INNER LIFESTYLE DESIGN
 〜ナチュラルに生きる方法論序説
言葉の仕事量/言葉以前の感情

言葉の仕事量



私の考える哲学とは、言葉にたくさん仕事をさせることです。


この場合、言葉が何かを乗せる台車のようなものだとするとわかりやすいのです。

台車になるべく多くの仕事をさせようとしたら、どうするでしょう。

台車の仕事量は、重さ×距離ですから、なるべくたくさん重たいものを乗せて遠くに運びます。

たくさんの重いものを崩れないように運ぶためには、荷物の形や重さをよく見て整理して乗せなければいけません。


台車に重い荷物が乗ると、摩擦が生じて手応えが重くなります。

この手応えが仕事量の証明なのです。


日常私たちは、言葉を軽く、つまり台車でいうと何も乗せていない状態でカラカラと使っています。

これは悪いことではありません。

円滑に人をつなぐという意味ではいいのです。

しかし、何も乗せないと仕事量はない、あるいは少ないことになります。


同様に専門用語は、とても軽くなる傾向があります。


前回、次のように書きました。


>これがいわゆる依存ということになりますが、依存という言葉はできるだけ使いたくないのです。

なぜ使いたくないかは、また言葉について長く語ることになりますので、次回にしましょう(たぶん)。


よく使われる言葉、概念というものは、果たして仕事をしているでしょうか。

たぶん、自分の状態が依存的である、と自覚している人は多いでしょう。


しかし、このように専門用語でとらえると話が終わってしまうのです。


「私は依存的である」というときの言葉の働きを見ましょう。

多くの場合、私は次のように感じます。


1 それについては、私は本を読んだり勉強したことがある。人並み以上に知っている、ということを言っています。

2 それは治らない、仕方のないこと、という諦めを含んでいます。

3 一つの治らない傾向であるので、専門家の領域である、ということを言っています。

4 したがって、素人にあれこれと口を出されても困る、ということを言っています。


つまり、


自分ではたぶん治せない。

自分で治す気はない。なぜなら、治せないから

専門家にかかる気はない。あるいはかかったけれども、治らなかった。

だから、もうわかっているんだから口を出さないでくれ


たった一言の中にこれだけのニュアンスがあって、話が終わってしまうのです。

この言葉を使うことによって、考えも一つの深い轍、ルーティンの中に落ちてしまって、出口はないけれども、話は終わり、ということになるのです。


これはかつての自民党時代の役人の答弁の「前向きに検討します」という言葉に似ています。

「前向きに検討します」というのは、何もする気はない、と同意語だと言われていました。

つまり、これは何の摩擦もない空の台車です。

それによって話は終わりにしていくのです。


心について考えるということは、日常の言葉ではなく、専門家の言葉でもなく、何か新しい手触りのある言葉を開発しなくてはなりません。

もちろん、専門家の研究や蓄積も大事ですけれども、それ以前に専門家が治してくれるのではなく、自分自身で治すという意志がなければ、どうにもなりません。


依存傾向といえば治らないで終わってしまいますが、「他人に体重をかけない」といえば、自分でいろいろ「どうしたら変えて行けるだろう」と考え始めることができると思うのです。それが言葉で作業することの基盤です。


心について考えるときは、比喩を使います。心には色も形もなく、眼に見えません。また数値でも計量したり、表現したりすることはできません。

だから、言葉というものを使って、それに触って行くのです。

しかし、言葉は実体ではありません。

「悲しみ」という言葉は悲しみそのものではありません。

心の中にあるエネルギー、動き、あるいは塊があって(こういう言い方自体がすでに比喩です)、それを悲しみと呼んでいるのです。

だから、あなたが悲しみと呼ぶものと、私が呼ぶものが同じなのかどうか、本当に比べることはできません。


「考えるな、感じろ」というのは、ブルース・リーの名言です。

悲しいときにはすぐに「悲しい」というレッテルを張る前に、その心の動きを感じるのです。

言葉以前のもの、思考以前のものに直接触れることが大切です。


悲しいはまだ直接的な言葉ですが、依存という言葉は直接的ではありません。

もっと知的、操作的な概念であり、依存「症」といえば、病名として専門用語になります。

いろいろな人がいろいろなことをそれについて語っています。

そうすると、それを読んでいないと、言葉を使っただけで「知らないクセに」と責められるかもしれません。

それで本を読んで勉強する人がいます。


そうすると、他人の概念で自分を判断することによって、自分の心を「感じる」ことから、もっと遠ざかってしまいます。

誰かが言ったこと、分類したことに自分を当てはめようとするようになるのです。


それはよくありません。

いちばん大切なことは、心が自由であること、自立していることです。

そのために大切なことは、心が訴えようとしていることに自分自身で耳を傾けることです。


それは本来、そんなに難しいことではなく、自然なことです。

しかし、いつも他人の言葉で自分の心を測るクセがついた人にとっては、わからないこと、とても難しいことになってしまいます。


いま、無料の占いや自己診断テストが大流行りでしょう。

罪のない遊びで、私もできがよさそうなものは試してみることがありますけど、ああいうものの根底にも、人に自分のことを判断してもらいたい、という依存があるでしょう。

たぶん、自我が確立しているアメリカやヨーロッパではこんなに流行らないと思うのです。


上で、「悲しい」、という感情を例にだして書いていて思いましたが、「悲しい」というはっきりした純粋な感情は以前より減っているように思います。

それよりは、怒りとか、むなしさとか、またそれを押さえ込んだ結果の無気力だとか、そういうモヤモヤとした行き場のない感情が増えていますね。

そして、自分でも自分が何を感じているのかわからない人が増えているように思います。


そういうものはいっぺんにクリアすることはできません。

自分で一つ一つほどいて、元の純粋ではっきりした感情の動きに戻してやらなくてはいけません。

私のセッションというのは、そのお手伝いです。

しかし、あまり利用する人は多くないです(笑)。

何かもっと簡単で、明日から魔法のように楽になれることを求めているのかもしれません。

そういう都合のいいことを求めて、何年間もぐるぐると頭の中で同じような考えを巡らせて一歩も動かない、という人がたくさんいるのです。


いや、何もセッションの宣伝をしようというのではないのです。他にいい方法があれば、それでいいのです。自分から動かなければ何も変わらないということです。


宗教やある種の洗脳的なものは、こういうモヤモヤとした感情の塊をいっぺんゴミ箱に入れて、もっと単純で強い原理をインプットするというやり方をします。

そうすると、ある種の悩みからは解放されるのですが、今度はその宗教から抜け出すことができなくなります。

宗教は信者をかなり自由に動かすことができますので、信者はある種のロボットのようになってしまうのです。


私が心を考えるときに、自由であること、自分の理由で生きていること、ということを、いつも帰ってくる場所にしているのは、そのためです。ロボットになってしまってはどうにもなりません。


あなたは自由になりたいですか? 誰かに自分を任せて楽になりたいと思っていますか? 

その方向性を自分自身の心に、いますぐ聞いてみてください。


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今日の絵は、東京浅草橋でいま行われている展覧会から。


工房集 齋藤裕一・佐々木省伍 二人展

「描くことの根源性にむけて」


http://www.makiimasaru.com/mmfa/index.html


精神に障害を持つ作家さんたちの作品展です。

でも構えないで観てください。

純粋にアートとしてお勧めです。


お近くの方はぜひ足をお運びください。




言葉の性質 / comments(2) / trackbacks(0)
Comment








しばらくブログが更新されていなかったので、もしかして体調でも崩しておられるのでは…と心配していましたが、安心しました。

自分は相当「他人の言葉で自分の心を測るクセがついた人」寄りな気がします。そうしているとやっぱりラクです。

で、そうしたぶんで空いた時間とエネルギーを、おそらく化粧や髪型やスキンケアなど、外見を飾る研究時間に回しています。

だから、ここにコメントを書かせてもらっても、内容が軽く薄いなぁ…と我ながら思いますし、人との会話も、以前に村松さんの文中にあった「何か深い話のできない人」
と思われているかもしれません。

それでもその状態に自分が満足ならいいのでしょうが、同時に、心のどこかから注意報を出してもいる。

それで、いつも『心が大事』を見に来ているのだと思います。
from. MT / 2010/03/01 3:03 PM
今回の絵は他の方の作品ですね、しかも3点。

他人に見てもらう意図で描かれたのではない作品には、力がありますね。

一番上の絵、観ると心が開いたまま止まって目が覚める感じ。

二番目の絵、観てると、頭の中の、まだ溶け切っていないドロドロが溶けて体に流れて体が重くなり、口角がさがる。

三番目の絵、観てると、ふっと気が緩み、口角が上がる。

なるほど、それで3点表示されたのかあ、と思いました。
観てると心が癒されます。遠いので足運べないのが残念!(空飛ぶお金もありません。)
from. ひろ / 2010/02/27 6:09 PM
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