INNER LIFESTYLE DESIGN
 〜ナチュラルに生きる方法論序説
師というもの
 師と弟子という言葉には、先生と生徒という言葉とは決定的に違うものがあります。
知識の身体化の流れで師と弟子について何回か書きましょう(例によってあてにならない予定)。

師というものは、知識と人格が結びついているものです。
師という文字の原義は、師団、出師などの言葉があるように、軍を発するときのリーダーのような意味であったようです。
これが引退して若者を育成するようになったところから、先生に近い意味の師が用いられるようになったようです。

したがって、師と呼ばれる者のリーダシップは全人格的なものです。
師の教えるモノは、右から左への知識の受け売りではありません。
身体化どころか血肉化した知識です。
知識を頭に入れ、身体に入れ、応用し、評価選別し、いろいろな場面で試し、消化し、再構成したものです。
つまり、知識というものは、何か中正な、不変な何かではなく、人の経験を経由することで進化成長し、変化していくものなのです。

知識が変化するというと驚くかもしれません。
数学や物理法則などは普遍性があるわけですが、知識と呼ばれるものの中でそのようなものはごくわずかです。

たとえば、科学と言われるものは客観性がある、となんとなく信じられています。
しかし、たとえば、原子力は安全かという問題になりますと、安全だという学者も危険だという学者もいくらでも出てきます。

かつて日本初の公害病、水俣病が大きな被害を出したときにも、「水俣病は水銀が原因ではない」という御用学者がたくさんいたのです。

だから、法則には普遍性があってもそれを積み重ねた結論は恣意的でありうるということです。

これは、知識というものが世に思われているほど、いわゆる「客観的」なものではないという一例であります。しかし、師が教えるものが恣意的である、ということではないのです。

たとえば、価格.comで商品を検索すれば、同じ商品をいちばん安く売っている店がわかります。知識は、この「商品」と同じようなものではない、ということです。
同じ料理でも料理人が違えば味が違うように、師が違えば教わるモノも違うのです。

かつては大学を選ぶにも、「**先生がいるから」と師を慕って選ぶ学生がいました。今もそんな学生がいたら、その学生は見どころがあると思います。
私自身は、そんな見どころは全然なくて、非常に凡庸になんとなくイメージで大学を選んだので偉そうなことは言えません。

たぶん、人文系より理工系のほうが具体的に自分の方向と先生や専門分野を吟味している学生が多いだろうと想像します。

しかし、先生を見ずになんとなく何か教えてくれるだろうと思って大学に行って、あてがいぶちの授業を受けて、知識は固定的なものだと思っている、ということになりますと、授業もビデオで見れば十分ということになります。
あるいは、インタラクティブなパソコンシステムでもあれば、ゼミを除いた大学全体が巨大な任天堂DSになってしまいます(DSには学習ソフトがいろいろあるのです)。

そこに先生が人として居る、という意味は、そこに生徒が人として居る、というところからしか出てこないのです。
でも、大学で先生と生徒が人としてのお互いの個性を知り合う、という場は少人数制のゼミなどでなければ実現しないものです。

師と弟子、というのは、それ以上に人と人との濃密な関係なのです。



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