INNER LIFESTYLE DESIGN
 〜ナチュラルに生きる方法論序説
自分を責めてはいけない(圧力下の精神的自衛と顔のない人々)
地震、津波という天災に、原発事故という人災が加わって僕らの気分は何をしていても重苦しい暗雲に蓋をされているみたいです。

そこでときどき十字架を背負うように、「電気をじゃぶじゃぶ使ってきた私たちにも責任がある」「こんな日本にした私たちにも責任がある」「政治家を選んだ私たちにも責任がある」というような意見を見かけます。
このような意見は、一見良心的で誰にも否定しづらいものです。
比較的軽い被害で済んだ人がもっと甚大な被害を受けた人に対して申し訳ないと思うような心理傾向が日本人にはある。
このような傾向や物言いは、容認されやすいものですが、僕には世の中で思われているよりずっと根深く有害なもののように思えるので、長い反駁文を書くことにしました。

自分を責めてはいけません。
それは無益である以上に有害なことです。
誰に責任があるかをあやふやにしてはいけません。

僕自身のちょっとした恥ずかしい話から書き始めます。
先日、予定をダブルブッキングをしたと思って、「しまった」
と一つをキャンセルしたら、じつはダブルブッキングしたということ自体が勘違いだった。しかも連動して携帯に普通に登録してある連絡先の電話番号をなぜか見つけられない、という2重3重のあわわわ状態が発生しました。

意識の上では落ち着いているつもりなのに、ずいぶん上ずっている(ふだんから上の空っぽいことを差し引いても)自分を観測したのです。
このような注意力不足はどこから来るでしょう?

僕は今回の事態、とりわけ放射能が日本を中心とする大気と海洋を汚染するという危険極まりない、しかも底が見えない事態は、僕らの精神力を奪っていると考えています。

僕の体内統計(腹時計のようなもの)では、17パーセント〜28パーセントくらいが、毎日毎時奪われています。
僕たちが、ふだん100の力で生きているとしますと、今は70〜80くらいの精神力しかないのです。
いつも100円使って暮らしているとすると、80円くらいしかないということです。
(精神力の総量のこのような数値化を奇異に感じる方もいるかもしれませんが、僕の思考方法の中では一つの基本的なもので、長い年月にわたり何度も観察を重ねてきた有用なものです。その方法にしばらくおつきあいください)

さて、仮に私たちの日常の精神力が20奪われているとしますと、何が起きるでしょう?
僕のケース以外を探してみましょう。

たとえば、先日、スビッツの草野マサムネさんが急性ストレス障害で倒れたことは大きなニュースになりました。
たとえば、こういうことが起きます。
ふだんからテンションをあげ、100パーセント近くまでエネルギーを使っている人にはすぐダメージが現れてしまうのです。

それから、ツイッターを見ていると、ある劇作家が最近眠くて仕方がない、と書いていました。眠るというのは、精神力の最大のチャージですから、身体がそのように要求するのです。

先日飲んだあるアーティストは、口のそばにできものができていて治らない、といってました。それは、数年に一度、仕事が煮詰まって修羅場になるたびに出たもので、今回は仕事の要因はないため、「やっぱりストレス感じているんだろうな」と述懐しておりました。

このように誰でもが普通に暮らしている精神力以外に20,パーセント(仮の数字ですが)ほどの圧力を感じているのです。

自分は思い当たるかどうか、ちょっと思いめぐらせてみてください。

いや、俺は全然感じていないぞ、という方もいるかもしれません。個人差はあります。しかし、これは命に関わりかねない(「ただちに」ではなくても!)事態なので、原則的にあらゆる人に圧力があると考えたほうがいいでしょう。

では、自覚のない人はその圧力がどこに行っているかというと、すべて無意識に入っているのです。無意識に入って、疲れやすくなったり、くよくよしたり、イライラしたりします。
無意識は身体に通じていて、無意識から意識に上がって来ない分は、疲れやすかったり、眠かったり、どこかが痛かったり、肩がこったりという形で表現されます。
20パーセント分、活動をスローダウンしてくれ、と身体がメッセージするわけです。

そのメッセージすら無視していると、今度は内臓を傷めるようなことになります。身体はなんとか活動をスローダウンして、エネルギー不足のつじつまをあわせようとするのです。
物理学の世界には「エネルギー保存の法則」がありますが、精神的エネルギーにも同様の法則があります。
心に入ったエネルギーはどこかに出口を求めるのです。
僕らは地理的な条件にもよりますが、多かれ少なかれそのような圧力下にあります。

実際は、これに対して、僕たちはいま「気が張ってる」状態なので、予備電源的なものも使っているのです。
気が張る、というのは、何かある日までに達成しなければ目標がある人ががんばっているときなどに使います。目標はその日までに達成させたけれども、翌日熱が出てダウン、ということはよくあります。そうすると、予備の気力を使っていたとわかるのです。
それは人の機能の深い部分ですが、あまり予備電源に負担をかけすぎることはできません。

別のプロセスもあります。
人は次第に刺激に麻痺してきます。心身が事態に同調して、なんとか生き延びられる体勢に感受性を落として行くのです。
しかし、原発事故はいまのところ、ここで底を打ったということがありません。
燃料棒の発熱自体もメルトダウンの可能性を含んで容易に収拾しないし、発表も不明朗です。
さらに海洋、大気、食物、飲料水の汚染という形で、あるいは経済への影響という形で、じわじわといつまでも生活を蝕んで来ます。

それが今の状況です。
だから、僕たちは事態を受け止めてそれに順応していく、ということも完全にはできません。事態そのものの全体像が確定していないからです。
これはたいへんな消耗戦です。

こういう時期は必要以上にがんばってはいけません。
そのような内的なブロセスにおいては、可能であれば、ふだんよりやや怠けているくらいがちょうどよいのです。
僕たちがそのような圧力下にある、という前提で、「自分を責めてはいけない」という話をしたいのです。

いま、確認した20パーセントの圧力に「自分を責める力」は入ってないのです。

自分を責めればそこにさらなる重しを自分で載せることになります。

僕たちが置かれている状況にはまだまだ出口が見えません。平常を取り戻すには、何年もかかるでしょう。最終的に影響を忘れるためには、何十年もかかるかもしれません。僕たちは昨日に戻ることはないのです。

だから、すでに受けている20パーセントの圧力以上に自分自身に圧力をかけていれば、長期戦の中で、いつか潰れてしまいます。
だから、「自分を責めるな」と書いています。

他があまりにも惨状であるので、メンタル面というのは、「ケアが必要だ」という大雑把な情報が流れているだけで、詳細な報道がありません。
また心の中のことは、報道しようもない。
だからこそ、僕たちは自分で把握し、対応しなくてはいけません。
そのために今、僕は書いています。
そして、この自衛の形がはっきりできたときに、相似形で僕らが生きて行くデザイン、新しい日本のデザインも見えてくると考えているのです。

もともと日本人はとても自分を責める民族なのです。凶悪事件がたくさん報道されていますが、じつは殺人の件数は増えていません。増えているのは、自殺です。
今、リンクを張る余裕がありませんが、興味がある方は他殺率、自殺率をアメリカと比べてください。
映画で見ても、アメリカは他人の責任の追求に容赦がありませんね。そういうことに寛容な文化なのです。日本でそういうことをすると、はしたないと思われたり、煙たがられたり、嫌われたりします。
日本は、逆に自分を責めることに対しては寛容な文化なのです。
国民性は変えることができないけれども、理解すれば一人一人の選択肢を広げることはできます。

原理的なことから言いますと、自分を責める性向というのは、言葉と結びついて発動するのです。
それも自分の内側から出た言葉ではなくて、外から来た言葉に結びついてしまうのです。

ここで、今の状況に対する言葉をここでは代表的な言葉を二つ例にとりましょう。
【日本人全員が責任を感じ、反省しなければいけない】
【自分は何もしていない 何もできない】

こう思っている人は多いでしょう。
たくさんの人が思っているということは、それは僕の言い方では「自分の内側から出て来た言葉」ではないのです。オリジナリティがないでしょう。
オリジン(起源)から出ていないのです。

このような言葉は、外からきて呪文のように僕らの心を縛ります。だから、僕は解呪のためにこの二つの言葉を検討しましょう。

【日本人全員が責任を感じ、反省しなければいけない】

これは一見、口当たりのいい良心性を持っていて、言う人も全く悪気がないのですが、僕はこの状況でいうのは、事態を複雑化して危険だと言います。

たとえば、僕は今回の都知事選挙で石原慎太郎以外の候補に投票しましたが、それでも、石原慎太郎は大差で当選しました。
そうなったときに、彼がさらにひどい暴言を吐いたり、表現の自由やお花見などの楽しみを規制したり、東京湾に原発を作ったり、間違った政策の数々を推し進めたら、それに対して、僕に責任があるでしょうか? 僕は責任を感じる必要はないと思っています。

そもそも選挙というもので、僕が投票した候補が当選したことが一度もないのです(笑)。だから、どんなにひどいことが起きても甘受するという形でその結果を受け止めるしかない。
その甘受は責任とは違います。

たとえば、一つの国に少数民族がいるとします。しかし、その国の多数を占める民族が少数民族に不利な自分勝手な法律を作ったとすると、それに耐えるしかない。それは甘受であって、仮に一票を与えられていても責任はありません。
それと同様のことを僕は感じています。


多数決というのは、何かを決定しなければいけないときの便宜であって、それ以上のものに美化してはいけません。

政治の裏側には僕は詳しくないのですが、選挙制度自体も選択に流動性がないように目詰まりしていると感じます。なんで最近は開票も始まらないうちに当確が出てしまうのでしょうか。出口調査もあるでしょうが、それ以上に組織票が大きいと感じます。
一票を与えられたら、日本が侵略戦争を始めてもその責任を感じなければいけない、という立場に僕は立ちません。
しかし、議会制民主主義についてはまた別の大議論になってしまうので、ひとまずここまでで置きます。

目の前の状況において責任を論じましょう。
一つの例から話しましょう。

たとえば、あなたがコンビニに対して批判を持ったとします。
「便利すぎると人間がダメになる」
しかし、それをコンビニ店員に言ってもムダでしょう。
「いや、僕はバイトだからわかりません」「私がコンビニを作ったのではありません」
たしかにバイトの店員がコンビニを作ったわけではない。
いくら問いつめても、そこには受け止める人がいないのです。

受け止める人がいない、ということは、人がいない、ということと同じですね。マニュアルで動くロボットのような存在がいる。
顔のある人、自分の言葉がある人がいない。
一般の商店であれば、店主は身体を張って自分の店やその信用、商売を守ります。
しかし、そのような人が不在のシステムが蔓延しているのです。
僕たちの労働というのは、コンビニでなくても、たいへんコンビニ的、マニュアル的に全体の意味からぶつ切りに切り離されてきました。つまり、誰でもいい交換可能な存在として扱われ、またその扱いを甘受してきたのです。

しかし、それが末端の店員だけではなく、管理職にも顔も言葉もない。その上にも顔がない。そこまでならまだわかりますが、社長のような最高の決定権を持つ人間にも顔がないことがありうるのです。なぜなら、その背後には株主というさらに顔のない存在がいるからです。

それが、今回の政府、東電、マスコミ、行政の癒着構造にも決定的に現れています。
誰も自分自身の言葉で事態を説明してくれません。
どこかで顔も名前もない人たちが相談して決めた見解を一方的に発表するだけです。
そして、記者クラブの記者たちにも顔がありません。
自分の顔、自分の言葉を出したとたんに責任をとらなくてはいけなくなるから、みんな顔のない人になります。

菅首相の顔をしげしげと見てください。僕のいう顔のない人のことがわかります。この人は何に泣き、何に笑い、何を大事にして生きているのか、全くわからない。友だちにもなれそうもないし、話しかける言葉も何ひとつ浮かばない。あの人、首相になってから、本当にあやふやな顔になってしまった。最高権力者なのに、何一つ把握するとこも決めることもできない。
ただこれは一つのタイプで、枝野のように一見、しっかりして頼りになりそうなタイプの顔のない人もいますので、一筋縄ではいきません。

顔のない人々ほど、非人間的でおそろしい人たちはいません。自分たちのしていることを自己批評する回路を持たずに集団で動くのです。
そうすると、良心とか恥というものがなくなってしまうのです。

たとえば、戦地で残虐行為を働く兵士には顔がありません。
彼らは自分たちの仲間だけに通じる言葉を話し、人の命を奪うことを当然の義務の一部としているうちに、良心が麻痺してしまうのです。

たとえば、ネット上には匿名で他人を批判する人たちがいますが、そういう人たちを見ても顔のない人たちのふるまいがよくわかります。
彼らはごく短い言葉で他人の人格と論理を否定し、不愉快にさせる語法に長けていますが、自分自身を語る言葉を何も持ちません。
匿名で人を口汚く批判することは、僕からみると、あさましい卑怯な行為ですが、本人たちは決してそのような自己批評を持ちません。むしろ、自分たちが正義の審判者であり、あまつさえ執行者だとまで思い込んで疑いません。
顔のない人々は、そのように他人の言葉が届かない、閉じた言葉の系の中だけで生きています。
したがって、彼らとは本質的にコミュニケーションをとることができません。

顔がない人たちの世界が広がるにつれて、みんな責任ということの意味を忘れるのです。

では僕がいう責任とは何か。
船長を例にするとわかりやすいです。

自分が任されている船に関して、船長は全責任を取ります。
船の上では船長は全権を持ち、命令は絶対です。
しかし、船長は自分の役割と範囲をわきまえていて無理な命令はだしません。

たとえば、貨物をたくさん積んだ船が嵐にあったとき、危険だと思ったら、船長は「荷を全部捨てろ」、と命じます。
荷を大事に抱えて、船ごと沈んだら元も子もありません。
もちろん荷主は別にいるし、さまざまな事情はあるでしょうが、船長判断は絶対なのです。
荷を捨てるべきかどうか、などおおぜいで会議をしていたら、何も決められず、船は沈んでしまいます。

今回、海水を入れる決定、廃炉にする決定など、遅れたとしか思えません。誰が船長役をしたのでしょうか? 少しも見えません。そういう体制で決定は遅れ、致命的な事態を招いたと思います。
人の生命・健康が最優先という優先順位もなかったようです。福島原発の所長みたいな人はいるのでしょうが、存在感が伝わってきません。
そういう無責任体制は今も続いています。

船から退避する場合も、船長はいちばん最後です。全員の無事退避を確認するまでは自分は退避しません。
もし、自分が逃げるということを考えたら、判断は中途半端になり、船のイニシアティブは崩壊してしまいます。
船と運命を共にするというのは、そういう危機が起きたときの覚悟の延長線上にあるのでしょう。
しかし、死は美徳ではなく、いちばん最後で余裕があるのなら逃げればいいと思います。

そう考えると、今回の事態には船長役の存在感が全くありません。記者会見に出るのは、安全な東京にいて、冷や汗も脂汗もかいた気配のない人たちです(初期の頃しかテレビ見ていません。たいへんな事態に対する身体感覚の欠如が気持ち悪くて見ていられないのです)。

現場には、がんばっている人たちがいます。
しかし、その人たちは顔や声は届かない。
海外メディアが当初「顔のない人たち」と呼んだのはこの人たちのことのようです。
顔がないということは、現場で判断し、決済する十分な権限を与えられていないということではないでしょうか。一目でこうしたほうがいいとわかることでも、上司に報告し、判断をあおぎ、その返事を待たなければいけない。
そういうことで貴重な時間が失われるているでしょう。
こういうことを書くと推測でものをいうな、という人がいます。でも、そういう人は社会経験の少ない若い人が多いのではないでしょうか。
年齢が行くとそれを同じような状況に立たされた記憶があるから、わかるのです。現場に裁量権のある人がいない仕事は小回りが利かず、本当に効率が悪いのです。
(今日、本社からは無理な要求が次々に来る、という状況が少し伝わってきました
http://blog.livedoor.jp/ikedakayoko/archives/51776585.html

今回、責任というものを受け止めている人がどこにいるのかが全く見えない。コミュニケーションも最悪。その無責任体制が原子力という危険極まりないものを扱っているのです。

こういうことを書くと、自分の仕事内容も同じだ、と自責的になる人がいるかもしれません。今の日本の仕事の構造はそうなのです。しかし、それは、今から変えていけばいいことです。

僕たちは、テレビ、新聞という最大のメディア装置によって何十年も洗脳されて来たのです。
原発村というのでしょうか。僕は実社会のシステムについてあまり厳密な知識を持ちませんが、原発推進勢力は、政府・行政・マスコミ・電力会社・経済界・アカデミズム、そしてその背後にアメリカがいます(先日の僕の記事の期待と予測に反して、アメリカはこの事態でも日本の原発推進のようです。オバマが原発利権なので、オバマごと倒れないとダメみたい)。
まあ、ぞっとするほど強力な勢力で、これにまた彼らの言い分を信じて付和雷同する層、無関心ながらも深いところで洗脳された言葉を発する層がオーラのようにまとわりついているのです。

その勢力が全体で意識的・無意識的に洗脳操作を行ってきたのです。

その中で、東電は洗脳と情報操作の(あまり言葉を過激にエスカレートさせるのもアレです。品よくいうと広報活動)のプロだったんだなあ、と僕は今回、印象づけられました。

化粧品会社は製品開発のプロであると同時に、宣伝のプロです。それと同様に東電は、エネルギーのブロであると同時に世論を操作するブロであったのです。

彼らは金を使えば使うほど利益を出していい、という法律の下にあるそうです。だから、湯水の如く金をバラまいて、テレビ新聞以下、あらゆるメディアを奴隷化したのです。
つまり、やくざが女を覚醒剤中毒にするように、メディアをイージーマネーの中毒にさせたのです。

無限の財力と権力をバックに、テレビ・新聞から毎日・毎時洗脳のシャワーを浴びせたのだから、その洗脳にかかってしまった人に何の罪もありません。
そして、その背後に放送免許を持つ総務省がいるわけで、構造は複雑で奥が深いです。

洗脳という言葉がおおげさだと思う人は、そんなに毎日、原発の宣伝をしていたわけではないだろう、と思うかもしれませんが、原発に否定的な言論を完全に存在しないものとして扱うという形で、十分に機能するのです。

小学校のクラスで、担任が一人の生徒をいないように扱えば、他の生徒たちもシカトするようになるでしょう。
今もテレビは反原発デモをしかるべく扱いません。

広瀬隆氏などは、30年も前から「原発は危険だ」と言い続けてきた人です。今回のような事態に対して声を嗄して警鐘を鳴らしてきたのに、今に至るも全体的には感謝もされないし、再評価されない。
むしろ、いまだにクワセ者扱いです。

『東京に原発を!』は、僕のいた宝島社(当時JICC出版局)で初版が出た本で、僕の上司の故石井慎二さんが編集した本です。
若き日の広瀬さんが編集部に打ち合わせに来たのを覚えています。30年近く前です。
『東京に原発を!』というくらいですから(最近は石原慎太郎が反対の立場から同じことを言いますが)、正しいことをいうだけでなく、なんとか世間の耳目を集めたいという工夫をしていたのです。

彼の現状分析は最もシビアで否定的です。僕も彼がクワセ者であって、その言葉がおおげさに粉飾されたものであってくれたらどんなにいいかと思う。
しかし、原発推進派はもちろん彼を否定しますが、レッテルを張るだけで批判に具体性がない。
原発に否定的な勢力からは彼が信用できないという話を聞かないのです。

危険だという警告は正しかった。
安全だと言っていた人間はみんな嘘つきだった。
どうしてその事実をベースに考えが始まらないのか不思議です。
真実を語っていた者を信じず、今まで嘘つきだったものの言葉にいまだにすがろうとする。
その理不尽が当たり前に感じられてしまうのが「洗脳」です。

俳優の山本太郎さんは、「芸能界では反原発を口にすると必ず干される。だけど僕はいう」という意味の発言をし行動を始めました。

本来オピニオンリーダーとなりうる人々が口をつぐんでいるのです。芸能界も言論界も学界も経済界も政界もみんな原発という「裸の王様」がきらびやかな服を着ているように振る舞っている。
口をつぐんだ段階で、その人は顔のない匿名者になるのです。

僕らはそこからドロップアウトして、自分の顔と言葉を取り戻さなくてはいけません。
そして、原発を推進した匿名者をぬくぬくとした匿名の闇から引きずり出して自分のしたことを見せなくてはいけません。
彼らには謝罪してもらわなければいけない。恥じてもらわなくてはいけません。今までの権力や地位、信用や発言力を失ってもらわなければいけません。
難しい理屈ではなく、誰かにきちんと自らのしたことの責任をとってもらわなければ、この事態はおさまらないのです。

政治的な次元のことだけではなくて、僕たちがこれから困難な状況の中を生きて行く精神衛生のためです。
もし、今回東電の引き起こした事故に対して、東電は本質的に解体されぬまま、補償に税金が使われ、税率ははねあがり、電気料金もあがり、原発は推進され、電力は自由化されず、東電の役員は巨額の退職金を受け取り続け、保安院のような有害な組織に税金を投入しつづけ、行政の天下り先は肥大し続けるとしたら、僕らは彼らの尻拭いをする奴隷のような存在でしかありません。
洗脳する人たちと洗脳された人たちの国のままであれば、洗脳を逃れ、覚醒した人たちの居場所はさらに狭められていくでしょう。

たとえば、東電が今回のペナルティを逃れて本質的に延命するならば、他の電力会社は所有する原発を自分自身のリスクと感じることがますます少なくなって、軽い気持ちで原発を推進していくでしょう。

日本が再建、復興に向かうときには新たな希望がなくてはいけません。そのためには、顔のない人たちの支配を終わらせることです。
そういう暗雲をはらって青空の下に出たい。

そのためには、僕たちは顔のない組織の一員であってはなりません。一人一人の根っ子から、感じ、考え、発言し、行動すること。この事態を引き起こした人々と同質化してはいけないのです。
しかし、一人一人の力は限られていますから、刺激しあい、必要なときはどこかで合流しなければなりません。

一人一人の力はどのように社会を変えて行く力になるでしょうか? 
そのためには、何が起きているかの共通認識が必要です。そして、どうするべきかという正しい方向を見出さなくてはなりません。
事態をよい方向へ導くための議論は、散漫ではいけません。本質に向かって求心的でなければいけません。
優先順位を欠いた些細な言い合いに気をとられてはいけません。だからといって、正確さや言葉の配慮を書いて余計な混乱を招いてはいけません。言葉遣いは他人の余計な感情を刺激せず、下品にならず、ユーモアがあるのがいいでしょう。
一見激しい言葉は、思わぬ反発を招くだけで思ったほど効果がありません。

原発の停止を求める人が分裂せずに一つになれる言論が可能でしょうか?
僕たちは、議論は、必ず衝突し、専門家同士も意見が分かれ、対立し、仲間のはずの人間ですら主張が分裂するのをいつも見ています。

意見が分裂するのは、立場が違うからです。
よく「人間として」ということを共通の立場にするわけですが、こんなにあやふやな基盤はありません。
今回の事態を引き起こしたのも「人間」だし、戦争や大量虐殺や数々の愚かさも人間のものです。
「人間として当然でしょ」というような投影を顔のない人々に投げかけても役に立たないのです。

だから、僕はもっと遡って「生物として」、と言います。そこに共通の基盤を起きます。

生物として僕らがまずすべきこと。
それは自らの生命を守ることです。
そして、その次に「利己的な遺伝子」説に立てば、子どもたちを守ることです。
自分の子どもはもちろん。親戚の子どもでもいいし、友人の子どもだってかまわない。縁のある子ども、自分が未来を託したいと思う子どもたちを守ることです。

そして、自らの生命を守るというときには、当然自分が自由であることも含まれます。
ベッドに縛り付けられても、栄養だけ与えられれば肉体の生命は保たれますが、ヒトはそれだけでは気が狂ってしまう。
ヒトの生命の中には、自由な活動も含まれるのです。
だから、今回の原発事故のように、生命の発露に対して、さまざまな制約を加えられる事態には、直感的に反発していかなくてはなりません。自由を僕は「自分の理由で生きていること」と単純に定義づけでいます。この自由も生命の延長として守らなければなりません。
そして、将来に同様の事故が起きるような禍根を残さないようにしなければなりません。

また子どもを守る、ということは、当然その未来を守るということです。可能性を守るということです。
ただちに、ではなく、物質的に現れ科学的に証明されたものから守るのではなく、まだ形に現れないものから、見えない可能性を守るのです。
だから、想像力の仕事なのです。

僕は「生命、自由、自然」という3つに依拠して考えます。

このように生命を守ろうとする立場は、「日本人全員に責任がある」という立場とは両立しないのです。日本人である前に人間であり、人間である前に生物であり、生命であるのです。
そういう根源に戻るときです。

日本は危機にあり、僕たちは一つになって乗り越えるべきかもしれません。しかし、原発を推進してきて今も維持しようとしている勢力のかけ声で、彼らの望んでいるように一つになることはできません。彼らは放射能によって緩慢に殺人を犯しているのです。彼らに気持ち悪い猫なで声で、「頑張れ」「日本は一つだ」と言われたくありません。

僕らはまず一人一人に立ち返り、それから一つになれる場所を探し始めるのです。迂遠なようでも、本当にこの世の中をひっくり返す力が湧いてくるやり方はそれです。

事態を変えるのを難しいと思わないでください。
原発は「裸の王様」です。

現在、福島原発は非常に危険な状態にあります。
(ということは)
過去、地震以前も危険だったのです。
将来、他の原発も危険です。

過去、現在、未来に渡って危険なのです。

原発は「危険の王様」なのです。
「原発は危険ではない」と言い張ろうとしている勢力は、長く持ちこたえることができません。
どのような強権をもってしても黒を白といいくるめることはできません。
新聞の論調も少しずつですが、変わってきました。
僕らは「原発は安全だ」と言っていたのは誰か? 今も言い続けているのは誰か? 安全だと言った責任をとるのは誰か? という素朴な問いを保ち続けるだけで彼らを追いつめることができます。
原発推進が自分にとって不利であることわかれば、主張を変え、寝返る人が多く出るでしょう。
そこまでは決して難しくありません。
しかし、そこで手をゆるめて本当に責任をとるべき人が明確にならないうちにあやふやにしてはいけません。

日本人全員が「王様は裸だ」と目を覚ますまで、論点をずらしたり複雑化させてはいけません。
たとえば「今の放射能が安全か安全でないか」という議論があります。それも重要ですが、そこで論議を膠着させてはいけません。
必ず論議の相手と「原発は危険だ」という共通認識に至れるかどうか、僕たちはどのような論議をしても何度でもそこに帰ってくるのです。

さて、ここまで書けば、
【自分は何もしていない 何もできない】
という自責もまた無意味だということがある程度、おわかりだと思います。

僕たちはまず自衛しなければなりません。今の事態を受け入れ、消化し、正しく理解し、さらに今までの日常の義務も果たさなければなりません。

それで十分です。何もしていない人なんかいません。
今の事態に対応するということを誰もが自分の内側でしています。
感じる、考える、見る、読む、話す、心の中で想うことも含めて、それはすべて行為です。だから、動詞でしょう。
身体を使って人に何か物理的な影響を与えることだけが行為ではありません。僕らの心の中のアクションと具体的に目に見える行為は連続しています。
だから、自分は何もしていないなんて思う必要はありません。
僕たちはいやおうなく世界を内側に引き受け、事態を消化しようとしているのです。
消化するために、ある人は沈黙し、ある人は語り、ある人は叫ぶでしょう。でも、みんな一つの連続の中にいて、時がくれば黙していた人も語り出すかもしれません。

僕は支援的なことでいうと、仙台で被災した親戚家族に物資を数回送りました。それからぽつりぽつりと縁があるところに小額の寄付をしています。
それくらいです。あまり大したことをしていません。
赤十字に寄付しても、総額や受け取る人数が確定するまで支給されない、といいます。
孫正義さんは映像でチャリティ・プラットフォームを紹介していました。
http://www.charity-platform.com/
NPOのバックアップをする団体のようです。こういう発想や実践は面白いと思います。
その他にもいろいろな動きがあるでしょう。
赤十字だけでなく、多様で多層的なさまざまな時間帯に支援があることが機能するような気がします。

これから何年も僕たちはさまざまな場面と出会うでしょう。
だから、今すぐ具体的に見えるアクションを起こす必要はないのです。

僕たちはこれから個人的にも社会的にも大きなシフトをしていくことになります。
それに対応し、そのさまざまな準備をする、ということで十分です。それでも何かせずにおれない人、余力のある人が被災地を支援していけばいいのです。

まず自らの洗脳を解き、ありのままを理解すること。
そのような生命の覚醒から、すべては始まります。


[おまけ・この原稿の長さについて]

我ながら、長い文章です。
それをおまけをつけることによってさらに長くしています。
でも、短く書いてはいけない、という思いがあるのです。
丸一冊コラム的な短い文章で一つの雑誌を作ったのは『POPEYE』という雑誌でした。
そのときから、文章は書き手の人格から離れた消費物というニュアンスが強くなったのです。
今回の原稿についても、やろうと思えばバラバラの部品に分解してコラム的に書けないことはありません。
でも、そのように細切れに消費されたくないのです。

一種の頭脳的な刺激として終わる文章は書きたくないのです。
もちろん、考えも刺激したいけれども、もっと心を魂を喚起したい。
僕が自分の考えを部品として表現すれば、読んだ人も自分の中のある部分が刺激されるけれども、やがて忘れてしまうでしょう。
僕は自分の考えをなるべく全体として書きたいのです。
その全体に対して、読んだ人がまた全体で反応してくれることを期待しています。
それは必ずしも同意である必要はありません。
しかし、それと自分の考えを照らしたときに、同意する部分も同意できない部分も、その人の中の全体が動くことを期待しています。
そうすれば、その人もまた言葉を発したくなる。僕に対する反応ではなく、自分自身の振動数で何かを言いたくなる。
僕がこんなに長く文章を書くのは(けっこうしんどいのですけど)、僕の中であらゆる考えはつながっているからです。
そのつながりが大切なので、それを断ち切ってまで読みやすく消化しやすくしようとは思わないからなのです。

短い文章は便利ですが、もはや便利な文章はいらないのです。
僕は、不便でもいっぱいいろいろなものが詰まった文章を書くべきだと感じたのです。


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Comment








みなさま、心のこもったコメントありがとうございます。

全部読んでいます。書いてよかったなと思います。

お返事したいと、ときどきむずむずするのですが、全部のコメントにはお返しできません。
ある人には返事してある人はしないというのもよくないので、こうしてまとめてお礼申し上げます。

心が通じてよかった。
from. 村松恒平 / 2011/05/23 9:19 PM
ニュージーランドに住むパートナーの息子から、是非読んでということで、読みました。長くてしんどいかなと思いながら、どんどん引き込まれて最後には涙が流れていました。私も30年前、広瀬隆さんの講演会を聞き、それからずっと原発は作ってはいけないと思いながら、生きてきましたが、何も行動してこなかったのです。
東日本大震災、福島原発のその惨状を知る度、毎日涙を流していました。そんな中で、広瀬隆さんの話を再び聞く機会があり、何もしなかった自分を責めていました。
このメッセージを読み、生物としての生き方を考え、語り、創造することの出来る、顔の見える人達と繋がり、行動して行きたいと思います。ありがとうございました。
from. 滝 悦子 / 2011/05/06 3:58 PM
一字一句、激しく同意します。

心に響く文を読ませていただきました。

ありがとうございます。
from. / 2011/05/03 4:01 AM
長い文章ですが、こんな私にもすらすらと胸に入ってきました。頭にだけでなく。

超長期戦に、私も準備を始めてます。まずは、しっかりと自分の足で立つことからかな。
from. Sachiko Ishiguro / 2011/04/29 8:10 AM
長い文章でしたけど、読んで良かったです。
少しだけ、自分の気持ちが整理できるような気がします。
自分を消耗させないで、日常を送りつつ、原発を止めるためのアクションをしようと思います。
from. きよしちゃん / 2011/04/23 10:11 AM
「生物として」というところに共感します。特に放射能というのはせっかく地球がそれを排除して生き物の住める環境を作り上げて来たものを足蹴にして、我欲のみでパンドラの箱を開けてしまうようなものです。キノコが放射能を吸収すると云われています。そのとき、ああ生き物を代表して吸い取ってくれているんだなあと思いました。村松さんのおっしゃるあとのほうに出てくる「責任」というのはそういうことなのかなあと思います。責任ということなら「生き物として生きる」ことを自分が背負っている、ということを常に思い出していたいものです。もしそういうことがストレスになるのならまだその方がいい。今多くの人が抱えているストレスは、洗脳から逃れたいと望む心の深層の叫びです。
from. digitaris / 2011/04/21 6:32 PM
疑心暗鬼の日々。
東京在住の小学生の母です。
怖ろしいもの。
地震、原発、放射線、、、
でも、もっと怖いのは「気にしすぎだよ。政府が大丈夫と言っているんだから。」と笑って言える周囲の人々。
こんなに誤魔化されてもまだ信じるの?と思いますが、私の周りには予想以上に大勢います。
そう言われてしまうと、貝のようになるしかなく、戦時中ってこんなだったのかなあ、、と。

「被災地はもっと大変。」
そんなことだって百も承知です!節電もするし、微力ながら、義援金での支援もします。

「日本中で一致団結して復興しよう!」
でも、今まで通りにする復興はもう沢山です。新たな人災を生まない道への方向転換を。
このような(二度とあってはならない)チャンス、逃してしまったら、もう後戻りはできません。


from. kelo / 2011/04/21 1:08 PM
うまくしようとすると、どこかのらりくらりとした、「カオナシ」になってしまいますね。本音を隠して適当にやり過ごそうとする姿勢なんでしょうね。
「これ」といえる、一本気のあるパワーがほしいです。
from. fkorin / 2011/04/21 11:20 AM
>危険だという警告は正しかった。
>安全だと言っていた人間はみんな嘘つきだった。
>どうしてその事実をベースに考えが始まらないのか不
>思議です。

ほんと、そう思います。
今回の事故で、日本が「原発真理教」であったことを
はじめて実感しました。これだけの大災害にもかかわら
ず、議論をはじめるフェアな土壌がないのがとても恐ろ
しいです。



from. あくせる / 2011/04/21 11:07 AM
アニメ映画「千と千尋の神隠し」で、
「カオナシ」が他者を飲み込んで取り込み、
巨大な怪物になっていく様が思い出されました。
ニガ団子を飲ませてやらないと!
from. Mr.Spice / 2011/04/21 1:48 AM
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友人でもあり、編集者で哲学者で芸術家でもある村松恒平氏の日本の現在に対する、するどくしかもわかりやすくもあるメッセージ。 超長文注意。 自分を責めてはいけない(圧力下の精神的自衛と顔のない人々)
タヒチのヒコさん付録 / 2011/04/21 4:38 AM