INNER LIFESTYLE DESIGN
 〜ナチュラルに生きる方法論序説
不登校の理解
 不登校の理解

不登校の話題が出ましたので、一度基本的に考えてみましょう。

不登校については、「学校に行かなければいけない」という枠を一回外して考えるというのが、私の方法です。

そうすると、自然に学校に行く意志や主体性は、誰に、どこにあるのか? という疑問が浮かんでくるのです。

義務教育は、中学までですよね。

そうすると、高校に行くときに、子どもは「お父さん、お母さん、私はまだまだ社会人になるには十分に成長していません。勉強したいので、どうぞ高校にやってください」とお願いする儀式を行うのがいいのではないか、というのが私の考えです。
(ただし、我が家では「そんなの子どもがかわいそうだ」と家人に感情論で一蹴されて実現しませんでした(笑)。
ですので、純粋に理論として聞いてください)

高校に上がるときに、そのような確認作業がないと、誰の意志で進学するのか、わからないのです。親の意志か、子どもの意志か、世の中の意志か。
「なんとなくみんなそうするから」と高校、大学と進学すれば、7年間、子どもは意志がはっきりしない生き物として生きることになるわけです。
そして、不登校になるときも、そもそも自分の意志で行っていたわけではないので、そのことについて考えるための基準がないのです。
「なんとなく」行っていたから、「なんとなく」行ったほうがいいのだろうという気はするけれども、「なんとなく」行く気がしない……。

自分の意志で行っていれば「こういう意志で行っていたけれども、高校では十分に満たされなかった。だから、こうしよう」という方向が出てくるはずなのです。

不登校にならなくても、日本の若者は成長期のいちばん大切な時期を自分の意志ではなく、もやっとした「なんとなく状態」で7年間生きることになります。
これは、かつての日本社会では、まだ「なあなあ」で通用したかもしれませんが、今のアメリカナイズされたマニュアル社会では、本人にとって大きな損失です。
アメリカの社会は意志の社会ですから。

成功を目指す上昇志向の強い人は競争に参加して、なんとか社会の支配的な層に入ろうとします。それ以外の人は、格差社会になって、「社会の中間的な層になんとなくいる」ということが難しくなっているのです。
中間以下は、格下の「マニュアル通りに動けばいい人」「いくらでも交換可能な人」の層へと一括されようとしています。

つまり、「積極的に競争に勝ちに行く人」以外の人の存在価値が低くなり、あやふやになっているのです。
そういうことを直観的に分かっている子どもは、競争に勝つか負けるかの選択肢しか見えないので、悲観的になります。

それで世間は、そういう矛盾を「競争に勝て!」という叱咤で解決しようとします。
それで負けるようなヤツは仕方ない、という論理が次第に幅を利かせてきます。
サラリーマンの成功もののハウツーとかもすべてそうです。
「キミが勝てばすべて解決するじゃない? 方法を教えてあげるよ」と甘言を弄するのです。

しかし、同じ競争をすれば勝つのはほんの一握りなのです。
経済は限りなく発展するわけではありません。
これからは、金があるところに金が集まる現象が加速していくだけです。

だから、私は競争に参加しないでも、使えるお金が少なくても、楽しく生きる方法が5年後くらいには流行ると思います。今、もうそれが必要なのですが、流行るのはもう少し先です。

今までは、人々は競争に勝とう、より多くのお金を稼ごうと努力してきました。
でも、そういう努力が嫌いな人もたくさんいるのです。
不登校や引きこもりもだいたいそういう人です。

こういう人たちは不活性になっているので、自分を楽しくするアクションもあまり起こさないのです。
競争に参加する努力と、自分を楽しくすることは全然種類も方向も違うのですが、ではどうしたらいいか、という想像力が働かないのです。

何でもいいから自分の好きなほうに少しずつ動いていく。これが肝心です。
1日1ミリでもいいのです。
動かないと情報が入ってきません。
また自分の中に発見がありません。

若いときは、自分をいろいろな場に連れていく時間です。
どんなことが好きで、どんなことが得意か、何にどきどきして、何がやりたいか。
学校行かなくてもいいから、親のスネをかじれるうちにそういうことをたくさん試しておくことです。

そういうこともせずに、1年過ごしてしまうと、復学しても、1年下の生徒と同学年になります。そうすると、1年前以上になじみにくいし、なんとなくやましい気分になると思うのです。

不登校になってもいいけれども、そのときは自分が何がしたいのか、真剣に考えるときです。それも頭の中で考えるのではなくて、実際に少しずつ動いていろいろなことを確かめないといけません。
それは自分の意志で行うのですから、学校に行くこととは全然意味が違うことです。

昨日のメールでも、「自主制作映画を作っている」と書いていたので、少し安心したのです。そのように自分の意志で動くと、世界はただ一方的に与えられているときとは全然違うように編集されて見えてくるものですから。



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世の中からはみ出したら……
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いつの時代も、世の中の価値観とうまく同調できない人はいます。

程度問題だと思いますが、1つのクラスに3〜4人はいるでしょう。それから、大人しく授業を聞くような、うまく順応している大部分のまじめタイプがもちろんいて、その中間で、不良でもないけど、まじめとも言えないのが、私の時代にはクラスに4〜5人居たものです(私はこの中間層だったでしょうか)。

授業に全くついて来られない生徒もいました。
授業がつまらなくて、遊びたくて仕方ない、というタイプもいました。早熟すぎて、先生のいう言葉の浅薄さを見抜いてしまうようなタイプもいました。こういうタイプもわりと不良化するのです。
そういういろいろなタイプがいましたが、今のように多動症なんて病名はなかったのです。
病気自体がなかったのか、名前がなかったのか、よくわかりません。

とにかく、40人のクラスがあれば、10人くらいは学校ではややおさまりが悪いはみだし部分を持っていたのです。

今、そういうはみ出した子どもたちが、だんだん居心地が悪くなっているのではないか、と想像します。
はみ出した者同士の横のつながりもあまりなくて、バラバラになってしまっている雰囲気がすごくありますね。

そうすると、はみだした人は、なんとかはみ出していないフリをしないと、いじめられたり、仲間はずれになったりする。このブログのコメントを見ていても、そういう恐怖心を感じます。
平均値からはみ出したくない、ヘンに思われたくない、ヘンでありたくない、という恐怖です。

でも、どうしても多数派にうまく順応できない人は、各種オタクや、引きこもりや、コスプレイヤーなど、さまざまな存在形態を取るのでしょう。
でも、結局、一人になるのがコワいのは同じなのです。

アゲ嬢というのが流行っていますが、あんなに髪を盛り上げて誰も奇妙とは言わないのです。
みんなでやっているから。
みんなで渡ればこわくない、ということです。
誰もやらないのに一人でやったら、私はエラいと思いますが、世間は思わないでしょう。
かつてのガン黒とかもそうですね。
一般の中では目立って浮いても、その仲間の中では溶け込めるのです。
そういうふうにみんな仲間を見つけてツルんでしまいます。

ブランド商品を買う心理について、かつてこんな解説を聞きました。

「ブランドものを買う人は、ブランド商品のバッグを持つことで目立ちたい。けれども、またブランド商品をおおぜいが持っていることで価値観として目立たずに埋没したいのだ」

いちばんメジャーな枠組みはどうも居心地が悪いので逸脱したい→それであるグループに入ることで自己主張する→しかし、その中で突出して目立ちたくはない→その小集団の中で順応しようとする

こういう流れがあって、結局、狭い小集団に逃げ込むのですが、その中でも、ムラ社会のようになって、ボスができ、掟ができ、不文律ができたりして、その中で異物として排除されることを恐れいなければいけないことになったりします。
こうなると、話も人もみみっちくていけないのです。
もちろん、居心地のいい小集団だってあると思いますけれども。
ある中学生のグループの中では、メールが来たらすぐに返さないと仲間外れにされる、というような記事も読みました。
そういうのって耐えられないですよね?

そんな中にいたら、心の安定もないし、いつまでたってもその人独自の価値観など育ちません。

ドロップアウトするときは、とことん距離をとることです。
「一人になること」を恐れないでください。

一人になって、自分は何がしたいのか、何に向いていて、何に向いていないか、しっかり感じ取るのです。
早くそれを知った人は人生が充実します。

そして、自分の時間を有益に使ったほうが、やがて、ずっと意味がある人との出会いができるでしょう。
自分を確立するためには、しばしの孤独も甘受しなければならないこともあります。




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引きこもり脱出 オタクの解読
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引きこもり脱出6 オタクの解読

3回ほど飛ばして前から続きます。

昆虫の本ばかり読む話。

もし「3年間引きこもって、昆虫の本ばかり読んでいました」という人がいたら、僕はその人に興味を持つでしょう。「いちばん面白かった本は?」「昆虫について、いちばん驚いたことは?」いろいろな興味が湧きます。

しかし、「3年間引きこもって、ゲームとネットをやっていました」と言われたら、興味が湧きようがないのです。「いちばんはまったゲームは?」「モンハン……」そんな会話をしても、ちっとも面白くない。
モンハンが好きな人同士では、盛り上がるでしょうが、そういう話題はタコツボ化して、広がりがありません。

そういう単純なことです。
自分自身の興味を狭く突き詰めれば、財産を生み出しますが、時流に流されてエネルギーを散逸させてしまえば、なにも残りません。

昆虫なんて、オタクっぽいと思うでしょう。
これがオタクの原点です。
ファーブルだってどう見ても、昆虫オタクです。

オタクというのは、もともと誰も価値を見出さない小さな対象、世の中の隙間に情熱を傾けて、その細部を愛でたり、よろこびや価値を発見したものです。

しかし、今はすっかりカテゴリー化、商業化してしまって、その隙間にドヤドヤと普通の人がなだれ込んでしまいました。
すっかり、オタク文化というものが定着しましたが、もともとの意味は失われました。

今日は出かけなくてはいけません。
あまり時間がないので、この続きは次回に…たぶん明日、考察します。

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引きこもり脱出1 大感動より小感動
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「引きこもり気味の人が自分をネットやテレビのモニターから引き剥がそうとしたら何をすべきか」

第一に私は「図書館通い」を勧めます。

「なんだ、インターネットと図書館ではあまり変わらないではないか」と思う方もいるかもしれません。そういう方のために、前回【心には物質的モノサシは使えない】という法則を挙げておいたのです。
「あまり変わらない」の「あまり」の部分が、心にとって大変大きいのです。
その「あまり」の部分にどれくらい多くことが詰まっているか、一緒に観察しましょう。

他にも方法はありますが、図書館のいいところは、まず第一にお金が全くかかりません。
第二に、人とほとんど口を利く必要がありません。引きこもりで当面人と接点を持ちたくない人にも入りやすいのです。

図書館通いの利点をネットサーフィンと比べていきましょう。

まず図書館まで移動する、こと。

徒歩でいけるといちばんいいです。
歩くということで、血行や神経が刺激されます。

老人や病人が寝たきりになると、いっぺん衰えるという様子を見たことがあるでしょう?
歩くことは、じつにさまざまな身体の調節機能と関わっています。
そして、身体の調子が悪ければ、考えもネガティブになります。
血の巡りがいい、ということは、感覚も新鮮になり、頭も冴えるということです。

ネットをしていると、眼と神経に異様に負担がかかりますけれども、他の部分は使いません。全身の血行が悪くなり、肩や首の凝り、腰痛などが出てきます。

まずこのような身体に関わる差があります。

それから、外の空気、光に触れるということがあります。

家の中というのは、変化に乏しいのです。

新しい電化製品が来たり、少しずつは変わっていますが、ずっと近くにいれば変化に気づきません。
また自分の部屋があるなら、そこにも変化がありません。
引きこもりの人は部屋の模様替えというものをしないはずです。

なぜかというと、部屋は心の比喩、アナロジーだからです。

いつもきれいにしている人は、心の中も片付いているので、行動的なはずです。
いろいろなものが堆積している部屋にいる人は、心の中にもいろいろなものが溜まっています。
(だから部屋をきれいにするのが可能であれば、図書館通いよりもっと直接的です!)

私の部屋も超雑然としていますが、お客さんが来たり、パーティをやったりするときに極端に不快でない程度に(お客さんはどう思うのかわかりませんけど)片付けます。

部屋のアナロジーの話はまた機会があれば詳しく書くとしまして、そういうわけで、引きこもっていると毎日見ている景色も同じで、心に刺激がないのです。

そして、家族ともあまり話をしないケースが多いでしょう。
あまり突っ込んだ話をすると、言い合いになってしまうので、お互いにごく表層的なことしか言わない小康状態というケースが最も多いように思われます。
(そうでなければ、どんどん関係が悪くなっていく途中です)

だから、家の中には、心に対する刺激が少ないのです。

町を歩けば、新しいお店ができていたり、古い店がつぶれていたり、いろいろな変化を眼にします。このケーキ屋、ちょっとおいしそうとか、あの店は老夫婦でやっていたから、続けていけなくなったのか、とか、ちょっとした心の動きが生まれます。

そういうのも、感情が動く、感覚が動くので、「感動」と呼びたいのです。
心をいつもちょっとずつ動かしておく。
人の中にあるものは、動かさないと固くこわばっていきます。
心も同じで、いつも小さく動かしておくと凝ることがありません。

難病ものの映画というのは、作る人の気持ちも観る人の気持ちも全くわかりませんが、あれは「大感動」に分類されます。「大感動」というのは、嘘っぽいのです。
劇中人物に感情移入すると、その人が死んでしまう、というドラマ作りは、一言でいうと、「安易」という言葉になります。

しかし、それでも大感動を求めるのは、ふだん小さな感動をしていないからだろう。
大感動でグリグリと動かさないと動かないのは鈍った心です。

お店だけでなく、人の姿も面白いものです。その人の生活感情が表情やファッションに浮かんでいます。きれいな人、くたびれた人、あぶない人、じつにいろいろな人が観察できます。

それから緑の植物。大都会でもけっこう植物がありますね。
緑というと一つの言葉ですが、じつにさまざまな緑があります。
絵を描くようになって一段と面白く感じるのですが、色というものはとても不思議なものです。濃さ、明るさ、色味にあらゆる段階があります。

パソコンやテレビモニターに映る色は、いかに再現性がよくても、本当の色ではありません。現実の色は光の加減によって、刻々と変わります。

それを緑と呼んだとたんに、たった一つの名前になってしまうのです。

家から図書館まで歩いていく、それだけでいろいろと心が動くのです。
それには誰も注目しませんが、決して小さなことではありません。

目的意識だけを見ていると、図書館に行くまでは無意味な、モノトーンな時間になりますが、心という視点で見ると、その間にもじつに多彩なことが起きています。

このことだけで、だからどうだ、という大きな変化があるわけではありませんが、軽視しすぎてはいけません。
心という範囲で起きる現象はすべて関連しています。

物質世界で小さく見える要素が、心の中ではどれくらい働いているのか、これは注意深く観察しなくてはいけません。







 
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心を測れるモノサシは?
 心のことを書いていると、「このことを語る前に前提としてこのことを語っておきたい」ということが次々に出てきて、話が前に進むよりも、どんどん横モレ、横ズレしていくのです。

それは心が重層的な立体構造をしているからです。
それなのに、文章は線的に、あるいはせいぜい平面的にしか表せないのです。
したがって、平面をミルフィーユのように積み重ねて、平面として成立させると同時に立体像が浮かび上がらせる、という難易度の高い技をなんとか成立させたいと狙っているのです。
(この文章の平面をジャンプして立体性として表そうとするのが、詩であり、象徴なのですが、この話もまた話がまた別に流れてしまうからやめておきます)

というわけで、私は、
「引きこもり気味の人が自分をネットやテレビのモニターから引き剥がそうとしたら何をすべきか」
というテーマをずっと置いてきぼりにしてきたのです。
つながりがいいか悪いか、もう自分でもわからなくなってしまいましたが、このままだと居心地が悪いので、ここらで、宿題を片付けておきたいと思います。

でも、その前に一つだけ!

【心には物質的モノサシは使えない】

本題に入るまえにこの法則を理解してください。
精神世界のものごとを測るのに、物質世界のモノサシは使えないのです。

たとえば、子どもがつまらないことでイジイジと悩んでいたとします。
大人にとっては、あるいは当人以外の他人にとっては、その悩みはごく些細なことです。
しかし、当人の心の中は、四六時中そのことが支配していて、世界が終わりそうに苦しんでいるようなことがあります。

そのときにその悩みは大きいでしょうか?
小さいでしょうか?

本人にとっては大きい。他の人にとっては小さい、ということになります。

たとえば、これを客観的に見ると小さい、という言い方をしますと、その子どもが悩んだあげくに自殺してしまった、というときに見方を修正しなければならなくなります。
客観が何かではなくて、また客観が正しいわけでもなくて、外から見た大きさと、内から見た大きさと二つあるととらえたほうがいいのです。

心の中の世界には、固有の大きさがあり、それは簡単に大きくなったり小さくなったりします。
心の中で起きていることの大きさを測ろうとしてみてください。
それはいつも変化していて、物質的なモノサシにはかかりません。
とても単純なことですが、ここを乱暴にすると心のことは捉えられなくなります。

この法則が次に書くことの前フリになります。




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老人と社会デザイン
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赤ちゃんの自他の未分化の状態が悟りの境地に似ている、ということを書いたわけですが、この時期は目覚める前のまどろみにも似て、気持ちがいいのです。

といっても、気持ちがいいと認識したり、言葉を発する主体もないですから、気持ちいいという形容が近いだろう、と想像することになるわけですが。
生まれる前の状態から物質世界に降りたって、ゆっくり目覚めていく時間です。

こういう時間はとても大切なので、知識を詰め込む形の英才教育をして掻き乱してはいけません。
人としての枠組みをゆっくり形成させてあげないと、あとで何か支障が起きる可能性が高いのです。
しかし、そんなことを因果関係として観察してデータをとるのは難しいですから、学者はそういうことは言わないのです。私は学者ではないから、データなしでも、不自然なことをしたら、不自然な結果が起きるはず、という単純なこととして言うのです。

赤ん坊の対極には老人がいます。
赤ん坊が物質世界にフェードインしてくるのに対して、老年は物質世界からフェードアウトしていく時間です。

有吉佐和子は、「恍惚の人」というタイトルの小説で痴呆症を初めて描きました。
それまでは恍惚というのは、いい音楽を聴いたり、幸せや快感に陶酔してぼうっとしていることを指していたのですが、この小説ですっかり使われ方のニュアンスが変わってしまいました。

老人性痴呆症は、家族や周囲にとってはたいへんなことです。
だから、書きにくいのですが、じつは老いて現実感が遠ざかるのも赤ん坊のまどろみと相似形の人生の中で大切な時間です。

しかし、現代の老人はお金を稼ぐ現場から離れた途端に、急速に生きる意義を失ったり、所属するコミュニティを失って、あまりいいボケ方をしません。
だから、ときの総理大臣に「高齢者は働くことしか才能がない」と言われるのでしょう。
そして、老いの境地に入った本人も、いつまでも仕事があること、死ぬときはぽっくり行くことを望みます。
 
江戸時代の落語には、よくご隠居さんというのが出てきますが、裕福な商人などは40代で隠居することも珍しくなかったようです。
裕福ではなくても、大したお金を使わなくても、それなりの余生の過ごし方の文化があったと想像されます。

余生というのは、いい言葉です。
本の頁も余白があるから読みやすいでしょう。
まだ文字が詰め込めるからと、頁に余白のない本を作った人はいません。
それが人にとって快適なのです。

隠居した人が半分は世の中から身を引きながら、習い事をしたり、ちょっとした楽しみを見つける。
その人生経験から人が知恵を借りに来たり、半分はコミュニティと関わりを持っている。
そういう状態に自然に入れるような社会のあり方がいいのです。

今はお金を稼がなくなった途端に極端にいうと余計者です。
社会の構成員としての働きがばったりと無くなってしまいます。
ボランティアなど自分で動く人にはそれなりの世界がありますが、社会全体としては、やはり仕事に従事しなくなった老人に対して冷淡で排除的なデザインであるように思われます。

戦後の高度成長以降、国民総生産が右肩上がりにどんどん上がってきたようなことを言っていますが、そこで生まれた経済余力はどこに吸い上げられているのでしょうか?
なぜ老人はいつまでも働かなくてはいけないのでしょうか?

これは心のブログなので、あまり社会・経済問題に深入りしてはいけません。
しかし、心というものが社会の影響を受けないことはありえませんから、無関係ではありません。
社会のデザインを心のあり方から考えるのは大切なことです。

わたしが子どもの頃には、公園や道端にいつも声を上げて遊んでいる子どもたちがいました。
老人たちの存在もいまのように肩身の狭い感じはなかったと思います。
病院が老人たちの社交場というようなことが言われてはいけません。

子どもたちがのびのびとしていること。
老人たちが安心して余生を楽しんでいること。
子どもと老人の微笑ましい大らかさが人々の目に触れること。
働く人々が、いつの日が自分も裕福ではなくても、楽隠居をして人生の秋を楽しもうと思うこと。

そんなことが人の心を和ませます。
社会における心の余裕のバロメーターです。
日本社会は採点すればこの点では、20点から30点ではないでしょうか。

人というのは、だいたい成人する頃になると、自分が子どもであったことを忘れてしまいます。
そして、そのあと、30年間くらい、自分の身に老いが忍び寄るまで、自分もまた老いるのだということを全く想像しません。
老人というのは自分とは別の人種だと思っているのです。

しかし、子どもと老人にとって住みにくい国は、中間の年齢層にとっても住みにくいのです。住みにくい国は、そこから整えていけば、わかりやすいのです。

これはどういうことかといいますと。

工事現場によく「安全第一」という標語がかかっているでしょう。

建築の仕事をしていた人からうかがった話ですが、あの標語ができたことで、安全性が高まっただけでなく、仕事の効率も上がったというのです。

安全を確保するということは、現場を乱雑にしておかない、作業を秩序正しく行う、コミュニケーションをよくするなど、さまざまなことと結びついています。

あれが「効率第一」というような標語であれば、その場その場を急いでやっつけようとして、事故や不手際が増え、かえって効率も落ちるはずだ、というのです。

だから、今はどこの工事現場にも「安全第一」という標語がかかっています。

この標語と同じことです。
バリバリと生産に従事する世代に焦点を当てるよりも、「老人と子どもを大切にする」という一見ぼんやりした基準にしたほうが実は社会のことをずっと深く考えられるのです。

そのような眼で世間を見回してください。
きっと昨日とはちょっと違った眼で人の姿を見られることでしょう。







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赤ちゃんと悟り
 自他の境がない悟りの状態と言われても、頭ではわかっても今の私たちはその状態を作り出すことができません。

……できないでしょう、普通?

しかし、じつは誰でも一度はその状態を通過しているのです。
それは赤ちゃんのときです。

赤ちゃんには自他の境目はありません。
ジャン・ピアジェの発達心理学には、主体と客体が分かれていくプロセスがきちんと論じられています(私はかつて解説書の編集をしました)。

当然、赤ちゃんには自他の差別だけでなく、善悪も貧富も美醜もありません。
そのような区別差別がなくて、快不快の二分法だけが存在します。

お腹が空いたらギャアと泣いて、満腹すればニコニコします。

生命とは、もともとそうしたものです。
それが次第に区別差別の世界、物質と言葉の世界に成長とともに参入してくるのです。

コンピュータの発達した現代の文明は、このように世界を分別化し、分節化し、分析する方向ではかなりの高みに達しているでしょう。

DNAの分析技術などはその最たるものでしょう。
しかし、それで病気が治るか、無くなるかといえば、そんなことはありません。
大きな病院はいつも病人でいっぱいです。
病気は大して治っていないばかりか、新しい病気が年々増えています。

生命は自然であって、病気になることもある意味で自然です。
それに対して、人工的で分節化した知恵で対抗できるということ自体が虚構なのです。
医療は、いつも積み残しや矛盾がでるようなイタチごっこをやっているのです。

今の文明では、分析、分節化していく知性ばかりが発達して、総合・統合していく力が働かないのです。つまり、分析=バラバラにしていく力と、統合=一つにしていく力です。
これがほどよくバランスしないと人はハッピーになりません。

人が生きていくのに現実生活に適応するために具体的なことを考えると同時に、自分の生きる意味についてときどき振り返ったほうがいいのと同じようなことです。

そして、その統合には、人の精神について最低限の議論ができる基盤を共有することが必要なのです。

今、脳科学というものが盛んですが、これも分析科学の一つの頂点です。
しかし、ともすれば、心も脳の機能の働きの一つであると還元されかねない語られ方をしています。
これは人の精神にとって、非常に危険な考え方なのです。

これについて語れば、またいくらでも長くなってしまうので、ここでは詳しく書きません。
ただ、心は脳の従属物ではありません。
……と村松は言っている、と覚えておいてください。

いずれ順を追ってお話しましょう。







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悟りが5分でわかっちゃう!
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悟り、とは「差取り」であると、この世界(どの世界?(笑))では、よく言われます。

成績がいい悪い、地位が高い低い、お金持ちか貧乏か、容貌が美しいか美しくないか、サッカーがうまいか下手か、……などと、われわれの世界は、さまざまな区別差別に満ちています。
そして、それによって、我々は日々何かが上がった下がったと、文字通り一喜一憂しているわけです。

悟りとは、そういう差別のしきりを取り払ってしまうことです。

金があってもなくても、美人でも不美人でも人であればみな同じ、という態度を取ります。ただ態度だけでなく、心の中でもそれを全く分別しない状態です。

貧富、老若、美醜、善悪そういうものを隔てるしきり、測るモノサシがなくなってしまいます。

人であれば皆同じ、と書きましたが、それがやがて生き物であれば同じ、命あるものみな同じ、というところまで行きます。

これが徹底されますと、良寛さんのように、一本の竹の子の生育を自分の生活の下には見ないということになってくるのです。

昨日は大バカと書きましたが、これは通常の生活感覚からいうと、狂気という領域に足を踏み入れているとも言えます。
それは、行者の生活なので、我々の生活にそのまま飲み込むことはできません。
しかし、悟りというのが何事であるか、正確に知っておくことは悪いことではありません。

いろいろなものの差を取っていって、悟りの最後の段階は、何の差を取るでしょう?

最後には「自他」の差を取るのです。

わたしとあなた。
自分と他人。
自分と世界。
それの差別がなくなってしまいます。

そうすると、どうなるか?

人の精神は宇宙になるのです。
同時に生と死の間のしきいもなくなります。

喜びや苦しみを認識する個という単位やしきりはもうなくなって、私たちの精神は無限大の宇宙に広がります。

それが私たちの精神の本来の姿です。
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良寛さんの自由
 良寛さんは、子どもと無心になって遊んだという逸話で有名です。鞠をつくのが大好きだったとか、隠れん坊で子ども以上に夢中になって、子どもがすっかり帰ってしまったあとでも隠れ続けていたとか。

禅僧として、相当な学識もあり、修行も積んでいたはずですが、子どもと遊ぶときにはそんなことは邪魔にしかなりません。
むかし、「教養が邪魔をする」という言い方をしましたが、持っているものがかえって心の動きを邪魔してしまうことはよくあることです。
「自由とは失うものが何も残っていないこと」とジャニス・ジョプリンも歌っています。

良寛さんは子ども以上に子どもになれた。
子どもと遊ぶときには、学識も修行も全く連動しないのです。
これが自由人ということです。
連動がないことが自由である、というわかりやすい例です。
最初に自由とは精神の領域のことだ、と書いたのはこのことです。

良寛さんの庵の下に竹が生えてきた、という逸話もありますね。
私は子どもの頃、その竹のために床を切り取ってやった、というお話として読んだのですが、いま調べると、実際は、床を突き破って伸びるままにしていたらしいです。
そして、今度は竹が天井にぶつかってしまった。
こちらは破れそうにない。
それで天井に穴を開けるために近くにあった蝋燭で焼こうとして、庵ごと火事にして燃やしてしまったというのが元の話らしいです。

……バカですね。
これは子どものような大バカ(笑)。
子ども向けの本には危なくてそのまま書けない。
これが禅です。

禅の逸話というのはとても変でとても面白いものが多いので、私は大好きです。

本人も大愚と号していたので、自覚も立派なものです。

良寛さんの言葉として有名なものに以下があります。

>災難に遭うべき時節には災難に遭えばよく候
死ぬべき時節には死ねばよく候
これ災難を逃るる妙法にて候

今までこのブログでは、相対的な価値を空間的に並列していましたが、これは時間的なものです。

災難が訪れたとき、それまでがいかに恵まれていたかを思い出して嘆く、ということを人はするわけですが、これはよいときに比べて今が悪い、という比較、すなわち相対的な価値なのです。

また早く災難から抜け出したいと焦る気持ちも、同様に比較なのです。

そういう相対的な価値を新たに生み出すのではなくて、今生きているという一なる生命の絶対値に戻りなさい、というのが災難に遭ってしまいなさい、ということです。

災難と向かい合えば、必死の力が出ます。
しかし、逃げてしまえば、過去はよかった、未来はいいだろう、と心のエネルギーは今に向かわずに拡散して、かえって災難は長引き、苦しみは増えます。
災難そのものと、災難が生み出す心理的な苦しみの間に連動を作り出してはいけない、ということです。

数年前に病気をして入院手術をしたときに、私はこれを具体的に知りました。
手術はどう考えても苦痛です。
「何日に手術します」と宣告されると、憂鬱になります。
できれば手術なしで済ませたいのですが、そうもいきません。
手術の苦痛をあれこれ想像して不安になったりイヤな気持ちになるのは、商品の代金の他に消費税がつくようなものです。
ヘタをすると、消費税のほうが代金よりも高くなってしまいます。
どちらにしてもに避けられない苦痛なのだから、考えてもムダです。

言うは易し、行うは難し。
恐がりなので、全く想像しないわけにはいきませんでしたが、心が苦痛を作りだしていると理解したら、事前の苦痛や不安はかなり軽減しました。
すぐに「まな板の上の鯉」になれる人は、ずっと苦痛が少ないでしょう。

そういう構造を理解することが大切です。
理解しただけで、心はエネルギーの流れを変えるのです。

だから、あまりがんばる必要はありません。
ただ理解するだけでいいです。










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競争からドロップアウト!
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中学まで成績が学校のトップだったのに、全国の秀才が集まる有名進学校に進むと、そこでは凡庸な成績になってしまって、すっかりやる気をなくした、というような話をときどき聞きます。

競争というのは、そういう性質のもので、どこまでも自分が勝ち続けられるという幻想はどこかで裏切られることになるのです。

成績の良し悪しは、このブログでは相対的な価値の一領域に過ぎません。
しかし、本人が中学時代、あまりに優越感の果実を味わいすぎて成績に恃むところが大きすぎると、成績が落ちた途端に、「自分には生きる価値がないのではないか」と悩むことになりかねません。
自分から成績だけで価値が測られる世界に飛び込んだのですから、勝者の気分を味わった分だけ敗者の気分を味わうことになります。

喧嘩が強い人が格闘技の世界に進んでも、絵のうまい人が美術の世界に進んでも同じことが起きるでしょう。テレビに出てくる人は実力の差を努力ではね返したりしますが、人には器というものがあって努力でどうにかなる範囲というのは限られているということはテレビでは映しません。

今、国際陸上をやっていて、超人的な身体を見ているだけで楽しいです。でも世の中全体が勝者だけを褒め称え、競争を煽る方向に行っているのは心にとってはよくないのです。

生命活動も、創造活動も、本来非競争的なものです。
詳しく書きませんが、進化論でも、日本には弱肉強食、適者生存ではない、「棲み分け」という考え方による今西進化論というのがあるのです(これに関する議論はめちゃくちゃややこしいようですが、今西錦司氏ご本人の著作は読みやすいです。図書館などでどうぞ)。


競争の世界と非競争的世界、これが両方あるとわかっているならば、それでいいのです。自分の選択で競争的世界を生きているのならば。
でも、ともすると、競争しかないと思っている人がいるのですね。
競争からドロップアウトしたときに、どんな生き方があるのか。
それを開発するのが、心を考えるということの一側面であります。


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