照らし出す。

言葉は光である。
あらゆる人が光源になって事態の本当の姿を見つめよう。
そうすればとるべき道は見えてくる。

リツイートしたり、人に賛成したりするのもいいけれども、いちばん大切なのはオリジナルな言葉だ。
誰かの強い光源にだけ頼れば、陰ができる。
「一隅を照らす」という言葉があるけれども、あなたの言葉でも小さく世界照らそう。

*

とても小さなことを話していると感じるかもしれないけれども、違うんだ。
僕たちの社会は代弁者や代理人に委託することでできている。

今、テレビやマスコミの無責任な報道を非難する人は多い。
しかし、僕らはすでにテレビや新聞に非常に多くのことを委託しすぎたのだ。
情報を集めることや、家族や友人の共通の話題を作り出すこと、そして、社会の問題に対して考えること、発言することも彼らに委託してしまった。
朝テレビをつければ、みのもんたが世の中の不正に対して眉間にしわを寄せて憤っている。
マスコミはつねに妥当な意見を言って警鐘を鳴らし、世の中はそれで少しはましな方向に動くだろうという錯覚をもたされた。
そして、実際社会の問題は大き過ぎて、自分個人では何もできないと感じる。
実際に、自分の生活を投げうったとしても、何かを変えるのは難しい。
さまざまな義務や楽しみに時間やエネルギーを分散される生活ではなおさらのことだ。

他に目を転じよう。

教育も同様だ。
家庭は学校に教育だけでなく、しつけも丸投げにする。
しかし、学校で作られるのは大量生産型のモデルである。
ファーストフードの大量生産品では、決して板前さんの料理と肩を並べられるようなものはできない。
大量生産型教育とはそういうことだ。
そして、時代は「電子教科書」という方向に向かいつつある。
これは教育内容の完全な統一化とマニュアル化に進む。
教師は属人的な工夫を求められず、マクドナルドの店員と同じレベルに近づく。
教師の人格というものがスルーされて、知識はさらに乾いた情報になる。
これは大量生産の完成形だ。
関係者は、「いかによい教育システムを作るか」ということにおいて良心的であろうと努力するが、「電子教科書は子どもたちにとってよいものか?」という根源的な議論はおきざりにする。
電子教科書はビッグ・ビジネスになるが、根源的な問いは、誰かが大きく金を吸い上げるのには不向きだ。
人には生まれつきの魂があるが、その一つ一つを見ようとするのではない方向に教育はさらに流れて行く。
大量生産の教育でも強い個性が頭角を現すことはあるが、それは例外だ。
子どもたちの心の形は非常に不自由な形に統一化されやすい。
不登校だ、鬱だ、というような個別の「問題」はそこから発生する。
その「問題」に対して補完的なビジネス(実際は補完などできない)が発生し、既得権を持って居座れば、社会の中でその構造は定着する。
このようなことをやめるためには、親が子どもの教育を取り戻すしかない。
それは親が自分自身を取り戻すことでもある。
親は教育の肝心な部分を学校に委託するべきではない。
しかし、多くの子どもは家に帰ればテレビを見てゲームをして育つ。親はそれを放任する。
教育についても僕らは当事者であることをじつに簡単に手放すことができる。

70年安保の話をしよう。
このときの学生運動で僕の印象に残っているいちばん根本的な主張は、「直接制民主主義」と「専門バカになるな」ということであった。

前者は選挙制度は欺瞞だ、というもので、彼らは直接行動を選んだ。学校をロックアウトしてバリケードを築いたり、デモで機動隊と激しくぶつかりあった。
大学の授業は「ナンセンス!」で、すぐに潰されて討論会になった。
今では考えられないけれども、そういう時代だった。
「直接制民主主義」は、要するに代理人としての政治家を信用しない、政治家を選ぶためのはシステムそのものを信用しない、ということだ。
政治を委任することに慣れきってしまった人々の行動様式を根底からひっくり返そうとしていた。

今の学生は、大学というシステムにはまろうとするだけだが、当時の学生は学ぶ自分たちが大学の主体である、と考えていた。だから、くだらない授業よりも、いまの状況について語るべきではないか、と授業をぶっ壊した。
就職活動しか眼中にない今の学生には、授業を妨害して討論会を開くなど想像もつかないことだろう。

後者の「専門バカになるな」は、政治社会状況にアクセスしようとせず、学問という枠に閉じこもっている教授、学者に対する批判であった。
目の前の事態に対して何の発言も行動もしないような学問が何の役に立つのか? という問いである。
これは性急過ぎる問いであるが、少なくとも問いかけることは正しい。

今回のフクシマに対する大方の学者の反応を見れば、それがわかる(いや、ちゃんとした人もたくさんいるけれども目立たないのかもしれない)。
表立った発言をしている御用学者的な人々を見ていると
「あなたたち誰のために働いているの? 何のために働いているの?」
と聞きたくなる。
今すぐの実用ではなく、普遍的な真理の追求でもなく、やはり学問は政府などが喜んでお金を出す領域になびいていく。
それが原子力であったり放射線だったりする。
彼らが受け取っている金は、僕らの払った教育費であったり、税金であったりする。
その金で原発を推進し、僕らの子どもたちを彼らの世界観に基づいて教育している。

哲学を学んでも、真理を追求しない。
法律を学んでも、憲法の精神を理解しない。
科学を学んでも、実需の引力に負けて大きな疑問を持たない。

今の日本の学問は、普遍的なものから出発していない。
日本的な古臭い学界が、海外の流行や時代の実需に次々に軽薄に迎合していくだけだ。
要するに、学問のメインストリームは世の中を批判し正道に戻す基準軸を持っていないということ。
それはそこから生み出される学生を見ればわかる。
就職活動のことしか考えていない。
そんな学問は単なるエゴであって尊重するべきところがない。

結局、70年代の学生運動で否定されたことは何も変わらないまま、教育にも、世の中全体にも、よりソフトで巧妙な支配システムができあがったと言っていい。

僕が学生運動に肩入れしたような書き方に感じるかもしれないが、それは部分的なものだ。
僕は運動のまっただ中より数年若い。
したがって、断片的なことを知るだけで全体の評価をするに適任ではない。
(まっただ中にいた人間であっても、知るのは断片だろう。一つの激しい時代というのは)
しかし、あれを「闘争」と呼んだ以上は、勝ったか負けたかだ。負けたと評価するしかない。
負けた以上、間違った要素が含まれていたのだろう、と言える。
しかし、それはここで語りたい本筋ではない。

僕はもっと直接に世界に関わりたい。
僕は専門家と呼ばれる人々を必要以上に信じない。
その2つのことは今に始まったテーマではない、ということが言いたかったのだ。

どこまでも根底的に疑うこと。

それを自分でしないと結局、いつかいちばん大事なものを他人に委託することになる。

僕らは電気を作ることを電力会社に委託する。
僕らは食糧を作ることを農業者や漁業者に委託する。
僕らは知ることをマスコミに委託する。
僕らは考えることを学者や知識人に委託する。
僕らはこの国を政治家に委託する。

では、そこからドロップアウトすることができるのか?

アンチの人はだいたい極論をいうから。
だったら電気も自分で作れ。

自分で風車を作ったり、自転車を漕いで電力を自給できるかといったらできやしない。
食糧を全部自給自足できるかと言ったらできない。
田舎に行って自給自足している人の映像を見ると、たいてい「頑張り過ぎ」に見える。
楽しくなさそうだ。
だって無理なんだもの。

全部委託するのをやめるのは今の社会生活では無理だ。
でも、この夏、1割、2割節電したという人はたくさんいる。
つまり、国民が全員が1割節電すれば、10人に1人が完全に電力会社の電力からドロップアウトしたことと同様の効果が生まれるんだ。
意識的になれば、それだけの変化が生まれる。
そのように自分が今まで委託してしまっているものに対して、チェックすること。
それが少しずつしがらみを解き、自由になっていくことになる。
吸血マシーンを支えている力を削ぐことになる。

●●僕らは原発をとめろ、という。だけど2つの原発がある●●

原発は物質的には、金属やそれを守るコンクリートでできているだろう。
これをとめるには、それなりの技術的な手順があるだろう。
それが【目に見える原発】。
物質としての原発はそういうものだ。

しかし、原発を動かすという意志には、より複雑な構造と力が働いている。
この意志が変わらない限り、原発は止まらない。
これをもう一つの原発【目に見えない原発】として見ることにしよう。

この目に見えない原発は、先にも書いたように巨大な狂った機械だ。
電気代、税金で僕らの金を吸い上げ、子どもたちの健康と生命を平然と危険に晒し、放射能で農業、漁業、酪農、観光などの人々の仕事と財産を奪い、基本的人権や、法的平等などの権利は平然と踏みにじる。
そして、自分たちの起こした破壊に対して何百分の1の非も認めようとしない。

僕らはこの【目に見えない原発】と向かい合っている。
何ができるだろうか。
この狂った機械は巨大で絶望的になりそうになるけれども、少なくとも僕らは働きかけることはできる。
というより、彼らに吸い取られ肥え太らせているものを奪い返すことだ。
僕らが無意識で手放し、委託したものは、すべて彼らが吸収している。
それを取り返す。
覚醒し、ドロップアウトする。

覚醒したものは、あるいは目覚めないものには見えない急所が見える達人になるかもしれない。
ゲームでも巨大なモンスターを倒すとき、急所を攻めるだろう。
秘孔をつくんだ。

僕はこの見えない機械のことをいつも考えている。
どうしたら破壊できるか。
どうしたら解体できるか。
勝てないまでも、僕は言論の構造を彼らに奪われない。
それが「当事者として語る」ということだ。

マスコミや知識人は事態を論評するが、決して当事者として語らない。
当事者の代弁者のふりをすることはあるが、「私」という芯から語り出すことはない。
それはどんなに賢そうに見えても、狂った機械にあらかじめ本質を吸い上げられた人畜無害な言論だ。
僕は彼らの養分にはならない。

【目に見えない原発】は、原子力村という言葉と少し似ている。
しかし、原子力村が人脈だけを指すのに対して、金脈や思想・言論などのエネルギーの流れを含み、より公汎だ。
そして、それは既成概念や常識の形で僕らの内部にまで深く根を下ろしている。
そいつをなんとかすることは、いつでも誰でも始められる。

【目に見えない原発】が完全に崩壊しないまでも、【目に見える原発】がなんらかの外的な原因で止まる可能性はあるだろう。
「角をためて牛を殺す」という言葉もある。先に【目に見える原発】を相手にすべきだ、という考えもあるかもしれない。
【目に見える原発】を相手にすれば、「止まるか止まらないか」、「勝つか負けるか」という二分法で僕らは生きることになる。
【目に見えない原発】に対しては、僕らは無限のプロセスと手段を持つことになる。

外的なプロセスと内的なプロセスは、手段も方向も違う。
この矛盾した目標のどちらかを切り捨てるのではなく、幾何学的なねじれを含んだグラデーションを生き続けることが僕らが勇気を失わない道だろうと思っている。

70年代の学生運動は、やがて広汎な補給線を失って武装闘争に尖鋭化し、連合赤軍事件で終焉した。
それは、「この世界を変えられないなら生きる意味がない」という二分法、オール・オア・ナッシングの世界に閉じてしまったからだ。
僕らは、灰色のグラデーションの中を生きる決意であるべきなのだ。

ITや金融、デジタルの世界は、オンかオフ、無数の黒白か瞬時に決まって未決定が許されない世界である。
しかし、文芸や芸術、哲学は、未決定の深みにどこまでも関わっていく。
僕にとって、後者が人が生きやすい場所である。
人は永遠の灰色の中に生きる決意なのである。
政治もまた灰色だろう。
つねにそのときに吹く風によって、色や形を変えていく。

将棋では、不利な戦いは戦線を拡大し、混戦にして情勢を不安定にしていく。
そうでなければ、有利なほうがじわじわと利を拡大して情勢はさらにワンサイドになる。
戦線を(戦いという規定や比喩もあまり適切ではないが)拡大することを恐れてはいけない。
僕らの内面と【目に見えない原発】とのしがらみを全てオフラインにするのだ。

そのプロセスで、さまざまな新しい生き方に僕らは出会うだろう。
それを僕は自由と呼ぶ。

【目に見えない原発】を止められるかどうかは、僕らが自由であるかどうかにかかっている。
誰にもあなたの魂を代弁させるな。
それを取り返せ。


●●あとがき●●

あー、今回もまた長い。

僕も文章に関してだけはプロの伎倆を持っているので、短く書こうと思えば、もっと短くなるのだ。
ただそうなると、この領域は誰にも何が書かれているかわからないと思う。
今回、後半はかなり舌足らずであると自覚している。
しかし、こればかりは長く書いたからといって理解されるものではないし、納得しない人が納得するものでもない。
だから、やや飛ばした。

要するに原発の本質は【目に見えないもの】であって、それに対峙していくには、スピリチュアルな作法が必要だということである。
日本では、スピリチュアルというと、またひどく狭苦しいカテゴリーが存在するので、「ソウルフルな作法」と言い換えてもいい。

【目に見えない原発】に対峙するには、「ソウルフルな作法」が必要だ。

短く書くとこういうことになる。ほら、一行で済むけれどもわからないでしょう。
ツイッターにときどきこういう短文を書くけど、何の反応もない。
だから、干物みたいに水で戻して解きほぐすのだけど、どれくらい解きほぐしたらいいか、という程度はよくわからない。
あまり長い文章は読まない人が多いのはわかっているんだけどね。

で、結論を急ぐと、『不安であることの正しさについて』は、ぜひ単行本でゆっくり読んでほしいのです。
そうすると、僕がずっと【目に見える原発】ではなく、【目に見えない原発】について書いているのがわかります。
【目に見える原発】については他の本がよい。
【目に見えない原発】については、僕の本が最もよい。
僕は原子力や科学の専門家ではないけれども、目に見えないものを扱う専門家だから。

ブログより読みやすく、頭に入って来る。
それまで読めていなかったものが読める。
書き下ろしのまえがき、あとがきがまた長い。
1,200円と定価が安い。

……と、この本について書き始めるとまたいくらでも長くなるのですけど。
我田引水でなく、反原発の人々が遅々とした社会の反応に心が挫けそうになるとき、座右においておいてほしいのです。【目に見える原発】だけを相手にしていると、空しくなったり手詰まりを感じたりするはずなのです。

そのような窒息をさせないために書いた本です。

*

それから、次の土曜日15日、高円寺書林さんで、野々村文宏さん、今井紀彰さんの豪華ゲストを迎えて、トークショーをします。
題して「不安をひとつ持ってきてください」。
少人数の暖かい雰囲気の会になると思います(わかんないけどさ)。
お茶とおやつがついて千円と安いので、お近くの方はぜひ会いにきてください。













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Comment








ありがとう。

流されて語れば、それは世の中の言葉になる。
自分の言葉で語ることはそれほど簡単じゃない。
練習やプロセスが必要なんだよね。

素直になることは簡単じゃない。
素直になろうとして探したら、自分がどこにいるかわからなかったりする。
from. 村松恒平 / 2011/10/15 10:56 AM
初めてコメントいたします。

自分はいろいろな言葉で逃げていたのだなと思い知りましたが。
怖いのはそれをほとんど無意識のうちにやっていることです。
無意識とはいえ、言葉にすればそれは現実です。
そのことがとても怖くなりました。

本当に現実は自分の鏡です。
例え無意識でも、自分が逃げる方向へ行動すればその結果が待っている。
自分が発する言葉、行動をもっと真剣に汲んでみようと思いました。
from. 林 孝信 / 2011/10/14 10:56 PM
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