INNER LIFESTYLE DESIGN
 〜ナチュラルに生きる方法論序説
ムダな議論やめて自由になろうゼ
[議論は、2匹の蓑虫(みのむし)の果てしない闘争のように見える]

僕たちはいま、大切なことを判断し、行動しなければならない。そのために適切に情報や考えを共有しあい、国の大切な決定にも自分のこととして関わらなければいけない。
そのために本質的な議論とそうでない議論を分けよう。

ものを考えたり、決めたりするとき、「議論することは大切だ」と僕らは聞かされてきた気がする。
しかし、本当だろうか?
ネット上で、上手な議論をしてよい結論に至ったケースをみたことがありますか? 
あまりないよね。
片方が片方の意見を受け入れるということがそもそもない。
ずっと平行線で、相手を認めず、だいたいは罵り合って終わる。
感情的な議論をしている人を見るとそれだけで愚かしいと感じる。
そういうことが90パーセント以上の議論で観察されるのではないかと思う。

いま日本はとても大事な場面にいるので、あちこちで議論や論争めいたものが起きているけれども、大部分はすごくレベルが低いと言い切っていいと思う。
言い争いに時間やエネルギーを費やしているのは、すごく不毛であるばかりか、原発についていうと、現状をなるべく維持しようとする勢力を利することになる、というのが僕の観察だ。
それは真剣な討議をしている会場でやかましい口喧嘩をしているようなものだ。どんなまっとうな意見でも大声で文句をいえば紛糾させることができる。
それは冷静な判断や真剣な決定の邪魔になる。

以上のことから次のような疑問が派生する。

では、すべての議論が不毛なのか?
よい議論はあるのか?
あるとすれば、どのようなやり方や条件でありうるのか?
議論が不毛なら何ができるのか?

総じて「僕らは議論になりそうなときに、どう考え、どう対処すべきなのか」ということを書く。

議論への対処法をまとめて考えることは、一見遠回りに見えて、この時期にはたいへん有益ではなかろうかと考えてこのブログ原稿を書くことにした。
節電も一人一人の心がけでできることは小さくても、全体としては大きな効果を生む。
それと同様に心や言論のエネルギーも節約したほうがいいと僕は考えている。
鉱物やエネルギーと同じく、じつは心の資源も有限なのである。

自分の心を見てみればわかる。誰かと口喧嘩をしたあとは、イライラして集中力で出なくなる。何かをじっと考えたり、おいしいもの、美しいものを味わう気分ではなくなる。
繊細で創造的なプロセスが失われてしまう。
一人でもそうなのだから、ムダな議論によるエネルギーの損失は全体ではたいへんなものになる。
だから僕は、なぜムダか。何がムダなのか、ということを書く。

最初に少し思わせぶりに書いた「蓑虫」の話から始めよう。

僕が小学校の頃には、まだ秋には東京でも蓑虫をいくらでも見かけることができた。
あるとき、宿題だったか、科学雑誌の記事かで、「蓑虫の蓑を剥がして、色紙の上に置いてみましょう」というものだった。
透明なケースの中でそうしてみると、蓑虫は色紙を素材にしてきれいな蓑を作った。
つまり、蓑虫は赤い紙をまとえば、赤い蓑虫になり、青い紙をまとえば青い蓑虫になる。
この小さな実験したせいで、僕には人の意見が蓑虫にしか見えなくなってしまった。

つまり、世の中でよくいう「人は自分の信じたいものを信じる」ということなのだ。
自分が信じたいと思えば、いくらでも蓑を作る材料はある。  

反原発でも、アンチ反原発でも、反韓や、反中国、反米、あなたはネット上からいくらでも材料を拾い出して、眉をひそめながらそれを自分の意見に編集することができる。
どれだけディープな素材を集め、また素材の選択、フィルタリングに手間隙をかけるかは個人次第だ。
ずいぶん粗雑な蓑もあれば、精緻で手のこんだ蓑もある。
しかし、蓑虫ということでは同じだ。

かつては、そのような素材を集めるにしても、集会や講演会に参加したり、ミニコミを買い集めたり、それなりに足を使い時間を使い、同じような考えの人と出会い影響を与え合ったりしたものだ。
自分の考えを固めるにも、そのような人の体験の厚みはあった。

今は、目端の利いた中学生でも、半日もネットで情報の仕入れをすれば、いっぱしの俄かイデオローグとして振る舞うことができるだろう。
イデオロギーは蓑虫のファッションのように簡単に身にまとうことができる。

では、蓑虫の本体とは何だろう。
それは人全体ではない。人の中のある部分だ。
僕はその人が主張することよりも、「なぜこの人はこんなことを言うんだろう」ということを見ている。
全身全霊で何かを語ろうとする人はまことに少ない。
そういう人の言葉は僕は蓑虫のようには感じない。彼らはむしろ全く無防備で裸の言葉を話す。
だから、聞くほうも無防備になり、心に届く。
そういう原理なのだ。

では、蓑虫とは何か。
そこにはある「固着した感情」がある。
それは何でもいいんだ。たとえば、親への恨みであっても、仲間外れのさみしさであっても、世の中に受け入れられない不満であっても。
自分が眼をそらしたい感情、いちばん見たくないその弱点に、とげとげしい武装をするのが蓑虫の典型的な形である。
自分自身の弱点から目をそらし、他者への否定、攻撃に転嫁することで心的エネルギーのバランスを取るのである。

では、Aという素材を集めた蓑虫と、反Aという素材を集めた蓑虫が議論すればどうなるか。お互いの蓑をむしり合うのである。
しかし、蓑虫本体は全く傷つくことがない。
なぜならば、本体は全く関係のない心の傷なのである。いくら蓑をむしられても痛くもかゆくもないのだ。

ネットの匿名性は、他者に対する攻撃の動機を隠すのにたいへん都合がいいのである。学校や職場でその人の正体がわかれば、誰もが彼の性格の偏向とその言葉を結びつけて考えるものだからである。

人の意見、とくに過激な意見、頑な意見の背後には、そういう蓑虫がいるので、どんなに論破しようとしても、彼らは敗北を認めることがない。
彼らにとって言論自体が、一種のうさばらしだからである。
そのうさばらしに、まじめに物事を考えようという人々がいちいちつきあう必要はないのである。

さらに、このような蓑虫状態には脳内麻薬が絡んでいる。

僕もまだパソコン通信の時代に、何度かネット上での論争をしたことがある。ニフティ・サーブなどは、フォーラムという単位が一つの村のようになっていて、匿名性はインターネットよりずっと低かった。論争していてもどこかしら相手の体温が感じられるような牧歌的な時代であった。
そして、「あそこで誰と誰がやってるぞ」なんて情報が入ると覗きにいったりした。野次馬である。

それで僕自身も自分のこだわりのある領域を侵犯されると、ちょっとしたことで論争を始めたりしたのである。
あれには一種の興奮状態が伴う。
自分が書いたあとは、「言ってやったぜ。論破した。とどめをさした」と興奮するのだが、必ずしも相手は降参するとは限らない。それで一方では相手のレスポンスがあるまで、「なんと言ってくるだろう」と考えると気が気ではない。
こういうときにアドレナリンだかドーパミンだか(ホルモンの名前の正確性はこの論旨において、あまり問題ではない。僕は単純に脳の「汁」と呼ぶことがある)が出るのだ。

この脳の「汁」は、いわば自分が敵と遭遇したときの非常事態に対して出る。相手に対して非常にネガティブで攻撃的な気を放つものであるから、基本的に何かイヤーなものなのだ。相手に対する敵意、優越感、正義感、征服欲、あるいは恐怖、不安、そういうさまざまな要素が内部でせめぎあった混沌の中で、相手を傷つけ黙らせるような強い言葉を選んで行くときに、人は脳内麻薬を放出するのである。
これはたいへん後味が悪い(やってみればわかる)ものであるが、脳内麻薬というだけあって、その底にかすかな快感があるのだ。
中毒性がある。
心の中に蓑虫を飼っている人々は、この麻薬を餌にどんどん蓑虫を強化するのである。

こういう体験を一度はしてみるのも人間についての勉強になっていいが、いつまでもやっているのは中毒であり、バカである。脳内麻薬に中毒してると精神のエネルギー回路自体が歪んでいってしまう。

非常に入り組んだ内面のプロセスについて書いているが、「ははあ、あのことか」と思い当たる人もいるのではないかと思う。
言論は一見多様に見えても、心理パターンは一つしかない。それが「蓑虫理論」なのである。



[真理についてのまじめな話]

「偉そうにいうが、では、お前はどうなのだ?」という声が聞こえそうである。あるいは、「蓑虫理論に適合しない言論はあるのか」という疑問も同様に生じるだろう。

僕にもこだわりの強い領域は当然あるが、蓑虫とははっきりした違いがある。目的が違う。
僕がもし人と議論するとしたら、その目的は相手を論破し、説得することではない。
僕の目的は「自分自身を知りたい」こと、もっと大げさにいうと、「真理を知りたい」ということだ。

前者はデルフォイの神殿に掲げられていたと言われる「汝自身を知れ」という言葉そのままである。
これと、「真理を知りたい」というのは、じつはほとんど同じ意味である。
「自分を知る」ということと、「世界の秘密を知る」ということはクルマの両輪であって、一つだけが進むということはないのだ。
真理が大切なのだから、僕は相手の言っていることのほうが真理に近いと思えば、あ、そうか、とすぐに自分の説を変えてしまう。
だから、あまり喧嘩腰で話はしない。そういう態度では間違っていたときに自分の意見を修正しにくいからである。

では、僕が簡単に自説を変えるかというと、そうでもない。全体の方向が変わることはほとんどない。なぜなら、僕の考えは今までの人生経験の中で勝ち抜き戦を勝ち抜いてきた考えであるから、そう簡単に納得できるよりよい説に出会うことはないのである。

しかし、考えのある部分が間違っていたり、不十分であったりすることはあるから、そういう部分はいつも他人の考えと照らし合わせて洗練させようとしているのである。

真理に近いと思えば、自説であろうと人の説であろうとかまわない、そちらを選ぶ。むしろ、自分の考えを修正してくれたり、より発展させてくれる考えと出会うのを楽しみにしている。
そこが蓑虫とは違うところだ。

世の中には、どんな意見表明にも反対意見があるもので、その中には、「真理などというものはこの世に存在しない」と賢し気にいう人もいる。というより、一度も真理なんて言葉は口に出したこともないし、その存在について考えたことがない人が多いだろう。
ここで真理を簡単に定義づけておくのは有益であろう。

真理の姿が最も見えやすいのは、数学である。
1+1=2 これは世界共通である。
あるいは1+1=3という体系もありうるのかもしれないが、それはまだ聞いたことがない。
とりあえず、1+1=2で成り立つ体系を、国家、民族、宗教などなどを超えて、全人類が共有している。
これは、どういうことかというと、1+1=2が真である、ということを全人類が理解できる機能があるということだ。
林檎でも梨でも1という数に概念化をする能力があり、それを操作する能力があるから、人類は共通の体系を持って利用することができる。

この法則は、人が発明したのではない。隠れた法則性を発見したのだ。法則は人が発見する前からそこにあった。人はそれを共有できる形(数式)に表現したのである。

つまり、真理とは、「あらゆる人類が理解する可能性がある法則性」と当面定義づけてみることができる。
可能性がある、ということは、「いや俺は1+1=3だ」と法則に外れたことを言い張る者がいても、真理は沈黙しているということだ。

真理であれば万人が納得するという便利な性質はない。むしろ、真理を悟った人が全く理解されないで孤立するということのほうがよくあることなのである。

老子は、次のように言っている。

*

上士は道を聞けば、勤めて而して之を行う。
中士は道を聞けば、存するが若く亡するが若し。
下士は道を聞けば、大いに笑う。
笑わざれば以て道と為すに足らず。

*

道というのは、真理を求める道のことだ。

理解する人は本気で行動に移し、半端な人はスルーする。
程度の悪い人間はこれを嘲笑する。
程度の悪い人間が笑わない(すぐにわかる)ようでは道ではない。

これは現代日本でも同じことで、学校教育もテレビもその他のさまざまな文化も全て老子のいう下士に向けて迎合し、またそれを洗脳するために作られている。
だから、全く自分が理解できないことを嘲笑するしかないのだ。

真理そのものよりも、真理を装って人の欲望をくすぐる偽物のほうがずっと人の心をつかみやすい。オウム真理教みたいなものもあった。「真理である」と自分で名乗っているものにはろくなものがない。そういうものが世にはびこることによって、人々は「真理=まがいもの」という短絡を処世の知恵として大声で吹聴したりするようになる。

「真理をつかんでいる、知っている」というから嘘になる。真善美というのはイデアであって、つかめるものではない。だが「真理を求める」のは悪いことではない。

本当の議論は、どちらが勝つかではなくて、真理がどこにあるのかを対話を通して明らかにするものだ。
プラトンが書いたソクラテスの対話編に模範演技がある。
これらの著作を読んで思うことは、これらの対話において形として負けるほうもたいへんフェアで潔いということだ。
ソクラテスの時代が本当にそうであったのか、プラトンの筆によるところが多いのかはわからないが、議論の一つの模範を示している。


[雨が降る日も天気がいいか?]

一体、屁理屈というものは言い出せばキリがないものだ。

たとえば、「雨の降る日は天気が悪い」といっても、「いや、天気に善し悪しはない。それに雨というのは、水滴の落下であって、『雨が降っている』と言われている状態でも大部分の空間には水は落ちていない。その部分は晴れているといえる。雨の部分より晴れの部分が大きい。雨が降っているから晴れていないというのも早計で、天気雨というものもある。どの程度の明るさを曇り空というかは、人によって基準はまちまちで、相対的なものだ。その基準については議論を積み重ねて……」

今日は雨だ。天気が悪い。
そういうことを言うのは、それを前提にその先の話をするためで、それに対してあれこれ言葉をつらねるためではない。

東電の記者会見を見ていると、話が本質を外れ、いつもこういう些細なことに流れて行くのが僕には耐えがたい。記者の質問も東電のモードに同調している。

放射能がどれくらい安全か、というのは、雨の日がどれくらい晴れているか、という議論なのだ。
放射能は危険だ。どのように、どれくらい危険か、という話を始めなければいけない。
実際に放射能の危険を過小評価することには二つの効果がある。
一つは、原発推進派の責任をあやふやにすること。一つは、避難や対策を遅らせ原発に近い区域の人々の健康と生命を脅かすこと。
過小評価よりは危険を前提にしたほうがずっと悪影響や危険は少ない。

だからといって過大評価しろというわけではない。正確な情報がきちんと公開されているという当たり前のことが必要なだけだ。
速やかに公開されれば、このような議論は終わるのだ。
根本を問わないで枝葉末節の議論をするという愚は避けたい。

議論の枝葉を刈り込んでいけば、本質が浮かび上がってくる。
その作業を進めなければならない。

議論によって相手を説得しようとする人がいるかもしれない。しかし、それは多数の蓑虫を相手にすることにしかならない。

では、なんのために議論するか。自分自身の認識を深めるためである。
今のこの非常事態に一人でも多くの人を説得しなければいけない、と思っている人は多いだろう。
しかし、蓑虫的な論争をしていたずらに興奮し、消耗するばかりで、これは無益である、徒労を感じた人も多いのではないか。

先ほども書いたように、蓑虫な人々は、何が真理かではなく、自分の心理的動機によって動いているので説得できるものではない。

真理を求める議論というのは、もっと自己運動的なものだ。
でも、それでは原発を止める力にならないと考えるだろうか。

僕は違う考えを持っている。
推進派を説得するのではなくて、「なんかおかしいな」と感じている人が、原発を止めなければいけないという当然の結論に至るタイムラグを短くするものが言論であり、議論であると考えている。

政府や東電が「おかしい」と違和感を持っている人でも、いろいろなレベルの人がいる。ネットで情報を集め、自分の考えを持って反原発、脱原発という旗色がはっきりしている人から、テレビを見ながら漠然と不安を感じている人まではグラデーションなのだ。

うっすらと「おかしいな」と思った人が、少しでも知ろうとし始めたときに、議論や情報が混乱しているのではなく、よく「消化された」状態を作り出しておくことに意味があると考えている。

この事態を把握する。内面で受け止めて言葉として出すのは、一つの呼吸運動であり、消化なのだ。
日本人全体が今の事態を消化して最善の結論に向かおうとしている。僕らはそういう全体の一部である。

僕らは全体であると同時に、今まで以上に生命として「個」として確立しなければならない。
真理を求める自己運動というのは、誰かの主張をコピーして叫ぶのではなく、一人一人が自分自身で受け止めるということだ。
基本は自問自答するということだ。

僕らは学校教育の中で、「誰かが正しい答を知っている問い」というものに慣れてきた。最後に答え合わせをして先生に○か×をつけてもらえた。

でも、それは「ちゃんと知っている誰か」に答を預けることだったんだ。いま、「ちゃんと知っている誰か」は僕らの上にはいない。最後まで自分で考えるしかない。

いま、さまざまな決定権を持って支配層にいる人々の大部分は、ちゃんと知り、ちゃんとやってくれるどころか、狂気に陥っているようにしか見えない。彼らのまともは、僕らにはまともではない。彼らの正気は僕らの正気ではない。
彼らが地球全体を人が住めない環境にしてしまうかもしれないような危険極まりない連中だということを僕らは日々目撃している。

自分でやらなければいけない。誰かが金庫の中にしまっているような正解はない。僕らが感じ続け、考え続けること。それ以外の正解はない。
だから、僕はそれを真理という言葉で呼んでみる。誰にも頼れない。みんなと調子を合わせているだけでは見つからない。答合わせはない。それを求め続けることは、○や×がついて終わることではなくて、永遠のプロセスだ。

真理について、もう一つの反論可能性についても書いておかなくてはならない(反論可能性をできる限り「織り込み済み」にするというのがこういう文章を書くときの僕の書き方だ。だから、どんどん長くなるんだ(笑))。

1+1=2のような数学的、科学的真理はいいが、経済・社会・文化などの人間的な事象を扱うときにそこに客観的真理は存在しうるか、という疑問。
(自然科学と人文科学と分ければいいのか。カテゴリーの名称はよくわからないのだが)前者は普遍性ということにおいて、真理性が保証されている。
では、後者はどうだろう? 立場によって事象の読み方が違うではないか。これは大切な疑問である。

経済学、社会学、政治学、歴史学、つねに正反対の主張がある。
経済では、悲観論楽観論、市場原理派とナントカ派に分かれるでしょう。これは僕は競馬の本命党と大穴党のような違いとしか思っていないけれども。
このように立場が違えば、モノの見え方も当然違う。
だからこそ、僕は「生命・自由・自然」に依拠すると立場を明確にしている。
人という生物としてモノを見て行くというのは共通の基盤である。
経済学だって「生命・自由・自然」を立場にすれば、一つになる。でも、それは今の経済学から見れば経済学ではないように見えるくらい違うものかもしれない。


[生命とカネとどちらが大事?]

世の中にはいろいろな立場がある。
「カネが儲かることがいちばん大事」という立場もある。

「生命とカネとどちらが大事か?」
このように命とカネを対比すれば、誰でも命を選ぶ。
しかし、実情はさほど簡単ではない。

福島で高濃度に汚染された地域の人の避難は少しも進んでいない。そこには仕事があり、家族や親戚、地縁、血縁がある。そこを離れれば、裏切ったと思われ、帰ることが難しくなるという。何よりも違う土地に移って仕事があるのか、ということがいちばん心配だろう。

どうしたら喰っていけるのか、先の見通しはない。
大きな不安を抱え、かなりの危険を感じていても動けない。
今すぐ命を失うのであれば、誰でもすぐさま逃げだすけれども、見えない放射能に少しずつ蝕まれていくときには、決断できない。

最近、ネット上で「水から徐々に煮られた蛙は茹で上がるまで気づかない」ということがよく書かれている。いきなり熱湯に入れられたら反射的に飛び出すが、反応のタイミングを失うという比喩だ。

東電や保安院が情報を隠し、あやふやにしてきたのも、人々が熱湯から飛び出す反射を恐れたからだ。パニックが恐ろしいというより、世論が不安定になって原発を推進できなくなることを恐れたのだ。

福島の人たちは、命か生きるための仕事か、という究極の選択を迫られている。
僕のいる東京や近県の人たちにも(ずっと緊急度は低いので並べるのは恐縮だけれども)同様のことが言える。海洋の汚染、食物の汚染を含めれば、日本中無縁のところはなくなる。
そういう緊張状態の下で僕らは暮らし続けるのだ。

「生命かカネか」というのは、理念ではすぐに「生命」と答がでる。しかし、実生活の中ではそうでもない。命が削られていくのは事実だけれども、命や健康を失うのは「ただちに」ではない。
そういう「目に見えない消耗」と、「目の前の仕事、その他」を失うことを天秤にかけ続けなくてはいけない。
仕事は単純におカネではなくて、自分自身を鍛え育ててきたものであり、表現であり、自負であり、つながりであり、自分の価値の証明であり、社会への還元でもある。
そこには人の尊厳と自己証明がかかっている。
僕らが抽象的に生命や自由を考えるときには、全くフリーハンドで価値の高低を決めるが、実際の場面では、見えない靭帯で世間と結びついている。
実際の場面では自分を支えている靭帯を捨て離脱して、新しい原理に移行することになる。受け皿は目に見えず、自分と家族を支えるにはあまりにも心もとなく見える。
僕らの目の前にあるのはそのような選択だ。

「生命かカネ(仕事)か」という迷いの中で、一本の道を歩むように「生命」を選択していくということは、じつは難しい。
瞬時に「生命」を選び、そうして生き続ける人がいたら、聖人である。悟りを開くと等しいようなことなのだ。その道は果てしない。
だから真理の名に値すると思う。
真理は言葉で固定しておけるようなものではない。
つねに揺れ動いている。運動している。
そして、真理は不変である。
では、不変なものが、なぜ揺れ動き、運動しているかといえば、じつは人間のほうがつねに激しく揺れているのである。
人間とともに揺れ動くものは固定して見える。
しかし、不変なものは人間には激しく揺れて見えるのだ。

僕たちの生活は、仕事とおカネで成り立っている。その連なりの中に、教育もあり、文化もあり、経済、社会、政治のシステムもあり、あらゆるものがつながっている。
だから、僕らの心の中の反応もほぼそれに対応している。相似形になっている。そういう反応のシステムが僕らの中で自動性、機械性を形成している。だから今のように政治や社会のシステムが壊れても機械的に動き続ける。
卑近な例でいえば「みんながやっていることだから」とか、「いつものことだから」とか、「これくらい仕方がない」というような事柄の中に僕らの中の機械的な反応がある。

原発事故は、あらゆるものがそのようなカネの靭帯と機械性のリンクで結びついていることを決定的に露出させてしまったのである。
政界、経済界、金融界、行政はもとより、マスメディア、広告、それにつながる言論、学界……それから教育。放射能汚染の土地から子どもたちを守る力がない。

これだけつながっているからと絶望することはない。
逆にいうと、僕らの一挙手一投足、言動、選択のあらゆる事柄が事態につながっているのだ。
僕らが少しでも自分の内なる靭帯を断ち切り、機械性に歯止めをかけて自由になれば、創造性が生まれる。
そして、機械性は力を失い後退するのだ。

いま、僕たちは指導者のいる運動をしようとしているのではない。すべてを託せる指導者など、もう僕たちには出て来ないのだ(各領域にリーダーは必要だし、そういう人を押し立てて行く必要はある。しかし「全てを託す」のではない)。
一人一人が覚醒していくのだ。その覚醒の熱気がまた周囲の人の覚醒を促していく。そのような連続を信じ、構想すべきだ。

そのような運動性がある限り、いつまでも過去にしがみつく勢力は次第に孤立し、一人一人と抜けて行く。先日は内閣参与が辞任した。また、経産省官僚がきわめてまっとうなことをテレビで発言した。

古賀茂明氏(経産省内閣官房付)http://www.youtube.com/watch?v=YA2LaX8eGDA&NR=1

役所関係のさまざまなリークも目にすることが増えてきている。
彼らが一体であるということは、一つが揺らげば全体も揺らぐということだ。そのときに、もともと一体でないものが寄り合っているだけだから、きしみをあげ、間隙ができる。仲間喧嘩が始まる。
そこから今まで押し込められていた人物がでてくる。情報が出てくる。新しい勢力が生まれてリンクしていく。
今はそのタイムラグだ。

前にも書いたように原発の安全性は「裸の王様」だ。そして、本質的には経済的にも迷惑きわまりない「裸の王様」だということを、もはや覆い隠しようもなくなっている。

だから、僕らは失望してしまったり、変な方向に大きくミスリードされないでいることが大切だ。自分の中で自己討議をして、議論や行動で詰められるところは詰める。しかし、あとはじっと本質を見失わないでいることだけで事態は動いて行く。
自然体がじつはいちばん強い。僕らの「普通の」生活は、日々紙一枚ずつ自然ではないほうに流れて来て、ついに「普通」が自然からずいぶんと遠ざかってしまった。
それを自然体に戻すことだ。
やましいことがある人はじっと見られるだけで、自分の本質を表してしまう。そのような視線を送り続けることだ。
本質を見失わず、僕らが覚醒を続けることで、推進派は熱い紅茶の中の角砂糖のように自壊していくプロセスを辿る。
基本的にそう思っていていい。
推進派の中から寝返る者、逃亡し口をぬぐおうとする者、利害の対立から仲違いを始めるものが出る。新しい勢力を打ち立てようとする者が出る。
そのたびに新たな情報が露出して、ますます原発は裸の王様になっていく。

もちろん抵抗はあるだろう。
たとえば、アメリカの要請(命令)のような隠された強いカードが現れてくる可能性は高い。
しかし、それがもやもやとした日本政治的なベールに包まれたものではなく、正確な情報として露出していれば、僕らはそれに対処すること、拒むこともできるだろう。

このように内面性に立ち入った話になると、政治・社会的な実効性がない、と考える人もいるかもしれない。
しかし、それはそれで同時に進行するプロセスでいいのだ。

たとえば、宮台真司さんは次のように提言している。
「原発を推進している政治家の落選運動と、原発納入業者、日立・東芝・三菱の不買運動を展開しよう。 (http://bit.ly/mIrM8D)

また河野太郎さんは、自分の選挙区で選出された国会議員に直接声を届けるのが有効である、と書いている。

声を上げますか、それとも泣き寝入りですか
http://www.taro.org/2011/04/post-987.php

直接的な効果を狙うのならこのような方法論が有効であると思う。それは、ここに書いたことと何も矛盾しない。同時進行でありうる。

僕がここに書いたことはまず僕らが絶望してしまわないためのグランドデザインだ。
それと同時にこれを戦いと呼ぶなら補給線であり、兵站線だ。僕らは背伸びして特別な主張をするのではなく、生きて行くことそのもののスタイルとエネルギーで働きかけるのだ。
僕らの生命力は燃え続ける炎だ。物理的肉体的な生存条件だけでは十分に生きているとは言えない、それが人の存在だ。エネルギーが枯渇したら何度でもそのかけがえのない生命の炎のもとに帰らなければならない。
些細な議論に巻き込まれて本筋を見失ったりしてはいけない。
自分には無理なところまでがんばって、がんばったはいいが、あるときポキリと挫折してもいけない。
そのためのデザインを作り出すのだ。

僕らが社会の新しいデザインを作り出そうとするなら、まず心の中のデザインを「生命・自由・自然」を中心として作り直さなければいけない。
それを全体に広げて行く。
このような全体像の中に「反原発・脱原発」を置く。

そうすることによって僕らは「負ける」ことがなくなる。



[多層的認識が必要なのだ]

原発推進か、反原発かという一本の線の綱引きではダメだと本能的に感じている人は多いと思う。
たとえば、先日の知事選だって推進派の現職がすべて当選した。それを敗北と呼んだり、失望したりすることもできるけれども、そのように視野を限定してしまうことは無益だ。

あるインテリは、「反対してきたのに、原発事故が起きてしまったこと自体が敗北だ」と書いていたので驚いた。
このような言い方は個人的に思い込みでしかない。
これほど重大な事故が起きて、まだ恐ろしい事態が進行中の今ですら、まだ原発廃止に向かって状況が大きく動いたとは言えない。
事故が起きる前などに何かできる筈はなかった。勝ち負けではなく、そういう構造だったのだ。

僕たちが正しさ、正義ではなく生命に依拠しなければならない理由がここにある。正義は敗北する。正義は人によって違う。ときに正義の名で侵略戦争が起きる。正義は分裂する。正義は倒錯する。正義には愛が欠けることがあり、正義はそのときの空間を支配して時間を超えない。

生命は分裂することも敗北することも倒錯することもない。
何度でもそこに立ち返ると僕たちは基準を見失わない。

二つの綱引きではダメだというのは、、今回の危機は多層的に理解し対処しないといけないのだ。
多層的と僕がいうのは、わかりやすくいうと、透明アクリルの上にそれぞれ別の図形を書いて積み重ねたような状態のこと。

それを上から見ると、ごちゃごちゃした複雑でわけのわからない「問題」になってしまう。つまり多層的なものを平面的に見ることになってしまう。
別の層に描いてあることはいくらゴシゴシと力づくでこすっても消えない。

そのうちに効果のなさに倦んで、徒労感に沈んでしまう。
しかし、どの図形がどのアクリルに描いてあるかがわかれば、案外簡単に働きかけることができるかもしれない。

では、そのアクリルの層にはどんなものがあるか。
政治や行政、エネルギー、マスメディア、など当たり前のものはおいといて。

たとえば、医療。放射線医療の領域からは原発推進の御用学者ばかりが目につく。
そして、原発作業員の被曝の後遺症に対して、医療は診断書を出さずに握りつぶし、うやむやにする役割をなしてきたようだ。
医は仁術とかつていったが、最新高額の検査機械を買ってそのローンの返済のために患者を機械的に検査のたらいまわしをする。
問診、触診、脈診などの個人的な技術は失われて医者までが機械的になる。
つまり、無人化が進んでいること、原発を支える体制と変わらない。

あるいは教育。これだけの事態に国民のしっかりした反応が少ないのは、上から言われたことだけに反応する教育が何十年も続き行き渡ったせいだ。
それが反応の鈍い奴隷的精神を培ってきた。
福島の教育現場でも、子どもたちを守れという声はか細くしか聞こえない。
給食に福島産野菜を使い、水筒や弁当持参を許さない学校もあるという。
文部科学省が考えているのは子どもたちのことではない。

あるいは法律。福島原発の作業員たちは、後に後遺症で訴訟を起こさないように誓約書を書かされているという。
そんな人権を無視した誓約書が有効なのか。
危険きわまりない土地に人をとどめおくような基準を作ったり、無責任に安全だという説を撒き散らす人物の責任を法的に裁くことができるのか。
小沢を起訴し、身内の検事を不起訴にした検察審議会のような不透明で理不尽なことがムラの中でまかり通っている。
法が全く恣意的に運用されている。

このようにあらゆる領域のシステムが人の肉声が容易に届かないルーティンで動いている。

層に分解すれば簡単に働きかけられるかもしれないと書いたが、こう書いてみると分解しても事態は簡単ではない。もういやになるほど根深い退廃したマトリックスの中に僕らはいる。

僕らに何ができるだろうか。
再び言う。僕らは生命に立脚して自由であることができるし、それしかできない。

多層的というのが、アクリル板というのは分かりやすい図式で、本当は層はぶよぶよと相互浸透しているとイメージしたほうがいい。
原発を作り出したものは僕らの生活のあらゆる部分に浸透しているのだ。
その中で、僕らが自由であるということは、どういうことだろう?
時間的には「今を生きる」、ということだ。昨日はこうだった。だから今日もこうだ、という連続は一度断ち切らなければならない。
また明日が不安だからと今日にフィードバックして動けなくなることも避けなければならない。
今感じたことを大切にするんだ。

空間的にも家庭の一員、会社の一員、社会の一員、国家の一員であるという帰属よりも、まず自分自身であること。
自分自身として改めて社会にアクセスすること。これが自由であるということだ。

今の若い人に「自分自身であれ」というときょとんとする人が多い。一度もそんなことを言われたことがないからだ。
ただ「何者かであれ」と強制されてきた。いざ自分自身に戻ろうとしてもその地点がわからない。このアニメが好き、このタレントが好き、このブランド、この商品が好き、と他者と同一化する。それを束ねたものが自分だと思っている。

しかし、言うまでもなく他者への同一化は自分自身から最も離れる行為である。
自由は、オリジンから生まれる。
いくらチョイスを積み重ねて束ねてもオリジンは生まれない。

僕らは自由であることによって、生命として時間と空間の中の一点として直立する。
時間の連続性、空間の連続性をそこで断ち切る。
多層性のマトリックスは相互浸透していると書いたが、これには急所がある。人にツボがあるように事態にもツボがあると考えればいい。
ツボでない場所を突ついても響かない。
正確に秘孔を突くのだ。
秘孔の位置は心の眼で見なければわからない。
難しいことではない。原発は裸の王様だと書いたが、本質はシンプルだ。ただ素直に物事を見ればいい。
素直にあるために必要なこと、それが自由だ。
自由でなければ見ようとしているものと一体化しているのだ。一体である限り、自分自身の正確な像を得ることはできない。

このように自由な点として自立した人と、全体の流れに押し流される人がいる。
その比率が日本では後者が圧倒的に多くなってしまった。
そして、高度な教育を受ければ受けるほど、流される人になる。そして、社会的には要職につくのだ。
日本の教育は「その人自身である」ということをベースにしていないのだ。そこで優秀な人間は一般的にそれだけ流されやすい。
ほとんどの高学歴の人間は自分を育てたシステムを根源的に疑うことがない。

今できることは個人が全面的爆発的に覚醒し、自由になること。そういう連鎖が起きること。今まで人を取り巻いてきたシステムがこれだけ致命的な欠陥をあらわにしたときに、そういう現象が起きなければ、僕らは今までの意識のまま、欠乏や悲惨と(まだその全貌は見えていない!)向き合わなければならないだろう。



[代替エネルギー論も不毛だ/議論の断片化]

議論の話で始めたから議論の話で終わる。

「原子力を止めて代替エネルギーがあるか?」という議論がある。ここのところ、火力でほとんどまかなえる、という数字が明らかになってきている。データを当たれば分かることだと思うが、ある人たちが納得しても、次々にビギナーが現れて同じ問いを発する。つまり類型化した疑問なのである。
このような疑問についてはFAQをまとめるべきだとまじめに思っている。そこにリンクして残った疑問について確認すればいい。

さて「原子力を止めて代替エネルギーがあるか?」というのは、根底的に位相がズレた問いである。
まず原子力が是か否か、という問いがあって、否であるから、ではどうしていくか? という問いが現れるのである。
ものを考えるのが有効なのは、この「どうすればいい?」という部分であって、そこからさまざまな工夫が生まれるのである。原子力は止めなければいけないと考える人は、「代替エネルギーがあるか?」とは聞かないのである。

だから、「原子力を止めて代替エネルギーがあるか?」と聞いてくる人は、潜在的に原子力を肯定しようとしている人が多い。あるいは潜在的にこのような現状維持的なイデオロギーに洗脳されているにも関わらず自分は中立で冷静だと信じ込んでいる人たち。

議論をするなら、末端ではなく根幹の部分からしなければならない。物事は幹から枝が生ずる。まず原発是か否かがズレたまま、代替エネルギーについて議論することは意味がない。

そして、原発を選ぶという人は、現在起きている福島や近県人の被曝、それから今まで社員でもない人々が原発で被曝しつつ作業し、その後の障害に対しても補償を受けられていないという現実に対して、なぜ自分が平然としていられるかを語るべきだろう。
しかし、このようなことを問いただしても、彼らはそれは「別の問題」だと答えるのである。
断片的な問題意識とその答は持っている。
しかし、全体としての整合性はない。
だから平然としていられる。
そういう心のあり方を前提としなければ、政府や東電、保安員の人たちの言動は理解不能だろう。自分の責任とは無関係に「問題」を取り扱う習性を持っているのである。
断片化すれば、人はあれほど無責任でいられるのだ。

議論は断片化させてはダメだ。それが僕らが教育されてきた方法だが、それではダメなんだ。全部を一つのこととして話そう。

議論をしかけてくる人に対して(最近あまりいないけど)僕が問いかけたいのは、「あなたは誰なの?」ということだ。これだけの事態に対してまだ原発に対して「冷静な」議論をしようという人の心は一体どうなっているのかが知りたい。
しかし、何人か試してみたけれども、本人にも自覚がないので、これは不毛なのである。
「あなたは誰なの?」という問いかけに対する答はつねに空虚であった。

誰でもない人に返事をしても仕方がないので、僕はアンチにはあまり返事をしない。

言葉遣いが最初から失礼な人がいる。これは話す値打ちがない。家できちんとしたしつけを受けなかったのだろう。
次に読解力が貧しい人がいる。これだけていねいに書いても本筋を取り違えたり、枝葉末節にこだわってくる人。
これは、反論しても理解できないだろうから返事をしない。
そういう人と僕の時間を相殺したくない。
そんなことをするなら、昼寝をしたり、好きな本を読んでいたほうがいい。

議論が有益だ、と僕らはなんとなく刷り込まれて生きてきたけれども、語るに足らない人と宙に浮いた「何が正しいか」を論じても仕方ないのだ。僕が知りたいのは、「僕(と僕の考え)が自由であることを阻んでいるものがあるとしたらそれは何か」だ。
そのことだけが話し合うに値する。

議論が有益なのは、相互に啓発しあえる可能性があるときだ。
お互いに聞く耳を持たぬ者同士が議論をしても仕方ない。
ニーチェは「軽蔑すべき敵を選ぶな。汝は汝の敵に誇りを感じなければならない」と言っている。
軽蔑すべき相手なら、何も話さないがいい。
相手を見下げるほどなら黙っていればいい。

他人を説得しようとするよりも、自分自身を自由にするブロセスを歩むほうがいい。
自由になるためにできることは多様で、道は永遠にある。
世の中でつながっていないものは何一つない。
確実に世の中を変える方法は自分が変わることだ。
これから事態に対処するためにさまざまな運動が生まれるかもしれないが、それに参加するときも、個人の自由意志で参加し、道を誤っていると思ったらすぐに離れなくてはいけない。

自由はあらゆるものに優先する。
僕らの「覚醒」はまだ始まったばかりなのだ。


● またまた、ただでさえ長い長い原稿にまた長いあとがき

この原稿書くのにすごく長くかかった。3週間くらい。

毎日ツィッターを流れてくる言葉を見ていると、伏せられていた情報のカードが開かれたり、論争があったり、新しい解釈や写真が出て来たりして、飽きない。それらは人間精神の万華鏡のようで、顰蹙を買う言い方かもしれないが、僕には興味尽きず面白かったのだ。

人々の気分の色は毎日気象が違うように違う。そして、大きな流れもある。僕のタイムラインの中では、最初は「何が起きているのか?」、不安や無関心、温度差がテーマであったけれども、やがて怒りや焦り、無力感などが現れ、少しずつ現実を受け入れていく中で有用な情報を流すツイート、リツイートをしようとする人が増えてきた。
全体として僕らはこの事態を、読むこと、書くこと、話すこと、聞くこと、行動することで「消化」しようとしている。

そういう流れを毎日覗き込まずにはいられない。
そして、ときどきRTしたりツイートしたりしていると、眠くなったり疲れたりして、肝心のこのブログの言葉はまとまらない日が多かった。
語りかけるべき中心が微妙にブレていくのだ。
それをつかまえる作業をしていた。
書くという作業よりも状況を眺めながら自己対話しているとそれだけで疲れて一日が終わってしまうのだ。

実際に震災以後のこのブログは原発容認推進派の多さに驚き、その言論構造を解体するという自分的な「急務」に急かされて書いていた。
しかし、5月12日に東電が1号機、2号機、3号機の炉心溶融を認めるに至って、風向きはやや変わった。
原発を止めても(もちろん止めないとダメだ。そして世の中は大きな船の向きが変わるように、その方向に動き始めていると思う)すぐに安全になるわけではない。
それよりもメルトダウンが今後どのような影響をもたらすのか、諸説あるが予断を許さない。
僕らは人類が初めて出会う領域に足を踏み入れている。

僕のこの原稿も、原発を止めろという緊急性よりは、この事態の中で僕らがどう生きるか、ということに重心が移った。文中にもそのような時間経過の中での移行も反映されているかと思う。
今の事態に対応することと、個人の自由を持って超越的に生きることとは両極であり矛盾を孕んでいるだろう。
しかし、あえて矛盾は矛盾のままに書き続けた。
どちらかを手放すわけにはいかない。断片化するわけにはいかないのだ。

今回のようなことを書くと「精神論」とか「抽象論」とかとレッテルされるかもしれない。
精神や抽象には別に悪い点はないんだけど、日本人が「精神論」「抽象論」というときには軽侮の響きがある。
精神の対象物というのは、現実とか、現物とか、物質だ。それを突き詰めるとカネになり、原発になる。現実というのは、要するに飯が喰えるかどうか、という話だ。原発なんて現実のカタマリのようなものだろう。金の流れが根深くあらゆる部分を蝕んでいる。
それを現実と呼ぶ人たちは、子どもたちが日々高濃度に被曝している状況を見ない。あるいはさほど危険ではないと合理化する。それは現実ではない、と視野の外に追いやるわけだ。つまり、カネを通じて見た都合のいい世界しか現実と認めない人たちがいる。
じつは彼らが現実と呼ぶもののほうがカネの磁場で歪んだファンタジーだ。

人が二本足で歩く、ということにまつわる啓示を聞いたことがあるだろうか。
片足が「実」なら片足が「虚」、片足が「陰」なら片足が「陽」、片足が「現実」なら片足は「理想」、片足が「物質」なら片足は「精神」。
そのように、人は二つの矛盾対立したものを交互に踏み出しながら、本体はどちらにも偏らずに超越したところで前進していく。そのような存在が人なのである。

今までの日本はあまりに物質的なものに光が当たりすぎていた。ショーウィンドウは照明でピカピカに商品を照らし出し、CMはブランドイメージをフラッシュのように僕らの脳髄に焼き付けた。
それを僕の感じる普通の基準に戻そうと思うだけだ。精神と物質、人はその世界を半々に生きている。ずっとそのことを理解してもらうために書いてきた。
(僕の文章の書き方の本も「精神論だ」とよく書かれたものだ。だって、文章書くのは精神でしょう。指先やキーボードが書くわけではない)

また長くなってきた。

文中、老子を引用したから、孔子の有名な言葉で終わろう。

「朝に道を聞かば夕に死すとも可なり」

これは僕の解釈では、真理は人が到達できる場所にはない、ということだ。
それは太陽のように僕らを潤すけれども、太陽を手に入れることはできない。
手に入れたと思ったらそれは真理ではない。
手に入れることができないから孔子は「死んでもいい」、と言っているのだ。
永遠に手が届くこともなく、尽きることがないから道なのだ。

そして、もう一つの意味は、僕らの生命は物理的物質的条件にだけ規定されているのではないということだ。
精神が覚醒しサバイバルすること。
それが本質的なテーマだ。



●……と、ここで、さらに蛇足的?宣伝

6月19日(日)14時〜18時まで、東京・目白において「自由になるためのアート」ワークショップを始めます。
従来芸術というのは、アウトプットされた作品だけが問題にされてきたわけですが、ここでは作品を生み出すまでの「精神の運動」を中心にして、発想を全面的にラジカルに組み替えて行きます。

身体のワークアウトはさまざまにありますが、精神のワークアウトは、じつは表現活動にあるのです。

参加してもらいたい対象は
1.「何もできない」人がいちばんです。「何かできないと参加できないのではないか」と引っ込み思案になられてしまうといちばん困ります。
2.それからストレスたまって何かしたい人。気分が集中し、やがて解放されます。
3.子どもの頃、絵を描くのが好きだったのに、先生に何か言われてやめてしまった人(こういう人たくさんいるのです)。
4.それから現在美術教育を受けていたり、かつて受けていて、行き詰まっている人。描くのやめてしまった人。

つまり自分の創造性を活発にする刺激がほしいあらゆる人が対象です。

このブログに書いていることに共感してくれる方にはとても楽しいものだと思います。気軽なゲーム感覚で巻き込まれるとあれよあれよ、という間に4時間、になる予定。

参加費6,000円
会員4,000円
(入会金5,000円 「心が大事の会」と共通です)

第一回以降、毎月1〜2回のペースで続ける予定。
申し込みはこちら↓をクリック!
「自由になるためのアート」ワークショップ 参加申し込みフォーム


村松恒平書店
- / comments(2) / trackbacks(0)
Comment








ブログ読んだ後、感想を書こうと思っていたら、いつのまにかもう2週間くらい経ってしまいました。自分の中でも、まだまとまりきらないことが多いようです。

自分が一度考えるのをストップしたこととか、本当はもう少し考えてみたいこととか、そういうことが、たくさん書かれていて、とてもすっきりしました。どうも、心の水面下で、相当、自分自身に影響があったのは確かなようです。
from. shim2zu / 2011/06/08 1:31 PM
ご無沙汰しております。

ツイッターとブログで、

この記事を激しく宣伝しておきました。

お体ご自愛ください。
from. Maggio / 2011/05/23 11:51 PM
Trackback
この記事のトラックバックURL: http://kokorogadaiji.jugem.jp/trackback/218