INNER LIFESTYLE DESIGN
 〜ナチュラルに生きる方法論序説
SBAはなぜ無接触・遠隔の身体調整なのか? 【2 遠隔編】
SBAの施術が遠隔でできるというと、「怪しい」「嘘くさい」と思う人もいると思うのです。
今はけっこう「何でもあり」の時代なので、そういう反発を持つ人がどれくらいの割合でいるのか僕には実感としてはわかりません。
「インチキだ」と面と向かっていう人はいなくて、態度不明のままスルーされてしまうので、ますますわからないのです。

このような疑いを持つ人を説得する手段はありません。
また、あんまり説得したり証明したりする必要もないのです。

「うちの味噌はうまいよ」と手前味噌なことを言って、「それは嘘だ」と言われたら、「では舐めてみてよ」というでしょう?
「それは遠慮するが、うまいはずがない」と言われたら話が続きません。
興味を持った方だけが対象になります。

SBAのファースト・セッションは、5日間の後払いです。何も感じなければ払わなくてもいい、と言っています。これが「舐めてみて」の部分です。
オープンにやっていて、多くの人が利用していますから、嘘も本当もないのです。
抵抗がない人から体験してもらうということです。
オープンにやっているからといって、何も悩んでいないのに「試してやろう」という人に来られても困りますが、そういう姿勢が基本です。

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さて、以上はいちばんの前提です。
念のために書きましたが、別にそんなに疑われているわけではないのです。
先ほど書いたように、疑われる以前にスルーされています(笑)。

さて、ここから次の段階の話になります。

今回書きたいのは、「なぜ遠隔調整が可能なのか」「遠隔にどのようなメリットがあるのか」ということです。

【なぜ遠隔調整が可能なのか】

なぜ、と書きましたが、科学的に説明することはできません(きっぱり)。
ただ意識においてこう捉えると説明として腑に落ちる、という話をします。

無接触ということを前回に書きました。
無接触であるとして、気功のようなものは、10センチは離れていても大丈夫なのか。1メートルでは、3メートルでは、どうなのか。
と考えて行くことができるでしょう。
気功はどうかわかりませんが、SBAはどれほど離れていようが同じです。

電波は遠いと弱くなり、届かなくなります。
障害物にも弱いです。
遠隔というと、電波を送るようなイメージを持つかもしれませんが、SBAは違います。

たとえば、「海外にいる家族の安全を祈る」というとき、誰も「遠いから届かない」とは思いません。国内にいようと、海外にいようと、祈りというのは相手とともに同時にあるのです。

僕はセミナーでは、紙の上にA地点、B地点と離れた場所に書いて、紙を折ってA、Bをピタリとつけてしまいます。
なんというか、距離は存在しないのです。存在してもその距離で発生するロスは問題にならないのです。

今は便利な世の中で電子メールがあります。これは海外であっても、正確に発信した通りの情報を離れた場所で再現できますね。
それと同様に考えていいのです。

SBAで送られるのはパワーそのものではありません。
パワーそのものはクライアント(依頼者)の中にあり、SBAが送るのはそれを発動するためのキーワードのようなものです。
ほんのわずかな情報だけが届けばいいのです。

こういう理屈は後づけです。
感覚が最初にあります。
遠くでも大丈夫だ、となんとなく感じるのです。
それは伝わるというより、同期する感覚です。
A地点で象徴的な動作をすると、そのエネルギーと同様のものがB地点で作用を始めるのです。
このとき、二つの地点は地球上の空間では大きく隔てられていても、象徴的な空間においては同一地点かもしれないのです。

こうなると日常の原理を全く離れてしまうので、敢えて説明をつけると……という話になります。

論より証拠、という話をしましょう。

僕は東京に住んでいますが、沖縄の方の身体の悩みをSBAで軽快化させたことがあります。これなどずいぶん距離がありますね。

地球上で日本からいちばん遠い反対側はブラジルです。
大阪で行ったSBAのセミナーでブラジリアン柔術を習っている青年がいます。SBAサイトにも最初に体験記を寄せてもらいました。
彼はブラジルにいる友人に対して施術したそうです。

格闘技は腱などを傷めやすいですから、何人かに施術しているし、自分にもしているようです。ただ、治っているけれど、自然治癒したのか、SBAなのか、いまいちわからない、と言っていました。

でも、僕は届いていると思います。
何年も苦しんだものが、ちょうど施術した時期に治ればSBAの影響だと推測できるけれども、急性のものは見分けがつかないですね。
した場合と、しなかった場合を比べることはできないですから。

【人体は実験の対象か】

同じ条件の人はどこにもいませんから、実験はできないのです。

気になったので、新薬試験をめぐる記事を探してみました。
ここにプラセボを巡る記事があります。

「使った。治った。効いた。」の経験的事実を軽視して、数をとって平均値で検証するということが科学的であると書いてあります。

http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/v/10/index3.html

いわゆる科学的な立場は、こういう論法で民間療法、民間薬を異端として排除してきたのです。
ここには、とても興味深く根深いテーマが秘められていますが、現時点で深入りして論じるのは難しいことです。

ただ、この記事は、いわゆる「無作為化割り付けの二重目隠しによる対照比較テスト」なるものが、どれほど厳密なものか、ということに対してもやもやしたものを抱かせないですか?
僕はたいへんもやもやするのです。

たとえば、ある新薬について好結果を得たい場合、操作する余地が随所にあります。多くの人間が関わり、その人々が共通の利害を持っている場合、不正な操作も不正として是正されることがない、ということを福島の原発事故で僕たちはたくさん目撃したのです。

つまり、新薬の実験環境は、人的な構成まで含めて広がっているわけです。これをいくら第三者機関に委ねようとしても、いつかその第三者は第三者ではなくなっていきます。

またこの試験方法は、倫理的な問題があると書かれていますが、短期的な実施において、「あまりいいものではない」と言えるでしょう。
これを長期間の継続的な観察にするなら、あきらかに患者を危険に晒す実験台にすることになります。

したがって、この方法では、長期に渡る効果や副作用の観察はできないはずです。
しかし、どこか裏では行われているでしょう。当然それは後ろ暗い密室の作業になるはずですから、すでに公正な実験をするような環境や当事者の倫理性は失われているのです。

僕はそのような内情を知る者ではありません。
しかし、文章や言葉もまた専門家なので、このコラムを読むだけで、「一を聞いて十を知る」ように著者が書かなかった内情が想像がついてしまうのです。
文章の端々が発する波動がこのようなことを語っているのです。

現代医学は、患者を一人一人の表情のない抽象的な「数」として扱います。
現代医学のそのような態度は、医療従事者もまた「顔」(個人性)のない人にします。
SBAでは、クライアントをこのような「顔のない抽象的な数」としては扱いません。一人一人の身体が個別の宇宙なのですから、その宇宙と一つ一つ対話していくのです。
そのことが実り豊かであると信じます。

話がかなり寄り道をしました。話のついでに、いわゆる「科学的態度」との関係を一部表明して明確にしたかったのです。
元の話に戻ります。

【遠隔にどのようなメリットがあるのか】

単純に時間が節約できることです。

たとえば、大学病院のようなところに行くと、その行き帰りだけで時間がかかる。そして、予約したのになぜか30分も1時間も待たされて。
高価な機械の検査でグルリと回り、問診は5分くらい。
「何か変わったことは? そうですか。同じお薬でいいですね」
……で、そのあと、会計と薬局でまた待たされ。

そんなことで半日が終わりますが、ふだん忙しがりの人も医療だけは聖域で、そういうことは「仕方ない」と諦めています。

鍼や整体でも、評判のいい先生にかかろうと思うと、遠かったりして、施術時間を含めると少なくとも二時間くらいかかります。

その点、SBAは朝晩施術しますが、いつ施術されたかも知らないまま終わっています。
一秒もそのために時間を割く必要がありません。
非常に現代的な方法論です。
施術側も、集中して時間をとればいいし、特別なスペースがいらないので、リーズナブルな料金が設定できます。


SBAのファースト・セッションでは、クライアントもシンボリストも、メールを書くことに時間を使います。症状や悩み事などの相談はメールでします。
むしろ、こちらのほうが時間がかかりますが、忙しいときは簡略でいいのです。
好きな時間に書くことができるので融通性が高いのです。

このメールのやりとりが持つカウンセリング機能もSBAの非常に重要な要素です。
自分の身体は自分が治すのだ、という自信を持っていただくためです。

SBAは、病気を相手にするものではありません。
病気は生命力という光が障害物にあたったときに現れる影のようなものです。
人が本来の自然のあり方に還るとき、その影は消えて行くことを体験していくのがSBAです。

だから、SBAは時間もとらず、物理的な刺激も使わず、遠隔で、人の本来の力が発揮できるように最小限の干渉だけをするのです。


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