INNER LIFESTYLE DESIGN
 〜ナチュラルに生きる方法論序説
言葉のバラし方
 言葉の解体方法


言葉を解体していくには、私にはもう一つの手順があって、それは使われ方を見て行く、ということです。


希望という言葉については、朝起きて、そういえば「第一希望、第二希望」のような言葉があるなと思い出しました。


電車の切符を買うとき、あるいは会社の中の配属を決めるときに使いますね。

それから、懸賞などては、「プレゼント希望」と書きますね。


これらは具体的なものや条件が「ほしい」と言っているわけです。しかし、自分の意志ではなく抽選や先方の都合などで満たされるかどうかが決まります。

だから、ダメだったら仕方ない、ということが含まれています。


これは、「人には希望が必要だ」という用法とは、別の用途です。今回の論旨からは除外したほうがいいのではないでしょうか。


他のケースもあります。


たとえば、強制収容所に収容された人々にとって生き残って解放される希望は大切なものであった、ということを読むことがあります。

希望の灯火、というような言い方もあります。


では、私たちは今、何を希望しているのでしょうか。


私たちが希望を持つとして、それは強制収容所の人々の希望と同質なものなのでしょうか。


このように詰めていって、いつまでたっても輪郭がはっきりしない言葉は、考えるときに使わないほうがいいのです。


およそ、江戸時代になかった言葉は、用心したほうがいいのです。

つまり、西洋の概念を翻訳した言葉なので、日本人の言葉として身体化されていないのです。


*


話の本筋を忘れてしまいそうになりますね。


これは、「人に期待してはいけない」という命題に対して、期待を持たないことは希望を持たないことではないか、という主要な反応がありました。

それに対して、希望とはなにか、希望を持つことは世の中でなんとなく思われているほどいいことなのだろうか、ということを検証しているのです。


こういうことは、ある速度と密度で処理しないと、自分が何を考えているのかわからなくなってしまいます。

だから、私はいつも頭の中で言葉をひねくり回して、吟味、評価しているのです。


でも、誰もがこんなことに習熟する必要はないので、このブログを読んでくださる皆さんの場合は、もっと強く単純に自分の内面に「聞く」、ということだけを覚えていただきたい。


自分は今、何を希望しているのか?


人は希望を持つべきだ、と思う人は、この単純なことを力強く検索して、言葉にしてみていただきたいのです。



**


 多くの方に読んでもらえるようにワンクリックお願いします。

http://blog.with2.net/link.php?848757



心理研究会、月一回開催中です。2月は17日水曜日19時から2時間。


研究会のお申し込み、質問やセッション、その他なんでもは、kokoro@hiden.jpまで。

私の著書はアッチ→



言葉の性質 / comments(14) / trackbacks(0)
Comment








期待と希望の裏に締めと絶望がありますね。
諦めは、方向転換のサイン(期待はずれという、軽いものも含めて)、これ読めなければ、絶望するまでその方向に進ませられてしまうのでしょうね。別の価値観や次元に目を向ける為に。

このコメント欄、他の人の目にも、とまるの知らなくて(うっ・・汗)、<質問や・・その他なんでもは、kokoro hiden.jp>のアットマークがPCの不調で出ないので、こちらに書き込みました。垂れ流しみたいにコメント欄占めてしまって、ごめんない。

>今わたしの希望することは、
現実を生きる中で、自分を含めあらゆる存在のいごこちがよくなってほしいということです。    (雫さん)

この希望、今、居合やお茶習っている人、全員持ってるなーと、今を振り返ってます。その気持ち見えない人はグループに入れない様、波風立てずに出来るだけ早く出て行ってもらうテクニックは、こちらの人(古くから習っている人)の方が、私より上手です。
家庭や仕事場にも、グループで練習している様な雰囲気、出せたらいいなーと、みんな悩んでいます。

居合の練習で、みんな頭空っぽになってるのに、私だけ頭の中に重たいものが詰まってる、何が消化不良で固まってるのだろう? と2−3年前から気になってましたが、コメント書くと、溶けはじめました。
 ありがとうございます。
from. ひろ / 2010/02/11 5:57 PM
こんにちは、村松さま。

私はまさに「期待しない人間」です(笑)

若い頃はそうじゃありませんでしたが、ストレートな性分のため人とぶつかる事が多くて、そのうち段々と周囲に期待をしなくなったように思います。
最たるものが母親でしたね。親なのでどうしても「こうであるべきだ」「こうであってほしい」というのがあったのですが、血が繋がっていても全く別々の人間なのだという事を感覚で理解してからはそういう気持ちもなくなり、同時に家族以外の周囲に対しても、まったく期待というものをしなくなりました。

村松さんの仰る通り、野望というか、人間関係の上で「こう動けばこういう結果を得られる」という計算のようなものはあります(笑)が、漠然とした期待はないのです。

「他人に期待しない」なんて言葉にするとなんだか寂しげなので、こんな風で私いいのかなと思うことは何度かあったのですが、今のほうがずっとずっと生きるのが楽なのです。
他人の価値観に振り回されないし、心が解放されていて自由です。だから、私はこれでいいのだなと確信しているのですが。

他人に対する期待って、何か依存のようなものなのかもと思ってみたり。
そして人間は、実はそんなふうに依存しあって生きているんでしょうか。

希望という言葉ですが、私は「望み」として捉えているようで、言い換えれば「可能性」かなぁと思います。逆に言えば可能性がゼロだと思ったときには、希望もない。で、諦めて別の手立てを考えるかも(笑)
from. 華 / 2010/02/11 12:38 AM
>「回復できる」という希望がなければ、一歩も動けないと感じたことがありました。

ふーむ
体調が心の病なのか、身体の病なのかわかりませんが、
私が心が原因の体調不調に陥ったときは
「もう治らない、諦めよう」
と思ったら、元気になり始めました。
from. ひまわり / 2010/02/10 3:53 PM
人に対してではないのですが、以前大きく体調を崩したときに、
「回復できる」という希望がなければ、一歩も動けないと感じたことがありました。
思いつく限りの希望(治療法や身体の知識)を探り、なんとかはい上がったような次第です。

今わたしの希望することは、やはり、
現実を生きる中で、自分を含めあらゆる存在の居心地がよくなっていって欲しいということです。
大層ですが、本気でそう思います。

一方では、人に期待したりされたりせずに、もっと楽になれる考え方もずっと探し続けてきましたが、
いざ、「あなたに期待していないし、あなたとの関係に希望も持っていません。だから安心して」
そう誰かから言われた時に、(言われなくとも感じた時に)「もーしんどいしんどい」と感じ続けてきた自分の心はどう動くだろうか…。それについても思いを巡らせたりしています。

期待しないことは、関心がないということでもあるような。
やっぱりそれがさみしいのかな……。
from. 雫 / 2010/02/09 11:48 PM
希望という言葉、わたしは「こうしたら前向きであったり、自分も周囲も認めてくれる状況」に進むとき、進もうと思うときに使っています。

去年の夏、無職で精神的金銭的にもダメージを受けていたときに、ふつうに仕事して自活して精神的に安定して暮らせたらいいなと願ってました。

希望という言葉でまずそのときのことを思い出しました。
自分の力ではどうしようもなくて、八方ふさがりなときにふと視線をやる場所のイメージ。
マッチ売りの少女が、暖を取りながら見た幻影のようなもので、まっとうに働けたら安心できるんだ…いいなあ。いつか行けるのかな。というあるかないかわからない場所を思う感じです。

イメージ、としたのは、実際にこのときに心の場所を広げて、呼吸を楽にしてくれたのはこのブログだったからです。

こうでなければいけないと自分で自分を縛りつけていたことをいろんな方向から指し示されて、わたしが思う「まっとう」を仕事の選択においても手放したら、他のこともだいぶ楽になりました。

ちょっと尻切れトンボになりましたが、最近わたしが使った希望について、とりあえず投稿しておきます。
from. たたみいわし / 2010/02/09 10:42 PM
 僕が希望と読んでいるものは、なにか新しいことを始めたり感じたりしたときの、フワフワした感じのように思います。
 友達のコンサートに行って、すごい演奏を聴いたりすると「自分もやってみたい」「できるかもしれない」と感じて、気分が一気に上昇したりします。ホコリを被った昔の楽器を持ち出したりして、練習曲をさらったりもする。
 でも、そういうのは、始まったのと同じくらい突然に、ふっと消えてしまう。「今回も失敗したなー」という後味の悪さだけが残ってしまいます。
 お客様意識、というのでしょうか。希望という言葉からは、責任を感じない。責任がないということが、受動的であることよりも、深い問題のように思います。
 僕は、何を希望しているか。自分の努力によって届くものは、希望していない気がします。自分にはどうにもできないもの(他人のこと、過去・未来のこと)が、自分の努力と違うところで勝手にうまくいって、今の自分が楽になることを考えている。それが外れると、一瞬がっかりするけれど、結局は「またか」で終わる。で、同じことを繰り返す。
 いつまで経っても、自分の身体に組み込まれてこないものが、希望かもしれない。少し長くなりました。
from. 海巳 / 2010/02/09 2:13 PM
なんかワールドワイドな展開になってきました。
海外にでないと日本人の心の特性はなかなかわからないでしょうね。



ひろさん

禅との違いを見いだそうとして、かえって共通点を見つけてしまったのですね(笑)。

禅というのは、身につけるものではなく、手放して行く過程だと思っています。
だから共通点があるのではないでしょうか。

身体は面白いですね。どこまでも発見があって。
私は身体については、子どもの頃から才能と根気がない。
言葉のことをやれ、と言われている気がします。


泰三さん

頭で整理しようとしないでください。心で感じて、でてきた言葉をそのまま教えてください。
from. 村松恒平 / 2010/02/09 11:24 AM
新たな展開を楽しみに、毎日内容を追っています。(ただの一読者ですが、村松さん、本当にありがとうございます)

当方同じゲルマン語圏ですがオランダ在住です。ひろさんの投稿に、在外日本人としてうなずくところもあり、ドイツとオランダの国民性の違いにうなずくところありです。

オランダに来てすぐに、「どうして私の身になって考えてくれないの?」と、当時の彼に言ったら、「僕は君ではないので、君がどう考えるのかなんて、僕にはわからない」と言われました。大変ショックでしたが、それは一種の開眼でした。確かにそうです、人がどのように考えているかなんて、他人にはわかりません。言葉や行動で伝えても、伝え切れてない可能性の方が大きいです。

それ以来、期待の仕方のモードを切り替えて、オランダ人というか、他人とのコミュニケーションでがっかりが減りました。オランダ人的「ダメで元々」精神で、やれることをやる、ある程度やってもダメなら別な方向、方法でやってみる、それでもダメならさっさと諦めて、違うことを始める。

もちろん、オランダ人全員がそうだとは言いませんが、私がオランダで学んだオランダ人の良いところだと思います。

それでは、読者に戻ります。。。
(コメントされてる泰三さんって、あの泰三さんなのかしらと思いつつ。。。)

from. / 2010/02/08 9:28 PM
昨日、お坊さんの言葉、忘れてたことがあったので、「この状態・・」の説明に、「禅では禅定、仏教では定、一般的には、三昧と、呼ばれています。」と、返事をもらいました。三昧なら解る。誰でも経験できる筈、と思ったのが、禅に深入りしなかった理由です。(指導者なしで、訳わからない境地に入り込むのも怖かったし)

禅の本読んで、それまで居合やお茶の時話した内容が、沢山出ているのを見付け、「ワーすみません!違うなんて言ってごめんなさい!私の知識不足でした。」と、今までに去って行った人たち探し出して土下座したい心境だったことも、忘れてました。(12年前のことです。)

話戻って、三昧ということ、(勉強不足というか、余り訳わからない言葉、頭に入れたくなくて、本読んでません
が、)同じ夢中になってやってる事でも、三昧の状態と、中毒の状態では、心が違うとおもうのです。三昧知ると、中毒状態の自分を不快に思うのじゃないかな?と、(感情や思考が自分している時には自覚できませんが。)

希望や期待は、中毒状態や、不満たらたらの自身に内側から、「三昧の方にむいてよ!これ、違うんじゃないの?!」
と呼びかけているのでは?などと、ま、欲望満たしたり、恐怖から逃れたい人の方が多いのしょうが・・・

昔、お茶習ってるドイツ人大学生が、「お茶の稽古の帰り道、毎回<今まであったのに目に付かなかったもの>を発見し、感動と驚きがある。頭すっきりして勉強もはかどるので、試験の前稽古があると、助かる。」と、お茶続けている理由言ってました。このあたりの返事で、満足しています。私、お茶と居合、形を残すつもりはなくて、これ通じて、人それぞれ、自身が三昧できる道具みつけて欲しいというのが目的なのです。

中毒より三昧のほうが、安上がりですよー!健康にも精神衛生にもいいですし。

from. ひろ / 2010/02/08 8:44 PM
何日か前から「期待」や「希望」について考えたり書いてみたりしていましたが、ひろさんのコメントが面白すぎて(興味深いという方の面白さです)、自分の考えそっちのけで一生懸命読んでしまいました。

職人さん等、腕はすごいけど、例えばカルチャー教室の先生のように上手に教える訳ではない人って多いですよね。

そういう方の頭の中を見たような感じです。
from. MT / 2010/02/08 10:43 AM
お返事ありがとうございます。  

>ドイツ人が頭から入るというと、オイゲン ヘリゲルの「日本の弓道」を思い出します。

そうなんです! 私こちらで居合道教え始めて2−3年の間、そのヘリゲルの本持ってきて、「ここに、あなたが今まで話したこと、全部書いてある」と、本やら、コピーやら置いて行きました。

そのうち、「あなたは、居合やお茶を通じて禅の精神や仏教を我々に伝えている。」などと言い出す人が増え、「違う!私は宗教とは無縁!禅なども関わったこと全く無い!」「本なんか読んだら駄目!」「人の言葉はその人の体験のカスなんだから、自分で体験したこと、未熟でもへたくそでも表現しなさい。未経験のもの他人の言葉で先に頭に入れたら駄目!」などと、言えば言うほど、禅に関する本を読み始める人が、増え続け、<悪循環>でした。

頭にきたので、「自分で、禅と、居合やお茶の違いを見付けてやる、と、接心に参加したところ「これだ。」と思う境地を見つけました。日本のお坊さんに、「これなんです!これ、知ってもらいたくて私ここで居合とお茶教えてるんです。この状態、日本語で何といいますか?」と訊ねると、「禅定と言います」「ちぇっ、また禅という字が付くのか」と内心がっかりしていると、「仏教では、一般的にジョウと呼んでます。字は、定規の定です。」と、返事を貰いました。

「この状態」とか、内心の「ちぇっ」にまで、返事が貰えるのがありがたかったのです。日本にいたら、このありがたみ、わかりませんでしたね。  

 禅入門の本読んで、「言葉は月を指す指だから、月を見つけたら、もう指はいらない」という内容を見つけ、「ヨーロッパの人たちって、何十年経っても人の指ばかり見比べているんだね、今まで指導にきた日本人の先生方に同情するよ」と言って<悪循環>から抜け出せました。

悪循環にはまるのは、成長の段階かも知れません。

私は、禅は数年でやめましたが、私の周りから、「禅をかじった」人は居なくなり、20年以上禅を続けている人がのこりました。 内容わかってるけど、言葉を知らないバカ先生、というわけで、言葉にたよる人が、離れていったわけです。         文章にしろ、音楽にしろ、絵画、その他、血となり、肉となるには、20年はかかるのかな? なにか身(頭でなく)に付いた人には、心が通じるのかも、とおもいます。       気功や、太極拳教えている先生方は、お茶のお手前みて、「ゆったりくつろいでいるのに緊張感もある、こういうのはヨーロッパには無い!私には、初めての経験だ」と、雰囲気や、心と体の状態を体感出来るのだから、「以心伝心」って、無理ではないみたいです。

村松さんが言葉を解体しているように、私は、体を解体しています。

ドイツ語のことわざに、「人を指さす人は、3本の指で、自分の指を指している」というのがあり、これ言えば誰もが自分の言ってること恥じて、口論になると、「お前は・・」と指全部相手に向けるから大笑いですが、一本一本の指が、体のどこに通じているか?と自分で見付けてもらってます。例えば、少し重い椅子など、両手で持ち上げる時、小指を意識する場合と人差し指を意識する場合、という具合に。ドイツ語使ってる人は例外なく
椅子の重さが違うとかんじますが、日本語しか話せない日本人には、違いが判らない。こちらで、西洋人と結婚し、20年30年こちらで英語やドイツ語使ってる人には1本ずつの役割が判るという、面白いことを発見しました。

文化の違いに絶望した時期もありますが、内側から湧き上がってくる喜びや、アイデアは、殻の固い人の方が大きいみたいなので、挫けながらも、思考錯誤で、体への問いかけを、続けています。(こちらの人は、「内側への道」という風な呼び方をしています。)

喋るとすぐですが、書くと、長いですね。   今日はこの辺で。
from. ひろ / 2010/02/08 3:27 AM
希望や期待は逆に言えば、今が満ち足りていない、今よりもっといいものがあるはず、と嘆いているようなもの。だからあまり見えない先のことに気を取られているよりも、今ある周りのものに気を配って、希望や期待に頼らなくても楽しく生きていこうよ。ということでしょうか。
from. 泰三 / 2010/02/07 10:53 PM
ひろさん

ドイツからありがとう。

居合道、いいですね。
私もいま自己流の抹茶道にはまっています。

ドイツ人が頭から入るというと、オイゲンへリゲルの「日本の弓道」を思い出します。

合理主義者に不合理の領域を教えることはまことに興味深いです。

>「悪循環」はドイツ語で「悪魔(憑依霊)の輪」という意味で、1つのことしか頭にない状態、同じ失敗をそれしか他にないと信じて繰り返す状態。

このドイツ語表現は、とても面白いと思いました。

よかったら、またいろいろ書いてみてください。
from. 村松恒平 / 2010/02/07 9:48 PM
はじめまして 私、海外で居合道と煎茶道を指導しながら細々と生計立てています。20年、日本に手紙書くことも、ほとんどなく、日記もつけていないので、(高校3年の時、それまでの日記帳、全部燃やしました。小5、日記に書いても書いても正直な自分が表せない!飾ったり誤魔化したりしようとする自分が、次から次へと出てくる!と、ショックと共に、「言葉は嘘をつくためにある。」と決め付けて、言葉での究明を諦めました。11歳で諦め、18歳までは書いていた訳です。) 書きなれていないので、変な日本語使ってしまうことお許し下さい。              

  先日の、「人に期待してはいけない」のテーマについて、依存関係が長くなり、「これ以上この関係が継続すると自由を失う、自分も相手も潰れてしまう!」とか、「相手は喜んでいるけど自分はちっとも嬉しくない。」と感じると疲れる、というか、疲れは、心が壊れる前のメッセージではなかろうか?と思います。居合もお茶も、手足と腰が息で繋がっていないと格好つかないので、ここ10年基礎練習ばかりしてますが、主体性のない人は離れていきます。ドイツ語圏は頭から入ってくるので、「頭空っぽにして下さい」と言葉で言っても無理だから、(腹式呼吸のできない人が多いのには驚きました)呼吸、姿勢、動きを、だんだんと下に下ろして往く訳ですが、何かが頭から離れない人は、何年経っても変わりません。「悪循環」はドイツ語で「悪魔(憑依霊)の輪」という意味で、1つのことしか頭にない状態、同じ失敗をそれしか他にないと信じて繰り返す状態。それがその人にとって全て。つまり、周りも自分も見えない訳だから、そんなものにこれ以上お付き合いできません。と、切ってしまわないと、自動的に消耗してしまう。 で、「もう、あなた達には、何も期待しない、こんな中でも自分の足で立ってエネルギー消耗しない、それだけ自分で気を付ける、」と、「期待しない」と、言葉を発する度に、グループ全体がレベルアップしてきました。数年に一度だからこそ効果がある訳で、毎年言ってたら、本気には受け取ってもらえないでしょう。厄払いの様な効果かな?と思っています。   

昨年夏、コミュニケーションの大切さを思い知った頃、中古のコンピュータを知人からもらい、文章学校のメルマガ登録すると、<心が大事>が即、始まりました。なんだか、私が居合の指導中言ってることに似ているなー(ドイツ語だけど)と、親近感を持ち、日本に帰る人に<秘伝><文章王><書く人><達磨>の4冊買ってきて貰いました。<達磨>は、今、居合習ってる人たちには、静かな感動を味わって貰えそうなので、(英訳ついてるし)さて、誰に貸そうかな?と、思案中。<秘伝>にも、ドイツ語で思いつきで喋っていたことが、そのまま日本語になってるみたいと思える内容がよく出てきて、(同年代の人かな?と思ってたら・・1954年生まれでしたね)
文章王と書く人も、これから楽しみに読ませていただきます。  今まで言葉から離れていましたが、小学生並みの語学力で、心とか、魂とか、精神とか無心など、訊かれるままに腹たてながら説明していてことで、無意識に自分を磨いてきたのかな?とおもっています。

話それてしまいましたが、村松さんのどこが、親近感覚えるのだろう?と思っていたら、言葉ひとつひとつバラバラに解体して、また、元の文章に戻せる、というところだと、今日気が付きました。固定観念は人それぞれ違うので、言葉尻つかまえて、ひとつひとつ、誤解を溶かして、また、元の文章に戻すというやりかたを、私はメルマガではなく、電話やレストランで、長々と、怒鳴りながら、ため息つきながら、対話して、お互いに、傷つけながら、慰めあいながら、笑い飛ばしながら、磨きあってきたのだなあ、と、おもえました。こんなに言葉を解体出来る人、日本人には珍しいと思います。
これからも、楽しみに、読ませていただきます。    小さな枠なので、今書いたものが、長いのか短いのかもわかりませんが、書いているうちに気がつくことが出てきたので、何か、書く習慣をつけようかなと思いました

まとまりのない文ですみません。
from. ひろ / 2010/02/07 8:28 PM
Trackback
この記事のトラックバックURL: http://kokorogadaiji.jugem.jp/trackback/162