INNER LIFESTYLE DESIGN
 〜ナチュラルに生きる方法論序説
SOSの本質
前回の父親に殺意を抱くというSOSメールの方から、またメールが来ました。



(以下メール)
------------
**です。またメールのお返事をしてくださってありがとうございます。
ブログでの回答も良いように思えてきました。
コメントを観て、自分と同じような人たちが大勢いることにすごく力を感じました。そういった人たちからの言葉を受け取れること。そして同じ悩みを持つ人たちのためになるのなら、自分をさらけ出してもいいだろうと思えました。

>このメールを読む限りにおいて、狂っているのはあなたではなく、お父さんのほうです。

この発想は自分の中にありませんでした。
そして救われた気持ちになりました。
自分ではなかったということに救われました。
なんとなく自分の価値が認められた気がして。嬉しかったです。

>父親に対してもっと冷たい気持ちになってください。
この人は狂ったメカニズムなのだ、と冷静に観察するのです。
本当に狂った機械であれば、相手と戦おうとはせずに、ただ性質を観察し、避けることだけを考えるでしょう。

>クズだと言いたいとか、傷つけたいと思うのは、まだ相手の人間性に期待しているのです。

>期待があれば、それは裏切られます。

この発想もなかったです。
自分は父親に対してまだ人間らしさというか、人間味があるんだという期待があったんですね…。
思ったのはまるで政治家に対して思うようなことと同じだな、と。
政治家に対して「まだ人間らしさがあるだろう」と思っても、カネだの嘘だのであっという間に裏切られてしまう。
だったら最初から期待しなければいいんですね。

ただまだ「親」というのが残っている気がします。
政治家ではなく「親」なんですよね。
父もよく言うのですが「縁は切れない」という言葉。この言葉が邪魔だと思うことがよくあります。
父ではなく友達だったら、縁を切れるのにな。むしろすぐに縁を切るだろうに。
父だから、家族だから、というある種情けのようなものがあり。
ただそれさえも捨てないとダメなんでしょうね、きっと…。

>なるべく接点を少なくして、刺激しないようにしましょう。
落ち着くまで学校に行かなくてもいいですから、学校に行ってないことはお父さんに知られないようにしてください
図書館なり、公園なり、映画を見るなり、時間を潰すのです。

この言葉を鵜呑み?というか感化されて、昨日は都市部まで映画を見て、図書館で小説のアイディアを練っていました。
休んでもいいのか、という思いもかなりありますが、それでも休んでもいいと言われたことが初めてだったので…。
ただやっぱりそのままずるずる行きそうで怖いので、しばらくしたらまた学校に戻ります。現に今日も行きました。

>高校を卒業したら、あなたはお父さんと別居したほうがいいです。
そういうことが経済的に成り立つかどうか、そのあたりまで相談してみてはいかがですか?
下宿して働きながら学んでもいいのです。
とにかく、今の状態は18歳くらいで終わりにする。
そういう期限をつけて 、今の状態をやり過ごすことです。
あなた自身の中にもそういう方向性と意志を育てることが大切です

これが一番難しいことでした…。
まだ親に甘えていて、バイトもしたことのない自分としては。ちょっときついですね…。
いろいろと言い訳して働いてこなかったんです。まだ病気が治ってない。そんな時間はない。と。

あまり触れてこなかったのですが、自分は高校4年生。19歳なんです。
定時制の高校で、そこは不登校生や中退者が行く高校で、やはり高校に入ってもいけれない人もよくいます。自分も高校2年・3年と2年間行けませんでした。だから今は事実上は高校2年生なんです。
それでいて、周りの人はがんばってバイトをしているんです。
まして自分の家は人より貧乏。働かないといけない。
ただまた父ですが「バイトしろ!」という言葉がどうしても…だめで…。
言葉の裏に「俺のために働け」というのが聞こえてくるんです。

また働くことに良いイメージがないというか…。
それも父です。父が仕事の愚痴を言うこと。
マイナス思考と古い考えで「仕事は苦しいもの」「金が全て」というのがあって…。
どうしても愚痴になってしまいます。ごめんなさい。


それとこれは言いたかったことですが、みなさんのコメントにすごく救われました。同じ思いを持っている人たちが自分のために言葉を紡いでくれることに感謝です。
自分がかろうじて自分として繋がっていた状態なので。
他者の言葉というアクションがなかったから。
ようやく自分が確認できたなと感じます。

やはりコメントを観ると、もういい加減お金を稼ぐ、自立するというのをしないといけないんでしょうね…。
苦しいですね。
未来が恐いです。誰だってそうなんでしょうけど…。
何か良いバイトがあれば。やってみたいですね。
自分の意思したいですよね、きっと。

そして親との関係を諦めないといけない。
違った苦しみがあります。
でも優しさを持たないほうがいいのかもしれません…。

自分は中学2年生(このころから不登校でした)から病院に通っています。
個人のクリニックで、そのころからのカウンセラーと医師に診てもらっています。薬をもらって毎日飲んでいます。アーテンとリスペリドンです。
相談はのってもらっていますが、実際統合失調症の他の患者を知らないので、5年近く通院しているのは長いのか短いのか分かりません…。
変な情のようなものもあって、病院を変えるのはどうなのかな、と思ったり。
あるいはインフォームドコンセントをするべきと思ったり。その時によって変わります。
症状が出るとなぜ治らない!と変化させようとします。
最近はまだ落ち着いているので。悪い意味だと進展があまりない状態です…。

すごく長いメールになってしまいました。
2度も答えてくださって本当にありがとうございます。
自分のことなのでまた送るかもしれません。
もしよかったら回答していただけると助かります。
ありがとうございました。




 ●村松コメント●


学校に行かなくてもいい、と言われたのは初めて?
そうか、世の中では誰もそうは言わないのですね。

私が「行かなくてもいい」と書いたのは、「すべてをあなたの意志で決めなさい」ということです。
つまり、あなたは自由にならなければいけない。
しかし、あなたは今、少しも自由ではありません。

今回のメールでいろいろなことがわかりました。
今回はあなたに苦言を呈さなければいけないようです。
自由に生きるための厳しい苦言です。
心を引き締めて読んでください。

誤解がないように、この意見も自由に受け取ることができるということを最初に確認しておきます。
あなたの匿名性は確保されています。
私はあなたに意見を言います。
しかし、あなたに対して一切強制する力はありません。
また、強制する理由もありません。
まっすぐに受け取られればうれしいけれども、受け取らなくても仕方ありません。
あなたが受け取るかどうかはあなたの自由です。

そういう構造を理解して読んでください。

*
さて、あなたは私の忠告に従って、ある日学校に行かなかった。
それはあなたの選択です。
しかし、次の日は学校に行った。

>この言葉を鵜呑み?というか感化されて、昨日は都市部まで映画を見て、図書館で小説のアイディアを練っていました。
休んでもいいのか、という思いもかなりありますが、それでも休んでもいいと言われたことが初めてだったので…。
ただやっぱりそのままずるずる行きそうで怖いので、しばらくしたらまた学校に戻ります。現に今日も行きました。

これはあなたの自分の意志を示したくない、という性向をよく表しています。

>鵜呑み?というか感化されて、

つまり自分の意志ではなく、私が言ったから休んだ、という言い訳を用意しています。

>休んでもいいのか、という思いもかなりありますが、

ここでもあなたは上手に判断を保留しています。
つまり、「休んだのが悪い」と言ってしまえば、今まで休んだのは何だったかと問われる。
しかしながら、「休んでもいいのだ」ということを自分の言葉で言ってしまえば、それはあなたの意志と責任になります。
あなたはなるべく責任からは逃れたい。
だから、非常に微妙な言い方を用意した。
「思いもかなりありますが、」とどちらにも逃げられるようにしています。

しかし、私は編集者であり、プロの文章読みなので、言葉の背後で心がどのように動いているのか、手に取るようにわかるのです。

>ただやっぱりそのままずるずる行きそうで怖いので、しばらくしたらまた学校に戻ります。

あなたは何が怖いのかというと、学校に行かないことではありません。
学校に行っても、「そのままずるずる行きそうで怖い」でしょう。
学校に行くのが当たり前だ、と思われることも怖いのです。
学校に行ってもいい、行かなくてもいい、という今の立場を失うのが怖いのです。

学校に行くなら自分の意志で行ってください。
前に書いたと思いますが、「自由」というのは、「自分の理由」ということです。
自分の意志というのは、授業に意味を見出すか、高校を卒業することに意味を見出すか、ということです。
どちらにも意味を感じないのであれば、行かないほうがいい。

行かないで、孤独と不安を感じながら一人で自分の方向性を考えたほうがいいのです。
世の中の大勢に従うのか、自由に生きるのか、どっちつかずでどちらの重荷からも逃げ続けていてはいけません。

自分の意志を放棄することで、ただ安楽なほうに流れている。それがいまのあなたの姿です。

>ただまた父ですが「バイトしろ!」という言葉がどうしても…だめで…。
言葉の裏に「俺のために働け」というのが聞こえてくるんです。

これはあなたが言ってはいけない言葉です。
その理由を説明しましょう。

前回、お父さんを「狂ったメカニズム」と呼びましたが、それは殺意を緩和するという緊急かつ最大の目的があったからで、今回、じつはじつに普通の人だと分かりました。

お父さんはあなたにたぶん似ているのです。

>「仕事は苦しいもの」「金が全て」

働くことがイヤで苦痛で仕方がないのです。

あなたがお父さんの立場だったら、と考えたこと、一度もないでしょう?

働くのに何の楽しさも感じないのに、家族と自分を養うために働いています。
ところが、自分の長男が学校に行かない。
高校に4年行っているのに、まだ2年生。
卒業する気があるのかどうかもわからない。
だからといって、アルバイトもしない。
進学する気も働く気も見えない。
自立する気があるということを示さない。
将来、自立する能力があるのかどうかもわからない。
襟首をつかんで締め上げたいけれども、統合失調症という病気があるために、どこまでが病気でどこまでが怠惰なのか、いまいちわからない。
お父さんは、自分が仕事が嫌いだから、息子もたぶんそうなのだろうと見当をつけています。
しかし、病気という最終的な逃げ場があるために、それを詰め切ることができない。
だから、いつもイライラしています。

未来が怖いのはお父さんです。
親というのは、あと教育費が何年かかる、養育費が何年かかる、しかし、それで子どもは自立する、それまで辛抱すれば楽になる、と考えるものなのです。
しかし、あなたは学校には行かない。自立しようという努力はしない。
ひょっとしたら、一生ぶら下がろうとしているのかもしれない。
それでいて、親には少しも感謝はしない。
それどころか、ときに殺意と憎しみに満ちた目で、自分を見ている。
たぶん、自分を見下している……

これでイライラしないのは、聖人かそれに似た人です。
イライラするお父さんはごく普通の人です。

わかりますか?

「俺のために働け」と言っているのは、お父さんではなくて、あなた自身なのです。

あなたがお父さんに「俺のために働け」と言っている。
それは恐ろしい支配です。

しかし、それを正当化するために、お父さんを劣った存在として見下す、というトリックを使っているのです。

心というものは不思議で面白い。
「俺のために働け」
というキーワードをあなたはお父さんのメッセージとして巧妙に文中に隠しました。
しかし、私には文章の中でこの言葉が異様にびかびかと光って浮き上がって見えたのです。
この言葉何だろう、と考えた結果、上記のことがわかったのです。

あなたは謙虚にならなければいけません。
お父さんは大嫌いな仕事をあなたのために(も)しているのです。
あなたは家族のために何もしていません。
自主映画を撮っていても、それをお父さんを見下す心理的道具に使ってはいけません。

もう一つとても大切なことを言わなければいけません。

それは、私にメールしてきたのは、あなたの「本心」だということです。
表層意識がどんどん自分に都合のいい心理的なトリックを作り出してしまうのに、もっと深いところにいるあなたの本心が「もうこんなのはイヤだ!」とアクションを起こしたのです。
これが今回のSOSの本質です。

だから、私にこれを言わせているのは、あなたの本心です。
私もあなたの本心に語りかけています。
病気の人にここまで言って大丈夫か、と思う読者がいるでしょう。
しかし、私は心配していません。
あなたはこれを受け取ることができます。

受け取ってしまえば、一瞬強いショックを受けても、あなたは肩の荷を下ろしたことに気づくでしょう。
今まで必死に取り繕っていたものを、これからは取り繕わなくてよくなったのです。
とてもシンプルに自分の足で歩くことができます。

自立の道を探り始めるか、あるいは、一生親にぶら下がって暮らしたいのか。
あなたは自分の意志をはっきりさせなくてはいけません。

後者を選んでも私はかまいません。
しかし、「ずるずると」ではなく、自分の意志で選んでください。
その場合も親を憎む、というトリックは捨ててください。
このトリックを持ったまま親に養われていると、おそろしい自己合理化と独善の道を選ぶことになります。
そして、社会とはまるで接点がもてない人間になるでしょう。

自立の道を探り始めるのは、よりよい選択です。
できるところまででよいのです。

あなたのメールからは、心理的抵抗を除けば、アルバイトすることは可能である、と自己評価していることがわかります。

簡単なアルバイトを週に1日2日でも始めてみるべきです。
始めるのが遅くなるほど、心理的抵抗は増大します。
コメントに次のようなメッセージがあったのは読んだでしょう?

>一つ目はバイトで、これが清掃のバイトだったのです。ほとんど人と会話をしないで、えんえんと身体を動かし続けました。すると、不思議と心が安らぎましたね。そのうち、道行く人を観察する余裕が出てくると、「ああ、世界は学校と家庭だけじゃない」という認識のゆとりがでてきました。
 こういうふうに非常にゆるやかに、身体のほうから順番に外に開いていくのがいいと思います。だから、村松さんの時間つぶしという提案には賛成です。ただ、バイトをすると、すごく小さいですが社会ステータスがつきます。周りの反応が少し柔らかくなるかもしれません。そのほうが気が楽なら、少し考えてみても……今の就職事情はよく分かりませんが。


あなたがアルバイトを試しに始めてみたら、それだけでご家族の見る眼は変わります。
あなたがあなた自分自身を見る眼も変わります。
一歩踏み出すことをお勧めします。

(この記事はコメント不可とします。ご意見ご感想はメールでください)。


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父親との関係 再SOS!
 「狂気」についての質問
http://kokorogadaiji.jugem.jp/?eid=72

でメールをいただいた方から、メールが来ました。

*****

狂気の質問をした**です。
またメールしてみたくてメールしました。
あまり言いたくないですが、愚痴っぽいといいますか、少し冷静になりたくてメールしました。

今日は学校を休みました。(高校です)
最近少しのことで休んでしまいます。今日は体育なのに体操服を忘れたという理由だけで帰ってしまいました。
そういうことで負い目を感じ、休みたくても休めず、さらに自主制作映画を作っていることから、少し疲れを感じていました。
そんな中父親がまた母親に対して文句を言っていました。パスタを作れ、と言って、作ると何で自分を呼ばないとかそんな感じです。

自分の場合、父親の文句は自分に対して言われたものだけでなく、母親や妹の文句に対しても体が反応してしまいます。
父はよく外で祖母と話すのですが、外で大きな声で家族の文句を言っていて、窓が空いているとものすごくよく聞こえます。
それが自分の文句であっても、母の文句でも、妹の文句でも、体が反応してしまいます。

今日はひどく、最近ブログで話していた、映像や言葉が浮かびました。
父親を包丁で脅す映像。
父親をものすごい勢いで殴る映像。
父親を普段言わないような汚い言葉で罵倒する映像。
そして言葉が浮かびます。
お前なんかクズだ。
クズにクズと言って何が悪い。
意味のないような言葉も浮かびます。
自分の名前を呼び掛ける女の子の声「**さん」と。

こうやって書いたり、少し時間がたつと落ち着くのですが、それでもまた明日にはちょっとの怒りが、1,2週間に1度、大きな怒り(殺してやりたい!)と思います。
この繰り返し自体に腹が立ちます。

前回、狂気の回答で「自分がメールでSOSを発している」と答えてくださりました。
ある種、このメールはSOSに近いのかもしれません。

勢いで書いてしまいました。申し訳ないです。
ブログに載せてもいいですが、もし回答を下さるのなら、個人的にでもいいかなと思います。
なんとなくですが、回答がほしい気がします。他者の意見がほしいといいますか…。身勝手なことを言ってごめんなさい。

少し落ち着きました。
また怒りや狂気が出ないようにできたらいいなと思います。
それでは。


●村松コメント●

個人的にお返事を書くべきかどうか迷ったのだけれども、ブログでお返事します。

私はこのブログを現在のところ、なるべく頻度高く書き続けようと思っているので、もらったメールについて、この先は、たぶん個人的に返事を書いていく余裕がないのです。

メールは歓迎だけれど、いわばこのように公開で考えていくことになります。
同じような悩みの人がいたり、親の立場で考えたりする人もいると思うからね。
個人的な返事というのが、希望なのか、遠慮なのか読み取りにくかったのですが、ブログでオープンにお返事するという姿勢をネガティブにとらないでほしいのです。
むしろ、いろいろな人に読んでもらえることを力として感じてくれたらうれしいと思います。

*

さて、本題です。
とても単純なことが言いたいのです。

このメールを読む限りにおいて、狂っているのはあなたではなく、お父さんのほうです。

病理学的な命名ではなくて、存在として狂った機械の歯車のようになっています。
その歯車が回る度に、周囲がギシギシときしみをあげます。
文面から判断して、たぶん、もはや誰かの忠告など聞く段階とは思えません。
その狂気はもう本人も含めて誰にも止められないでしょう。

あなたはその狂気の歯車にときどき巻き込まれてしまうのです。
しかし、これには絶対に巻き込まれてはいけません。

父親に対してもっと冷たい気持ちになってください。
この人は狂ったメカニズムなのだ、と冷静に観察するのです。
本当に狂った機械であれば、相手と戦おうとはせずに、ただ性質を観察し、避けることだけを考えるでしょう。

クズだと言いたいとか、傷つけたいと思うのは、まだ相手の人間性に期待しているのです。

期待があれば、それは裏切られます。

まず相手への期待値をゼロに近づけてください。
そして、なるべく接点を減らす。
それがいちばんよい避難の方法です。
同じレベルで同調してしまえば、とても苦しいし、やがて我慢できなくなるかもしれません。

期待値をゼロにしろ、というのはひどいことを言っていますが、ゼロにすれば、0,1でもいいところがあれば、それはありがたいということになります。
期待しようがしまいが、現実の値は変わりません。

なるべく接点を少なくして、刺激しないようにしましょう。
落ち着くまで学校に行かなくてもいいですから、学校に行ってないことはお父さんに知られないようにしてください。
図書館なり、公園なり、映画を見るなり、時間を潰すのです。

お母さんや妹さんは、たぶんずっと受け流すのがうまいのです。
もちろん、ストレスは感じていると思いますが、女性はそういうことは現実的ですから。
あなたが守ろうとするのは、間違いです。

とくにお母さんは、お父さんと結婚した当事者であって、あなたが思っているより、たぶんずっと強力です。
お父さんと同等の力があって、それを受容的に使っているのです。
だから、あまり被害者としてみてはいけません。

もっと根本的なところからお母さんに相談して見るべきです。
高校を卒業したら、あなたはお父さんと別居したほうがいいです。
そういうことが経済的に成り立つかどうか、そのあたりまで相談してみてはいかがですか?
下宿して働きながら学んでもいいのです。
とにかく、今の状態は18歳くらいで終わりにする。
そういう期限をつけて、今の状態をやり過ごすことです。
あなた自身の中にもそういう方向性と意志を育てることが大切です。

あとは、学校の先生、ソーシャルワーカーなど、年長で落ち着いた人で何でも相談できる人を身近に探したほうがいいかもしれません。

メールの文面からだけで言えるのは、そんなことです。


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家族 / comments(6) / trackbacks(0)
お母さんからの長いメール
不登校の娘さんのお母さんからメールをいただきました。

長ーいです。

けれども、素直に感じたことを書いておられるので、参考までにアップします。

本日はセッションが一件あり、これから出かけなくてはなりません。

博多セミナーの準備もあり、あれこれなんか忙しいです。






***

 村松恒平様
 
こんにちは。
 
以前15歳の娘の不登校について書いた私のメールを
村松さんのブログで紹介してくださってありがとうございました。
 
 
載せていただいたと知ったのは
メールをお送りしてから1週間ほどあとのことでした。
 
自分のことを書いたあとって、
なんだかちょっとした脱力感みたいなものがあって、
また私はよく夜中にテンションがあがって書くことが多く
そういうものはよく言われるように
朝になって読み返すとなんだか照れくさい(笑)。
 
そんな感じでちょっと放っておきたい気持ちがしていました。
 
 
もちろん書いたことは全部本当です。
 
 
実は村松さんがじきじきにコメントをしてくださるとは
夢にも思っていませんでした。
 
 
だからとっても嬉しかったです。
 
 
そしてもう少し正直に言ってしまうと、
ブログに載せてもらったこと自体が
すごく嬉しかったです。
 
 
結婚して一時期、
地元の新聞の投書欄に投稿するのにはまったことがあって、
自分の書いたものが載っているのを見て
すごく興奮したのを思い出しました。
新聞取りに行くときからもうワクワクしてました。
回を重ねるごとに、大体載るなぁっていうのまで
予想できてしまうようになって・・・。
だんだんと姑息になります。
 
でも自分が書いたものが人の目に触れるって
ワクワクしますね。
 
 
久しぶりにそんな気持ちを思い出しました。
 
 
 
そして、その後も引き続きブログで、
村松さんからコメントをいただけると知って
楽しみにしていました。
 
 
でもしばらくいろいろと大変な日々があって
その間、村松さんのブログのことを気にしながら
やり過ごしていました。
 
 
その大変になるちょっと前には
(日付でいうと9月12日あたり)
アマゾンで注文していた村松さんの著書が3冊届き、
私は読みたくてウズウズしていました。
 
 
13日に東京へ行く用事があって
(実はその娘と、東京ドームのジャニーズ系グループの
コンサートを観に行ったんです!)
 
3冊の中の1冊をかばんにしのばせて
出かけました。
 
(東京へは私の運転する車で行くことになっていたので、
本が読めるのはコンサート前のグッズ販売の
長蛇の列にいる間だろうな・・・と予想しつつ)
 
でもこれで楽しい待ち時間になるぞ〜って
ワクワクしていました。
 
 
ところがどっこい、
結局東京では、二人とも慣れない土地で失敗続き(泣)。
 
気が付けば、子供と喧嘩になって
マジで私一人名古屋に帰るわけ???
子供は警察に保護・・・??
 
っていうような状況の中、
私一人で都営の電車の中で
村松さんの本を読んでいるありさま・・・。
 
 
あ〜、こんなはずじゃなかったのに!!
と思いながら。
 
 
(結局仲直りをして楽しく帰ってきましたが)
 
 
あの日慣れない東京で
不安げな顔をして分厚い村松さんの本を抱えて歩いていたのは
何を隠そう、この私です!
 
 
 
・・・って誰も気づきはしないですが(苦笑)。
 
 
 
すみません、また自分の話になっちゃいますが、
1冊目に読んだ本には、
私の質問が2つも掲載されていました。
 
 
一つ目のは記憶にあったので、
「あったあった!」
という感じで見つけたのですが、
二つ目のは記憶になく、
最初は人の質問だと思いながら読んでいて、
やけに共感できるなぁと感じて
「もしかしてこれは私の質問か??」
と思いました。
 
 
一つ目と二つ目の質問のテンションが
かなり違うんですよね。。
 
 
でも過去の自分の質問を今読み返してみると、
そのとき等身大で疑問に感じていた自分と、
そのときは背伸びをしないとちょっとわからなかった村松さんのコメントが
数年の時間を経て変化・・・というか熟成しているのが
ちょっぴり感じられて面白いなって思いました。
 
 
こんなこと疑問に感じていたんだなぁ・・・と懐かしく思いました。
 
そして村松さんのコメントは
今の私にもまだ考える余地を残してくれています。
 
 
 
いろいろな質問があって、
どれもしっかりと読む・・というよりは、
折に触れて読んでいきたいと思うものもありました。
今の自分とあまりにかけ離れたものは
読んでもまだまだしっくりと来ない気がするものもあったからです
 
 
それでも、村松さんの回答には
深いものがたくさんあって、
忙しさにかまけつつ一度に全部は読めないなぁというよりは、
一度に読んでしまったら勿体無い気もしています。
 
ワクワクとした気持ちを持ち続けて、
いつもどこのページを開いても
どこかのページを開くだけでも
何か面白い話が読めそうで
久しぶりにどこへ行くにも
 
「あ、本、本!!」
 
と言っている私です。
 
 
もう待ち時間が楽しい。
 
 
この間は仕事がひと段落して、
ちょうど子供たちもいなくて、
一人リビングのテレビを消して、
静かなところで秋の夜長本を読む時間が持てたとき、
幸せだなぁ〜〜って実感しました。
 
 
 
ところでその後ブログが更に熟していて
久しぶりに訪れて嬉しく思いました。
 
 
そして1位に!
 
おめでとうございます!
 
 
私のポチッも効いてますね!!(微笑)
 
 
 
何より、村松さんのモチベーションがUPするのは
読者の私にとっても嬉しいことです。
 
 
 
大げさでなく、村松さんは私には理解のできないほど
すごく深いところにいる人です。
どんな風にしたらそんな人間ができるのか、
人間のしくみってすごいって思うほどです。
 
 
その人しかできないこと、
その人しか作り出せない物って
あるんだなぁと
人間ってすごいなぁと
あらためてジワジワと感じています。
 
 
だから村松さんにはずっと元気で
書いて欲しいのです。
 
 
 
その後も私に対してのメッセージとして
コメントをしてくださってありがとうございます。
 
 
子供にもぜひ読んで欲しいと思いました。
 
 
ぜひ読んで、自分で何かを感じて欲しい。
自分の頭で考えて欲しいと思います。
 
 
 
村松さんが、
「年齢は若いですが、彼女は今、必死で自分を確立しようとしているのです」
 
と言ってくださったこと、親として大切にしないとって思いました。
 
 
「親がそれくらい大きなシフトチェンジをすると、子どもも自分の生き方をじっくりと考えます」
 
「しかし、考えている途中で干渉すれば、子どもは自分の道を見つけられません」
 
 
とありました。
 
 
よく、子育てでは「手をかけないで目を掛けよ」
 
というようなことが言われますよね。
村松さんのブログにも同様のことが書かれていたのを記憶しています。
 
 
大丈夫かなっていつも気を配るけど、
大きくくくって細かいことは気にせず、
子供の自主性に任せるってこと、
今までの自分を振り返ると、
ちっともできてなかったんじゃないか?
って思います。
 
 
いろんなことが当たり前だと思っていたんですよ。
 
 
たとえば学校へ行くってことにしても。
 
 
誰が
「学校へ行かない生活を良しとする?」
と頭ごなしに思っていました。
 
 
理由なんて考えることもなく、行くのが当たり前、だと。
 
 
もちろんその一番の理由は
「みんなそうしているから」
 
「みんながそうしていることが正しいから」
 
 
だから、そうできないことや、そうしないことが
当たり前のように
 
「よくないこと」
「間違ったこと」
「心配なこと」
 
と思っていました。
 
 
自分でも高校のとき、家族や友達関係なんかで疲れてしまって、
学校へ行けない時期があったというのに、
本当にうわべだけでしか子供の不登校を捉えていなかったと
今あらためて思います。
 
 
私はその高校時代に、
結局学校へ戻ることができて
 
「一件落着」
 
と皆(特に両親)が思ったと思いますが、
 
それからも私の苦しみはずっと続きました。
 
 
それはたぶん、村松さんが言うところの、
 
>ドロップアウトするときは、とことん距離をとること
>「一人になること」を恐れない

>一人になって、自分は何がしたいのか、何に向いていて、何に向いていないか、しっかり感じ取る
>早くそれを知った人は人生が充実します。

>自分の時間を有益に使ったほうが、やがて、ずっと意味がある人との出会いができる
>自分を確立するためには、しばしの孤独も甘受しなければならないこともあります
 
 
 
ということを十分にやらずに、社会に順応することで
自分を(周りを)納得させてしまったツケが
ずっとついてまわっているんじゃないかって考えています。
 
 
あとそれには、親(特に父親)が、
学校へ行かせなくては!と
しゃかりきになっていたことも
やっぱり関係しているかなって思います。
 
(両親は時代のせいか、
かなり教育の偏った考えをしていました)
 
 
朝学校へ行きたくないって言っていると、
「行け行け」と
ひきづられましたから(笑)。
 
 
私はそこまではしてなかったにせよ、
本質的なところを見ようとしていなかったのは
同じだなって思いました。
 
 
それにはまず、
人と同じことをしないってことはどういうことか、
じっくり考えないといけないんですよね。
 
 
そして、最終的には
自分の食い扶持を何とか確保して生きていけるようにする。
 
 
そして、私自身がしてこなかったことの一つに、
自分とという人間の価値観を持つってことがあると思います。
 
 
同じことばっかり言ってるような気もしますが、
要するに、自分と言うものを確立していないから、
大人になるまでずっと生きにくさを引きずってしまっているんですよね。
 
 
で、ここで子供が学校へ行きたくないって言っているのに、
学校へ行かないこととか、
他の子と違っちゃっていいと思っているの?とか
いくら表面のことばっかり言ってつじつま合わそうとしても、
 
「子供の価値観や人間性」
 
ってところを全くないがしろにしていたら
本末転倒だって感じました。
 
 
要するに
ソツなく生きているけど実際死んでるみたいに生きていても親はそんなのお構いなし」
 
みたいな感じです。
 
 
でも子供が学校へ行かないってことがない限り、
なかなか考える機会のないことかも知れませんね。
 
だから、大変な中にも、
考える機会を得られることは
幸運なことかなと今思います。
 
 
今大事なことは
学校へ行くとか行かないとか、
もうそんなことじゃないんです。
 
(と断言するとエラそうに聞こえますが)
 
 
それよりも今はもっと重要なことを
育てる時期だって思います。
 
 
そして親の私自身が
自分の生き方をしっかりと見つける時期に
来ていると思います。
 
 
私自身中学生の頃から生きにくさをずっと感じていて、
苦節30年です〜。
 
 
でも本当に不思議なんですが、
子供のことがきっかけで
いろいろな考えに触れる機会があって、
久しぶりに村松さんのご意見を伺って、
村松さんのすごく面白いブログのお話を拝見して、
苦節30年の屈折した私の考え方が
かなりほぐれてきているのを感じるんです。
 
 
結局思うのが、
やっぱり
「自分という人間を自分が理解する」
っていうのが原点かなってところです。
 
 
そして投影するなといういう話には、
私はずっと自分にそうしてきたし、
周りの人間ほとんど全てが、
そして社会全体が
何かを投影することで成り立ってきているなって
実感しました。
 
 
それは自分自身に抱く理想でもありますが、
みな社会から取り残されないようにって
必死になって自分があるべき姿に近づこうと
していますよね。
 
 
何のために、誰のためにがんばるんだろう?
って思います。
 
 
これはずっとひそかに感じていたことなんですが、
自分が何かになりたいって思うとき、
純粋に自分の気持ちやワクワク感だけで
そうなりたいって思っていることって
どのくらいあるんだろう?と。
 
もしかすると、他人から見てどうだからとか、
よく思われたい、よく映りたいというヨコシマな気持ちからとか
ないのかな?って。
 
もう「人から見てどうだ?」とか、
それが当たり前のようになっていて
自分でもわからなくなってないかな?って思います。
 
 
そうやって人のための人生を生きるのを嫌だと思っているくせに、
人の目線や社会に対する自分の理想や
周りの期待に合わせて生きなくてはいけない、
また、そうでしか生きられない自分ってものに、
ずっと居心地の悪さを感じてたような気がします。
 
 
だから、親の私の意識がかなり変わらないと、
子供をそういう風な意識で育ててしまう。
子供を世間のものさしだけではかろうとしてしまう。
 
 
だから自分もかなり変わる時期に来ているって思います。
そして奇しくもそれは私にとっては
すごく願ってもなかった機会でした。
 
 
 
娘と、こんなことも話せるといいなと思います。
普段は楽しくバカやれても、
なかなかひざをつき合わせて
マジに話す機会がないのです。
ちょっと照れてしまうというのもあるし、
せっかくなのに、
簡単に拒絶されるのが怖いっていうのもあります。
 
 
村松さんのリュックのお話、
どういう風にすればいいのか、
今はまだピンと来ていない部分があるのですが、
毎日折りに触れて考えるうちに、
自分なりの答えが見えてくるだろうと思います。
 
 
 
3年後を見据えて、そのくらいの長いスパンで
どんと構えて、子供の自主性が育つのを
待ってみようと思います。
 
 
高校へ行かせるつもりだった?との質問には、
以前だったら当たり前のように
 
「高校くらい出てないと」
 
と言っていたと思います。
 
 
そしてその理由はきっとこうでした。
 
「困るから(恥ずかしいから)」
 
 
でも、高校くらい出てないと恥ずかしい人間性の子供って、
いったいどういうこと?って思います。
高校を出ないと、何かをしないと、
一人の人格を認められない、
その子の価値を見出せないって
何か違うって感じます。
 
 
 
そして甘やかすのとは違うというところ。
 
 
ここは私は肝に銘じてしっかりとやらなくてはならないところです
わがままを容認することは娘のためにはなりません。
はっきりと言ってあげられるのは
私しかいないんですから。
 
 
 
ブログのその他の記事で、
お父さんに怒りを抱えておられる方の書き込みも共感するところがありました。
 
 
たぶん私自身が、
不登校などを経験して、
親のために自分を抑えてしまったところ、
そうしないと親に気に入られないだろうと感じたところ、
でもやっぱりそれは自分にとっては不本意だったということ、
そしてそういういろんな葛藤を親は
たぶん知らないだろうなという気持ち。
 
そういうものがごっちゃになって、
ソツなく育てばそれでオッケーと思ってたら
大間違いなんだぞー!!
という怒りを、
どこにもやれないまま子供を育てる立場になって、
またもやいい親をやらなくてはならず、
子供として老いて行く親に孝行しなくてはならない・・・
 
 
そんな中から来るやるせなさだったと思います。
 
 
でも他の方の体験談を読んで、
自分の気持ちとダブるとことを知ることで
ちょっと客観的に見ることができているなと感じます。
 
 
一口に親子と言っても
皆さんいろいろと抱えているんだなぁ・・・って。
 
 
 
まだちょっと自分をことを書いてしまうのですが、
 
実は私は小学生低学年の頃からずっと母親が体が弱く、
学校から帰ると何の予告もなく
母が入院の準備をして
あれよあれよという間にしばらくいなくなり、
大きな手術をして長く入院をし、
退院してきたかと思うと
ある日突然、学校へ帰ると両親が
病気に効くという治療を求めて
また荷物をまとめて・・・
 
そんな感じで母親がいない寂しさを感じる
小学生時代でした。
 
ときどきはどうしようもなく寂しくて、
母が死んでしまうかもしれないことが怖くて
こっそりと泣いてました。
 
 
悲しいことが多すぎて、
悲しくならないように工夫しながら
生きているうちに、
気が付いたら悲しいときにも
悲しいと素直に言えない意地っ張りになってました(笑)。
 
 
過去にこだわるのは意味のないことなんでしょうけれど、
そのときの寂しさが
ずっと埋められずに大きくなってしまったのかなと思います。
 
 
そのときは自分の寂しさが一番の興味だったのが、
自分が大人になるにつれて、
やはりだんだんと
周りの人の気持ちとか、立場とかも
想像できるようになってきますよね。
 
それが大人になるってことなのかも知れないけど、
それでもまだ自分が寂しかった気持ちを忘れられてないのは、
かなり私が自分中心な人間だからなのかな?って思います。
 
 
でも、その大変な時期、両親は30代から40代、50代くらいで、
まさに今の自分の世代、
もしくは、もっと若い頃だったわけですよね。
子供も小さくってさぞかし大変だったろうなぁとか、
親はずっとすごく大人に感じてたのに、
今から思えば30代の若造だったんだなぁとか。
 
 
そうして自分が育った頃と、
今時分が体験していることがちょっとリンクすることがあって、
そしてまた今70代になっている父親と
(母はもう他界したので)
この先どのくらい一緒にいる時間があるのだろう、とか、
 
 
小さい頃父に可愛がってもらったことを思い出したり、
小学生の頃、小さかったのに大変だったねって
自分をねぎらってあげたい気持ちになったりとか、
父も病気の母の看病とか、商売がうまくいかなくて大変だったことや
私が不登校のときに心配を掛けたこととか。
 
 
今まで自分の思いを言えなくて、
沸々と怒りを抱えていた父との関係が年とともにだんだんと
予期しない変化を見せてきて
私のものの見方や自分の人生の捉え方が変化していくのと平行して
ずっとわだかまっていた親との関係も
今後かなりいい方向へ変わっていくような気がしています。
 
 
子供を産むとき、この先の人生でこんなことが待っているなんて、
全く思いもしませんでした。
何とお気楽に産んだことか(汗)。
人生って本当にいろんなことがありますね。
 
 
あ〜、長くなってしまいました。
 
 
村松さんの大切なお時間を割いてくださって、
ありがとうございました。
 
 
全然まとまっていませんが、
今思うことを書いてみました。
 
 
こんな貴重な機会をいただけて
本当に嬉しく思います。
 
 
 
ではまた細切れの時間を見つけて
村松さんの本とブログを
読ませていただきますね!
 
 
いつかもっともっと
腑に落ちることがたくさん増えたら
嬉しいなと思います。
 
 
 
村松さんのお話を
これからもどんどん読ませてくださいね。
 
 
思いはちゃんと届いています!!^^
 
 
ありがとうございました。


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子は親を選べない?
「子どもは親を選んで生まれてくる。星辰の世界から魂は自分の惹かれた波動に従って降りてくる」

もう10年以上前かもしれません。ある人からこの言葉を聞いたとき、わたしはぶっ飛びました。
最近では、「スピリチュアル」の世界でもこういうことをいう人がときどきいるようですが、わたしはこのとき初めて聞いて、意表を突かれました。

「スピリチュアル」が好きな人に言っておきますが、本当に霊感に満ちた言葉は、意表をついてびっくりさせるものでなくてはいけません。
既成概念の枠組みを超えたものが霊感の名に値するのです。

ある日、宇宙人が心の中に降りてきて「戦争は愚かなことです。人間たちよ争いをやめなさい」と言ったりするでしょう。それは別に人間でも言いますから。別に宇宙人に言ってもらう必要はありません。
神様も同様です。人間に想像がつくことを言うなら、それは人間で十分で、そういう想像を超えたところにふっと連れていってくれるものが本物です。

それで、私はこの言葉にどかんと意表を突かれたのです。
はまらないと思っていたパズルの一片がはまった感じ。

そうだとすると、「どんな親の元に生まれても、自分の責任で文句言えないじゃん!」 ということになるのです。
わたしは自分については、「ああそうかもしれないな」、と感じました。
皆さんはどうでしょう?

コメントにもありましたが「子は親を選べない」という考え方が一方にあって、その正反対に「子は親を選んで生まれてくる」という考え方があります。

「子は親を選べない」というのは、まことに息苦しい世界です。
偶然にひどい親の元に生まれてしまったから、わたしは不幸だ、ということになるわけです。

「子は親を選んで生まれてくる」というと、偶然ではなく、自分自身に主体性があることになります。
親のせいにしていたものが自分に返ってきてしまいます。

親に強いうらみを持つ人にとっては、どちらが辛いでしょう?

私は後者がお勧めです。
自分の中に要素があると分かれば変えていくことができます。
偶然が自分を支配しているという考えに立てば、永遠に自分に主導権はありません。

「子は親を選んで生まれてくる」というのは、物質的な世界観の領域を超えています。
したがって、信じないという人もいると思います。

しかし、心というものを考えるときに、物質的合理主義の枠組みの範囲内だとどうしても収まりが悪いのです。
ユングは、錬金術なども研究した立派なオカルティストでした。

不合理というものを切り離してしまうと、心は居心地が悪いのです。

かつて、あらゆる人は素朴な信仰心を持っていました。日本には八百万の神様がいました。
そういうときに心は安定していたのです。

しかし、科学の発達がそういう領域を合理性の外の闇に追いやってしまいました。
無神論はたかだか500年ほどの歴史しかないと何かで読んだことがあります(人類の誕生は500万年前)。
神様がいない生活に人類はまだ慣れていないのです。

では、神様がいなくなった分、人の生活が合理だけですむようになったか、というと、そうではありません。
占いがブームでしょう。スピリチュアルやまじないの類もブームです。かつてのオウムのような教義がきわめて怪しいカルト宗教にも、インテリがころりとだまされてしまったでしょう。

かつてアメリカに禁酒法があったときに、酒はギャングのたいへんな資金源になりました。
それと同じなのです。素朴な信仰心が失われても、人は合理性の外にある神秘性への憧憬は捨てません。
その部分を怪しい連中がいいように食い物にしています。

合理性の中だけで生きて来た人は、ある意味まったく免疫ができていないから、粗雑なものにも簡単にだまされるのです。

一方で心理学は、学問ですから、実証的なデータをもとにしてしか研究や推論ができません。
心を扱うのに、物質的なデータを基盤にしなければいけない、という奇妙なことになっています。

最近は脳科学がブームです。たしかに面白い発見もありますが、脳=心ではありません。
でも、そう誤解させるような扱いが多いですね。
心をすべて脳の働きに還元してしまう、というのは、じつは心にとって、たいへん危険な思想なのです。

心はいま、そういういくつもの潮流に翻弄されて、自分を見失っています。
しかし、本来は心が中心でなくてはいけません。

このブログは「心」を中心に書いていきますから、今の時点ではあまり神秘主義の領域には深入りしません。
しかし、そういう領域についても理解しておかないと、心は解けません。

プロレスに場外乱闘というものがあるでしょう?
あれも反則の領域ですが、そこまで含めてプロレスなのです。
リングの上で行われていることだけがプロレスになってしまったら、ダイナミズムやドラマツルギーの幅が失われてしまいます。

心について、考えるときにも、私たちの心のすぐ外側に、神秘や不合理というものがあります。
そういうものは排除しようとすればするほど、ある割合で私たちの中に侵入してくるもので、ある割合でご近所づきあいをしておいたほうがいい、というのが私の考えです。

そんなわけで、今回は「子は親を選んで生まれてくる」と、神秘と不合理の領域に向けて一本の補助線を引いてみました。

そう考えたときに、あなたの心の中にどんな波紋が生まれますか?
それを感じてみてください。



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大きなリュック、小さなリュック
話は、「親子の葛藤/一通のメール」からの一連に戻ります。
ややこしいですけれども、こういう進行も一つの心のアナロジーなのです。
集中していても、緊急の割り込みがあったり、話が脱線したり。
それでも、中心と方向性を見失わないこと。
これがライブで書いていることの醍醐味であります。


…なんちて。

本論。

母娘のセッションは一度したことがあります。
最初、娘さんのほうが来ました。
お母さんが外国人と再婚したことで、たいへんな孤独を味わい、あれこれとショックな事態があったのです。

それからお母さんのほうも会いたいと言ってきました。

母娘いっしょではなく、個別に会うことにしました。
いっしょに会うと、からみあった関係ごと持ち込まれてしまうのです。
これは容易に解けません。
だから、別々に会ってそれぞれの言葉の構造(つまりこれは心の見えている部分の構造です)を整理するということをしたのです。

いろいろ話を聞いて、私はやはり関係そのものがたいへん窮屈だと感じました。
次のようなビジョンが見えたのです。

何か荷物がたくさん入った大きなリュックを背負って母娘が山道を歩いている。
ところが、このリュックは背負うところは二つありますが、荷物を入れる袋は一つなのです。
だから、歩調が合わないとひっばりあったり、押し合ったりして、二人ともたいへんに歩きにくいのです。

このような絵が浮かんだので、へたくそな絵を描いて、こう言いました。
「お母さん、今、こういう状態でとっても歩きにくいでしょう? 一回リュックの中のものを全部出して、整理しませんか。いらないものをずいぶん背負っているかもしれません。同じものがいくつも入っているかもしれません。そういうものを全部捨てて、二人それぞれの小さなリュックにしましょう。お母さんはお母さんの荷物、娘さんは娘さんの荷物を背負って山を登るほうがずっと気持ちがいい。それで、いっしょに歩く山道もあっていいし、そのうち、行きたい道が分かれても、それぞれのリュックなら歩いていけるでしょう」

いろいろな話をしたのですが、お母さんはそのことがいちばんストンと腑に落ちたようで、ずいぶん表情が晴れやかになりました。娘さんも20歳に近い年齢だったので、そういう時期だったのです。
その後、私が知る限りでは、この母娘関係はほどよい接点を見出して、娘さんも元気になったようです。


メールでいただいた2年間不登校の15歳の娘さんの話でした。
年齢は若いですが、彼女は今、必死で自分を確立しようとしているのです。

お母さんが大きなリュックをバラして、それぞれのリュックに背負い直す時期かもしれません。


具体的にどういうことかといいますと。

今、起きていることは3年前に根っこがあると書きました。

そうすると、今変えられるのは3年後のことなのです。

その3年間をどう使うか、娘にあげてしまうのです。

もともと高校に行かせるつもりだったでしょうか?

もしそうだったら、高校に行くはずの3年間、何をするか考えなさい。それまでは養ってあげる、ということです。そのあとは家を出て独立するか、相応の生活費を入れてもらう、ということが前提になります。
そして、高校の学費や進学にまつわる費用はなくなるわけですから、目的によっては何かまとまったことをするためのお金も出してあげる。
そういう時間とお金の範囲の中で、何をするか考えなさい、とボールを渡してしまうのです。

甘やかすのではありません。家にいてダラダラしているようだったら、家事などをきちんと分担させないといけません。

親がそれくらい大きなシフトチェンジをすると、子どもも自分の生き方をじっくりと考えます。

しかし、考えている途中で干渉すれば、子どもは自分の道を見つけられません。

一度そこまできちんと突き放す、ということが、別々の小さなリュックを背負うということです。



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子どものしつけ、叱り方
 裁縫にしつけ糸、しつけ針というのがありますね。
しつけとは、本格的に縫って止めるまで、仮に固定しておくことです。

子どものしつけも同じです。
押さえておかなくてはいけない要点だけをしっかり固定するのです。
子どもに「しつけぇ」(シャレです)と言われるくらい同じことだけを言い続けなければいけません。

これはどちらかというと、父親の役割かもしれません。
「他人様に迷惑をかけるな」とか「嘘をつくな」とか、昔の人はとても単純なことだけを厳しくいいました。
その他のことは、忙しくて言うヒマがなかった、というのが昔の父親のイメージです。

細かいことを言わない替わりに、父親は先の長いことをぼんやり見ている。
少しくらい成績が上がった下がったよりも、きちんと挨拶ができるとか、嘘や隠し事が少ないことのほうが、人生のいろいろな局面で大事なことがあると知っているのです。

お母さんのほうは、接近戦ですから、そんなに鷹揚にかまえてていいのか、と思います。
だから「たまにはお父さんから言ってやってくださいよ」と言っても、お父さんはそんなに力が入りません。
全然違うことを話したりします。

父親まで、母親といっしょになって細かいことを気にしだしたら、子どもにとっては、逃げ場がない地獄になってしまいます。

父親は時間軸に沿って、未来のことを考え、今のことについてはぼんやりしている。
母親は空間軸に沿って、今のことで一生懸命、というのが、わりと一般的なパターンです。

男女差別をするつもりはありませんが、やはり観察すると、性質と役割が違います。
もちろん、父母が入れ替わってもかまいません。
でも、両方が同じタイプなのは、よくないのです。

警察の取り調べでも、厳しい刑事が締め上げたあと、人情派がほろりとさせる、といいますね。
そういう役割分担は意識したほうがいいでしょう。
父親がやさしければ、母親は少し締めても大丈夫。
父親が厳しければ、母親は緩和させてやらなくてはいけません。

あと、叱り方ですが、間髪を入れずに叱る、ということが大切です。
ある人から教わったのですが、犬が悪さをしたら、その瞬間に叩かないと、1秒経つともうなぜ叩かれたのか因果関係がわからないそうです。
犬を引き合いに出して悪いですけれども、人もそうです。
電線に触ってビリビリっとしたら、もうそれには触らないでおこうと思うでしょう。

親というのもそれでいいのです。
領域をはみ出したら、気合いよく瞬発的に怒る。
そうすると、子どもは「この生き物は、こういうことをすると怒るから気をつけよう」と学習するのです。

頭で考えた説教をするのは、間に合いません。
頭の中で「どう言おうか」、と考えている間に子どもの意識は別のところに行ってしまいます。
いかに理屈の通った説教をしても、子どもには入っていかないのです。
それよりは感情がぱっと動いた速度のほうが子どもにすぱんと入る。

頭で考えるのがよくないもう一つの点は、一貫性がなくなることです。
人が何で怒るか、というのはだいたい決まっていて、子どもはそれをやがて把握します。
しかし、親がたとえば、教育学者の話を聞いて実践して1週間くらいで飽きてしまったりすると子どもは混乱します。
もっと悪いのは、親のそのときどきの都合で、毎回理屈を言って子どもを従わせようとすることです。
子どもは、言葉で上手に反論はできませんが、本質は見抜いているので、従いません。

それで「子どもがいうことを聞かない」というのは、自分の都合に合わない、ということを言っている場合が多いのです。
「ああしなさい、こうしなさい」も乱発すれば、効果が落ちるのは仕方ありません。
「ああしなさい、こうしなさい」をなるべく言わないで、子どもと上手に共存するのが、賢い母親ということになるでしょう。

子どもを叩くのはどうか、という話がありました。
あまりよくはないです。
人の身体は叩かれるようにできていません。

しかし、瞬発力で、言葉でいっても聞かない、思わず軽く手がでてしまった、というのは、昔からあることです。そういうのは、親が加減を知っていれば、ありうる範囲でしょう。
子どもがそのあと、けろっとしているようなら大丈夫です。

考えて「教育的」に打つのは、かなりよくないです。
親が子どもを裁いていることになるわけですからね。
よほどしっかりした考えがなければすべきではないけれども、ぶたなくてはいけない時点で、すでにあまり親として優秀とは言えない気がします。

しつけ、というのは大事なことに絞ること。
親は怒りをすぐそのときに表したほうがいいこと。
しかし、怒って伝わったら、さっと切り替えること。

そんなことが大切です。

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お母さんからのメール
JUGEMテーマ:

本日は二日酔いです。
赤坂の天ぷら屋で呑み、そのあとゴールデン街に流れ、ママさんをする傍らプロのカウンセラーもやっているS子さんにこのブログを「愛読してるー」とホメられ、その他でもなんだかいい気持ちになり、帰ろうとしたら引き留める人がいて、「ウコンの力」も空しく二日酔いとなりました。
というわけで、本日書こうとしていたしつけの話は明日に押しやって、いただいたメールをご紹介します。

**以下メール**

大変ごぶさたしております。
****と申します。
2003年に、クラシック音楽のメルマガの執筆についての
カウンセリングをお願いしたこともある者です。
村松先生には、その後、私のセミナーにもお越しいただきました。

…と書けば、思い出していただけるでしょうか。
その節は本当にお世話になりました。
先生に教えていただいたことは、
あの後も、自分の中で生きています。
村松先生のメルマガも変わらず拝読し、
ブログも毎日楽しみにしております。

今日のブログを拝見し、
「なるほどなーーーーーー!!」と膝を打ち、
思わずメールをさせていただいた次第です。

というのも、私は、2005年秋のブンカの日に、
「永過ぎた春」に終止符を打ち、ケッコンし、
超マル高出産(産んで3カ月後には四十路突入!)で、
現在2歳1カ月の男の子の親となりました。

ちなみに妊娠して数カ月で会社はスッパリ辞め、
興味のモードも全く切り替わってしまいました。
音楽もBGM的に聴くのがやっとで、
クラシックメルマガも休刊中です…(汗)

さて、「魔の2歳児」、しかも男の子の相手は、
この年には体力的に厳しいものもありますが、
若いママよりも精神的には余裕もあり、
(10年早かったら、あまりの大変さに私は虐待ママになってたと思います…。
やりたいことをわりとやってからの子育てなので、
いろいろなことに未練なくやれてます)
多少のことには親のための「忍耐力養成講座」だと思いつつ、
毎日楽しくやっております。

何よりも、言語発達過程の観察は本当に面白いですね。
最近では、絵本をこちらが言う前にどんどん先読みして、
ニヤッと笑ったりしているので、こちらも笑えます。
「言いまつがい」にも(笑)

今日の村松先生のブログですが、早期教育への警鐘を鳴らすものとして、
非常に大切な示唆に富んだ内容でした。

私の周りにも、音楽だの体操だのと、
2歳になるかならないかのうちに、早期教育に熱心な親が
たくさんいます。
子どもへの期待の高さのあまり、すでに子どもは休む暇なく
いろいろなことをさせられていて、
見ているこちらのほうがつらくなったりすることも珍しくありません。

私のほうではそうした親を内心冷ややかに眺めているのですが、
それでも何かしてあげたほうがいいのか…と、結構心は揺れるのですよ。

しかし、次のくだりを見て、私の気持ちは決まりました!
とりあえずは、毎日精いっぱい子どもに向かい合って、
話しかけをして、相手をしている、今のままでいいや、と(笑)

>親は子どもに奉仕するのではありません。
>親は親で自分として生きます。
>でも、片眼で子どもに危険がないか、
>整えてやったほうがいい環境はないか、いつも見ています。
>そういう関係が子どもがいちばんのびのびと育ちます。

本当に大切なことを教えていただき、ありがとうございました。
mixiのマイミク(ママ友が多いです)にもブログを紹介し、
みんなにも読んでもらおうと思います。
一人でも多くの方に村松先生のブログを読んでいただきたいと
私も心から願っております。(ポチッ!も忘れずしております)

本当はまだまだ書き足りないのですが、
そろそろ息子が昼寝から起きる頃ですので、
戦闘態勢を整えたいと思います(笑)

では、村松先生もお元気でご活躍くださいませ。
私も日々のブログを心の支えに、頑張ります。
明日(?)のしつけの話、楽しみです!!

それと、リクエストですが、「子どもの叱り方」の話もお願いします。

昨日会った仲良しのママ友さんが、ものすごく悩んでいたので…。
彼女は私より10歳も下ですが、いわゆる「肝っ玉かあさん」タイプで、
2歳3カ月の男の子を思い切り叱り飛ばし、手を出すことも厭わない、
(といっても、それは他の子・人に迷惑をかけた時限定だそう)
なかなかいまどき珍しい、根性の据わった子なのですが、
その怒り方のあまりの激しさに、周囲がびっくりして、
「2歳児相手に、そりゃやり過ぎ」といろいろ言われるとのこと。
私はそうした現場を直接見たことはないのですが…。

彼女曰く「怒って叩くこともすごく気力がいること。
親の愛情があれば伝わるんだ」と。
私は子どもに手は上げられないかな…。
何に関しても辛抱強く、理由を言い聞かせながら諭す、という感じです。
が、なかなか分かってもらえませんが… (笑)

…と書いていると、エンドレスになりそうですので、
本当にこのへんで失礼いたします。


**
●村松コメント

やはり、早期教育かなり流行っているのですね。

体育や音楽は内容によっては抵抗なく入れるのでいいと思いますが、知育を早く始めるのは賛成できません。身体や心の器を作るエネルギーを知識を入れるために使ってしまうからです。

親がそんなに教育熱心ならば、自己教育をしてみろ、と言いたくなります。
親も自分の習い事をすればいいのです。
でも、教育熱心な親の多くは、自分は動かずに後ろから子どものお尻だけを叩くような気がします。
自分の成長が止まった親が過剰に子どもに期待をかけるのです。
でも、親がムリなものは、子どももムリです。

ムリをしたものは必ず後で現れますが、何年も経って現れたら親はその因果関係をつかめないでしょう。
心のことは長い目で見る習慣をつけないといけません。

子どもの叱り方、リクエストいただきました。
あす、たぶんお答えできると思います。

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子育ての大原則!
 JUGEMテーマ:


昨日、「登校拒否」と書きましたが、今は「不登校」というのだ、とコメントで教えられました。書いている主旨からも、不登校という言葉のほうがいいです。さかのぼって修正しませんが、今後は不登校という言葉を使います。

このことからもわかるように、私は現実的なケースを追いかけて、それをデータとして積み重ねて物事を理解しようとしてるのではありません。
あるべき理念をなるべく明確に言語化することによって、理念から逸脱したものをはっきりと照らしだそうとしているのです。

そのことがわかりやすいように、今日は子育ての大原則について書きます。

*

私がいつも言うのは、子どもは生まれついたとき、一つの「種子」だということです。

植物のタネをイメージしてください。生命力に満ちていて、可能性だけがあり、その中心に魂があります。
タネを割っても、根も茎も葉も花も入っていません。
それらは目に見えない力でプログラムされているのです。

それが家庭という土壌に植わったときに、発芽していくのです。

いちばん大切なことは、タネの段階で赤い花が咲くか、白い花が咲くかは決まっているということです。

白い花が咲くタネに一所懸命赤い水をやっても赤い花は咲きません。

では、親は何ができるのか?

環境を整えてやることだけです。
水、太陽、土壌。
それは親の愛情です。
愛情といっても、何か思いついたときに、ときどきスゴいものを与えるのではなくて、いつも子どもを見ていて、途切れなく、ムラやまぎれもなく継続するのが上等な愛情です。

子どもの自然な発展に干渉するのは、多くの場合、愛情ではなく、親のエゴの投影です。

カーリングというスポーツで滑らせた石の前を箒で掃くでしょう。私はいつもああいう姿を思い描きます。
親は子どもに奉仕するのではありません。親は親で自分として生きます。
でも、片眼で子どもに危険がないか、整えてやったほうがいい環境はないか、いつも見ています。
そういう関係が子どもがいちばんのびのびと育ちます。

受精した卵子というのは、たった一つの細胞ですね?

そこから細胞分裂を繰り返し、人の身体の部分ができていきます。
骨、神経、内臓、脳、眼球……
複雑精妙なもの、それも全然違うものが分化発展していくわけですが、それが一つの生命体として数十年を生き続け、さらに独自の精神活動まで形成していきます。
これはもう神秘以外のなにものでもありません。

そこに人が干渉する余地はありません。人が干渉すれば、この過程は歪められてしまうだけです。

では、人の精神はどうでしょう?

精神もまた独自の発達プログラムを内蔵しています。
それに干渉してはいけません。

子どもは一人では育ちません。
親が赤ん坊に話しかけてやらなければ、子どもは言葉を覚えません。
そのことで精神が発達のプログラムを持っていないと考えてはいけません。
話しかけてやることは私のいう「環境」です。

もし、発達プログラムが内蔵されていなければ、話かけても言葉は覚えません。
サルに話しかけても、彼らは話せるようにならないのは、プログラムが内蔵されていないからです。

そういうプログラムに沿って、適切な刺激を与えてやることがいちばん大切です。
でも、さほど難しく考えることはなくて、テレビなどの外の影響が入ってくるまえは、子どもがニコニコ笑うようなことをしてやればいいのです。

ボクシングの亀田兄弟とか、卓球の愛ちゃん、プロゴルファー、フィギュアスケートなどなどで活躍する選手で、親が英才教育を施したケースも最近目立ちます。
しかし、そういうことに簡単に憧れてはいけません。

それは、たまたま赤い花が咲こうとしているところに、親が赤い水をかけたという幸運なケースです。
才能、運、親の指導能力にも恵まれて、トップクラスになったケースはテレビに出て来ますが、途中で折れてしまった99パーセント以上のケースはテレビで扱われることがありません。

私の知り合いでも、あわよくばプロゴルファーに、と思って育てた娘が途中でグレてしまったという話を聞いたことがあります。
親の期待に一度乗ってしまったら、子どもはそれに答えられないとき、たいへんな自己嫌悪を味わうことになります。

習い事をさせるのはいいですが、結果を求めすぎてはいけません。

子どもの環境のために、植物の比喩でいうと、温室を作ってやれば大輪の花を咲かせることもあるでしょう。
でも、最初から小さな花を咲かせるプログラムの子もいます。
劣悪な土壌でもたくましく育つけれども、肥料をやりすぎると腐ってしまう子どももいます。

親の眼は、テストなどの結果を見る眼ではなく、子どもの性質と可能性をいつも見ている眼でなくてはいけません。

では、しつけはどうするの?
という話はたぶん次回。


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登校拒否の心の背景
JUGEMテーマ:

子どもが登校拒否になったらどうしよう? 
これは親なら一度は心配することではないでしょうか。

私は娘が生まれたときに、覚悟を決めました。
「子どもが行きたくないなら行かせないようにしよう」
そう決めるととても気楽です。

もちろん、素直に行ってもらったほうが面倒がなくていいのですが。

なぜそこまで考えたか、というと、自分が学校が嫌いだったからです。
大嫌いではないし、楽しいこともあったけれども、6対4くらいで嫌いだった。
休みの日はたいへんな解放感でした。

低学年のときに「行きたくないっ」と言ったことはあるような気がしますが、私のときは、まだ登校拒否なんて言葉はなかったので、一蹴されて諦めました。
当時から欠席がちな子どもはいました。
しかし、やはり、言葉ができたことで「公認された」、という面があるように思います。

自分がそういう子どもであったから、娘が登校拒否になっても不思議ではないかな、とそのときの対処まで考えたのです。

「子どもが行きたくないなら行かせないようにしよう」
というのは、どういうことかといいますと、子どもに自由な選択で学校に行っているという意識を持たせたかったのです。

水の入った洗面器に誰かに顔を押しつけられたら、誰でもパニックになります。
5秒も経たないうちに窒息しそうな恐怖でジタバタするのではないでしょうか。
でも、自分で顔をつけて息をどれくらい止められるか測るなら何十秒も平気です。

だから、親としては、行くのが当たり前だ、とか、行くべきだ、という圧力は一切かけないでおこうと思ったのです。
子どもが学校に行かないといったら、たいていの親は、「行くのが当たり前だから行きなさい」と叱るか、「なぜなの?」と問いつめるでしょう。
でも、私は「あっ、そう…?」といって受け入れようと思っていました。

幸か不幸か、娘は幼稚園も含めて、ずっと学校が好きでした。
家よりも学校にいるほうが楽しいようでした。

これは、私が「子どもが行きたくないなら行かせないようにしよう」と考えたことと少しは関係があると考えています。
もし、親が「子どもは学校に行くのが当たり前」と考えていたら、それは、言葉や態度ににじみ出るわけですから、子どもにとって、学校は「行かなくてはいけないところ」になってしまうわけです。

学校に行く人生と、行かない人生と二つあるとしたら、二つのうちの半分の面積しか自分のフィールドではなくなってしまうのです。
これは狭苦しいものです。
人はあるところに閉じこめられたら、必ず外に出たいと思うものです。
出入り自由だと思えば、落ち着いていられる。
親の心のフィールドが子どもの心の活動のバックヤードになります。

親が「学校に行くのは当たり前」と思っていたら、学校に行きたくない子どもは、その中でなんとかやって行こうとします。
しかし、うまく行かない子どももいます。それで苦しんでいます。
親に「もう行かない」と宣言したときは、よくよく苦しんだ後なのです。
その根っこは2年も3年も前にあるかもしれない。

子どもに今起きていることは、3年前の影なのです。
だから、親が必死になって「今」を否定しても、何も変えられません。
しかし、親は唐突に言い出したことにびっくりすることも多いでしょう。
子どもの気まぐれとして否定したり、説得したりしようとするでしょう。

そこでもう親と子どもの物語は、大きなギャップがあります。
ズレてしまって重なることがありません。

心という観点からみると、登校拒否はそのように見えます。

学校教育というのは、教育の中では、大量生産品なのです。
家庭で教える、家庭教師が教える、師弟関係の中で師が教えるなど、教育にもいろいろな形があります。
また独学という手段もあります。
しかし、どれもあまり手軽ではないので、お金も手間もかからない便利な手段として学校教育を選択することになるのです。

だから、工場のような大量生産の教育からは、はみ出すこどもがいる、ということを当たり前の事実としてみていかなくてはなりません。

(親子の話、続きます。それから「世の中からはみ出したら……」のコメント、見てください。大事なことが書いてあります)



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親子の葛藤/一通のメール
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お子さんが登校拒否状態のお母さんからメールが来ました。
ぼくのメルマガの古い読者の方です。

このブログと関係のある部分を抜粋してご紹介します。

このメールをきっかけに、親子関係についていろいろ考えていきたいと思います。



**
(前略)
多くの人が読めるようにと
ブログで提供してくださっていること
本当にありがたく思います。
本だったら機会を逃していたかも知れないからです。
 
 
そしてタイムリーなことに、
私自身、
 
「世の中からはみ出したら」と、
「引きこもり」
 
ということが、今まさに自分に起こっていることなので、
余計に興味を持ちました。
 
 
 
実は自分の末の娘(15歳)が
現在不登校の真っ只中で、
大変な日々を送っています。
 
 
 
世間的に見ると大変そのものなのですが、
今現在、私は娘と大きな喧嘩や葛藤を経て、
とても落ち着いています。
 
 
 
不登校はもう2年にもわたるのですが、
今までゆっくりと身構えていたのが
 
(内心はもちろん不安だらけでした)
 
8月の一ヶ月でものすごいぶつかり合いがあり
 
(ちなみにうちは母子家庭なので
私が主に娘のストレスのはけ口となります)
 
それをきっかけにして
ここにきて私がかなり積極的に娘の問題に取り組む運びとなったのです。
 
(今までは娘自身乗り気でなく、
時期がまだ早いかと思っていたのです・・・)
 
 
 
それで自分のアンテナをいろいろと張り巡らせてみたら、
いろんな考えとの出会いがあるある。
 
ほんの短い間に、
こんなにも自分は間違った先入観を持っていたのか、とか、
 
(実は私自身高校のときに不登校気味になったことがあり
頭ではわかったような気になっていたのです)
 
本当に多くの気づきがありました。
 
 
 
うまくまとめることができませんが、
究極はそれは母親である自分の問題でもあると思いました。
 
 
私も一緒に考えを改めていかなくてはならないなと
すごく感じたんです。
 
 
 
自分もずっと生きにくさを抱えながらら生きてきて、
そんな私が子供を育てている。
知らないうちに私の生きにくさが
子供に投影されているんじゃないかと
思います。
 
 
もしかしたら全然お門違いなことを言ってるかもしれないんですが、
 
「分際を知る生き方」とか
「心をはかるものさし」とか、
 
そういうものへの考え方が、
私はずっと偏ってきたと思います。
だから自分はずっと苦しんできた。
 
 
 
で、ここに来て子供が2年も学校へ行かないという事態になって、
こうならなかったら、またこの8月の大騒動がなかったら、
まだまだ子供にいろいろと欲ばっていたと思うんです。
 
 
でも、ぶっちゃけ究極は
 
「子供が自分で納得できる人生を歩んでくれたらそれでいい」
 
 
というところまで、いろんなものがそぎ落とされてきました。
 
 
「自分に納得できる生き方」
 
って点では、実は私自身できてるのか?っていうと
今まで疑問でした。
 
 
それはなぜかと言えば、
上にあげたような
 
心を物質的なものさしではかろうとしている、とか、
分際を知る生き方がどういうものなのかが、
いまひとつわかっていなかったからだと思うんです。
 
 
 
そして今まさに子供も
「分際を知る生き方」に迷い迷っています。
村松さんが書かれている内容と同じことで
嘆いています。
 
 
自分はどうしてこんな家庭環境に生まれたのか、とか、
自分はどうしてもっと可愛く生まれなかったのかとか、
自分にはどうして何も得意なものはないのだろう、とか、
自分はどうして周りのみなが一目置くような存在じゃないのだろうか、とか、
 
 
・・あげればきりがないくらい、自分の悪いところを挙げては
それは私(母親)のせいだ!とぶちまけてきます。
 
 
もちろん私にできることは、
心から、いつか自分で気が付いて
自分で人生をよくできるように・・・と願うことだけです。
 
 
でもその前に
母親である自分はどうなのか?と振り返ると、
この歳(45歳)になっても
情けないくらいに自分を卑下して
苦しんで生きている。
 
 
これはいったいどういうことだろう???
 
 
子供の一件があってようやく、
自分の問題でもあること、
ずっとひそかに悩んできたことの元々の出所が
いろいろなもののお陰で
わかってきた気持ちがしています。
 
 
 
・・・と自分は強く感じています。
 
 
 
子供が言う、
「自分が生まれてきた意味がわからない」
という言葉。
 
 
私は自分でどうとらえていたんだろう?と思います。
私もよくわからずに生きてきたと思います。
 
 
 
小さなころに親に存在を認めてもらえないと、
自分がもてなくて
周りの価値観に揺さぶられてしまうんですね。
 
 
 
私はずっと、他人に認められるってことばかりに
重きを置いてきたと思います。
 
 
 
他人のことが気になって仕方なかった。
他人からの評価がずっと気になっていた。
 
 
でも今、娘の問題に一緒に向き合って、
そこってすごく大事なポイントだぞって思います。
 
 
誰のための人生か、
自分の人生をどう生きるべきか、
きっと軸がぶれていると
ずっと苦しいままなんだ・・ということに
子供を通して
教えてもらっている気がします。
 
 
だから、やっぱり困難は起こるべき意味があるんだなぁと思います。
こんなことでもなかったら
わかろうとする糸口にさえ
出会えなかったと思います。
 
 
 
・・勝手なことばかり書いてすみません。
 
 
 
こうして書かせてもらうだけでも
気持ちが落ち着くので不思議な感じです。
 
 
 
・・・という紆余曲折があって、
村松さんにはとても助けられています。
 
 
 
それを伝えたくて。
 
 
 
本当にありがとうございます。
 
 
 
村松さんの著書を読ませていただいてから、
出直してきます!!
 
 
 
これからも書いてください!!
楽しみにしている皆さんのために!!
そして私のために!!



***
(メールは以上。以下、村松コメント)

そうですね。

子どもが屈折してしまったのに、「自分には何の責任もない、子どもが悪い」という親がいたら、もうそれだけで子どもは出口のない苦しみに閉じこめられてしまうでしょう。
言葉で言わなくても、そう思っているだけで、同じことが起きます。

しかし、あなたはきちんとぶつかりあって、一つの方向を見出したようです。
だんだんよくなりますよ。

よいきっかけを与えてくれたので、明日から親子のあり方について書いていこうと思います。

とてもシンプルに考えられるようになると思います。


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