INNER LIFESTYLE DESIGN
 〜ナチュラルに生きる方法論序説
言葉以前の世界


今日、ツイッターで「心が折れそう」と書いていた人がいたので、思わずコメントしてしまいました。

「折れる」という言葉を使うと復元力がないではないですか。

何年間も鋼鉄のように鍛え上げた心で、大きな挫折を味わったなら、「折れる」という言い方もいいですが、今日、会社に行きたくないというのに「心が折れそう」という言葉を使うのは、よくないです。


そんなことや、今までの話の流れもあって、言葉と心の関係についてもう少し書きます。


それは言葉以前の世界の広がりについてです。

ほんのちょっとだけアクションを起こして検証してみましょう。


一つ目を動かしてみてください。

目の前に「緑」のものを探してください。

あなたのいる部屋にも必ず、いくつか緑のものはあると思うのです。


黄緑から深緑、青緑まで、広義に緑と言えるものでいいです。

私の目の前には、ざっと見ただけで10以上あります。


さて、今度はその緑同士を比べてみてください。

同じ緑がありますか?


同じ緑といえるものは、ほとんどないと思います。

同じ緑のインクで刷られていても、光の当たり具合が変われば違う色です。


私たちは、じつに広汎なものを緑と名付けているのです。


そして、名付け終わってしまうと、今度は緑という言葉を操作して世界を見るようになるのです。


「信号が青というけれども、あれは緑ではないか」ということがよく言われます。

しかし、進めという記号としては青という認識で用が済んでしまうので、世の中は何十年も緑を青と呼んで改めません。


言葉というのは、そのようにたいへん大雑把なものです。


それに対して、言葉で括られる前の色はとてつもなく多様です。

散歩していて、植物を見るときに「緑はいいねえ」と言いますが、私は絵を描くようになってから、緑の多様さを意識的にじっと見るようにしています。

同じ葉っぱでも、当然種類によって緑が違います。

陽に当たる部分とそうでない部分も全然違います。

そういうものを見ると、何か植物の生命力に触れたような気がするのです。


そういうことに全く興味のないビジネスマンにとっては、それらはつまり「緑」であるに過ぎません。


そのように言葉にしてしまう、ということは、実体を閉じ込めてしまう、封印してしまうことなのです。


なぜならば、実体は扱うこともできないし、同じものを共有することもできません。

それで同じものとして認識するために便宜的に言葉を使うのです。


そして、人は言葉の世界に慣れてしまうと、つねに世界に言葉をはりつけて意味化していきます。

これが自動的にまんべんなく行うのが人間です。

人は自分の言葉でねつ造(悪い言葉でいえば)した世界に住んでいるのです。


言葉が介在しない世界の実体はあまりに多様で、エネルギーに満ちています。

だから、人はいつも世界を省略し、編集することによって、自分の扱えるものにしようとするのです。


ですけれども、ときに、その編集機能が変調を来たしたら、世界は可能性のない絶望的な牢獄のように見えてしまうかもしれません。

環境を変えるために自分で行動しようとはせずに、あの人が悪い、この人が悪いと世界をうらんでしまう人もいます。

それはいわば自分がねつ造した世界なのです。


だから、編集機能が変調をきたしたときには、言葉を介在させないで、もう一度世界を感じ直すことが必要なのです。

そのようにして自分の言葉の使い方を補正していく必要があるのです。


何かを感じるためには、自分の身体や、自然、芸術などに触れることです。

そこには根源的な多様性があります。


意識(言葉)の世界が煮詰まってきたら、無意識(言葉以前)の世界と交流する時間をとりましょう。




**


 多くの方に読んでもらえるようにワンクリックお願いします。

http://blog.with2.net/link.php?848757



心理研究会、月一回開催中です。3月は17日水曜日19時から2時間。


研究会のお申し込み、質問やセッション、その他なんでもは、kokoro@hiden.jpまで。

私の著書はアッチ→


**

写真は工房集の作家さんの使い切った筆と絵の具箱です。

何か溶岩の原とか、荒々しい自然の風景のようです。

芸術とは、人の中の自然性の発露であると私は考えています。


集は3/7まで、私の友人のアーティスト多数を含む展示をやっています。

なんかサイト更新されていませんが、お近くの方はぜひ一度訪れてください。

http://minuma-hukushi.com/KOBO-SYU/index.shtml









意識と無意識 / comments(4) / trackbacks(0)
Comment








コメントありがとうございます。

>適切な指導やガイドラインなしでやって、気をおかしくしてしまう人はいます。

そうですね。
質問の時には書きませんでしたが、
私は禁欲の結果、気をおかしく、というよりも、陶酔してしまい、ドツボにはまっている人を見たことがあります。
(でも本人は幸せだと思っているから、すごい)

>欲望のエネルギーをせきとめて、その巨大なエネルギーを自己開発に使うのが密教などの世界です。

なるほど。

しかし欲望のエネルギーを全て自分の内面にむけるというのは、とても危険な行為ですね。
一つ間違えると、エネルギーの渦に巻き込まれて自滅してしまう危険があるわけですから……。

そこまでして、人間の内面に踏み込みたい、という人間の欲求も、またすごいです。


from. ひまわり / 2010/03/03 1:10 PM
奥深すぎて、このブログではあまり触れませんけど、セックスは大切ですね。

禁欲について簡単に書きますと、心身が異常な状態に置かれるので、手段や目的によっては狂気に近づくことがあります。

適切な指導やガイドラインなしでやって、気をおかしくしてしまう人はいます。

斎戒沐浴は清めるためのものですけれども、欲望のエネルギーをせきとめて、その巨大なエネルギーを自己開発に使うのが密教などの世界です。

このエネルギーの処理を誤ると、編集機能など吹っ飛んでしまいます。

from. 村松恒平 / 2010/03/03 11:03 AM
心の編集機能、という言葉が出てきたので一つ質問をしてもよろしいですか?

>だから、編集機能が変調をきたしたときには、言葉を介在させないで、もう一度世界を感じ直すことが必要なのです。

>そのようにして自分の言葉の使い方を補正していく必要があるのです。

>何かを感じるためには、自分の身体や、自然、芸術などに触れることです。

そこには根源的な多様性があります。

昔で言う巫女、とかお坊さんは禁欲的な生活をします。
確かに禁欲的な生活をしていると「勘」というか、神経が研ぎ澄まされて集中しやすくなる、という経験をしたことがあります。

こういうときに俗的な生活(セックス、暴飲暴食)をすると、あっという間に神経がふにゃふにゃの柔らかさを帯びてきます。

禁欲的な生活は、感覚の貯金をしていないということになるのとしたら、
禁欲的な生活をし続けたら心の編集機能は衰えていくことになります。

そうすれば、神経が研ぎ澄まされるという現象ではなくて
気が狂う、という現象につながっていくのではないでしょうか。

でも実際は逆です。

禁欲と精神の修行(向上と言ったほうがいいのだろうか?)の関係について、
書いていただけるとうれしいです。よろしくおねがいします。
from. ひまわり / 2010/03/03 7:19 AM
言葉以前のもの=無言であるもの、だと私は捉えています。
セックスも「無言であるもの」の一つなのだろう、と思っています。

肌と肌をくっつけていると、毛穴から何かが浸透してくる感覚があります。
それが快感につながっていきます。
実を言うと、以前は「そういう感覚」がわかりませんでした。
セックスはコミュニケーションだ、とか
エロスは生活の糧だ、とか言われてもまるでピンときませんでした。
でもこのごろ、自然の中に飛び込んでみたかったり、セックスをしたくなったりすることを考えると
「感覚」の貯金がそこをつきかけていたのだろう、と思います。

今日も、近所の山の中で寝てきました。
背筋がぞくぞくするぐらいの快感でした。
from. ひまわり / 2010/03/02 9:43 PM
Trackback
この記事のトラックバックURL: http://kokorogadaiji.jugem.jp/trackback/166