INNER LIFESTYLE DESIGN
 〜ナチュラルに生きる方法論序説
コードとモードと電子出版

冒頭ページにお願いっぽいことを書いたら、ツイッターで更新情報をリツイートしてくださった方がいます。ありがとう。

ココロ☆ブランド(えーと、説明したっけ?)は、いろいろなコンセプトを、書くだけでなくさまざまな形でアウトプットしていきたい。そのためにアクティブな読者を増やしていきたいのです。

どうも、僕の書くものは、みんなに広めたり語り合うようなものではなく、心の奥底に仕舞いこまれる性質のものらしいのです。

それもいいのですが、でも、ときどき、たまに! お近くの人に勧めていただけたりすると、とても助かります。


*

さて、本文。


前回、「隠語の交換」ということを書きましたが、これについてもう少しいろいろな場面で見ましょう。

それで最後に意外にも?電子出版の話に落ちる予定。


僕の用語では、隠語はコードです。暗号などもコードと呼ばれます。ギターコードという場合は、和音。

このコードやシンボルを交換することで成立するつながりのことをモードと呼びます。

(この用法が世間とどれくらい世間の用法と一致しているか、ずれているか、知りません)


たとえば、医療にこのことをあてはめましょう。

医療というのは、このコードが複雑多様に発達した領域です。

病名、薬品、処置方法や器具など、すべて専門的な言葉があります。

昔は医療用語はドイツ語でした。患者のことをクランケとか。

今は英語が中心かもしれません。

とにかく多岐に亘る専門用語が医療現場で合流し、そこで使われる用語が何を指すか理解するにしたがって、人はその世界のモードに入って行くのです。


うつの人など、よく日記に薬の名称を書いています。専門的な薬の知識を得ることによって、医療のモードに同調することができるのです。


このようなモードのなかにいる人に、薬害について説くのはまことに難しいでしょう。

なぜなら、実証的なことがを言えるのは、そのコードに精通した人だからです。

つまり、医療従事者か、その関係者ということになります。


たとえば、医者がある特定の薬品について危険であると警鐘をならすのは許されるでしょう。

しかし、医療のモード全体を批判し始めたら、彼は孤立し、排斥されるでしょう。


病院は言うまでもなく製薬会社と同一のコードで結ばれています。

製薬会社は、広告によってマスコミと結びついています。したがって、マスコミは薬害の本質的な部分は追求しません。

そして、病院も製薬会社も、法律というコードによって、行政とつながっています。

行政がコードを変えれば、またそれをモードに取り込んでいかなくてはいけません。


そして、行政は政治の言葉とつながっており、その中でたとえば、「アメリカの薬品をもっと買うように」、というような圧力にさらされているでしょう。


このように多数のコードが複雑にからみあってモードを作り出している世界では、そのコードを使っている限り、何も客観的に見ることができません。

つまり、医療の内側から医療をラジカルに批判するのは不可能に近い。

これは、他の業界でも同じことです。


コードとか、モードというのを僕は悪いもののように書いていますが、これには、思考やコミニュケーションを節約できる、というたいへんな利点があるのです。

そのコードを共有しているだけで、なんとなく仲間らしくそこにいることができます。

しかし、思考やコミニュケーションが節約された世界では、何の摩擦も生まれないのです。

したがって、人は生々しい感覚で全体を見ることができなくなります。

外から全体を見るのではなく、内側から、自分の利害と結びついてしか見られなくなります。


これは、いわゆる「業界」とか、「業界の常識」と言われるものです。

でも、コードやモードで分解するともっと正確に見ることができます。


人はいつも、コードを使い、モードの内側でエネルギーを省略して生きています。

しかし、芸術や哲学はこのようなモードの呪縛から自由でなければいけません。

省略するのではなく、最もエネルギーを消費するあり方、もっと摩擦が多く、自分の感覚と人の感覚を揺り動かす形を考えなければいけません。


コードとモードという言葉も、またコードです。

僕がどこかで聞きかじったものだから、同じようなことを言っている人がいるかもしれません。

つまり、同じコードを使うと同じようなことを言うことになるのです。


業界で、今、いちばん大きく変わろうとしているのが、僕のいた出版業界です。

電子出版によって、今までの紙の出版物とそれを取り巻く業界は大きく淘汰されるであろうと予想されています。


そして、ここが大切ですが、今までの出版と電子出版では、使われるコードが大きく違います。

ipad、キンドルをはじめとして……えー、専門用語は出てきませんけれども、たとえば、出版取次というような言葉も、名称も機能もまるで違うものになるでしょう。あるいは、いくらアナロジーで探しても、取次に相当するものは存在しなくなって、代理店のような概念を英語でいうような世界になるのかなと思います。


つまり、出版と電子出版は、出版という言葉は同じでも、全然別のコードとモードを持つ業界なのです。

旧来の出版社が自分の持てる無形の財産を持ち込もうとしても、生きる部分はほんのわずかでしょう。その部分に執着すれば、モードに乗り遅れるでしょう。


今まで流通していたコードが無効になるのです。

そして、いち早く新しいコードを使った人間が、モードの内側に入り、それについて最新の情報を輸入し、知見をもつ人間がもてはやされるのです。


ビジネスマンがすぐに新しいキーワードに飛びつくのは、どうにも浮薄に見えますが、そのように新しいコードを身につけていかなければ、激しい時代の変化を消化していけないという面があるのでしょう。


僕が日常語で哲学するのは、難しい本が全然頭に入らないからでもありますけど、そういうコードやモードから自由でありたいからです。

その結果、どんどん僕の書くものはどの業界にも属さない「無用のもの」になっていくのです。


しかし、その無用を100パーセント近く突き詰めれば、あらゆる創造の根源として、あらゆるコードにアクセス可能なものになると信じています。


僕がこうして書いているのは、そういう運動なのです。
































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言葉の仕事量/言葉以前の感情

言葉の仕事量



私の考える哲学とは、言葉にたくさん仕事をさせることです。


この場合、言葉が何かを乗せる台車のようなものだとするとわかりやすいのです。

台車になるべく多くの仕事をさせようとしたら、どうするでしょう。

台車の仕事量は、重さ×距離ですから、なるべくたくさん重たいものを乗せて遠くに運びます。

たくさんの重いものを崩れないように運ぶためには、荷物の形や重さをよく見て整理して乗せなければいけません。


台車に重い荷物が乗ると、摩擦が生じて手応えが重くなります。

この手応えが仕事量の証明なのです。


日常私たちは、言葉を軽く、つまり台車でいうと何も乗せていない状態でカラカラと使っています。

これは悪いことではありません。

円滑に人をつなぐという意味ではいいのです。

しかし、何も乗せないと仕事量はない、あるいは少ないことになります。


同様に専門用語は、とても軽くなる傾向があります。


前回、次のように書きました。


>これがいわゆる依存ということになりますが、依存という言葉はできるだけ使いたくないのです。

なぜ使いたくないかは、また言葉について長く語ることになりますので、次回にしましょう(たぶん)。


よく使われる言葉、概念というものは、果たして仕事をしているでしょうか。

たぶん、自分の状態が依存的である、と自覚している人は多いでしょう。


しかし、このように専門用語でとらえると話が終わってしまうのです。


「私は依存的である」というときの言葉の働きを見ましょう。

多くの場合、私は次のように感じます。


1 それについては、私は本を読んだり勉強したことがある。人並み以上に知っている、ということを言っています。

2 それは治らない、仕方のないこと、という諦めを含んでいます。

3 一つの治らない傾向であるので、専門家の領域である、ということを言っています。

4 したがって、素人にあれこれと口を出されても困る、ということを言っています。


つまり、


自分ではたぶん治せない。

自分で治す気はない。なぜなら、治せないから

専門家にかかる気はない。あるいはかかったけれども、治らなかった。

だから、もうわかっているんだから口を出さないでくれ


たった一言の中にこれだけのニュアンスがあって、話が終わってしまうのです。

この言葉を使うことによって、考えも一つの深い轍、ルーティンの中に落ちてしまって、出口はないけれども、話は終わり、ということになるのです。


これはかつての自民党時代の役人の答弁の「前向きに検討します」という言葉に似ています。

「前向きに検討します」というのは、何もする気はない、と同意語だと言われていました。

つまり、これは何の摩擦もない空の台車です。

それによって話は終わりにしていくのです。


心について考えるということは、日常の言葉ではなく、専門家の言葉でもなく、何か新しい手触りのある言葉を開発しなくてはなりません。

もちろん、専門家の研究や蓄積も大事ですけれども、それ以前に専門家が治してくれるのではなく、自分自身で治すという意志がなければ、どうにもなりません。


依存傾向といえば治らないで終わってしまいますが、「他人に体重をかけない」といえば、自分でいろいろ「どうしたら変えて行けるだろう」と考え始めることができると思うのです。それが言葉で作業することの基盤です。


心について考えるときは、比喩を使います。心には色も形もなく、眼に見えません。また数値でも計量したり、表現したりすることはできません。

だから、言葉というものを使って、それに触って行くのです。

しかし、言葉は実体ではありません。

「悲しみ」という言葉は悲しみそのものではありません。

心の中にあるエネルギー、動き、あるいは塊があって(こういう言い方自体がすでに比喩です)、それを悲しみと呼んでいるのです。

だから、あなたが悲しみと呼ぶものと、私が呼ぶものが同じなのかどうか、本当に比べることはできません。


「考えるな、感じろ」というのは、ブルース・リーの名言です。

悲しいときにはすぐに「悲しい」というレッテルを張る前に、その心の動きを感じるのです。

言葉以前のもの、思考以前のものに直接触れることが大切です。


悲しいはまだ直接的な言葉ですが、依存という言葉は直接的ではありません。

もっと知的、操作的な概念であり、依存「症」といえば、病名として専門用語になります。

いろいろな人がいろいろなことをそれについて語っています。

そうすると、それを読んでいないと、言葉を使っただけで「知らないクセに」と責められるかもしれません。

それで本を読んで勉強する人がいます。


そうすると、他人の概念で自分を判断することによって、自分の心を「感じる」ことから、もっと遠ざかってしまいます。

誰かが言ったこと、分類したことに自分を当てはめようとするようになるのです。


それはよくありません。

いちばん大切なことは、心が自由であること、自立していることです。

そのために大切なことは、心が訴えようとしていることに自分自身で耳を傾けることです。


それは本来、そんなに難しいことではなく、自然なことです。

しかし、いつも他人の言葉で自分の心を測るクセがついた人にとっては、わからないこと、とても難しいことになってしまいます。


いま、無料の占いや自己診断テストが大流行りでしょう。

罪のない遊びで、私もできがよさそうなものは試してみることがありますけど、ああいうものの根底にも、人に自分のことを判断してもらいたい、という依存があるでしょう。

たぶん、自我が確立しているアメリカやヨーロッパではこんなに流行らないと思うのです。


上で、「悲しい」、という感情を例にだして書いていて思いましたが、「悲しい」というはっきりした純粋な感情は以前より減っているように思います。

それよりは、怒りとか、むなしさとか、またそれを押さえ込んだ結果の無気力だとか、そういうモヤモヤとした行き場のない感情が増えていますね。

そして、自分でも自分が何を感じているのかわからない人が増えているように思います。


そういうものはいっぺんにクリアすることはできません。

自分で一つ一つほどいて、元の純粋ではっきりした感情の動きに戻してやらなくてはいけません。

私のセッションというのは、そのお手伝いです。

しかし、あまり利用する人は多くないです(笑)。

何かもっと簡単で、明日から魔法のように楽になれることを求めているのかもしれません。

そういう都合のいいことを求めて、何年間もぐるぐると頭の中で同じような考えを巡らせて一歩も動かない、という人がたくさんいるのです。


いや、何もセッションの宣伝をしようというのではないのです。他にいい方法があれば、それでいいのです。自分から動かなければ何も変わらないということです。


宗教やある種の洗脳的なものは、こういうモヤモヤとした感情の塊をいっぺんゴミ箱に入れて、もっと単純で強い原理をインプットするというやり方をします。

そうすると、ある種の悩みからは解放されるのですが、今度はその宗教から抜け出すことができなくなります。

宗教は信者をかなり自由に動かすことができますので、信者はある種のロボットのようになってしまうのです。


私が心を考えるときに、自由であること、自分の理由で生きていること、ということを、いつも帰ってくる場所にしているのは、そのためです。ロボットになってしまってはどうにもなりません。


あなたは自由になりたいですか? 誰かに自分を任せて楽になりたいと思っていますか? 

その方向性を自分自身の心に、いますぐ聞いてみてください。


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今日の絵は、東京浅草橋でいま行われている展覧会から。


工房集 齋藤裕一・佐々木省伍 二人展

「描くことの根源性にむけて」


http://www.makiimasaru.com/mmfa/index.html


精神に障害を持つ作家さんたちの作品展です。

でも構えないで観てください。

純粋にアートとしてお勧めです。


お近くの方はぜひ足をお運びください。




言葉の性質 / comments(2) / trackbacks(0)
言葉のバラし方
 言葉の解体方法


言葉を解体していくには、私にはもう一つの手順があって、それは使われ方を見て行く、ということです。


希望という言葉については、朝起きて、そういえば「第一希望、第二希望」のような言葉があるなと思い出しました。


電車の切符を買うとき、あるいは会社の中の配属を決めるときに使いますね。

それから、懸賞などては、「プレゼント希望」と書きますね。


これらは具体的なものや条件が「ほしい」と言っているわけです。しかし、自分の意志ではなく抽選や先方の都合などで満たされるかどうかが決まります。

だから、ダメだったら仕方ない、ということが含まれています。


これは、「人には希望が必要だ」という用法とは、別の用途です。今回の論旨からは除外したほうがいいのではないでしょうか。


他のケースもあります。


たとえば、強制収容所に収容された人々にとって生き残って解放される希望は大切なものであった、ということを読むことがあります。

希望の灯火、というような言い方もあります。


では、私たちは今、何を希望しているのでしょうか。


私たちが希望を持つとして、それは強制収容所の人々の希望と同質なものなのでしょうか。


このように詰めていって、いつまでたっても輪郭がはっきりしない言葉は、考えるときに使わないほうがいいのです。


およそ、江戸時代になかった言葉は、用心したほうがいいのです。

つまり、西洋の概念を翻訳した言葉なので、日本人の言葉として身体化されていないのです。


*


話の本筋を忘れてしまいそうになりますね。


これは、「人に期待してはいけない」という命題に対して、期待を持たないことは希望を持たないことではないか、という主要な反応がありました。

それに対して、希望とはなにか、希望を持つことは世の中でなんとなく思われているほどいいことなのだろうか、ということを検証しているのです。


こういうことは、ある速度と密度で処理しないと、自分が何を考えているのかわからなくなってしまいます。

だから、私はいつも頭の中で言葉をひねくり回して、吟味、評価しているのです。


でも、誰もがこんなことに習熟する必要はないので、このブログを読んでくださる皆さんの場合は、もっと強く単純に自分の内面に「聞く」、ということだけを覚えていただきたい。


自分は今、何を希望しているのか?


人は希望を持つべきだ、と思う人は、この単純なことを力強く検索して、言葉にしてみていただきたいのです。



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