人を勧誘するという行為は何でしょうか。
宗教なりセミナーなりに入ったときに、自分が感動したり、教えを非常によいもの、尊いものだと思うことはあるでしょう。
しかし、それが外から見たら洗脳でしかないのです。
洗脳とは何か、ということを心という観点から見ますと、まず、人の中の価値観をシンプルで反駁が難しいものと入れ替えて焼き付けます。
「この世はすべて幻影である」というようなことでいいのです。
説明は繰り返しされますが、根本的な疑問は提出できません。
その世界ではそれが真実なのです。
人を狭い場所に閉じ込めて、回り中から繰り返しこういうことを言うと、そうかなあ、と思うようになります。
「この世はすべて幻影である」という考えを受け入れれば、それまでの価値観はどうでもいいものとなり、崩壊してしまいます。
一般的な現実感覚を失います。
洗脳はこのプロセスに脳内麻薬を出す仕組みを結びつければいいのです。
脳内麻薬は、一時的に混乱やパニックに陥っても出るし、苦痛によっても快感によっても出ます。
また自分は選ばれた人間だという優越感からも出ます。
ある種の言動に、ご褒美としての脳内麻薬をうまく結びつければ、人は動機づけられます。
猿にもある種のボタン操作をすればエサがもらえると条件づければ、喜んでボタンを押します。
それと同様に人は脳内麻薬ほしさにボタンを押し続けます。
だから、宗教の勧誘をする人は目がキラキラしていることがあります。
それを本当にいきいきとしているのと混同してはいけません。
こういう状態になると、洗脳はなかなか解けないでしょう。
しばらく隔離して、根気よく脳内麻薬との関連づけを解除するしかないでしょう。
こういう偏った価値観を押し付けられるのはたいへん迷惑です。
しかし、こちらが迷惑しても、勧誘する側は善を施そうとしているわけです。
そして、それを受け入れないのは、頑迷であったり、マスコミに洗脳されていたり、悪魔に見入られていたり、と、こちらのほうが悪いことになってしまいます。
そういう間違った優越感は不愉快なので、反発しようとすると、向こうのマニュアルにはまってしまうのです。
いくらキャンペーンをしても振り込め詐欺がなくならないように、こういうセミナーや宗教にひっかかる人はなくならないでしょう。
理解してほしいことで、とても単純なことは、真理を求めるということと、それを人に広めることは違うということです。
たとえば、絵を描く人がいるとしますと、純粋に絵を描くのを楽しむ心と、それを人に売って暮らそう、という心は違うものだということです。
絵がうまくなる、よくなる、というのは無限の道のりです。
そこで、この絵はどうしたら売れるかな、と考えるのは邪念でしかありません。
真理も同様です。人が真理を極めようという努力は、ここで十分ということがありません。
ニーチェの描くツァラトゥストラは、山に籠って瞑想していましたが、ある日、自分の中で溢れかえってくるものを恩恵として人々に分け与えようとして山を降りてきます(という要約でいいと思うのですけれども)。
それを読んで以来、なにか悟ったようなことをいう人は、私にとって「山を降りてしまった人」になりました。
ああ、この人はもう山を降りてしまったんだ……
主にテレピに出るタレント学者みたいな人を見ると感じるのですけれども。
研究という聖域から俗世間に降りてきた器用な人たち。
山にいれば、聖人であり、修行者ですけれども、山を降りてしまえば俗人です。
そして、山で学んだことを高く売りつければ山師です。
山にいて真理を求め続けることは誰も利さない行為です。
しかし、十分に機が熟さないうちに、半端な知識を売りに山から降りてきたらただの商売人です。
どれくらいのものを持ったところで降りてきてしまうかで、器や志が見えてしまいます。
修行を済ませて本当に豊かさを分け与えようと降りてくる人は少ない。
あらゆる教祖というものは、中途で山を降りてきた人たちだと思えば間違いないのです。
そういう人の弟子が何かを押し売りしようとしたら、それはもう食わせ者です。
組織拡大や、売り上げやお布施をあげようとしたら、いくら立派なことを言ってもダメです。
私の『達磨』という小説は、9年間、山を降りなかったどころか、洞窟内で面壁して、一歩も外に出なかった人の話です。
9年というのは、30歳からであれは、39歳までの時間です。
長い。
9という数字は一つの永遠の象徴なのです。
山から降りて来ない人、としての達磨を描いたのです。
人のことをあげつらいましたが、ちなみに私自身は、山のふもとに住む俗人です。山もいいけど、里もいい。そういう隠遁者のようなもので、悟りをひらくほど修行もしたくないのです。
この世では、山から降りてきた人たちがさまざまな教義を売りつけようとてぐすねを引いています。
こういう被害を予防するには、とりあえず、単純な原則を知っておけばいいのです。
よいものは向こうから来ない、ということです。
電話セールスや、訪問販売にはロクなものがないでしょう。
商品性が優れていれば、押し売りのような無理な商売はしません。
本当に必要なものは人は探してでも手に入れるのです。
向こうから働きかけてきたものはすべて危ない、そう思っていれば、いちばん間違いがありません。
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