INNER LIFESTYLE DESIGN
 〜ナチュラルに生きる方法論序説
期待しないことについてのいくつかの原則

たくさんのコメントをいただいてうれしいです。


改めて考えると、一つのものごと、一つの言葉でもじつにいろいろな角度から眺められます。

それを私たちは、混乱ではなく自由性として確保しなければなりません。

そのために、いつも心と言葉の柔軟体操をしましょう!


少し論点を整理しつつ、ゆっくり話を進めたいと思います。

現在、書きたいことがたくさんあって困っています。


私が人に期待しない、と言ったのは、人嫌いやニヒリズムではありません。


私個人は人に会うのが大好きです。もちろん、誰でもいいというわけではなく、気の合う相手ですが、会うと楽しい人がたくさんいます。

会ったら楽しく話が弾むだろう、という期待はもちろんありますが、なるべく期待レベルを上げません。


たまにゆっくり飲もうと思っていた相手があっさり帰ってしまうと、がっかりします。

相手がいい仕事をふってくれるのではないか、などと仕事がらみで期待してその話題がでないとそれもがっかりします。

パーティに行くときも、誰か面白い人と知り合って話が弾むだろうなんて思っていると、かえって一人ぽつねんとしてしまってつまらないことがあります。


ここに【期待レベルは低いほうが楽しい】という法則があります。


映画でも、レストランでも人の評価がよくて期待して行くと、がっかりすることがあります。期待を膨らましすぎると、楽しくなくなってしまいます。

パーティは楽しい、というところにゼロの基準をおいてしまうと、楽しくないとどんどん気持ちが下がります。

そんなに楽しいものではない、と思って行くと、いいことがあったときに、全部プラスとして受けとめることができます。


それだけではありません。誰かに会って、何かを期待していると、モードの違いもでてきます。こちらがしんみり話したいときに、向こうがはしゃいでいたり、その逆だったりすると、全然気持ちが噛み合ないことがあります。

だから、人と会うときは、なるべくフラットな気持ちになるようにします。


だから、じつは期待しない人のほうが人と会うハードルは低いのです。

何でもあり状態だからです(イヤなら逃げますけど)。

引きこもり気味の人は、こういうフラットな気持ちになれない要素がいろいろ心の中にあるのでしょう。


だから、期待しないということは、別に不活性な状態になるということではないのです。


*


それから、人に期待しないということで書きたかったことは、【特定の個人に対して期待しない】、ということです。


たとえば、私がこのブログを書くときに、より多くの人に読んでもらいたい、読んでもらうことによって何かしらよい変化が起きてもらいたい、という期待はあるわけです。

ですけれども、友人や知り合いの中で、「あの人は読んでくれていないのではないか?」というようなことは具体的に考えません。

正直に言って考えそうにはなるのです。

「あの人から感想聞いてないな、読んでくれているのかな」とか、「あの人にこそ読んでもらうべきなのに」とかね。


でも、そういう期待は、ちらりと浮かんでも踏み込みません。萌芽のうちにとどめます。

読んでくれる人がいるのを喜ぶのか、読んでくれない人に対してうらんだり猜疑心をもったりするのかでは、大きく違います。

自分だって、他人の日記やブログを読むのは興味があるからであって、すべてに目を通すのはとても無理です。

興味のある人、読みたい人は読んでくれる、それで十分です。

義務であったら辛くて仕方がありません。


ミクシィで、あしあとをつけた人はコメントを残したり、からんでください、みたいな人いますね。

たぶん、アマチュアの小説書きでも、周囲の全員に読むことや感想を強要(期待)している人がいると思うのです。

そういう期待に応える人は、たしかに何割か本当に小説のファンもいるでしょうが、あとは気の弱い巻き込まれる人か、それに見合う何かを返してもらう期待をしている人だと思うのです。


そういうふうにおつきあいのハードルを上げてしまうと、中味がドロドロと粘着してきます。

戦国時代の武将は、相手の忠誠を確かめるために人質をとり、また進んで差し出しました。

相手の友情や忠誠を具体的な行為やモノで確認しないと気が済まない心性というのは、それに似ています。


【君子の交わりは水の如し】と言います。

魂の共振は、証拠物件を差し出す必要がありません。

一瞬でもすべてをわかりあってしまいます。

だから、どんどん淡く澄んでいくのです。


特定の個人に期待するとドロドロして辛いのです。

しかし、この辛さもまた脳内麻薬が出て抜けられなくなるのです。


*


もう一つは、私の言葉でいう【期待で体重をかけない】ということです。


体重をかけられると、かけられたほうは手を放すと相手が倒れてしまう、というプレッシャーを受けることになります。

これがいわゆる依存ということになりますが、依存という言葉はできるだけ使いたくないのです。


なぜ使いたくないかは、また言葉について長く語ることになりますので、次回にしましょう(たぶん)。


体重をかけて、よりかかられるほうも大変です。


だから、【期待しないだけでなく、期待されないほうがいい】ということも言えるのです。



しかし、「期待する」のは、自分です。「期待される」場合は、期待するのは他人や親であるので、同列には扱えません。

まず第一条が自分が【期待するのをやめる】。次に【期待されるのをやめる】という順序になると思うのです。


期待されるのをやめるためには、新しい知り合いに対しては、当初、低く見積もられることです。

それから、親や家族や古い知り合いに対しては徹底的に期待を裏切ることです。

一気にぶっちぎるか、小出しに少しずつ裏切るかは、自分のタイプで決めてください。

呆れられ、あきらめられるところまでやらなくてはいけません。


いわゆる反抗期という言葉が、(最近は昔ほど聞かないような気もしますが)成長に応じた親との関係の調整時期だと思うのです。

このときに、古くなった関係の糸はぶつぶつとぶっちぎっておかなくてはいけない。


引きこもりが増えた一因は、この反抗期という表現形態が機能しなくなったからではないか、という気がします。

単純に反抗というのは、自立へ向かう衝動ですからね。

同語反復にならないためには、もう少していねいに見ていかないといけないので、ここでは一つの仮説として書いておくにとどめます。


*


なんかすごく駆け足でいろいろなことを書いています。

でも、これくらいの勢いで書かないと何の話かわからなくなってしまいます。


でも、あとは次回に致しましょう。



**


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Comment








こんにちは。

「期待しないこと」って心の平安のためには
とても大切ですよね。

だからといって、
よーし!今日から期待しないぞ!って思ったところでうまくいかないのが人間ですが。

ボクも、「人に見返りを期待しない」
を心がけています。
なっかなかうまく行きませんが。。。

小さいことですが
「ボクって人付き合いにがてなんだよねー」
って「そんなことないよ!」っていう慰めを期待したコトバを発しないなどなど。
from. やす / 2010/02/21 10:01 AM
期待レベルをしっかり調節できると理想的だなあ…って思いました。
特に気分屋の人が相手だと、期待レベルの調整も毎回不安定でした。
(今日はご機嫌どうだろう。楽しくしゃべれると良いな…)って、多少びくびくするような。
もともと期待しなければ、どんな状況でもダメージは最小限にできますね…(笑)
でも、それって諦めも混じる心の動き方なのかな、と思ったり…。
期待しないためには、やはり「何か」を諦めることが条件のひとつなのでしょうか。
from. 雫 / 2010/02/15 10:48 PM
村松恒平さん
お邪魔します、かわち組です。
ブログは初心者なので、皆さんの文章を参考に勉強中です。

フラットな心のあり方について、
なかなか難しそうですが、挑戦してみたいと思います。
今後とも宜しくお願いいたします。

応援ポチッ完了ъ(^ー^)

from. かわち組 / 2010/02/15 3:34 PM
こんにちは。

ああ、まさに仰る通りです。
自分が期待しないだけでなく、周囲に勝手な期待をされることがすごく嫌いです。
この人は助けてくれるんじゃないだろうかとか面倒見てくれるんじゃないかとか、こう言ってくれないかな、などアテにされていると感じるのが苦痛なのです。

それくらいなら、「困ってるから助けて!」とはっきり口にしてくれた方がマシっていうか……。

敏感なほうなので他人の期待のサインが見えてしまう。でもいちいち応じていたら疲れるし自分のしたいように出来ない。せっかく手を貸したとしても、期待が期待を呼んでもっともっとと求められる。だからどこかで線を引く……。
それが私の場合、「期待しない・されたくない」に繋がっているようです。

人に何かしてあげるときも、どうしたら相手が喜ぶかは考えますが、程度は自分の許容範囲内ということで、お礼を言ってもらわなくても気にならないレベルに留めてしまいます。
自分のことを冷たいなーと思うことがあるので、人に親切にされると「世の中にはこんなにいい人が!」といちいち感動します(笑)

周囲にこういうお話のできる方がほとんどいなかったので、書いていて嬉しくなります〜。
from. 華 / 2010/02/12 4:39 PM
>なんかすごく駆け足でいろいろなことを書いています。

>でも、これくらいの勢いで書かないと何の話かわからなくなってしまいます。

おっしゃる通りで、ぐいぐいと読み、理解できました。

「フラットな気持ちになる」
大好きな言葉です。
でも、すぐ色々な欲が出て(すごいと思われたいとか、ちょっと得したいとか)忘れてしまうのですが…。

営業を仕事にしている人で、トップクラスの人、たとえば車のディーラーや服屋さんの店長さんなどと話すと、そういう心持で話している人が多いなと感じます。

もちろん、うちの商品を買ってくれたらいいなとは思っているでしょうが、それ以前に、フラットな心持でお客さんの話を聞いてくれますよね。

その上で、適した商品があれば薦めてくれるし、こちらも、それが自分の気に入れば、「この人が言うのなら」と信用して気持ちよく買うことができる。

そうでない店員さんだと、例えば、
(あと1万円で今週のノルマ達成だから、お客さんはニットが欲しいと言ってるけど、併せてワンピースも買ってほしい)という期待が出るのでしょうか。こちらの話と食い違った商品を見せてくれたり。

それで、「今日はニットを探しているので」と断ると、「どうしてですかぁ〜、めちゃ似合いますよ、1点ものなのにぃ」と逆に責められたりして…。

商売と個人の人間関係と、少し違うのかもしれませんが、心の中のありようが、言葉にも行動にも完全に表れるものなんですね。

昔はそんなの隠せると思って生きていました。恥ずかしいです。


from. MT / 2010/02/12 2:07 PM
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