INNER LIFESTYLE DESIGN
 〜ナチュラルに生きる方法論序説
期待と希望についてさらに考える
 たくさんのコメントをいただいて、楽しみな展開になってきました。

というのは、私が何らかの結論をはっきり持っている事柄ではなくて、リアルタイムでみなさんと同期していっしょに考えることができるからです。

こういう状態は、パチンコで言ったらビカビカと光って音が鳴っている状態、確変中(というのだと思う)のようなラッキーでハッピーだと思います(笑)。いや、それ以上ですね。


今回は、コメントの中で主要であった次のようなことについて考えましょう。


*


>投影はぜひやめたいのですが、期待はどうなんでしょう…。

期待する心は、希望でもある気がします。


*


>私は「誰かに理解してもらえる」ということを期待していましたけど、これも適わぬ願いなのだ、と、言い聞かせています。


それはある意味本質を突いたことなのですけど、

それでもときに寂しいなあ、と思うときがあります。


*


>期待することは人にとってベースにある希望のように思われることですね。

 期待はできるだけしないように、というのは厳しい。なんというか、「精進料理を食べれば健康になれる」みたいな、「分かるんだけどー!」という実感があります。

 でも、人への期待でただれてしまった胃を修復する意味では、重要だと思います。



**


期待がなくなることは、希望を持たなくなることとイコールではないか。それはさびしいことではないか、という意見ですね。


これを考えるときに、私はまず


・「希望と期待は何が違うのだろう」、ということを調べるのです。

・それから、「『希望を持つことはいいことだ』と当然のこととして語られていることは、本当だろうか」、ということも調べます。


調べるというのは、辞書を引くのではなくて、自分の体験や心の中で調べるのです。


私はあまり希望という言葉で物事を考えたことがありません。

たとえば、このブログで実現しようとしていることは、私は希望しているというより、意図しているのです。意図して行為しています。

意図が成功したらいいな、とは思いますが、それはどうも希望という言葉ではしっくりこないのです。

むしろ野望、といったほうがしっくりします(笑)。

でも、野望というのは外から見た言葉で、自分から野望するとはいいませんね。


そういう希望音痴の私ですから、希望とは何かを調べるのに皆さんのお力をお借りしたい。


抽象的に考えるのではなく、自分の中を調べてください。次のような順序でします。


いま、現在どのような希望を抱いているのか?

過去にどのような希望を抱いたことがあるか?

その希望は満たされたか、どこにいったか?

そのように見渡したとき、希望することは自分にとってよいことだったか?


このように考えて行くと、希望というものの輪郭が見えてくると思うのです。


それから、希望と期待は何が同じで何が違うか、ということを考えるのです。


その結果を教えてください。


*


それから、人に期待してはいけない、という場合、純粋に心の領域に限定していただきたいのです。

(但し書きというのは、書いて行くと非常に煩雑になって、本筋がわかりにくくなってしまいますから、なるべく省略したいのですが、この場合、仕方ありません)


たとえば、上司が部下に、発注者が仕事先に、よい品質の仕事を期待し、管理するというのは、これは社会的な関係、経済的な関係とも絡んできますので、純粋ではありません。

それは直接的に心の消耗ということには関わりません。


もっと心の根幹の部分で何かを他人に期待するということについて考えていただきたいと思います。




*


けっこう考える手続きがあるものでしょう?


私にとって、書く、考える、というときには、いつもこうしているのです。


考えるも、書くも、言葉という道具を使うので、その道具を吟味しなければなりません。

職人さんの世界では、自分で自分の目的に合った道具を作る、自分の手や身体にあった道具を作るということは珍しいことではありません。

そうしなければある程度以上、精緻な作業はできないのです。


言葉という道具も同じです。

使いながら、吟味して、研ぎすませていかなくてはいけません。

また自分の身体の一部のように自由自在に操れないといけません。


言葉を研ぎすませるにはどうするか、というと、石を研ぐのに他の石や金属を用いるように、他の言葉と当てるのです。


「期待」「希望」。似ていますが、二つ言葉がある以上必ず違います。


同じところはどこか、違うところはどこか?

そのように意識的に照らし合わせることによって、言葉の意味やニュアンスの輪郭がくっきりします。

そのようにくっきりした言葉は道具としてより精度が上がるわけです。


「『希望を持つことはいいことだ』と当然のこととして語られていることは、本当だろうか」


ということを考えるときに、誰もが希望はいいものだと思うのは、希望の反対語として「絶望」という言葉があるからだよなあ、ということも考えます。


そうすると、「希望」と「絶望」は、幾何学的に厳密に正反対に位置するものだろうか? ということを考えます。

希望が+1であれば、絶望は-1の位置にあるか?  というようなことですね。

それはどうも怪しいぞ、という気がします。


では、絶望とは何だろう? と希望という言葉を研ぎすますのに、絶望という言葉とも摺り合わせるわけです。


そうして吟味していると、もろく崩れて道具としては使えない、使いたくない、という言葉もでてくるわけです。


*


日本の哲学用語というのは、おおむね海外からの輸入に頼っています。


つまり、他人様の道具を使って考えているわけです。

しかも、それを日本の熟語に訳しています。そのような概念を指す言葉の多くは、日本にはなかったので、造語されたり、他の意味だったものを援用したりして、間に合わせました。


そういう言葉で考えることは、日本人の日常と離れた別の空間を作り出してしまうだけで、生活を潤しません。


ふだん使っている言葉がいちばん大切なのです。

翻訳語は頭にあるだけですが、ふだん使っている言葉は、全身の細胞に染み渡っているので、じつはずっと強い力を持っています。

それを考える言葉に研ぎすませていくこと。

そこから哲学というものは始まって行くと思っています。


だから、あなたの中にある「希望」という言葉を調べてみてください。


*


言葉は道具と書きましたが、文章にしたときには、その道具自体が一つの織物の一部として編み込まれて本体になっているわけです。

そういう不思議な性質があります。


そして、私が考えていることがあなたに伝わる。

すごく面白いことですよね。



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Comment








人に期待するのは良いことと思いません。
俺は、人から期待されると瞬間的にのぼせますが、落ち着いてみれば決まって負担に感じ始めます。だから、なるべく期待されないように阿呆をよそおうことさえ少なくありません。
背伸びして見せて、周囲の期待を集める人物など見ていると、そのプレッシャーを糧にする特異な人種で、俺とは別の生き物ではないかと感じます。
だから、憎たらしい奴には思いっきり期待していることを公言したりすることも。
期待は信用と似ています。「信じてるからな」という念押しは、脅迫に近いと思います。
そういうわけで、身の回りの大切な人々には、余計な期待をしないよう心がけています。

ところで、言葉でいろいろ考えましたが、希望とか、期待との違いなどの輪郭というのは、こんな感じでしょうか。

裏切られるのは期待
挫けるのが希望

期待は他人によって満たされる
希望は自分が働きかけて満たす

一戸建てを持ちたいのは希望
好景気を望むのは期待

期待も希望も将来の結果予測

※いつかきっと秘伝Vol.4が出版されることを期待しています。初版本に直筆サインを希望します!
from. ×造 / 2010/02/06 11:26 PM
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