2009.11.06 Friday 10:41
前回hamiさんが、浮遊霊の話をコメントしてくれました。
浮遊霊の話は後で簡単に触れるとしまして。
霊を見る、感じる、という人は聞いてみるとけっこういます。
いわゆる「霊視・霊感」といって商売をしているような人ではなくて普通の人です。
私の感覚では、40人くらいの学校のクラスであれば、2〜3人はいる感じです。
この人は見ていそうだな、と思って話をしてみるとかなり当たります。
私の感じた比率が正しければ、日本には少なくとも500万人以上、霊感がある人がいるわけです。
しかし、進んでそういう話をする人というのはごく一部で、あとは、言われれば話す人や、言われても言わない人もいるでしょう。
見える人にとっては、霊は特別、特殊なことではなくて、子どもの頃からもうひとつの現実として身近にあるのです。
そういう人にとっては、霊は疑いようのない現実です。
しかし、霊はあらゆる人が共通のものを見るわけではありません。
私たちの視覚であれば、そこにコップがあるといえば、万人が同意するでしょう。
しかし、霊が見える人同士には必ずしもこのような一致はありません。
むしろ、一致しないほうが多いでしょう。
したがって、信憑性が低くなるわけです。
これはどういうところに起因するか、と言いますと、霊は比喩としてしか現れない、ということがあります。
私たちの五感は、身体の器官に依存しています。
眼があるから見え、耳があるから聞こえるわけです。
しかし、霊感には眼に見えるこのような物質的器官はありません。
だから、視覚、聴覚という比喩を借りてイメージを定着させるわけです。
眼は光という波動に反応し、耳は音という波動に反応します。
しかし、霊は光でも音でもない波動なのですが、人が受け取るときには、眼か耳、あるいは匂いというものもあるかもしれませんが、身体器官と結びついた感覚に翻訳して理解するわけです。
たとえば、霊の言葉を聞く人がいるとして、その人は日本人なら日本語でメッセージを受け取るでしょう。
しかし、それが霊が日本語を話しているのではありません。
アメリカ人の霊能者なら、日本人の霊から英語でメッセージを受け取るに違いありません。
そういう翻訳の作業があるわけです。
たとえば、神のメッセージを聞く、というとき、神のメッセージは日本語ではありません。
一般的な意味での言葉でもないでしょう。
もっと1秒にも満たない瞬間のものです。
月も星もない漆黒の夜に稲光の一瞬、見えなかった風景の全体像が垣間見えるようなものです。
これをヴィジョンという言葉で呼びます。
この像は、言葉ではありません。
しかし、この体験を言葉にしたり、絵にしたりしなければ、人に伝える手段はないのです。
神のメッセージが立体だとすると、この地上に現れるときは、それを平面図に落とすような一面化が人を通してなされているはずなのです。
宗教的な書物は、つねにそういう努力をしてきたのです。
そういう構造を理解していないと、いろいろな事態を上手に解釈できないのです。
ここに翻訳作業のようなものがあるわけですから、当然、意訳もあれば誤訳もあり、妄想もあれば、意図的な操作も無意識の歪曲も容易に入り込みます。
したがって、霊について語られる言葉に共通性、客観性を求める作業は困難を極めます。
したがって、霊の存在を否定する人は、「存在するわけがない。客観的科学的根拠がない」、といいます。
霊の存在を肯定する人は、「存在する。なぜなら私は見た。見ることができる」と言います。
こういう両極の人は迷いがなくてよいのですが、両者が議論しても水掛け論になって、絶対に交差することがありません。
私は科学的根拠がないから(科学的にわからないから)存在しないとも思わないし、誰かが見たから、という根拠で存在するとも思わないのです。
では、どういう立場であるか、というと、前に書いたように霊は人間的な現象としては明らかに存在している、ということです。その本質には何があるかいつも考えていますが、その本質は世の中で思われているのとはずいぶんズレたところにあるでしょう。
心について語るときに、霊的な領域というのは、たいへん重要かつ興味深いものですが、また取り扱いがたいへん難しい危険なものです。
しかし、危険があるから得るものも多いかもしれません。
フグも「しびれるくらいがうまい」、といいます。
あまり深入りしないようにしながら、必要なことは書いていく、という姿勢でいこうと思います。
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この原稿はほとんど昨日、ギャラリーの番をしながら書きました。
ギャラリーバルコ
「おかえりバルコ 第三回【DRAGON ART】祭」
グループ展ですが、なかなか充実した展示になりました。
10日までです。
