2011.03.28 Monday 13:27
事態は恐ろしく明確になってきた。
そろそろ原発を擁護する「専門家」たちに口をつぐんでもらう時間だ。
僕は科学の専門家ではない。
普通の人である。
言葉や文章、人の心の裏にあるものに関して考えたり書くことを続けてきて、自分を訓練してきた。
特殊な色眼鏡で物事を見る訓練ではない。
どんな事態にも自由な見方を失わないこと。ただありのままに見ること。
そして、「裸の王様」にでてくる子どものように、「王様は裸だ」と無邪気にいうこと、その勇気を失わないこと、それが自分に課してきたことである。
いま、僕にクリアに見えていることについて書くことは自分の責任に感じている。
さて、
『不安であることの正しさについて』http://bit.ly/e9JV4d
でも触れたが、再び「専門家」について書かなくてはならない。
「専門家」(意図的であろうと無神経であろうと、事態を過小評価し、政府・東電・マスコミを結果的に擁護してきた人々。そして現在も擁護している人々をここで「」つきで「専門家」と呼ぼう)が何をしてきたか、ということをよく見てみよう。
彼らの言ったことはやがて歴史的な検証にさらされる。今後はそのことにはっきりと自覚的であってもらおう。
僕はぼやっと見ていても、彼らは少なくともすでに3つの大罪を犯していると思う。
1 原発を推進し、その危険性を放置したこと。
原発の危険は理路整然と語られていた。政府・東電・マスコミはその議論を広告費の力で押しつぶし、あるいは反対の議論を展開し、軽視し、黙殺しながら利益のために日本中を原発だらけにした。
これは、今も広がりつつある恐ろしい事態の加担者だ。推進した者は厳しく裁かれるべきだが、「何もしなかった者」まで罪に問うことはできない。
しかし、いままで沈黙していても、今になって「専門性」を根拠に原発の危険を過小評価する言葉を発し始めた人間は、全く同根の人として評価しなければならないだろう。
2 廃炉の決定を遅らせたこと
すぐに廃炉するチャンスはあった。そのことは今後何度もクローズアップされて検証されるでしょう。
彼らは天秤をかけて、人命よりも金を重んじたのです。そして、結果的には多くの人の健康を蝕み、人命を危険にさらしただけでなく、経済的にも日本全体に致命的といってもいいくらいのダメージを負わせた。
そして、その穴埋めを国民の税金でしようとしています。
(命も経済も、まだまだ僕らが被る被害の全体像は見えていないのです。僕らはこの先、何度もさまざまな衝撃に耐えていかなくてはならないでしょう)
そのような致命的な判断の誤りの一翼を担ったのが「専門家」です。
海外では、初期の段階からはっきりと廃炉にすべきだと分かっていたようです。
廃炉の決定が遅れたことは政治的、経営的、社会的なシステム的なものであったり、別のベクトルのものとして語ることはできます。しかし、それを防衛するスクリーンを張っていたのは専門性です。煙幕を張ることで事態を取り返しのつかない人類史的な規模のものに拡大してしまった責任は「専門家」にもあるのです。
3 避難と対策を遅らせ、人命を蝕んでいる
福島原発の10キロ.20キロ圏内には、今もって強制避難の命令は出ていないようです。
このようなことを支えているものも「専門家」たちの過小評価的な言説です。
放射線というのは、「身体に超微細な穴をうがっていくもの」と考えればいいのです。
「ガンの発症率」が何パーセント、という「科学的」物言いがありますが、発症するかしないかの白と黒、0か100ではないのです。
福島の原発の近くにいる人々の命は刻々と削り取られているのです。ガンが発症しなくても、さまざまな障害がでて苦しむのです。
でも、その因果関係はガンが発症してさえ、法的に証明されないということが今から言われているのです。
また政府が放射性物質の風向きによる飛散などについて、いつまで立っても正確な情報を出さないのも、この人たちの過小評価的、専門的言説の煙幕に守られているからです。
過去の罪ではないのです。現在進行形です。いますぐ「専門家」たちの「無邪気なおしゃべり」をとめなくてはいけません。
風評被害に敏感な方々は、「正確な情報」というものを重視しますが、それならば、ぜひ彼らの「安全だ」「危険はない」という言論がどのように変節、後退してきたかをチェックしてください。
そこに何かの「正確さ」があったかどうかをぜひ確かめてください。
皆さんはぜひ「専門家」の方々にこの文章を読むように勧めてください。あなたの言っていることは、歴史に残って行くし、僕らはあなたが何を言ったかを忘れないし、人の命に関わっているのだ、ということを伝えてください。
アンチの人がするように過剰に感情的になったり、相手の人格を貶めて傷つけようとしたり、粗野な罵倒を投げつけることはしないでください。
僕たちはそのように自分の魂を貶めてはいけません。
僕らは個人を憎んでいるより、もっと先に進まなければいけないのです。
ただ彼らの発言が多くの人の生命に関わり、それが歴史の中で検証されることになるということを理解してもらえればいいのです。
科学的、専門的と言われていることについて、もう少しお話しておきましょう。
いま、僕がこれを書き、いま、あなたがこれを読んでいます。
ここで僕らは生きているのです。
しかし、「専門家」が来ていうかもしれません。
「本当に生きているのですか?」
「見ればわかるでしょう?」
「証明されていません」
「しかし、心臓が動いています」
「脈拍はいくつですか」
「90です」
「通常より多いですね。この数値は」
「呼吸もしています」
「呼吸数はいくつですか?」
「……」
「正確な情報をつかむためには、神経の伝達速度や、他にもいくつかの反応を調べてみないといけません」
「でも、この通り生きてるんです」
「データを持ち帰って分析してみましょう」
一か月後に一枚の報告書が来る。
「検討した結果、当該の人物は生存している可能性がたいへんに高いという仮説を立てることができます。しかし、継続して各種データをとり後日慎重に結論したいと考えます」
ね。
僕たちは生きているでしょう?
そのことは証明する必要なんかないんです。
原発は危険である、そのことは今回の事故で証明されたのです。
そして、事故を起こした原発が危険である、そのことに一言も証明なんかいらないのです。
「事故を起こす前も原発は安全であった」
「事故を起こしても原発は安全です」
「そして、未来においても原発は安全に使っていける」
そういうことを彼らは言っているんです。
その人たちが何を証明しようとしているかなんて、僕たちが聞く必要がありますか?
彼らに対して、僕たちのほうから原発をやめてもらうために、危険性を一つ一つ証明する必要がありますか?
僕たちが目前にしている現実、それを僕らは知っているんです。
迂遠な論法で語るのはやめにしましょう。
証拠がどうした、データが、エビデンスがどうしたというのは、法廷やビジネスの世界で言えばいいことです。そんな論議は、永遠に遅延戦術も可能であれば、恣意的な取り上げ方も可能なことなのです。
こういう事態にも、僕らの中には、このような言葉の体系が染み付いて、目の前の現実と向かい合えないのです。
僕らの生は、そういう言葉の体系に遅延させられ、分断され、迷走させられ、衰弱させられて、いちばん大切なものをときどき見失ってしまうのです。
いま、それに負けない言葉、僕らの裡から発して何ものにも遮られない力を持つ言葉を再生させられるかどうかの瀬戸際なのです。
「専門家」のおしゃべりをとめましょう。
そのようなベール、煙幕がいまは邪魔なのです。
次にはマスメディアの中の「心ある人々」が活発に活動できるようにしましょう。ラジオにテレビに新聞に声を送ってください。近くにメディア関係者がいたら話しかけてください。そして、メディアの中心から電力会社の走狗を放逐しましょう。
次に、政治家を変えましょう。
推進派の政治家に疑問や怒りをぶつけましょう。
反対派の議員を応援しましょう(都知事選、そこで僕らの怒りを見せられたら、時代は大きく変わるでしょう)。
河野太郎氏のような人物を推したてましょう。
http://www.taro.org/2011/03/post-963.php
そうして政界からも推進派を一掃し、新しいエネルギーを芽吹かせましょう。
それに成功してようやく僕らは、東電とそれをめぐる体制を崩壊させることができます。
東電から内部留保をすべて取り上げ(4兆円とどこかに書いてありました)、救援と被害の補償に振り向けましょう。そして、すべての施設を国有化しましょう。とくに電線を共有化して、さまざまな新しい発電に道を開きましょう。
電力をめぐる法律を改正しましょう。
そのようなプロセスを踏んで、初めて他の電力会社も原発の廃止を検討し始めるのです。各電力会社にまだ全く何の反省もありません。
正面から原発廃止と叫ぶだけでは、彼らの構造の中であっさりと吸収されてしまうかもしれません。
こうして書いてきましたが、僕は本当は告発的な文章も書きたくないし、特定の政治的主張をしたりもしたくない。具体的な行動を提起することもしたくありません
運動家なんか、いちばんなりたくないものです。
でも、時間がないのだと強く感じています。
ここ数日で日本の未来の選択が決まってしまいます。
政府・東電・マスコミは、いま、人命を守ることよりも、世論をどのようになだめ、操作するかを必死で考えているはずです。
そして、国民の怒りやその他の感情のエネルギーをどこかにそらそうとしてくるはずです。
そして、さまざまな既成事実を積み重ねて、このままで仕方ないのだと思い込ませようとしてきます。
そのようになっては遅いのです。
僕らは、つまり日本国に住むあらゆる人は、多かれ少なかれ、今回の事故の被害者です。
否も応もなく、多くの苦難を引き受けなければなりません。
しかし、その事故を引き起こした張本人たちがそのまま何の責任を負うこともなく、何事もなかったように闊歩し、今までと同じように無責任に事を行うのを見ていなければならないとしたら、どうです?
毎日放射能の警戒に心身をすり減らしながら、そういう人たちを許して生きますか?
年金問題と同じなのです。年金については、大混乱が起き、国民の権利が大きく侵害されましたが、誰一人責任とることなしにあやふやになりました。
日本はその後始末を全くつけられないような国なのです。
今回は、張本人たちとその癒着構造が目の前にはっきりと浮かび上がっているのです。
その病巣をはっきりと摘出して見せなくてはなりません。
それができなかったら日本の精神性は終わりです。
そうなったら、僕はこの国の国家と国民を本当に醜いな、と思うでしょう。
そうなるかどうかの境目が、半年後でも一月でもなく、今日を含む、ここ数日にあると感じるのです。
時間が経てば僕たちは順応し、丸め込まれるでしょう。
だから、こうしていま僕は急いでいるのです。
そろそろ原発を擁護する「専門家」たちに口をつぐんでもらう時間だ。
僕は科学の専門家ではない。
普通の人である。
言葉や文章、人の心の裏にあるものに関して考えたり書くことを続けてきて、自分を訓練してきた。
特殊な色眼鏡で物事を見る訓練ではない。
どんな事態にも自由な見方を失わないこと。ただありのままに見ること。
そして、「裸の王様」にでてくる子どものように、「王様は裸だ」と無邪気にいうこと、その勇気を失わないこと、それが自分に課してきたことである。
いま、僕にクリアに見えていることについて書くことは自分の責任に感じている。
さて、
『不安であることの正しさについて』http://bit.ly/e9JV4d
でも触れたが、再び「専門家」について書かなくてはならない。
「専門家」(意図的であろうと無神経であろうと、事態を過小評価し、政府・東電・マスコミを結果的に擁護してきた人々。そして現在も擁護している人々をここで「」つきで「専門家」と呼ぼう)が何をしてきたか、ということをよく見てみよう。
彼らの言ったことはやがて歴史的な検証にさらされる。今後はそのことにはっきりと自覚的であってもらおう。
僕はぼやっと見ていても、彼らは少なくともすでに3つの大罪を犯していると思う。
1 原発を推進し、その危険性を放置したこと。
原発の危険は理路整然と語られていた。政府・東電・マスコミはその議論を広告費の力で押しつぶし、あるいは反対の議論を展開し、軽視し、黙殺しながら利益のために日本中を原発だらけにした。
これは、今も広がりつつある恐ろしい事態の加担者だ。推進した者は厳しく裁かれるべきだが、「何もしなかった者」まで罪に問うことはできない。
しかし、いままで沈黙していても、今になって「専門性」を根拠に原発の危険を過小評価する言葉を発し始めた人間は、全く同根の人として評価しなければならないだろう。
2 廃炉の決定を遅らせたこと
すぐに廃炉するチャンスはあった。そのことは今後何度もクローズアップされて検証されるでしょう。
彼らは天秤をかけて、人命よりも金を重んじたのです。そして、結果的には多くの人の健康を蝕み、人命を危険にさらしただけでなく、経済的にも日本全体に致命的といってもいいくらいのダメージを負わせた。
そして、その穴埋めを国民の税金でしようとしています。
(命も経済も、まだまだ僕らが被る被害の全体像は見えていないのです。僕らはこの先、何度もさまざまな衝撃に耐えていかなくてはならないでしょう)
そのような致命的な判断の誤りの一翼を担ったのが「専門家」です。
海外では、初期の段階からはっきりと廃炉にすべきだと分かっていたようです。
廃炉の決定が遅れたことは政治的、経営的、社会的なシステム的なものであったり、別のベクトルのものとして語ることはできます。しかし、それを防衛するスクリーンを張っていたのは専門性です。煙幕を張ることで事態を取り返しのつかない人類史的な規模のものに拡大してしまった責任は「専門家」にもあるのです。
3 避難と対策を遅らせ、人命を蝕んでいる
福島原発の10キロ.20キロ圏内には、今もって強制避難の命令は出ていないようです。
このようなことを支えているものも「専門家」たちの過小評価的な言説です。
放射線というのは、「身体に超微細な穴をうがっていくもの」と考えればいいのです。
「ガンの発症率」が何パーセント、という「科学的」物言いがありますが、発症するかしないかの白と黒、0か100ではないのです。
福島の原発の近くにいる人々の命は刻々と削り取られているのです。ガンが発症しなくても、さまざまな障害がでて苦しむのです。
でも、その因果関係はガンが発症してさえ、法的に証明されないということが今から言われているのです。
また政府が放射性物質の風向きによる飛散などについて、いつまで立っても正確な情報を出さないのも、この人たちの過小評価的、専門的言説の煙幕に守られているからです。
過去の罪ではないのです。現在進行形です。いますぐ「専門家」たちの「無邪気なおしゃべり」をとめなくてはいけません。
風評被害に敏感な方々は、「正確な情報」というものを重視しますが、それならば、ぜひ彼らの「安全だ」「危険はない」という言論がどのように変節、後退してきたかをチェックしてください。
そこに何かの「正確さ」があったかどうかをぜひ確かめてください。
皆さんはぜひ「専門家」の方々にこの文章を読むように勧めてください。あなたの言っていることは、歴史に残って行くし、僕らはあなたが何を言ったかを忘れないし、人の命に関わっているのだ、ということを伝えてください。
アンチの人がするように過剰に感情的になったり、相手の人格を貶めて傷つけようとしたり、粗野な罵倒を投げつけることはしないでください。
僕たちはそのように自分の魂を貶めてはいけません。
僕らは個人を憎んでいるより、もっと先に進まなければいけないのです。
ただ彼らの発言が多くの人の生命に関わり、それが歴史の中で検証されることになるということを理解してもらえればいいのです。
科学的、専門的と言われていることについて、もう少しお話しておきましょう。
いま、僕がこれを書き、いま、あなたがこれを読んでいます。
ここで僕らは生きているのです。
しかし、「専門家」が来ていうかもしれません。
「本当に生きているのですか?」
「見ればわかるでしょう?」
「証明されていません」
「しかし、心臓が動いています」
「脈拍はいくつですか」
「90です」
「通常より多いですね。この数値は」
「呼吸もしています」
「呼吸数はいくつですか?」
「……」
「正確な情報をつかむためには、神経の伝達速度や、他にもいくつかの反応を調べてみないといけません」
「でも、この通り生きてるんです」
「データを持ち帰って分析してみましょう」
一か月後に一枚の報告書が来る。
「検討した結果、当該の人物は生存している可能性がたいへんに高いという仮説を立てることができます。しかし、継続して各種データをとり後日慎重に結論したいと考えます」
ね。
僕たちは生きているでしょう?
そのことは証明する必要なんかないんです。
原発は危険である、そのことは今回の事故で証明されたのです。
そして、事故を起こした原発が危険である、そのことに一言も証明なんかいらないのです。
「事故を起こす前も原発は安全であった」
「事故を起こしても原発は安全です」
「そして、未来においても原発は安全に使っていける」
そういうことを彼らは言っているんです。
その人たちが何を証明しようとしているかなんて、僕たちが聞く必要がありますか?
彼らに対して、僕たちのほうから原発をやめてもらうために、危険性を一つ一つ証明する必要がありますか?
僕たちが目前にしている現実、それを僕らは知っているんです。
迂遠な論法で語るのはやめにしましょう。
証拠がどうした、データが、エビデンスがどうしたというのは、法廷やビジネスの世界で言えばいいことです。そんな論議は、永遠に遅延戦術も可能であれば、恣意的な取り上げ方も可能なことなのです。
こういう事態にも、僕らの中には、このような言葉の体系が染み付いて、目の前の現実と向かい合えないのです。
僕らの生は、そういう言葉の体系に遅延させられ、分断され、迷走させられ、衰弱させられて、いちばん大切なものをときどき見失ってしまうのです。
いま、それに負けない言葉、僕らの裡から発して何ものにも遮られない力を持つ言葉を再生させられるかどうかの瀬戸際なのです。
「専門家」のおしゃべりをとめましょう。
そのようなベール、煙幕がいまは邪魔なのです。
次にはマスメディアの中の「心ある人々」が活発に活動できるようにしましょう。ラジオにテレビに新聞に声を送ってください。近くにメディア関係者がいたら話しかけてください。そして、メディアの中心から電力会社の走狗を放逐しましょう。
次に、政治家を変えましょう。
推進派の政治家に疑問や怒りをぶつけましょう。
反対派の議員を応援しましょう(都知事選、そこで僕らの怒りを見せられたら、時代は大きく変わるでしょう)。
河野太郎氏のような人物を推したてましょう。
http://www.taro.org/2011/03/post-963.php
そうして政界からも推進派を一掃し、新しいエネルギーを芽吹かせましょう。
それに成功してようやく僕らは、東電とそれをめぐる体制を崩壊させることができます。
東電から内部留保をすべて取り上げ(4兆円とどこかに書いてありました)、救援と被害の補償に振り向けましょう。そして、すべての施設を国有化しましょう。とくに電線を共有化して、さまざまな新しい発電に道を開きましょう。
電力をめぐる法律を改正しましょう。
そのようなプロセスを踏んで、初めて他の電力会社も原発の廃止を検討し始めるのです。各電力会社にまだ全く何の反省もありません。
正面から原発廃止と叫ぶだけでは、彼らの構造の中であっさりと吸収されてしまうかもしれません。
こうして書いてきましたが、僕は本当は告発的な文章も書きたくないし、特定の政治的主張をしたりもしたくない。具体的な行動を提起することもしたくありません
運動家なんか、いちばんなりたくないものです。
でも、時間がないのだと強く感じています。
ここ数日で日本の未来の選択が決まってしまいます。
政府・東電・マスコミは、いま、人命を守ることよりも、世論をどのようになだめ、操作するかを必死で考えているはずです。
そして、国民の怒りやその他の感情のエネルギーをどこかにそらそうとしてくるはずです。
そして、さまざまな既成事実を積み重ねて、このままで仕方ないのだと思い込ませようとしてきます。
そのようになっては遅いのです。
僕らは、つまり日本国に住むあらゆる人は、多かれ少なかれ、今回の事故の被害者です。
否も応もなく、多くの苦難を引き受けなければなりません。
しかし、その事故を引き起こした張本人たちがそのまま何の責任を負うこともなく、何事もなかったように闊歩し、今までと同じように無責任に事を行うのを見ていなければならないとしたら、どうです?
毎日放射能の警戒に心身をすり減らしながら、そういう人たちを許して生きますか?
年金問題と同じなのです。年金については、大混乱が起き、国民の権利が大きく侵害されましたが、誰一人責任とることなしにあやふやになりました。
日本はその後始末を全くつけられないような国なのです。
今回は、張本人たちとその癒着構造が目の前にはっきりと浮かび上がっているのです。
その病巣をはっきりと摘出して見せなくてはなりません。
それができなかったら日本の精神性は終わりです。
そうなったら、僕はこの国の国家と国民を本当に醜いな、と思うでしょう。
そうなるかどうかの境目が、半年後でも一月でもなく、今日を含む、ここ数日にあると感じるのです。
時間が経てば僕たちは順応し、丸め込まれるでしょう。
だから、こうしていま僕は急いでいるのです。
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