2009.11.10 Tuesday 11:06
昨日、禁を破って(笑)、ぽんさんのこんなコメントに反応してしまいました。
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>ただ恨みの感情だけは、エネルギーとして保存される可能性があります。
保存。
生きている今でも、自分は恨みを保存しています。
恨みを表現したくとも、相手がもうこの世に存在しない。
相手に届かない気持ちを表現したい、という欲求を、どう収めればよいのでしょうか。
生きたまま浮幽霊になっている気分です。
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ここにとても大切な内容があるからです。
非常にはっきりしています。
恨みを捨てたいとは書いていないのです。
> 気持ちを表現したい、という欲求を、どう収めればよいのでしょうか。
これは収まりません。
それはもう自分のもので相手のものではありません。
表現しても収まりません。
たとえ相手に復讐することができても収まりません。
恨みを持っている人は、必ず「捨てたくない」か「捨てられない」のです。
これは、そこに過剰にエネルギーを投資してしまっているので、ゼロに精算したくないのです。
株の世界では「見切り千両」と言われます。
自分の買った株が下がった場合、損を出しながら切ってしまう。
未練を持って、これをしませんと、株は半額以下まで下がるようなこともあります。
そうなると、売るに売れない「塩漬け」状態になります。
それと似ています。しかし、株はまだ回復する可能性がないわけではありません。
しかし、恨みは自分が捨てようと思うまで、なくなりません。
心を扱うときには、目に見える物質を扱うとき以上に言葉は正確に焦点を絞って使わないといけません。
ですから、最初の問いは
「恨みは捨てないのですか?」
です。そして、この時点で素直に「捨てる」という人は皆無に近いです。
そう言えるくらいだったら自然消滅しています。
そして、「捨てる」と決められれば、その先はさほど難しくありません。
次の問いは、
「では、いつまで恨みを捨てないのですか? あと5年? 10年? 死ぬまで?」
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今日は死んだ後、恨みがどうなるか、ということについて書きましょう。
「講釈師 見てきたような嘘を言い」という言葉がありますが、私も死後の世界を見てきたわけではありません。
死後の世界を語る書物は古今東西たくさんありますが、じつはその本質はかなり共通しています。それを総合して、なるべくシンプルなわかりやすいものとしてお話します。
霊の五感もない、記憶もない、自分というものもかなり失われている、という基本状態から始めます。
まず霊は肉体を失ったので、五感で得ていた楽しみを失います。
直接的に言えば、食欲や性欲です。
これはもう満たすことができません。
食べることやセックスを楽しむことはいいのですが、それに執着してしまうと、その執着だけが残ります。
生きているときと同様に飢えや渇きを感じるのに、それを満たすことができないで苦しむのです。
これがいわゆる餓鬼道とか、ある種の地獄に形象される苦しみです。
霊というのは、死後肉体を離れ、比喩として「上昇」していきます。上下左右の「上」には神様がいたり、おおよそ人はいい意味をこめていますね。
本来、死後上昇していくはずの霊が、見えない鎖で地上につなぎとめられている。その鎖の部分が執着になるわけです。
もう死んだら食べ物は必要ないのですが、それがわからないで、必死に地上にとどまろうとする。それがたいへん苦しいのです。
執着してはいけない、ということを肉体があるうちに学んでおかなかったことがそういう形で現れます。
こういう強い執着があって、上昇していかない霊が、文学や絵画でも、いわゆる幽霊、亡霊のような形で描かれています。
こういう霊がどうしたら上昇できるか、というと、もう必要ないということを自ら理解しないといけません。
弱い執着なら自然に薄れていくでしょうが、強い執着は火のようにメラメラと燃えて、最後の最後まで苦しみつくし、焼き尽くすようにしないと解放されません。
食欲、性欲など肉体的な渇望は、最も低いレベルで、そのあともあります。肉体のレベルではなく、心のレベルで、金銭欲、名誉欲、支配欲など、あらゆる霊界では不必要な欲望が焼け落ちるのです。そういう不要なものを捨てるに従って、霊は高みに昇っていきます。
だから、恨みも、死んだら終わりではなく、外に地上的な対象を求めている限り、ジリジリと自らを焼くような苦しみを肉体がない分だけ純粋に味あわなければいけません。
物質的な人生観では、どんなに苦しくても死ぬまでだ。死んだらチャラにできる、と考えられるわけですが、このような世界観だとそうは行かないわけです。
苦しまないで済むからと練炭自殺をする若い人もいますけれども、自殺は殺人と同様の最大の罪ですから、死後たいへんな苦しみを受けることになると言われています。
霊的な世界観というのは、生のサブシステムなのです。
コインに表があれば裏があるようなものです。
すばらしい演劇があれば、裏方さんやスタッフがいて、舞台裏も楽屋もあり、練られたシナリオがあります。
霊的なシステムがどのようなものか正確にこうだというのは難しいものです。
しかし、人の生というドラマは、演劇よりも何倍も複雑なものですから、それを支えている背後の精密なシステムがない筈がない、というのが私の考えの基本です。
そういう見えない世界を人はたくさんの書物で語ってきました。
くだらない読むに耐えない本もたくさんあるのですが、読むに値する深遠な書物もあります。それがほとんど共通のことを語っているのです。
霊界が生を支えているシステムであるとすれば、自殺はシステムの意志に反する行為になります。だから、そっちへ行くと苦痛であるという設計になっていて不思議ではありません。
そういう合理性を突き詰めていくところから、本来道徳律というものは生まれてくるのです。
だんだん本格的に抹香臭くなってきたので、これくらいにしますが、この程度のことを理解していると、雑な宗教にころりっとだまされることはありません。
そして、最初のコメントの話に戻りますと、つまり、恨みというものを抱いていたら、どこかで清算をしなければいけない。
誰かが取ってくれたり、自然消滅することはありません。
それは生きているうちに自分の意志で捨てたほうがいいということです。
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