INNER LIFESTYLE DESIGN
 〜ナチュラルに生きる方法論序説
あけましておめでとうございます と、宿題
ぼちぼちしか更新できませんが、本年もよろしく。

*
では、新年の宿題。

心というのは、不思議なものです。
以下の問いにお答えください。


*

問い
「あなたの心」はあなたの思い通りになりますか?
悲しみや怒りや不安が心を支配して、自分でもどうにもとめられないことがあるでしょう?

その場合、「あなた」と「心」は別のものですね。
では「心」ではない「あなた」とは誰でしょう?
あなたの思い通りにならない「心」はあなたの所有物ではありませんね。
では、「あなた」と「心」の関係はどうなっているでしょう?



*
とても素朴な質問ですが、これにきちんと答えられる人は少ないのです。

答えられない人は、「自分は心について知らない」という素朴なことに気づいてください。
言葉と心 / comments(42) / trackbacks(0)
Comment








Maggioさん

>自分の考えの「及ばぬところ」になってしまうので、半信半疑、ありうるかもしれないが、ないかもしれないというスタンスになってしまいます。

僕も半信半疑ですね。
「私は見た体験した。だからそういう世界は絶対に実在する」という人とも話をするし、「そんな世界はあり得ない」という人とも話します。

そういう世界は、プロレスの場外乱闘のように思うときがあります。それも世界の一部なのです。
唯物論というのは、金網デスマッチです。
金網もいいけれども、ないほうが多様なシナリオが生まれやすいだろうと思います。

そして、人が心を安んじられるのも、最終的には、そういう世界を否定しない世界観であろうと思っています。

*

>一生、把握はできないと思いますが、折々考えることは継続していきたいと思っています。

クルマの構造はわからなくても安全運転はできます。
構造がわかっていれば、ちょっとした不具合なら理解することができます。

まあ、そういうことなのです。

友人の全体像は分からなくても、何を言ったら怒るか、何をしたら喜ぶか、ということはわかるでしょう。

そういう性質を知ってうまくつきあえていれば、無理に難しく考える必要はありません。

自然に親しくなっていくのがいいのです。
from. 村松恒平 / 2011/01/20 10:23 AM
ぼけみあんさん

言葉という領域を観察するのも、心という領域を知るのにたいへん面白いことです。ちょっと言葉について。

哲学用語というのは、定義を聞かされるたびに何か全然足に合わない靴を履かされているような気になります。
そもそも西洋人の足型で作られていて、日本の訳語というものが、ますます直感的な理解を遠ざけます。
言葉というのは、「事の端」コトノハシが語源であるという説がありますが、つまり、コトそのものを引っ張り出すインデックスのようなものです。
インデックスを理解する手続きが複雑なのは、とても困ります。

そして、特殊な専門用語はそれが通用する人間たちだけのグループを作ります。
たとえば、役所の縦割り行政と言われるものの中にも、言葉が違うという要素があるのではないか、と思っています。
言葉が違うだけでなく、言葉が指し示す領域、定義が違うと、仮にいっしょに何かやろうとしても、大小の問題がぞろぞろと芋づる式に出て来てしまうでしょう。
行政改革をするには、言葉のデザインを全部しなおさないといけないのではないかな、と夢想(実態はほとんど知らないのです)することがあります。

バベルの塔は言葉が通じなくなって崩壊したというでしょう。ときどきその暗喩の意味を考えています。

以前のコメントで書いたのですが、ここでは、一つの言葉を一つの定義に統一しようと思っていません。
統一しようとして、破綻するよりは、一つ一つ僕が「あなたはこの言葉をこういう意味で使っていますか」と想像したり確認しながら話を進めたほうが自然であり、有益であろうと思うからです。

ただ、その人自身の文脈の中で定義がブレていると思うときに立ち止まって少しそのことを確認するのです。

それで今回の「実体」という言葉も、見当がつかなかったのです。

そんなに立ち止まっていたら、話が前に進まないだろう、と思われるかもしれませんが、話をそんなに急いでまえに進める必要はなくて、やりとりの中で言葉の正確な意味が一つ確定したら、それはたいへん有意義なことなのです。

論争などでは誰もこんな悠長なことはしませんね。みんなけっこう乱暴に言葉を使うので、「あなたはこういう意味でこういうことを言っていますか?」などと聞いていたら、話が複線化して収拾がつかなくなります。

しかし、ここではていねいに確認したいのです。確認された言葉を持つということは、一つの「使える道具」を得たということです。
僕は自分の言葉をそのように道具として磨いてきました。いろんなケースで同じ言葉を使えるか確かめるので、その作業も速くなりました。

そして、なるべく特殊な言葉を使わずに日常語の延長で考えるようにしています。

とてもいいきっかけだったので、返事というより自分の言葉観を語ってしまいました。
こういうことを一つの場面に即して語れるのはとてもいいことです。
from. 村松恒平 / 2011/01/20 10:02 AM
村松さん、こんばんは。これまでの流れを丁寧にまとめていただいて恐縮です。ありがとうございます。

*****

>宗教では心を因数分解のように、いくつかの要素、働きにわけて整理し、それぞれに名前をつけるというようなことをします。


この意味をなんとなく解かりかけてきたような気がします。

例えば、「自然(じねん)」という仏教用語は、村松さんの仰る 『「心」が持つ先天的な要素』 を意味するのではないかと思いました(たまたま思い浮かんだだけですが)。

こう考えると(話は逸れるかもしれませんが)、仏教を東洋の哲学といったような解釈で見て、「先天的な要素」に起因するような何かを考えたときに、「輪廻」の概念が生まれたのではないだろうかと思いました。

実際にこの概念が生まれたとき、「輪廻」あっての「自然」だったのか、「自然」あっての「輪廻」だったのかは解かりませんが、「輪廻」あっての「自然」だったとすると、自分の考えの「及ばぬところ」になってしまうので、半信半疑、ありうるかもしれないが、ないかもしれないというスタンスになってしまいます。が、「無意識(心の中の子ども)」がすべてを知ってそうな気もします。

*****

>心のことを考えるときは、なかなか整理がつかないものと覚悟してください(笑)。


一生、把握はできないと思いますが、折々考えることは継続していきたいと思っています。
from. Maggio / 2011/01/19 10:47 PM
追伸です。
私も最後が切れてしまいました。


念のために岩波の哲学小辞典をざっと確認したところ、<実体>についての捉え方は村松さんのものでほぼ正しいらしいことが分かりました。私の表現は、<実体化>のニュアンスが強かったようです。

ちなみに辞典によれば、<実体化>とは《単に思考のうちにあるにすぎないものを、意識の外にある実体だと考えること。たとえば一般概念をあたかも実在物のように考えること》だとあります。その意味で、先の「<実体>としてのこころという<もの>は本来存在しない」という表現は、「こころは実体化された存在としては存在しない」という意味合いでした。なお、ここで実体化された存在とは、「自己の外に恰も別に存在するかの如き形で存在する事物(=実在)」という意味ですが、実はこの<外>は自己の内面と言った場合も実は同じことで、自己の内面世界すらも今や<実体>的に、すなわち<実体化>して(実在として)捉えられている節があります。
その意味で、私としては<実体としてのもの>と言った場合、どうしても<実体化されたもの>のニュアンスが強くなり、<(主体的な存在としての)自己の外に実在として存在する客体的な事物>というニュアンスになります。そして、先に書いたような西洋哲学的な文脈では、精神(感性と区別された意味合いの精神)にしても何にしても、その本質は変化変滅しない実体だというニュアンスが伝統的にあるわけです。


発言をより明確にしようと思って、私としては<実体>の言葉を補ったつもりでしたが、議論が却ってややこしくなってしまったようです。いちいち専門の辞典類を確認しながら書くわけにもゆかないので、どうかご容赦下さい。また、書き直していると大変なので、追伸の形を取りました。
from. ぼけみあん / 2011/01/19 9:45 PM
最初に考えたことをまとめて書いたので、まとまりが悪く感じられたのかも知れません。

私は一応哲学科の出なので、必ずしも厳密に定義しているわけではありませんが、<実体>という言葉も西洋哲学的な観点で使っています。


<実体>と言った場合、これを<実存>の反対物と言えば近いのかも知れませんが、ちょっと違います。強いて言えば<客体的存在物>という意味合いです。ちなみに、その文脈では神様すらも客体=実体で、それに反旗を翻したのがキェルケゴールだと(実存主義の)教科書的には説明されていたりします。これはギリシヤ哲学以来の観念で、デカルト以来、西欧においては霊肉二元論的な考え方が中心になりました。それが洋の東西を問わず、現在は私も含め日本人も当たり前にその感覚で物事を捉えるようになっているのです。そして、その影響の下、私たち現代人は、どうしても理性を上に、感情(感性)を下に見がちになりました。そして、ここで操作する主体としての「私」はあくまでも頭(理性)で、思い通りにならない私すなわち感性的なこころは、どうしても否定的に扱われがちになるわけです。

こうして、今では日本でも東洋的な考え方は古いとか曖昧だとか批判され、知識人ほど自分(頭)とこころ(感情・感性)を区別し、後者を下に見て、挙句は操作しようとするわけですが、それがたとえば先に書いたいま流行りの成功哲学などに見られる「私(頭)」がこころを含む「自分」を支配しようとする図式だと私は捉えているわけです(これは「私」が「私」を支配しようとする図式でもあるわけですが、とても不毛だと思います)。


さて、こころはとらえどころのない性質を持っていると言った場合、上記のような西洋哲学的な文脈では、このような捉えどころのない感性的な存在は客観的な分析に値しない存在として長く等閑に附されてきました。産業革命などを経て西洋の文明が世界中に伝播した現在、上記で説明したような感性蔑視の感覚が現代日本人の思考や感覚をも支配していると近年指摘されるようになりました。そういう感覚が今や西洋ばかりでなく世界的にあるわけです。
なお、厳密な定義は難しいのですが、この文脈では<存在>と<実体>は区別されて論じられる傾向があるようです。つまり、私たちがここで論じている「こころ」は、<存在>ではあっても<実体>ではないということです。存在には主体的=主観的な在り方がありうるけど、実体といった場合は客体的=客観的な在り方以外は余り考えられないからです。

そして、その観点から言えば、経済などはまだしも客観的な分析の対象になりますが、感性的存在に対してはまた別の分析方法が必要になってきます。哲学などでは主に現象学が後者のアプローチしているようですが、私には難しすぎて理解できない世界です。西洋の哲学では、この手の感性的な存在の分析が不得手で、そのため知識の粋を凝らした難解な言論を駆使しないと、こころなどの問題にアプローチできないようです。それは時に強みともなるのですが、余程の知識人でないと議論を展開できず、机上の空論で終わりかねません。何れにせよ、ギリシア以来の西洋哲学が到達した次元は、どうやら上記の意味での客体的な実体なるものは存在しないらしい、ということのようです。


自分が自然に使っている言葉(概念)を曲がりなりにも説明しようとしたら、こんなに長くなってしまいました。これでも学者先生のように上手くは書けませんでした。

さて、その意味で言えば、ご指摘の文学にも政治にも<実体>はないでしょう。あるのは、周囲の存在と影響し合いながら、変化しながら<存在>するもので、それにアイデンティティというか、<実体>的に見えるある本質的な部分があるということでしょう。私もそれには異論はありません。その通りだと思っています。

なお、ここで私が書いたことも、実は読書だけでなく、恩師から教わったことでもあるのですが、その恩師から教わったことは、「人間は一人ひとり違う」「人間は常に変化する存在だ」ということでした。人間を他のものに変えれば同じことだと思います。私自身、それを完全に理解しているわけではありませんが、多少の体験も踏まえ、事実だと思っています。
from. ぼけみあん / 2011/01/19 9:27 PM
ぼけみあんさんに対するコメント。
「上のコメント」ではなく、「下のコメント」です。
全員のをまとめて載せようと思ったら、コメントに許容された長さをはみ出していたので、個別にしたのです。

うみはるさんのコメントもラストがちょっとちょん切れていますけど、まあ、いいか、という内容なので尻切れのままにしました。

コメントには編集もないので、誤字見つけても直せないし。消してファイルあげなおすの、ちょっと煩雑なのでここで訂正します。
from. 村松恒平 / 2011/01/19 10:02 AM
うみはるさん

どうもお書きになったことの結論は「どうせ外の現実に左右されるのだから、人の意志も欲望も大したことがない」というように読めますね。

これはあまりいい結論ではありません。心の一つの面白い性質は、「その人が思ったようになる」というものがあります。言葉の呪力はことのほか大きいのです。
「外に左右される」と思うと、本当に左右されるのです。
人の内面を外の事情よりも下位に置く、という考えを続けていると、その通りに翻弄されることになります。

うみはるさんのコメントでは、制御できるものと制御できないもの、という新たな2項対立が出て来ます。
そして、制御可能な一方は「頭」と関係がある、としています。

そうすると、頭脳と身体、という新たな2項が生まれてくるわけです。
そして、頭脳は制御できる、頭脳に意志がある、身体はわけのわからないエネルギーや欲望が沸いてくるところ、ということをほとんど言いかけています。
この切り分け方は、スジがよろしくない。現代の典型的な頭脳主義です。頭脳の部分だけ明るくして、身体を暗黒大陸化してしまう発想です。

これは話が大きくなりすぎますから、意志が意識(頭)にあるということだけを取り上げてみましょう。

たとえば、ある人が近頃の成功哲学の本を読んで「よし一億円貯めよう」と決めたとします。
でも、やってみると少しもうまく行かないので、1週間くらいで努力をやめてしまったとします。
それども、これは意志と呼ばれるでしょうか?
このように挫折したときではなく、うまくいったときだけが意志でしょうか?
これは制御されている、といえるでしょうか?

質問ばかり積み重ねても、話が前に進みませんから、僕の意見を書きましょう。

意志というのは、そもそも日本人、日本語にはない輸入された概念だと思います。
輸入元のヨーロッパでは、意志とは「神の意志」と無縁ではありません。
宇宙が生成された根源の秘密、世界が生まれた最初の衝撃、そこから流出してきたあらゆるものに、意志の断片が内蔵されているのです。
なぜ宇宙が生まれたか、なぜ生命が生まれたか、なぜ人類が生まれたか、そういうことに一貫した意志を読み解こうとするのです。

なぜ、人類が? ではなく、なぜ一人一人の個人が生まれて来たのか、なぜ私がこの世に生まれて来たか、ということになりますと、むしろ、東洋的な概念になって「天命」とか、神道でいう「ワケミタマ」のような概念になります。

意志とは、僕にとって自分の根源につながっていくもので、先天的なものであり、次第にその自覚を深めていく、というものなのです。

このような意志と、後天的な人間的な意志とは、全く別の性質を持っています。

後天的な意志は、頭脳的であり、言語的ですが、先天的な意志は、身体的で非言語的です。

したがって、「先天的な意志など存在しない」という主張をするのもじつに簡単なことです。実際、現代の多くの思潮はこのような無神論-唯物論的な感覚をベースにしています。
しかし、ここでは僕の考えを述べ続けることにしましょう。

意志はあらゆる生命にビルトインされているのです。
生命が死を欲さないで寿命が来るまで生き続けることを望むということがすでに意志なのです。

そして、人が植物や動物にはない強い個別性を持っているということにも、さらにそれが「自我」ここでいう私という中心を持っていることも、意志の延長としてとらえるのです。

そこから、意志の最初の設計図はどのようなものか、という法則性を探していくことになります。

つまり、生命の発生を偶然ととらえるか、意志に基づいた必然ととらえるかで、全く違う見方になるのです。

この二つの見方は、水と油のようなもので、ほとんど論争になりません。ただ自分がアプリオリに信じたことを形を変えて主張するだけです。

僕は神様学入門という本で次のような意味のことを書きました。

「偶然で生命ができたというけれども、偶然に目玉焼き一つできたことがあるか? たまたま鶏の玉子が高いところから落ちてきて、下に偶然にもフライパンのようなものがあって、殻が割れてどこかに吹き飛んで、フライパンは偶然にも加熱されていて、焦げないところでちょうど火が止まった、というようなことが何億年も時間があれば起きるのか? 目玉焼き一つ生まれないのに、人の生命のように複雑なものが偶然で生まれるのか?」

僕は自分で文章を書いたり、絵を描いたりするけれども、作品として結晶するものは、意志のない偶然では生まれません。
だから、生命の発生にも意志が働いていると考えていて、それが考え始めるときの起点になっています。
from. 村松恒平 / 2011/01/18 9:11 PM
ぼけみあんさん


上のコメントにも書いたように、心というのは、とらえどころのない性質を持っています。
しかし、心という言葉がなくなれば、不便なのは間違いありません。外国語でもニュアンスこそ違っても、心という言葉がないところはないのではないかな?(推測)

><実体>としてのこころという<もの>は本来存在しないと思っています。

この<実体>という言葉の意味は、どういうことでしょうか?
精神は元より物質ではありません。それを前提とした上で、たしかな形がないものには実体がないということになると、恋愛感情にも嫌悪や憎しみにも嫉妬にも実体がないということになりませんか?
そういうものを僕たちはものすごく具体的な感情として内側に抱きます。そして、それらは、外側の環境によって左右され変化しますが、変化するということが実体のなさの根拠にならないでしょう?
もし変化すれば実体がないということになれば、経済として僕たちが認識しているものについても実体がないかもしれません。
となると、文学にも政治にも実体などないかもしれません。
電気だって目に見ることはできませんが、僕たちはそれを理解することによって有利に利用することができるようになりました。
そこには法則性があるからです。

そして、心にも法則性があると思って、僕たちはそれを探そうとしているのです。

つまり、心には実体がない、というためには、実体性というのは何を根拠に存在するか、という話をしていただかないといけないと思います。

ぼけみあんさんのコメントの中には、他にもいくつも面白い話の糸口があるのですが、あまりに錯綜してしまいますので、まずそのことを確認したいと思いました。
from. 村松恒平 / 2011/01/18 9:09 PM

Maggioさん

>頭の中に、「心」に関してのこういったイメージが複数あり、おそらくそれぞれが、「心」というものを、異なった視点から捉えたものだとは思うのですが、判別したり関連付けたりしないまま、置いてあったりします。

この辺りのことが整理できると、頭の中がかなりすっきりしそうな気がしています。

*

僕たちは、自他という対立をとらえ、心はどうやらその中間領域にあるようだぞ、と考察しました。

それから、心には意識と無意識という構造があり、その両方にまたがった構造でとらえないと、心のすべては説明できない、と感じました。

それから、言葉が心に大きく関わっているけれども、言葉が届かない領域もある、ということに気づきました。

さらに、重要な要素として、先天的なものと後天的なもの、生まれつきのものと教育されたもの、という2項も僕はつけくわえたいのです。

そうして、心は流動的なエネルギーであり、心として認識可能なものは、その反映であるというあり方もうっすら同意しかけています。

つまり、ある対立する構造の中に発生する磁場であり、独立した領域であり、流動的なエネルギーでもある、というような物質的にはありえないものを僕たちは「心」と呼んでいるわけです。

それは複雑であるばかりではなく、物質的な構造としてとらえようとすると、矛盾すらしているということになります。

しかし、精神界の原理は物質界と同様ではありません。
いちばん大きな原理の違いは、物質は同一の場所に2つ以上のものが同時に存在することができませんが、精神界では、それが可能だということです。
お互いに反発する力が働かずに、愛憎のように矛盾するものも同居するのです。

ですから、物質の比喩でとらえようとすると、あるところで限界が来ます。だから、最初のほうで比喩は使い捨てだと書いたのです。

僕らは心と向き合おうとすると、物質的にはとらえきれないものと出会います。

そういうものを僕たちは、心という一つの名称に統合して呼んでいるわけです。
そのようなわかりやすい名前がないと、たぶん不便で仕方がないでしょう。

宗教では心を因数分解のように、いくつかの要素、働きにわけて整理し、それぞれに名前をつけるというようなことをします。
しかし、それが浸透しないのは、因数分解したところで十分に複雑であり、特殊な行法をしたり、教義を信じて禁欲したり、本を何度も精読しないとその真意は理解できないことが多いのです(その因数分解が正しく有用なものであるにしても、です)。

ですから、心のことを考えるときは、なかなか整理がつかないものと覚悟してください(笑)。
from. 村松恒平 / 2011/01/18 9:08 PM
「やりたかったけど、やらなかったこと」って、一体なんなのだろう、という疑問を持ちました。

「心」の底からやりたいと思っていたのならば、やっていたはず。でも、実際にはやらなかった。それは「頭」の中で、やりたいと唱えていただけで、本音は別にあったのかもしれない。

頭、というのは、いま自然と思いついた言葉ですが、ここに、意識、わたし、というものが、深い関わりを持って僕には感じられます。

すると、「欲望と意志の違い」というテーマを思いつきました。

欲望は、たいてい「沸く」という言い方をしますから、どことなく「自分には制御できないもの」というニュアンスがあり、無意識寄りのなにかだと思われます。
意志は、同じ「なにかをやりたい」というエネルギーの中でも、「わたしの信念」という制御感が強く、意識に寄っているように思います。

加えて、「欲望に克ち、意志を曲げずに目標を達成する」こと、すなわち、理性の制御を手放さないことが、人間らしい立派な心とされている、そんな風潮を感じます。

以下、僕が書きたいと思ったことの本題なのですが……。

欲望と意志のどちらに従うのがその人にとって幸せなのかは、ことが終わってからでないと分からないな、と最近思うのですね。

僕は、先日ついに自炊が面倒になって、しぶしぶ学食で「不味いはずのカレー」を頼んだのです。それが、実は以前よりも大盛りになっていて、しかも出来たてホヤホヤだったものだから、食べ終わったら意外なほど満足したのを覚えています。

このような「わたし」の外にある不確定要素との関係によって、意志や欲望、その種類も強さも、時々刻々と変わっていくような気がします。

心というものの実態についての答えは、わたしの「内側」にだけ求めていっても得られないのではないか、と考えます。
from. うみはる / 2011/01/17 4:44 PM
コメントの量がすごくて読み込めていません。
また、ちょっとずれるのですが、

私は、こころというものは存在しないのではないかと思っています。というより、<実体>としてのこころという<もの>は本来存在しないと思っています。

こころは常に変化するもので、また、自分よりも周囲によって変化編滅し、そうした中で形成されてゆくものだと思います。

また、私といった場合も同じだと思います。
道元は「仏道は自己を習うことであり、自己を習うとは自己を忘れることだ。自己を忘れるとは万法に証せられることだ」と言っていますが、感覚的には分かるのです。上手くは言えないのですが、自己を忘れて周囲のものに照らされて初めて自己が現成するということなのでしょう。頭で考えず、思わず自分を忘れて身体ごと動いたりした時に本当の自分らしい行動が出来ているように感じています。道元のこの言葉を私はそんな風に身近な事柄として理解しています。


さて、設問にあったように、自分とこころは違うのかと問われると、やはり違うように思いますし、また、質問には上手く答えられませんが、上記のことと絡めて、この手の設問にちょっと気になることがあります。

それというのは、特に近代人が「こころが自分の思い通りにならない」と言う場合、自分(大体は頭で捉えた自分)の思い通りに自分(こころを含む)を操作しようとしているように感じるからです。

こころは自分の思い通りにならないし、ならない方がよいと思っています。今流行りの心理操作術や成功哲学などで自分を思い通りにしてもつまらない。自分の思い通りになる人生なんかつまらないし、意味がないと思っています。思っていないことが起こるからこそ人生は面白いのだと思います。余りにも大変な人生ではキツイですが。

ちょっと観点がずれてしまったかも知れませんが、
以上は恩師から教わったことも含め、日頃から何となく考えていることです。

なお、こころ=コロコロは、神道系(言霊論?)の人はよくそんなことを言うようです。私もその通りだと思います。

長文になってしまいましたし、まとまりませんでしたが・・・
こんな感じです。
from. ぼけみあん / 2011/01/17 1:18 AM
村松さん、こんばんは。よろしくお願いします。


>自分の言葉でとらえるというの、面白いでしょう?


はい。すごく興味深く取り組んでいます。自分にとっては貴重な機会です。ありがとうございます。


追記ですが、


>『何かが進んできて(流れてきて)、それが面にぶつかって映像化される様子を、自分は見ている』


この「面」は、面でありながら、エネルギーを透過させる性質を持っていて、常にエネルギーを透過させながら像を結ぶ、といったようなイメージです。

「動画と禅」の解釈:


>テレビや映画は、たしか1秒間に25〜35コマくらいの静止画を流します。それを僕たちは一貫した時間経過の映像としてとらえるのです。

しかし、これは実体ではありません。これが1秒間に3〜5コマとかであれば、パタパタマンガのように見えるでしょう。
1秒間に30コマ前後というのは、人が十分にダマされるという数値だと思います。

僕たちの感じている意識の連続性もある面で同様なものととらえることができます。
じつは全く連続していない刹那の断面があって、しかし、常に連続しているものと捉える幻想によって日常意識は支えられています。

禅などは、このような連続性や因果を幻想、迷妄として今の今だけに集中するという面があると思っています。

そうすると、世界は一枚の静止画のようになってしまいます。

しかし、静止画もまた「映像」に過ぎない、と否定していく。

そのように幻想のベールを剥ぎ取っていくと、ついに「真」の姿が見えるのかどうか、僕は悟っていないのでわかりませんが、そのような世界の見方もあるということです。



自分のイメージの中の「面」が、引用した文中の「刹那の断面」と同じものだとすると、時間とともに、また、エネルギーの通過とともに、この「面」に映る映像も変化していくと思うのですが、像を結ぶのはこの「刹那」だけで、その前後では、ただのエネルギーでしかない、といった解釈なのかなぁと思いつつ、あまり自信を持てないのが現状です…。


話は変わりますが、


>僕も意識と無意識は親子である、と説明しています。
子ども(無意識)は主張したり説明したりする言葉を持ちません。
ただ違うときはダダをこねるのです。


この一文に思い当たるイメージを、自分も持っています。

この「子ども」が、自分の「意識」に対しての「無意識」なのかどうかは、いまだに判別できていないのですが。

頭の中に、「心」に関してのこういったイメージが複数あり、おそらくそれぞれが、「心」というものを、異なった視点から捉えたものだとは思うのですが、判別したり関連付けたりしないまま、置いてあったりします。

この辺りのことが整理できると、頭の中がかなりすっきりしそうな気がしています。
from. Maggio / 2011/01/17 12:45 AM
ゆっくり考えてください。
from. 村松恒平 / 2011/01/16 9:13 PM
返信拝読しました。
返信の論法に、納得できたか。できていないです。
なんだか「えーッ!?」ですが、
>捉え方、概念のあり方がバラバラ
だからということで。「心」の重要視、その度合いの差。
わたしは「釣り針」のはなしが論証しうることなのかを
もう少し考察します。変更か破棄か。
黙考。

ちなみにいまの頭の中
心  →感じるだけの機能(心掛け、心構え、心を入れ替える。取り換え「可」ではなかろうか)(仮)
感情 →感じたものを瞬時に判断処理したもの
言葉 →感情を表現するための一ツール
考え方→指針(心・感情・言葉を支配している。少し弱気で、支配しうる)(仮)

黙考黙考。





bk
from. 虎南 / 2011/01/16 6:36 PM
虎南さん

心の病という言葉に疑問を呈されましたが、たしかに、僕にとっても心はつねに流れていくものなので、それ自体は病みようがないかもしれません。

しかし、その枠組みを決めて同一性を保証していくものの働きもあります。脳の器質、遺伝的なもの、人格、言葉の体系(人格と近いものですが違うもの)などなど。

それに不具合があって、世の中とうまく折り合いがつかないことがあります。
そういうことの世間一般の助言や助力では届かないものには、「病気」というレッテルを貼って向き合うことになるわけです。

では、社会と折り合いをつけるのがそんなに大事か、ということになりますと、やはりある程度の適応力や柔軟性はないと仕方がありません。

万人に優しい理想的な社会など実現したことがないのであって、今後ともたぶんそうなのです。

これからの時代は、個人も心のあり方というものを考えていかないといけないし、社会ももう少し多様性に対して寛容になっていったほうがいいのです。

ところが、ここでのやりとりを見てもわかるように、心という言葉の捉え方、概念のあり方もバラバラなのです。
これでは、人のためにどういう社会が優しいのか、生きやすいのか、ということを考えようもないし、その方向に舵の切りようもありません。

そういうわけで、心よりも大事なものはあるかもしれない。ひょっとしたら、魂や霊のほうが大切かもしれませんが、当面「心が大事」なのです。

心がわからなければ、魂や霊というものも、わかりようがないんだからね。

from. 村松恒平 / 2011/01/16 12:45 PM
「心の」病という呼び方が正しいとして、それを治療するとはどういうことか?何をどうすることなのか?心じたいに働きかけることなのか?心以外に働きかけることなんじゃないのか?どうにでもできうるものなんじゃないのか?「心」が大事なのか?
いまはそこ考え中ですわ。





bk
from. 虎南 / 2011/01/16 12:37 AM
帰ってきたばかりなので、簡単に。


虎南さん

この比喩は妥当するところが少なすぎるかなと思います。

釣り針というのは、買うこともスペアを持つこともできるし、そんなに大事なものではないでしょう。

そして釣り人は、完全に釣り針をコントロールすることができます。
釣り人が私であるとすると、海が世界ですか?
そういう関係であれば、完全に冷静に対処することができます。
心を病む人がいるほど切迫した距離感は生まれないでしょう。

比喩で考えるときは、いろいろな角度から妥当性を確かめる必要があります。


Maggioさん

>『何かが進んできて(流れてきて)、それが面にぶつかって映像化される様子を、自分は見ている』


この捉え方はたいへんいいと思います。

つまり、心のエネルギーそのものは眼に見えない、認識できないのです。
僕たちは風が樹々を揺らすのを見て、風の存在や強さを知りますが、風そのものを見ているわけではないのです。
見ているのは風が揺らす「樹」なのです。

それと同様に、心のエネルギーそのものは言葉にもならないし、視覚的イメージにもならない。
ただ具体的な言葉などにぶつかったときに、その形が現れます。心が何を言いたいかを知るためには、風に対する樹々のような存在が必要なのです。

座禅のときに無念無想と言いますが、実際は念も想も次々に湧いて来ます。
自分の心臓を止めることができないように(ヨガ行者でできる人がいるという話もありますが)、僕たちは自分の心をとめることができません。

心というと、何かハート型をした固形物を思い浮かべることがあるかもしれませんが、Maggioさんがとらえたように、絶えることのないエネルギーの流れとしてとらえたほうが、実際に近いように思います。

自分の言葉でとらえるというの、面白いでしょう?



雫さん

僕も心は闇ないしは、その全体の姿を決してとらえることができないもの、とイメージしています。

言葉が唯一の光なのです(視覚的イメージ、音のイメージは言葉とまた違う関わりのような気がします)。

意識=私であれば、言葉以前に私はない、ということになります。
言葉が習得されていく過程と、自意識の形成はかなり同期しているでしょう。
言葉は具体的な対象を認識していくことなので、他の存在を意識して世界像を作り出すことになります。
ということは同時に他に対する自も形成されるわけです。
これは発達心理学の領域なので、学問的にももっと明解に説明されているかもしれません。

しかし、言葉を習得する以前の乳幼児には「私」はなくても、個性はあります。私を形成する萌芽、核のようなものはあると僕は思います(ここから先は意見の分かれるところかもしれないので、思う、と書くのです)。
そういうものを「三つ子の魂百まで」のように、魂という言葉で呼ぶのだと思います。

そう考えると意識=私、とすぐに決めてしまっていいかどうかも微妙な内容を含んでいるように思います。

*

ちなみに磁石の絵は何のヒントでもありません(笑)。考えすぎないようにしてください。
from. 村松恒平 / 2011/01/15 11:56 PM
村松さん、こんばんは。
お留守のところお邪魔いたします。

今回も丁寧にご回答頂けて、とてもうれしいです。
ありがとうございます!

少し近づいたかなと思ったら、逆に遠くなっていました^^;むずかしい…。
無意識を測るスケールが小さすぎたようですね。><
でも、こちらでは村松さんがしっかり方向を修正してくださるから、間違えることは恐くありません。
もう一度、無意識について語られた過去の記事を読んで復習しておこうと思います。

そもそも、「私」と「心」の関係を、単純に意識と無意識として捉えていいのかな?という疑問がありました。
私と心がそれぞれ独立したものであることは、感覚的になんとなくわかっているつもりなのですが・・・。

わたしは、心は暗闇であるような気がしています。
どうしても、煌々と光り輝いているイメージが湧かないのです。
暗くて静かで、意識という光が当たる部分だけが照らされるような。
「心」が夜なら、「私」は幾千もある星粒?
なんだか詩的な表現になってしまい気恥ずかしいですが…。

もしも、「心」の全体を照らす光があったなら、「心」は消えて、「私」とひとつになるのかもしれない、などと想像しました。

私と心の関係。むずかしいですが、とても興味深いです。
上の磁石のような絵はなにかのヒントなのかな?!と、そんなことまで考えはじめてしまいました。

from. 雫 / 2011/01/15 1:54 AM
村松さん、こんばんは。

ひとつ前に二重投稿してしまいました。すいませんでした。若干フライング気味ですが、よろしくお願いします。


>では、心の中心はどこにありますか?

この質問について、少し考えてみました。答えは、いつまで経っても 「わかりません」 でした。しかし、その代わりに、ふと疑問が湧きました。

「心」についての自分のイメージに、「中心」は必要なのか?

という疑問なんですが、もしかしたら自分のイメージの中には「必要でないもの」が入り込んで(自分で入れて)いるかもしれないと思いました。

だとすると、このイメージの中からエッセンス(と思われる項目)だけを抽出できれば良いのでは?と。

「球体」「中心」「エネルギー」「絶えず出ている」

これらのいくつかは必要で、それ以外は不要。こう考えると、必要なのは(まだ漠然としてましたが)、「エネルギー」と「絶えず出ている」ということだけのような気がしてきました。

加えて、そのイメージの中では、「自分」は、水晶玉を使って何かを占う魔女のように、表面に心の状態が映し出される様子を、いつも見ているような感じでした(イメージが稚拙ですが)。

となると、「心の状態を映し出す」「見ている」というのも外せない気がしました。

これをまとめると、

『何かが進んできて(流れてきて)、それが面にぶつかって映像化される様子を、自分は見ている』

イメージのエッセンス(と思われる項目)のみで考えると、こうなりました。


今までの村松さんとのやりとりの中で、複線的に出てきた「方丈記の一文」や「血液の循環」や「動画」の例えについての解釈が、ここまで来てやっと腑に落ちたように思いました。


我ながら全体的に稚拙ですが、自分の言葉でなんとか表現してみました。
from. Maggio / 2011/01/14 11:07 PM
仮に、「心」自体は、意識をもたない何かであるとして、例えば糸の先の釣り針みたいな物かなと考える。
釣り針のいるべき場所は海の中。陳列棚にある間は、誰のものでもない。
釣りがしたい人が現れ、この針が良いと選んでもらった瞬間から、不可分な存在になる。
大きい針では小アジは釣れない。サビキ針ではカジキは釣れない。針に意思はない。
狙いを変えるか針を変えるか。釣り人次第。

広い海で、何が釣れるかわからない。釣れるかどうかもわからない。
釣り人は糸を垂らす。釣りを選んだ以上、そうしなければ始まらない。

狙い通りに、喜ぶ釣り人。
予想外に、喜ぶ釣り人、がっかりする釣り人。
釣果は釣り人だけの関心事。

引っ掛けることが釣り針の役目。ただ海中をただよう。
羽根を付けるか、ワームを付けるか、ゴカイにするかレンガにするか、生きたサバを付けるか、凝ったフライを付けるか。目的への手段は、釣り人次第。

釣れること自体は問題にしていない釣り人。
この方たちは、また別の目的を持っている人。
釣りのかっこうをして釣り場に行くという形態そのものを不可分なものとしている、違ったものを選んだ人。

釣りをするかしないか個人の選択。
釣りの目的は釣り人次第。
釣り針選ぶのこれ釣り人。
選んで使っている間は、ここに引っかかり、また引っかからないことがすべて。
狙ったものが釣れなかろうが、釣り人の持ち物。





bk

from. 虎南 / 2011/01/14 5:21 PM
>「心」は球体のようなもので、中心から絶えずエネルギーを放出している(太陽のような)


では、心の中心はどこにありますか?

(でかけなくては。土曜まで中断)
from. 村松恒平 / 2011/01/13 8:30 AM
村松さん、こんばんは。よろしくお願いします。


次の一手、の前に、もう一度きちんと整理しようと思いまして、コメントでのやりとりを読み直したところ、どうやら自分は、「基準」という言葉にとらわれ過ぎていたように感じました。

そこでもう一度、「基準」については忘れて、「心」について、もう少し明確にしておこうと思いました。

がらっと、見方は変わりますが。


「心」は球体のようなもので、中心から絶えずエネルギーを放出している(太陽のような)といったようなイメージを、自分は以前から持っています。

そのイメージで考えると、人の行動や感情表現は、「心」から放出するエネルギーによる「作用」である、と考えることができると思います。

こう考えると、それを扱う「私」は、その作用を「私」にとって有用(だと思われる)方向に向けたり、場合によっては抑制する必要があります。つまり、「私」は「心」をコントロールしなくてはなりません。

こう整理してみると、頭の中がすっきりした気がするのですが、どうでしょうか?


これがダメだったら最終手段、一度、考えることを止めます。
from. Maggio / 2011/01/12 9:43 PM
村松さん、こんばんは。よろしくお願いします。


次の一手、の前に、もう一度きちんと整理しようと思いまして、コメントでのやりとりを読み直したところ、どうやら自分は、「基準」という言葉にとらわれ過ぎていたように感じました。

そこでもう一度、「基準」については忘れて、「心」と「私」について、もう少し明確にしておこうと思いました。

がらっと、見方は変わりますが。


「心」は球体のようなもので、中心から絶えずエネルギーを放出している(太陽のような)といったようなイメージを、自分は以前から持っています。

そのイメージで考えると、人の行動や感情表現は、「心」から放出するエネルギーによる「作用」である、と考えることができると思います。

こう考えると、「心」を扱う「私」は、その作用を「私」にとって有用(だと思われる)方向に向けたり、場合によっては抑制する必要があります。つまり、「私」は「心」をコントロールしなくてはなりません。

こう整理してみると、頭の中がすっきりした気がするのですが、どうでしょうか?


これがダメだったら最終手段、一度、考えることを止めます。
from. Maggio / 2011/01/12 9:41 PM
雫さん


>「わたし(意識)」という囲いの中に、「心(無意識)」があるという二重の円をぼんやり想像していました。
あるいは、意識という険しい山に分け入ると、無意識という石を掘り出せる、というような感覚です。

この意識と無意識の認識は違います。
違います、と珍しく断言してしまいますけれども。

無意識って、そんなに小さくないのです。

言葉で「コップ」と言いますと、頭の中にあるコップの概念が浮かびます。
しかし、コップというのは、僕の事務所だけで7〜8種類が同居しています。
世界中では、何百万もの種類のコップがあるでしょう。

言葉でコップといったときには、その多様性をカットして操作しやすいシンボルにしているわけです。

あるいは植物の色を緑といったときに、これもあらゆる色味の混合と明度、彩度っていうのかなあ、つまり無数のバリエーションがあるでしょう。

この言葉で把握しようとしているものが「意識」で、そこから漏れたものはすべて「無意識」です。
つまり、無意識というのは無限大なのです。

意識というのは、大海の上に浮かぶ小舟のように僕はとらえています。

僕たちは言葉というささやかな道具を使って、とらえどころのない膨大な情報を持った世界と向かいあっているのです。

そして、言葉のフィルターを通して入ってくる情報を通して世界を再構築しているのです。
絵を見たり、音楽を聴いたりするときに、僕たちは言葉を媒介にせずに色や音と接しているということは言えるかもしれません。

しかし、外の世界とつながるときに僕たちが言葉を用いるように、自分の内面とつきあうのにも言葉は有効です。

その有効範囲や限界を輪郭づけるのは短い言葉ではできそうもありません。
ひとつだけはっきりしているのは、言葉は悪く使うと呪いになる、ということです。
ということは、正しい言葉は正しく心的なエネルギーを導くと考えていいでしょう。

>理解はしたい。でも干渉はしたくない。
なんだか、恋人や親子のような関係に思えてきました(笑)

これはよい発見です。
僕も意識と無意識は親子である、と説明しています。
子ども(無意識)は主張したり説明したりする言葉を持ちません。
ただ違うときはダダをこねるのです。

親が子に何かを押し付けようとすれば、子は反発しますでしょう。
親が子どもを叱りつけているのに、子どもがぎゃあぎゃあ泣いているのをときどき見ます。

言葉は少なくても、通じ合っている親子もいますね。

そういうことが何事かを教えてくれます。

(明日から2〜3日ネットを離れます。レスが遅くなると思いますが、よかったらコメントを続けてください)
from. 村松恒平 / 2011/01/12 7:13 PM
前回、村松さんが丁寧に解説してくださったおかげで、
「心」ではない「あなた」とは誰か?という問いと、
「心」と「あなた」の関係性について、少し考え方の発展がありました!

先のコメントで書かせて頂いた段階では、
「心(無意識)」の声を言葉で翻訳するのが「わたし」なのでは?と思ったのですが、
この「わたし」が「意識」なのかもしれない、と感じていた部分もあったのです。

村松さんは、「心」の中に意識(言葉が通じる)と無意識(言葉が通じない)があるとお話してくださったので、少し言葉の遣い方が変わってしまうのですが・・・。

単純ですが、最初は「わたし(意識)」という囲いの中に、「心(無意識)」があるという二重の円をぼんやり想像していました。
あるいは、意識という険しい山に分け入ると、無意識という石を掘り出せる、というような感覚です。
もしかしたらその逆なのかもしれないのですが、(無意識がベースで、意識が産物?)、よくわかりません;;

「わたし(意識)」と「心(無意識)」は確かにつながってはいるし、同じ場所を共有しているけれど、やはり独立した別のもの・・・。
そのように感じました。

「わたし(意識)」が「心(無意識)」に干渉するためには、滝に打たれたり、座禅を組んだり、芸術に触れたりすることを想像しますが、
私はやはり言葉の側のタイプのようで、
どうしても言葉で「心」を理解しようとして、偏ってしまうようです。

「わたし」と「心」をきれいに分離させることで、その二方の関係は良好になるのでしょうか。
状況にもよるとは思いますが…。
自由な「心」の流れを止めないように、せめて「わたし」が「心」に干渉するのは、できるだけ避けたいと思ったりもするのです。
理解はしたい。でも干渉はしたくない。
なんだか、恋人や親子のような関係に思えてきました(笑)
from. 雫 / 2011/01/12 3:47 PM
Maggioさん

>宿題ではなくゼミを受講しているような感じですが、よろしいのでしょうか?

よろしいのです。これは僕の執筆活動の一環ですから、ご心配なく。
コメント欄に本文以上の熱意て執筆するのも面白いでしょう?

実際、僕が「こうでこうでこうだから、こうだ!」とどれだけやさしく書いてもあまり人は理解しないのです。どれくらい理解したかも僕にはわからないのですが、ときどき話していて「あー、ちっともわかってないや」と思い知らされるときがあるのです。
そういう面でコメントのやりとりは、思考のブロセスがわかりやすいので、とても助かります。

ソクラテス以来、問答法は哲学のたいへん重要な手法だと思います。重要どころかひょっとした本流であって、書物はその派生物に過ぎないかもしれません。
(アカデミックなことはよく知らないのですがね)。

最近ではサンデル教授の講義が流行っているではありませんか。あれも立派な問答法です。

ああいうのは、日本人にはなかなかできませんね。

こういうコメントのやりとりでも、お互いの意図を誤読してしまう率が一定量を越えると難しくなると思います。

そういう面では今までのところ、うまくいっているのではないでしょうか。だからといって、堅くならずに気楽にやってください。試行錯誤もまた理解を助けます。

>さて、どうしましょう?

溜め息が聞こえた気がしました(汗)


これはため息が出るような意味ではありません。

何か次々に生成する見えないパズルか、チェスのようなゲームに感じているのです。

問答法でいうと、同じ盤の上で同じ駒を動かして検討しているようであれば楽しいのです。

つまり、「さて、どうしましょう?」というのは、「さて、次の一手はどう指しますか?」という意味です。

しかし、ここからは難しいでしょう。やや視野が狭いかなと思います。もっと単純に大きく考えたほうがいいです。
あまり部分に拘泥すると全体を捉え損ないます。


ちとくさん

私が無数にあって、心は本心という一つである、とここまでの議論の本流とは言葉遣いを逆転させてきましたね。

心が基準であるのか、私が基準であるか、という面において、二つの言葉の遣い方があるわけです。

このように言葉が分かれてしまうと、全体として一つの議論はできなくなります。日本で問答法が成り立たない理由です。しかし、認識としては一つの方向に向かっていくはずです(と期待しています)。この場では言葉の統一ということにお互いにエネルギーを使わないようにしましょう。

さて、ちとくさんのコメントには二つの大切な点が含まれています。

まず私が複数いる、というのは大切な概念です。
G.I.グルジェフも私は複数いて、統合された一人の私などは存在しない、と言っています。統合された私がいない以上、人は何事も為すことができない。愛することも意志することもできない、というようなことを言っています。
(サイドにウスペンスキーが書いたグルジェフの教え『奇蹟を求めて』をアップしました。興味深い本であり、天下の奇書であります。ある意味でこの本を読むとここでの議論は終わってしまう面があります。しかし、これだけが僕の論拠やネタ本というわけではありません。またオリジナルな言葉で議論することにはとても意味があります)

またルドルフ・シュタイナーも「たいていの場合『私が怒る』のではなく、『怒りが私を支配する』ということが起きるのだ」という意味のことを怒りについて述べています。
つまり、もし、私が怒りを制御できなければ、私は主語ではなく、怒りが主語になるのです。
「私が怒る」のではなく、「怒りが私する」ということになります。

つまり、怒ったときは全く別人格であると考えると、複数の私という存在が見えてくるのです。

そのような体験をちとくさんは書いていますね。

それから、もう一つ重要な言葉は「本心」です。

本心という言葉を「本音と建前」のような意味ではなく、「本(もと)の心」というように使う用法があるのです。

ただ、
>「こころ」すなわち本心

という用法は、全く汎用性がなく、議論の発展性が阻害されますね。
つまり、「私」を世の中でいう「心」という意味に使ってしまったので、心と本心とを使い分けられなくなったのです。

ああ、ややこしい。

他の人には合わせなくてもいいから、自分の中では矛盾がないように言葉を整理してくださいね。

*
それから、話を「心が大事の会」にふってくれたので少し宣伝を。
「心が大事の会」では、こういうディスカッションとレクチャー、
from. 村松恒平 / 2011/01/12 12:02 PM
chitokuと申します。
参加している「深呼吸する言葉」に、こんなことを書いたことがあります。
知り合いの数だけ、名前を持ちたい。
自己紹介の都度、名刺を変えたい。

自意識過剰病かも知れませんが、知りあいの数だけ、微妙に異なる私がいると感じています。
部活動の仲間内でも、会社の中でも、家族内でも、私の接し方は相手によって微妙に異なります。そして、それを批評している私も必ずいます。
今書き込みをしている私も、都度都度作られる新たな私で、書きながら頭の隅で「芝居くせえ書き方だ」と批評する意地悪な私も明らかに同時進行しています。
これを「あなた」と「心」の関係になぞらえたら、「複数の私」と「本心」の関係のように思えたわけで、宿題に近いかも知れないと書き込み申し上げる次第です。
上手く言えませんが、宿題の「あなた」すなわち私は無数にあって、「こころ」すなわち本心、決して表に出てこない本心がひとつあるような気がします。

>「あなたの心」はあなたの思い通りになりますか?
怒りにまかせて家族に怒鳴るとき、「ああ、やっちゃたよ」と同時に意識しています。怒りにまかせて怒鳴る私は、その場の経緯や雰囲気に沿って何らかのスイッチが入ってしまいます。このスイッチは、例えば怒鳴られた過去や怒鳴っている誰かを記憶しているからこそあるので、そういう記憶がない人には「怒鳴るスイッチ」は存在しないように思ったりします。

というわけで、次回の心が大事の会参加に向けてスケジュール調整します。。。
from. chitoku / 2011/01/12 1:58 AM
こんばんは。ご指摘を受けて考えてみました。

よろしくお願いします(宿題ではなくゼミを受講しているような感じですが、よろしいのでしょうか?)。


ゼロを、何も負荷のないフラットな状態と考え、時間とともに正と負に振れるようなイメージを持ちましたが、これだと振れ幅しかわからないですね。

ひとつの行動においての一連の流れを、どう捉えればよいかを考えると、行き詰ってしまいました。

この部分を加味したアプローチを考えてみます。


コミュニティ論以下は、「ただの持論」になってしまいました・・・すいません。

確かに、「心」と「自(私自身)」を別のものと考え、それぞれを規定した意図をまったく無視してしまいました・・・。

勇み足でした。牛歩で行きます。


>さて、どうしましょう?

溜め息が聞こえた気がしました(汗)
from. Maggio / 2011/01/12 1:29 AM
Maggioさん

>「心」の状態を判断する「基準」として捉えると、感情の起伏を正と負の数値で表すグラフのようなイメージが浮かびます。


この文の前後には平静であることが善である、という価値観が前提としてすでに含まれていますね。

しかし、たとえばある人が新しい領域にチャレンジしていくときに、感情の揺れを体験しながらそれを克服していく、ということがあるでしょう。
平静であることだけを価値の軸としてしまうと、冒険はしないほうがいい、という人生観に偏ってしまいます。

心のことを考えるときには、前提や既成概念がゼロのところから積み重ねないといけません。
その他にもいろいろ理由があって、心を考えると、すぐに混線してしまうのです。

そのあとのコミュニティ論では、基準は外から来て内在化したものになっています。

私という基準が外にあるなら、個という概念、内と外という概念があやふやになります。
それは全く日本的にあり方です。

基準が外から来て、内面がそれに同調して形成されると考えるなら、それは心と無縁ではありえません。
心と独立した「私」を一つの基準として構想しようとした意図があやふやになってしまいます。

客観的な基準としての私がある、あるいはありえる、あるほうがよい、というところまでは正しいとします。

さて、どうしましょう?


from. 村松恒平 / 2011/01/11 10:44 AM
こんばんは。

『「自(私自身)」が、基準や指標とすべきもの』について考えてみましたが、これは難しいですね。しかし、自分の言葉で、がんばってみます。


「心」の状態を判断する「基準」として捉えると、感情の起伏を正と負の数値で表すグラフのようなイメージが浮かびます(かなり単純化していますが)。

このとき基準となるのはゼロの位置で、ゼロに近ければ近いほど、平静で落ち着いている状態と言えると思います。

言及すべきなのは、おそらく、その「ゼロを決める基準」の方だと思います。

これは、最初のコメントで私が使った「水」の例えの中で言うところの、「水が水であること」「水そのものの成分(含有物)」といった、本質に近い部分、もともと変化の起こりにくい部分のこと、と言えると思います。


人であれば、誰しも大小様々なコミュニティ(枠組み)の中に存在しています。

そういったコミュニティの中で成長してきた存在としての「私」は、そのコミュニティ内でのルール(法律も不文律もありますが)に従うことが、生きていく上で必要なことと判断すると思います。

また、「所属」というものには、メリットがある一方で、場合によってはデメリットも存在するのが常です。

その、至極曖昧なものの中で、不安を解消できるものがあるとすれば、それを「絶対的」と言えるかもしれません。

人によってはそれが宗教であり、自分やコミュニティに属する人々が信奉する、人間を取り纏めるような「偉大なもの」になるのではないかと考えています。一方で、お金の収集や「価値あるもの」の収集に、不安の解消という意味で、それと似たものを求めるといった形もあると思います。

こう考えると、「自分が生きていくこと」の、現時点においても、想像する将来においてにも、拭えない「不安」を取り払うような「何か」に従う(信奉する)ことで、そのコミュニティの決まりごとを、ひとつの基準とする、という選択が生まれます。

ただし、それを自らの選択している場合と、選択の余地なく、そのコミュニティの中に、自然な流れのように(自覚のないうちに)取り込まれている場合もあると思います。

つまり、自分が生まれた環境や、生きる環境で所属している複数のコミュニティの中で、もともと当たり前のように所属しているコミュニティと、自らの選択によって所属しているコミュニティとが、複雑に入り混じって、ひとりの人間が、ひとつの「個(私自身)」の基準を形成するのだと思います。

すべてを自分で選択することは不可能だと思うので、バランスを保てる範囲内で、選択できるところは選択する、といったスタンスが、より良いのではないかと思います。

また、生まれた環境上、あるいは深い信奉によって、当然のように基準となっているものに関しても、それを見直す機会は自分でも作れると思います。

発展すれば、特定の「何か」によって基準を形成「される」よりも、そこに自分の経験から得たものも入り込む余地はあると考えているので、「自分で選択してこういう基準を持っている」、と言えるところまで到達できれば、より良いのではないかと、思います。

要は、今、現時点の最終的な判断は、常に自分にあることが、理想であるということです。

少し、質問から逸れているかもしれません。



*****



「禅」の解釈は興味深いですね。空を見ていると、同じようなことを思うときがあります。

二度と反復しないもの、今、瞬間的に存在するものだけが、確実(と思われるもの)ということで、かつ、「境地」は、それさえも否定する、ということでしょうか。

般若心経の有名な一文が、思い浮かびました。
from. Maggio / 2011/01/11 1:49 AM
大覚アキラさん

それはかなり自分で制御できているイメージですね。
そして生きていく原動力ですね。
とても健康的です。

心がもっと不健康な場合には、あてはまりません。
覚醒剤中毒とか、パチンコ中毒とか、依存性の高い場合などですね。

むしろ、暴れ馬とかね。狂った馬とか、どこに連れていかれるかわからないという具合になると思います。

溝にはまって抜けられなくなったりしますね。


スパイスさん

意思と書くのと、意志と書くのと違うよね。

意思と書くと、とりわけ心っぽいですね。
from. 村松恒平 / 2011/01/10 2:40 PM
最初にコメントしたときは、その意思が心に属しているとは考えていませんでしたが、問われてみると、意思が生じるのに心も関わっていそうなことに思い至りました。

とか思っているうちに話が進んで腰を折るレスになってしまったかも。
from. Mr.Spice / 2011/01/10 1:37 PM
「心」は乗り物みたいなものだと思っています。
絶好調の時はアクセル全開でぶっ飛ばせるけれど、
エンジンの調子が悪い時は騙しだまし走らせなきゃいけないし、
パンクすることもあれば、ガス欠にもなることもある。

なんとなく、自分の中に「心」がある、
そんなイメージを描きがちだけれど、
実は自分は「心」に乗っかって旅をしている、
そんな感じの方が近いんじゃないかと思います。
from. 大覚アキラ / 2011/01/10 11:16 AM
おお、だいぶ焦点が絞られてきたようです。
皆さんの意識が集中してくると、僕も続きが書きやすくなります。


雫さん

あけましておめでとうございます。

心について考えるとき、言葉もたいへん大切な要素です。
言葉になる以前のもの、言葉以後のもの、というニ項対立も重要です。そして、その中間領域もひょっとしたらあるかもしれません。

>「こころ」は言葉がわからない

ここが面白いところです。
心にも言葉が通じる部分があります。
それを僕は意識と呼んでいます。
そして、心には言葉を持たない部分があります。
これが無意識です。

心理学の用語では、どうなっているか知りませんが、とても単純でいいでしょう?

>くり返し言葉を伝え、根気良く「こころ」と付き合えば、

「こころ」とつきあうというのが、とてもいい言葉ですね。
詩人のランボーに「私は一個の他者である」という有名な言葉があって、いろいろ難しく解釈されていますが、僕は単純に解釈しています。
他者というから難しく感じるので、単純に「私とは他人である」と言っているのでしょう。この場合の私は、このコメント欄で語られている言葉でいうと、「心」のことです。
自分の心を他人と見る視点がランボーらはあった。それが詩人であるということだったのです。

そのように見て行くと、心と同一化しない、心と分離したメタな「私」という姿がはっきり見えてくるわけです。

そういう「私」は心とは「他人」ですから、「つきあう」という言い方はとても正しいのです。

では、心と分離した私というものが誰にでもあるのか、というと、全く未分化な人から、きれいに分離している人、部分的に分化している人など、さまざまなケースがあって一口に言えません。
あるいは、日本人にあっては意識的に訓練をしないと、きれいに分化しないかもしれません。

この周辺には、面白いテーマがたくさん転がっていますが、例によってすべては書ききれません。



Maggioさん

>「自(私自身)」は、変化する「心」に対しての、
「基準」の役割をしていることが健全なのではないか、

その通りですね。雫さんのコメントにも書いたようにそれがストライクです。

さて、基準であるからには、何か絶対的なものに立脚していなければなりません。

絶対というと抵抗があれば、心とは違う原理の何かですね。

心で心を判断できないのは、秤で秤の重さは量れない、自分で自分の重さを感じることはできないのと同様のことです。

では、この基準は一体何に立脚すればいいと思いますか?
とても重要なことです。

*

血液の比喩はいいですね。

動脈硬化とか、血液ドロドロとか、痛風とか……いろいろな比喩で語れます。

しかし、僕が流れるというとき、もう一つの面があります。
それは動画のようなものです。

テレビや映画は、たしか1秒間に25〜35コマくらいの静止画を流します。それを僕たちは一貫した時間経過の映像としてとらえるのです。

しかし、これは実体ではありません。これが1秒間に3〜5コマとかであれば、パタパタマンガのように見えるでしょう。
1秒間に30コマ前後というのは、人が十分にダマされるという数値だと思います。

僕たちの感じている意識の連続性もある面で同様なものととらえることができます。
じつは全く連続していない刹那の断面があって、しかし、常に連続しているものと捉える幻想によって日常意識は支えられています。

禅などは、このような連続性や因果を幻想、迷妄として今の今だけに集中するという面があると思っています。

そうすると、世界は一枚の静止画のようになってしまいます。

しかし、静止画もまた「映像」に過ぎない、と否定していく。

そのように幻想のベールを剥ぎ取っていくと、ついに「真」の姿が見えるのかどうか、僕は悟っていないのでわかりませんが、そのような世界の見方もあるということです。

*

>予備知識も入れつつ、
ゆっくり考えてみます。

予備知識はあまり役に立たないと思います。自分の言葉でゆっくり考えてください。


from. 村松恒平 / 2011/01/10 11:01 AM
返信、ありがとうございます。

心が「自」と「他」の中間領域に存在するものだとすると、
「自(私自身)」は、変化する「心」に対しての、
「基準」の役割をしていることが健全なのではないか、
と思いました。

心は外からの影響によって、正にも負にも振幅し、
その程度によっては抑制が効きません。

そういった場合に、心の変化を知る、あるいは、
それがどの程度の変化なのかということを測るような、
基準や指標となるものが必要になってきます。

「自(私自身)」の中に、その基準となるものを持ち、
またそれ(だけ)が、唯一、確実に自分の中に
所有できるものではないかと思いました。

こういった解釈で、「自(私自身)」と「心」の関係を
考えてみましたが、村松さんの仰ることの趣旨と、
合致はしていないかもしれません。すいません。

でも、こういったことを考えながら、
言葉で表現してみることは楽しいです。

*****

「川」の比喩については、体内での血液の循環が
イメージとして浮かびましたが、
「心」も時間とともに流動し滞らないことが健全だとすると、
一時的な状態や、その変化をもたらした外的な要因に
対して、執着しないといったような、仏教的な解釈に似た
思考が良いということでしょうか。

興味深いので、予備知識も入れつつ、
ゆっくり考えてみます。
from. Maggio / 2011/01/10 3:09 AM
村松さん、新年明けましておめでとうございます!
本年も「心が大事」を心のよりどころにさせて頂きたいと思います。

「あなた」と「こころ」の関係について、思うことを少し…。

「わたし」から自由で、生や死や、他の何物からも自由な「こころ」は、当然「言葉」をもっておらず、
その「こころ」の声を翻訳するのが「わたし」なのではないかと思いました。

「わたし」は知識と経験を積んできた字引きのようなものなので、生きやすさを優先し、つい「こころ」の声に言葉でもって意義を唱えたりもする。
けれども、「こころ」は言葉がわからないので、言うことをきいてくれない。

でも、えらいもんで、「わたし」が「こころ」を理解してあげたいとがんばっていろいろやって、くり返し言葉を伝え、根気良く「こころ」と付き合えば、いずれ「こころ」も言葉を理解し、納得すればいうことも聞いてくれるようになる……。

そうなると、やはり「わたし」と「こころ」がつながる鍵は言葉にあるのかな……なんて思いました。
そんな風に思うから、私は言葉にこだわり、言葉を頼りにしているのかもしれません。

自由な「こころ」を理解し、もっと「わたし」を自由にさせてやりたいと思う気持ち(好奇心?)もあり、村松さんにお勉強させていただいています^^

from. 雫 / 2011/01/10 1:12 AM
Maggioさん

そうです。
他に注目したことは重要です。
自分とは何かということを考えるときに、自他の対立を考えないわけにはいきません。

世界が自他に二分されるとすれば、世界の中で「他」の領域を除いた部分が「自」なわけです。
で、心は通常疑われることもなく「自分」の領域に分類されているわけですけれども、じつは自他の中間領域としてとらえられるかもしれません。

そのようにアプローチすると、この宿題もだいぶ解けるわけですが、まだすみずみまでクリアにはなりませんね。

*

川の比喩ですが、僕は心は常に流れているのが、健康だと思っています。
心は激しいエネルギーの場であって(激しいというのは、日常と違う微細な視点に立てばです)、流れているのが自然です。そこには淀みが生じないほうがいいのです。

心にこだわりが生じると流れがその部分だけ悪くなり、そこに溜まったエネルギーがいろいろ破壊的に働くと見ています。

from. 村松恒平 / 2011/01/09 12:22 PM
初めまして。Maggioと申します。
よろしくお願いします。

自分は、「心」というものを、
『思い通りにならないけれども、
自分の中に所有しているもの』
と解釈しています。

思い通りにならない理由は、
外(他)からの影響を受けるがゆえか、
と思います。

心を水と例えるなら、
外からの影響を受けて変化し得るのは、
温度や水流。

外からの影響でも変化し得ないのは、
水が水であるということと、
水そのものの成分(含有物)。

こう例えると、
周りから受ける影響で水(心)は、
沸騰もするし凍ったりします。
掻き乱されれば含有物が水全体に広がって、
濁ることもあります。

しかし、水が水であることと、
その成分だけは変化しません。

心が落ち着いている状態というのは、
この解釈で考えると、一定の温度で、
なるべく流れのない状態だということです。
つまり、含有物も下に沈んで、
透明度を保てている状態です。

自分以外の「他」との関わるということが、
ひとりの人間として生まれた以上、
逃れることができない事実であるため、
所有物としての「心」は、
所有者であるにもかかわらず、
自分でも思い通りにできないことがある。

そういった理由からかと思います。

心を自分の所有物として扱えないのは、
他からの影響によって、比較的容易に
変化をしてしまうがゆえ、ではないでしょうか。

こう考えているのですが、説明下手な上、
村松さんの趣旨とズレていたら、
ごめんなさい。

長文失礼しました。
from. Maggio / 2011/01/09 12:25 AM
スパイスさん

>「心」ではない「わたし」=私はこうありたい、と思う意思でしょうか? 

この意思は、心に属しますか?
心の一部が心全体に対して、何かを投影するのでしょうか?
心に属していないとすると、どこにあるでしょう?


朴美鈴さん

>「心」ではない「あなた」とは誰でしょう?

結局、自分自身、あるべき姿(状態)にない自分自身


ここで自分自身という言葉を使うのは同語反復ではないでしょうか。そして「あるべき姿(状態)にない自分自身」ということは、「心」のほうがあるべき姿である、ということですか?


ヒコさん

心の語源がコロコロだというのは、僕も思いついて人に語ったことがあります。
同じだ〜。

心は本当にコロコロ変わりますからね。

レスをくれた方々は、心を個人の一貫性(アイデンティティ)の根拠として考え、感じているようですね。
僕は心は一過性の状態、あるいは場に過ぎない、と感じています。

「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまる例しなし」

という方丈記の言葉は、心のある一面を現しているのです。
我々は「川」としての同一性を認識するが、「水」は同じではない。
心も同様で、そこをつねに一定のエネルギーが流れています。
しかし、一秒前の心といまの心では、構成しているものが同じではありません。

心を語るときには、比喩はある性質を語ったらそのまま使い捨てにしたほうがよくて、心は川である、という比喩がある面で正しいとしても、そこからあれこれ敷衍することができません。

ただ、心は一貫性を持たない、ということが観察されていないと、この宿題はたぶんうまく構造化することができず、解けないのです。

(このように書いていくと、また新たに説明しなければいけないことが派生してくるのですが、キリがないので、とりあえずこれくらいに……)



from. 村松恒平 / 2011/01/08 3:17 PM
心は「コロコロ」変わるから「こころ」と言われてるそうです。

出口光著「天命の暗号」中経出版 p39

from. ヒコ / 2011/01/08 5:32 AM
「自分の思い通りに進めぬのなら、なぜ我々には精神があるのか。」
『錯乱のニューヨーク』という本の冒頭で引用されている、ドストエフスキーの言葉であります。ドストエフスキーはほぼ読みましたが、このような言葉があったかどうかは記憶していません。たぶん言ったのでしょう、堂々と引用されているのですから。実は『錯乱のニューヨーク』という本は、今日買い求めたばかりです。まだ序章ののっけに引用されているこのドストエフスキーの言葉を読んだだけなので、どんな脈絡からでた言葉なのかまったくわかっていません。

「自分の思い通りに進めぬのなら、なぜ我々には精神があるのか」

「人は、やりたいことをやればいい」
ということが前提ならば、
「やりたいことがやれない状態」は、苦しみを感じるばかりだということはわかっているのに、どうして精神というものを人は持ち合わせてしまっているのか
と解釈してみる。

>「あなたの心」はあなたの思い通りになりますか?

感情後に対処することは現状出来ているが、感情より前を意識したことがない。
人からチクリと何かを言われ、(クソッ)と思ったが、顔には出さず頭をさげることはできますが、クソッと感じない心を持つように日頃心掛けたと、そういう記憶はない気がします。


>あなたの思い通りにならない「心」はあなたの所有物ではありませんね

はじめこのフレーズの意味がわかりませんでしたが、先に書いたように、本来人はやりたいことをやればいいということを前提にすると、意味が解るような気がします。


>「心」ではない「あなた」とは誰でしょう?

結局、自分自身、あるべき姿(状態)にない自分自身


>「あなた」と「心」の関係はどうなっているでしょう?

常に本音でぶつかってくる心を、どの手でもって落ち着かせようかと悩み続ける自分
選んだ手次第で、ひきこもりもうまれるし、自己実現しか頭にないやつばかりになるのもわかる。


心も精神もひとつしかない。嫌なことは感じないという機能があれば簡単なはなしだが、そんな機能はなく、考え方や性格で補うしかない。
様々な事象が起こる世界にうまれ、かつそれらに対して「感じる」というひとつの機能しか持ち合わせていない以上、感じてからの対処の仕方を身につける以外にできることは、感じたくないものを感じる機会を減らすようコントロールする、すなわち、やりたいことをやる、しかやはりないのでしょうか、ね。                                                   bk
from. 朴美鈴 / 2011/01/07 6:04 PM
「心」ではない「わたし」=私はこうありたい、と思う意思でしょうか? または私はこうである筈だとい思い込みなのかも。

そして「心」と「わたし」の関係、難しいです。
ままならないと思いつつも理性を使って「心」をコントロールしようとしている「わたし」が、実は「心」に操られている?
相互に依存しあう親子や恋人、はたまたSとMのようでもあり。
from. Mr.Spice / 2011/01/07 3:53 PM
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