INNER LIFESTYLE DESIGN
 〜ナチュラルに生きる方法論序説
なぜか恋愛の話に流れる〜
 地上への煩悩・執着があると、霊は自由にならない。仏教でいうと、いわゆる成仏というものをしない、ということを前回図式化して書いたわけです。

では、生きている間に煩悩にいかに対処するか、ということを考えてみましょう。

煩悩というと、要素がいろいろあり、話が難しく複線化してしまいますので、欲望に限定して語りましょう。

欲望は生きる力と直接に結びついています。
たとえば、性欲は生物としての繁殖と結びついています。
そして、それを人が「面倒くさいから止めた」と言わないように、快楽と結びつけられているのでしょう。
もともとセックスは、大らかな楽しみであったのです。

しかし、それが恋愛感情と結びつきます。
文化人類学者の西江雅之さんによれば、これは文化的なものです。
恋愛・結婚・セックスは、それぞれに独立しています。
部族の中で、ある年齢に達すると女性は必ずセックスの体験をして、成長するとその相手とは無縁に結婚する、というようなケースがあります。

私は30年ほど前に、この人のテープ起こしをしたのですが、そのとき「そもそも一夫一婦制のほうが世界では人口は少ない」と言っていました。
このときも意外に思いましたから、今でも変わっていないかもしれません。

というわけで、私たちの恋愛感情は、一夫一婦制の文化に根ざしているのです。
欲望は生命から直接出るもの。しかし、恋愛感情は文化的な枠組みの制約を受けています。

それからその上に純粋な感情ではない、頭脳的な打算が働きます。

恋愛・結婚するなら、金持ちがいいとか、背が高い方がいいとか、美人がいいとか。

セックスがしたい、という単純な欲求であれば、それなりに困難はあっても満たすのがすごく難しいこともありません。
しかし、そこで男女がお互いに品定めをして、そこに美醜や、教養や、金のあるなしや、結婚に関するその他の思惑など、どんどん他のモノサシを使って複雑化することによって、答のないパズルのようなものを作り上げているのです。

だから、悶々としている男女がそれぞれいるのに、うまくくっつかないで、独身男女が増えているのでしょう。そして、悶々としているのがイヤな人は、ネットの出会い系に走ったり、最初から草食系になるのでしょう。

整理してこれを身体部分にあてはめてみますと、

欲望は下腹部。
恋愛感情は心臓(ハート)。
打算は頭脳

と3層構造になっているのです。

これをお団子のような3つの球体と考えてください。
串刺し団子を上から見ると、一つの球にしか見えません。
その一つの球を人は恋愛、あるいは恋愛感情と思っているのです。

そうすると、一つの球が歪んでいるときには全体が歪んで見えます。
そして、どの球が歪んでいるのか、どの球に対して働きかけたらいいのかわからないので、適切な対処ができなくなるのです。

この3層が見えていない限り、頭で対処しようとすればするほど、事態は複雑化するだけなのです。

これは、恋愛に限らず、あらゆる人間的な精神活動にあてはまります。

たとえば、自分に満たされない欲望があります。

ところがその欲望を簡単に実現している人が身近にいると、素直な人はうらやましい、と思います。しかし、そのうらやましい、という素直な感情を抑えつけると、エネルギーは出口を求めて、反感や妬み、嫌悪などが生じます。

そして、愚痴をいいあう仲間とその人の陰口を言ったりしはじめ、意地悪を始めたりするようになると、現実に大きな影響を持ち始めます。

外でご飯を食べていると、ときどきその場にいない人の悪口を言っているおばさんたちがいますが、口調に熱が入っているほど、「この人たちのほうがおかしいんだろうな」と横で聞いていて思います。
そういう熱も、そもそも最初の満たされない欲望のエネルギーなのです。

そういうのをフロイトは「リビドー」と呼んだのでしょう。
リビドーはともかく、欲望(意志)、感情、頭脳を三文節化する考え方は、覚えてください。
煩悩に対処するとき、この3つをごちゃまぜにしていると、決してよい方向に進みません。

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心を鎖国せよ (現代うつの一傾向 4)
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さて、開くか閉じるか、という話で、私が心が弱った人に参考にしていただきたいのは、鎖国制度です。

徳川時代の300年間、日本は鎖国していました。
そして、オランダ、ポルトガルとだけ交易していた。たぶん、密貿易や、例外的な交易は他にもあったと思うのですが、基本的には閉じていたわけです。

従来の歴史観では、黒船が来たときに、日本が世界に大きく遅れを取っていたのは、鎖国のせいだ、ということが言われています。
でも、じつは鎖国という状況の中で、日本の独自性や、濃やかな文化が培われたのだ、という積極的な評価もあるのです。

これを現代の状況に照らして見てみましょう。

近年はグローバル・スタンダードといって、世界を一つのマーケットにしようと、国際的なルールの整備や統一化が進んでいます。
そうすると、何が起きるかというと、「競争と均質化」が起きるのです。
そして、問屋のような流通制度や、町にある普通の商店などは(そこにも文化があったのですが)、効率、経済合理性というモノサシに合わないでどんどん滅びていっています。

この流れも微細に論じると長いのですが、もう一例だけあげます。

いま、M&Aといって、国際的な企業の買収・合併が進んでいます。二つの会社を一つにすることです。それは均質なものだからできるわけです。
しかし、実際に内実が均質かというと、社風とか、社内の文化の違いというものがあって、そういう相違がきしみを上げている場面もあると思うのです。
しかし、それでもやらざるを得ない、という国際的な競争に企業はさられさているわけです。そうしてさらに均質化が進みます。

人の内面も同様です。
オープンであればあるほど、均質化の圧力にさらされます。
たとえば、会社や学校で話題に参加しようと思ったら、人気のドラマを見ておかないとまずい、ということがあるでしょう。
そこではっきり「私は興味ない」と言える人ばかりではありません。
その結果、みんなが同じドラマを見て、恋愛観なども同じものがインプットされて均質化していくのです。

少しでも世間の平均値と違うと「私っておかしいのではないかしら?」と不安になる人がいますね。
でも、本当は均質であらねばならない、という強迫観念がいちばんおかしいのです。おかしいといっても、世の中全体にその観念が蔓延してしまっているので、それが一つの圧力になったり、正義になったりしています。

個人はもともともっとバラバラな志向を持っているのです。
もっと自由でのびのびと個性があっていいのに、それが認められない。
個人の心にとって本当にきびしい世の中になっているのです。
(個性についても、いろいろな議論があります。近いうちに書かなければいけません)

さて、鎖国です。

鎖国制度は、長崎の出島だけで交易していたのです。
閉じるところはしっかり閉じて、開くところはしっかり開いていた。
自覚的に方法論としてやっていたのです。

外の文化を消化できるだけ取り入れて、自分と同化していたと言えます。

人の心のあり方もこういうのが理想的ですね。

心が弱ってしまう人は、外のものを取り入れようとするときに、心の輪郭全体をぼやけさせてしまいます。だから、内面にいろんなものがいっぺんにドヤドヤと入り込んできて、収拾がつかなくなってしまう。

それで、今度はがちがちに防衛線を固めて一切立ち入りお断りにしてしまう。

オール・オア・ナッシング。
この行ったり来たりをずっと繰り返している人、けっこういます。

「羮に懲りて膾を吹く」という成語を知っていますか?

熱いものを食べて舌をやけどした人が、今度は冷たい酢の物までふーふー吹いている、というのです。
熱いか、冷たいかなんか見ればわかる、と人は思うでしょう。

でも、人も同じでなのです。
世の中にはたとえば、怒りっぽい人もいれば、寛容な人もいて、それによってつきあい方も変えなければいけません。
ある人にイヤなことを言われて縮こまってしまった。だから、誰とあっても縮こまっている、というのでは、「羮に懲りて膾を吹く」という言葉を古くさいと笑えないのです。

心を、誰に対して何に対してどれだけ開くか、どのようなつきあい方をするのか。
意識的であることです。
たまに立ち止まって調整しましょう。

心が弱っているようだったら、少し閉じて。
心に余裕があれば、新しい窓口を開いてみる。

オール・オア・ナッシングではなくて、そういう微調整をするだけで、元気になる人がたくさんいるはずです。

開くか閉じるか、というのは二元論。開く、閉じるの他に、閉じながら開いている、という中間領域がある。これが三元論です。
人が生きやすい場所というのは、極端ではなくて、中間的なところにあるのです。











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現代うつの一傾向 3
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さて、開く、閉じるという言葉で語ってるのは、自分の中に入れる情報量、エネルギーを制御するということです。

身体の健康には食事が大切でしょう。
心の健康にも、何をどれくらいインプットするかをコントロールすることが必要なのは当たり前のことです。

ジャンクフードばかり食べていたら、身体を悪くしてしまいます。
しかし、現代の日本は情報のジャンクフードで溢れかえっています。
洪水のような状況です。
それを刺激の強さだけに惹かれて、次々に自分の内側に取り込んでいけば、当然大きな影響がでます。

人の心、精神のことを「内面」と呼びますね。つまり、外側と区別されたはっきり区切られた領域があるわけです。大切なのは、そこに入れる情報、エネルギーの質を吟味すること。
自分で消化できる量をコントロールすることです。

だから、引きこもりから復帰したい人は、いっぺんに無理に多くの人と出会い過ぎてはいけないのです。
しかし、全く人間関係を切ってしまってもいけません。
それでは必要な栄養が入ってきません。

これはリアルで人と会うということです。
引きこもってネットだけをしているのは、よいインプットではありません。
人に会うことは、その人の雰囲気、声、姿、そういうあらゆる情報を受け取ることです。
音楽だって人はライブ会場に行くでしょう。
DVDで見られるからライブは必要ない、という人はあまりいません。

ネットで言葉のやりとりをするだけでは、そういう大切な栄養分が欠けてしまうのです。

だから、少人数でいいから実際に会って話して、気の許せる相手というのを持つべきです。

今は、人と人は用がないと会わない、という時代になって来ました。
社会人だけでなく、若い人でもわりとそういう感じがありますね。

私の若い頃は、友人関係というのは、意味もなくダラダラといっしょにいたりして、くだらないことを言い合ったり、ときどきはまじめな話をしたり。
気が合う、というだけでいっしょにいて、別に用なんかなかったのです。

大人たちだって、地域社会の中でもっととりとめのない世間話などをしていた気がしますね。

そういう一見ムダなことの中に、人が生きていく大切な要素があるのです。
タムロする、という言葉がありますが、いろんな人が無意味に集まっている、というのは楽しいし、意外といいことがあります。

記録映画で見ますと、ボサノバというブラジル音楽の発祥も、音楽仲間が金持ちの友人の家でタムロしたり、つるんで遊んでいた、という場があって生まれてきたようです。
創造というのは、ムダとか無意味の中から生まれてくるのです。

意味や効用があることだけで、人が会うだけではつまらないのです。
それはビジネスに分類される人の会い方。

そういう発想でちょっと人との接点の持ち方を見直してみてください。

(この項、続きます)















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現代うつの一傾向 2
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心を閉じるか、開くか、どちらか極端で中間がない人がいる、ということを前回書きました。

しかし、そのことの前に、そもそも「頑張らなくちゃ」と思って世の中に出ていくことがよろしくない。
うつ病の人には、「頑張って」と励ましてはいけないとよく言われますけれども、これは自分が自分自身に対して言ってもいけないのです。

頑張れ、という言葉は、たとえば、運動会のかけっこのときに、ふだん以上の力を出せ、といって応援するにはいいのです。
日常出す以上の予備の力を無理に出せ、という意味なのです。

つまり、たとえば、引きこもり気味の人が日常生活に復帰するのに頑張らなくてはいけないようでは、あらかじめ破綻することを言葉によってインプットしているようなものです。

まず頑張らない普通の力でできることをして、それを少しずつ拡張していかなくてはいけません。あるいは普通の力でできるように、ものごとの捉え方を変えていかなくてはなりません。
これ意外に大事です。

*

余談を一つ。
内田百蠅箸いΩ鼎ず邁箸います。
この人が東京から大阪まで遊びに行った話を書いています。当時、新幹線はおろか、早い特急もない時代。片道が一日がかり。
それで汽車で大阪まで行って、降りずに帰ってくるというなんか偏屈な遊びをするのに、人にお金を借りに行きます。

そのときの言い分が、「生活費を借りれば、それは必要なお金が足りないのだから、返せない。しかし、自分は遊びに行く金を借りるのだから余裕がある。だから返せるのだ」といって相手を説得したというのです。
最初変な理屈、と思いましたが、意外に理が通っています。

この例でいうと、頑張る、というのは、つまり生活費の足りない分を借りる、ということですから、いずれやりくりが利かなくなるということです。

心をエネルギーとして見ると、こういうことも見えてきます。

*

さて、開く、閉じるのは話は続きます。



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現代うつの一傾向
心の話は抽象的になるので、少し現実と接点のある話をしましょう。

私は、ぽつりぽつりと、うつ傾向の人の相談を受けることがあります。
そこで感じた顕著な一つの傾向を書いてみます。

もとよりうつ病と呼ばれているモノの全体像は僕にはわかりません。

うつという症状のカテゴリーを作っておいて、原因はさておき、いろいろなものをそこに放り込んで分類しておく、ということが起きている気がします。
したがって、症状は同一、あるいは酷似していても、原因はいくつか全く違うものに分類できる、というのはありそうなことです。
たとえば、文学者の北杜夫氏は躁鬱病でしたが、躁鬱のうつは、かなり器質的なもののようです。しかし、現代のうつは、かなり後天的なものが多いように思われます。
そのようにはっきり種類の違うものが、とりあえず、うつという領域に放り込まれているという気がします。

したがって、これから書くことは、僕の観察し得た一つのパターンであって、うつ全体を包括できるものではないでしょう。そのことをまずお断りしておきます。

*

そのパターンというのは、他人に対して心を開くか閉じるかの両極端しかない、ということです。

うつ傾向というのは、基本的にあまり人に接したくないものだと思うのですが、しばらくそうしていると、焦りが出たり、あるいは、他の現実的な理由で、「がんばらなくちゃ」と世の中に出ていきます。

そのときに、僕が見ると(ときどきいろいろな人の日記などで観察するのですが)、たいへん無防備に出ていくのです。
全部閉じていたのが、全部開いて出ていくのです。

だから、あっという間に、いろいろなショックを受けて潰れてしまいます。
そして、ああ、やっぱり自分はダメだ、と思いこむのです。
(ここにも反復され、強化されるパターンがあります)

このことを一つの例で説明しましょう。
どういうことかと言いますと、僕らがまぶしい光に目を向けると虹彩が収縮します。
また目を細めます。
また昼と夜、陽光と照明とでは、光の強さのレベルが違うので、光を関知する細胞自体が夕方に入れ替わります。

そのように、多重構造で、人は自分の中に流れ込んでくるエネルギー量を自然に制御しているのです。

ところが、うつ傾向の人の一部は、他人に対して100パーセント近く閉じるか、100パーセント近く開くか、かなり極端でその中間がないのです。

では、最初からそういう制御機能がないのか、というと、そんなことはないのです。
ある時期に何かのきっかけでロックしてしまった人が多いようです。

このロックの原因については、ここで短く書くのは難しいのです。
しかし、現状、なぜ制御が利かないかということはわかります。
ちょっときつい言い方をしますが(よかれと思って言うのです)、自分のことだけ見ていて他人を見ていない人が多いのです。

「自分」と「他人」の世界があるのですが、他人というのは「自分でない人たち」「顔のない人たち」の全体として一塊に見えているようなのです。

他人といっても人それぞれ違う思いを抱いています。
それなのに、その思考・行動パターン、何を喜び、何を怒るか、という一人一人の性質を全然見ていないのです。

だから、ある人が自分に辛いことを言ったときに、「なぜこの人はこんなことを言うのだろう?」という疑問にはならずに、「他人は自分を傷つける」とか、「自分はダメだ」とか、世界全体が自分を否定していると感じてしまうのです。
そんなふうに感じたら、誰でもやっていけません。

これは、いわば走ってくるクルマの距離や速度を目測せずに、車道を渡ろうとするようなもので、ドカンドカンと目に見えないいろいろなものに衝突されるのは当たり前なのです。
本人はクルマを見ずに何を見ているかというと、「前回もクルマにはねられた。今回もはねられるのではないだろうか?」とクルマを見ずに自分自身の内面を見ているのです。

そういうことを理解するだけで、同じことを繰り返さなくて済むようになる人がたくさんいます。

次回は、こういう場合の具体的な対処法を書きましょう。



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心を後回しにしないで、の続き
「心を後回しにしないで」を何か抽象的な話と感じられた方がいるかもしれません。しかし、これにはベースがあります。
 人の生活を精神、経済、社会の三分する法は、僕のオリジナルではありません。

フランス共和国憲法に「自由・平等・博愛」という標語があるのはご存じでしょう。

何か抽象的な理想のような言葉が並んでいますが、じつは、この言葉が上記の三分法に対応しているのです。

「精神生活における自由」、「社会的(法的)生活における平等」、「経済的生活における博愛」というように、理想はそれぞれの領域、層に分かれているのです。

たとえば、経済においても平等が理想、ということになると、みんなが同じ財産を持って、同じような収入があって、ということを目標にすることになりますが、この標語はそういうことは目指していないのです。

精神が自由であること、法律でアンフェアに裁かれないこと、経済的に困窮している仲間を助けること。
簡単にいうと、そういうことだと思います。

この標語には、かなり濃くフリーメーソンリーの理想が投影されている、とも言われています。

いずれにしても、ヨーロッパにおいては、精神がきちとんした自分の居場所のスペースを確保している、ということを感じます。
バカンスを1か月取る、というようなことも、日本だったら考えられないですね。
個人の中、社会の中に、しっかりと精神の居場所があって、それが個人主義のベースになっています。

ヨーロッパがすばらしい、という話ではなく、日本人には日本人のすばらしい精神のあり方があると思うのです。ただ、いま日本にはアメリカ経由の短絡的な実利主義と個人主義が入ってきていて、もともと個人というものをさほど重んじない日本の特質の上に、個人主義が上塗りされているのです。

ここ30年ほどで、日本人のメンタリティはおどろくほど変わりました。
簡単にいうと、昔はもっと人情がありました。
いまは、「義理と人情」なんてほとんど死語になってしまいましたね。

今の日本には、椅子と椅子の間に腰をおろしているような、どっちつかずの居心地の悪さ、というものがあると思います。

心の話をするときに、まずそういう大局的なベースから始めてみたかったのです。

次回は「精神の自由」ということについて考えてみます。

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心を後回しにしないで

心にアプローチするには、いろいろな角度から考えてい

かなくてはいけません。 そこで、このサイトではカテゴリーという機能をなるべ

くうまく活かして書いていきたいと思っています。 今回は三分法・三元論というカテゴリーから一つのお話

をしたいと思います。 この三分法のカテゴリーは、心を自由に保つには、二分

法よりも三分法のほうがいい、ということをいろいろな

角度で述べて行きます。 たとえば、善か悪か、というのは二分法です。かつてブ

ッシュがイラク戦争を始めるときに、「イラクは悪の国

であり、それを滅ぼす行動に同調しない、味方でない国

はすべて敵だ」(大意)と言ったのが印象に残っていま

す。これが典型的な二分法です。 味方しなければ敵、というのは、まことに子どもじみた

しんどい話です。 世の中に善人か悪人しかいない、と思ったら息が詰まっ

てしまいます。 善人でも悪人でもない普通の人がたくさんいると思うの

が三分法です。 そのほうが楽でしょう? 二分法、三分法とは、今まで馴染んでいない考え方かも

しれません。しかし、慣れていないからこそ、理解した

ら有益です。 急がなくていいから、内容をゆっくりと腑に落ちるまで

吟味してください。 *  人の生活を、3つの領域にわけて考えてみましょう。

*精神生活 *経済生活 *社会生活 精神生活とは、つまり心の生活です。精神と心とは、必

ずしもイコールではありませんが、ここでは厳密な定義

は置きます。 心がいつも健康な状態で活動していること、それが精神

生活です。 このサイトで扱うのは、この領域です。 経済生活は、要するにお金です。 お金を稼ぎ、使って生きていく。 今、不況や格差社会の拡大でお金のことで苦しんでいる

人がたくさんいます。 どうお金を稼ぎ、どう使うか、というのは、人生の一大

事です。 節約の番組などテレビで大流行ですね。 このようにお金を上手に管理し、運営するのが、経済生

活。 社会生活は、社会集団の中の役割の生活です。 これは、国民の一員としての権利と義務に始まって、会

社、家庭、サークル、地域など、さまざまな集団の中で

担っている役割です。 この役割を全うすることも、義務であったり、周囲から

期待されていることであって、人はそれを引き受けて、

うまく潤滑に回していかなくてはいけません。 このように3つに分離して考えると、それぞれに独立し

た運営がある、ということが純粋に考えられます。 しかし、実生活においては、これらは混在して絡まり合

っていることが多いのです。 たとえば、生活のお金の目途が立たないと、不安になっ

たり、イライラしたり、自分を責めたりします。 しかし、不安になり、イライラしても、お金が入ってく

るわけではありません。 それは別の次元のことだからです。 貧しくて、自分が不幸なのはお金がないから、と思う人

がいます。 でも、これは次元が違うことを混同しています。 借金があったり、生活が苦しければ心の重荷になります。 経済生活が安定しているほうが、精神衛生にはいいに決

まっていますが、それは比例関係ではありません。 私の友人には、借金だらけで超貧乏なのに、最低限の仕

事しかせず、武道などに打ち込んで呑気に楽しく暮らし

ている人物がいます。 彼はかなり特殊な部類です。しかし、テレビで大家族も

のなどを見ても、経済的には苦しくても、いきいきとた

くましく暮らしている家族がいることがわかります。 それとは反対に、物質的には何不自由ないのに、うつに

なってしまう人、お金にはちっとも困っていないのに、

いつもイライラしてハッピーでない人もたくさんいるで

しょう。 * ブラジルで何年か生活したことがある人が、「日本では

借金をして生活に行き詰まって自殺する人がいるが、ブ

ラジルではそんなことは考えられない」と言っていまし

た。 ブラジルには日本より貧しい人がたくさんいるし、犯罪

も多い。 でも、どんなにお金に困っても自分を責めて追い込む、

というメンタリティがないのでしょう。 経済生活に精神生活を同調させない、これは大切なこと

です。 しかし、日本ではかなり経済と心が同調同期してしまって

いるのです。 たとえば、自分が心楽しくないのはお金がないせいだ、金

持ちになれば楽しいはずだ、と思う人は、金によって精神

を支配されてしまっていることになるのです。 精神生活を健全に保つには、精神は精神で独立させておか

なくてはいけないのです。 たとえば、過労死がときどきニュースになります。仕事の

心身の負担に耐えきれず、突然死してしまう。あるいは自

殺してしまう、というケースです。 これは、経済的な要素に縛られるのが一つと、それ以上に

社会的生活に縛られているからでしょう。 自分がいなくなったら仕事が立ち行かなくなるという自負

と責任感。 これに縛られてしまって、自分の身体と精神をすべて後回

しにしてしまう。 仕事というものは、人一人くらい休んだって、短期的には

困るかもしれませんが、すぐに穴埋めされてどうとでも回

るのです。 精神生活、という考え方がないと、他で無理が来ているこ

とをすべて精神にしわよせしてしまうのです。 経済生活で無理な借金を重ねるとなかなか取り戻すことが

できなくなります。精神生活でも、同様です。目に見えな

いだけで、無理を重ねていけば、やがてなんらかの形で現

れるのです。 うつというような形ではっきり現れるまで、心を後回しに

し続けてはいけません。

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