INNER LIFESTYLE DESIGN
 〜ナチュラルに生きる方法論序説
フリーメーソンと知識
新年なので、また少し角度を変えまして、フリーメーソンの話をしましょう。

フリーメーソンというと、怪しげな秘密結社と思うでしょうが、言葉の意味は「自由な石工」です。
中世ヨーロッパの石工は、各国を遍歴放浪しながら、土地土地で経験を積み学んで一人前になったのです。

土地の組合が放浪の石工を受け入れるということは、食べていける技術という貴重な財産を渡すことであったでしょう。だから、しかるべき筋から来たものか、頭を垂れて学ぶだけの技術に対する畏敬を持っているか、きちんとしたチェックがあったと思うのです。

よく股旅モノで、同じ放浪者である三度笠のやくざが「お控えなすって」と仁義を切り、どこから来たか自分の筋をあきらかにしますが、あれと同様かそれ以上のことであったと思います。

そして、その土地の技術を分け与えてもいい、とアクセス権を与える儀式が、秘密厳守の誓いになり、イニシエーションになっていったでしょう。

長く遍歴を重ねたものは、むしろ、他所の貴重な技術を伝えてくれる媒体にもなったはずで、そのようなことからヒエラルキー、位階というものが発生したでしょう。
位の高いものは、初めての土地でも歓迎され、その位にふさわしい待遇を最初から与えられるようにです。

このように知識、ノウハウは宝物なのです。
そういうことはITの世の中になっても変わりません。公開されているのは、非常に低い一般的な知識であって、高度な元手のかかったノウハウは誰も人に教えません。
また公開したところで、普通の人には意味がないし、理解することもできないのですが。

西洋の神秘主義には、知識をそのように限られた人が受け継ぐ、非常に具体的な、ある意味で物質的なまでに輪郭のはっきりしたものとして扱う気風というか、発想というか、手法というか、そういうものがあります。
というか、知識というものはそういうものなのです。

それを受け取るにはきちんとした対価を払わなければいけません。
対価を支払わないで済まそうとする人は、このような知識には一生近づくことがありません。

現代で言えば、お金です。
石工の技術は、石という具体物の形に表れますから、よしあしの判定は容易です。
一つの技術を学べば、できあがりもより高価な報酬に値するものになることもあるでしょう。

しかし、精神的な技術は、よしあしが素人にはわかりません。
一時的に真理を知ったような気にさせる技術というものがあるのです。
カルトや、スピリチュアリズムはこういうトリックを平気で使います。
というか、使う本人が信じているから性質が悪いのです。
布教している人は、真理を知っているわけではなくて、想定問答集を叩き込まれているのです。
だいたい反論というのは類型的なものなので、それに対してはこう言いなさい、というのが一通り入っていると、素人の反論などにはスラスラと答えることができるのです。

話がズレました。

*知識というものは、物質的なものであり、また本質的な部分は秘匿されやすいものである
*それを受け取る人は、知識に対する畏敬を持たねばならず、入り口で選別される
*受け取るためには対価を支払わなければならない

要点はこの3点です。
だからといって、慌ててヘンにものにお金をつぎこまないでください、という注意をつけくわえたかったのです。

とりあえず、知識といってもいろいろ捉え方があるものだなあ、と思ってもらえればいいのです。

(続くかも…)


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真の知識のあるところ、心理研究会
第二回は来年1月13日水曜日19時よりです。


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師と弟子 / comments(1) / trackbacks(0)
ジャニーズ系学問の話

習い事をするなら、カルチャーセンターやスポーツクラブではなく、個人の先生が教えているところがいいのです。

カルチャーセンターでは、先生がいくらいいい先生で、熱心でも「マスを埋める」という感覚がつきまといます。
センターの都合で、カリキュラムや先生が替わってしまうこともあります。
また生徒もどんどん移り変わり、継続する生徒と、ビギナーとの差を柔軟に吸収できないこともあります。

先生から見ても、カルチャーセンターに来る生徒と、自分のところに来る生徒、どちらが大切な生徒か考えてみればわかるでしょう。
先生が意図的に差別するしないに関わらず、つきあいの濃密さは変わって来ます。

カルチャーセンターは一種のお味見、カタログとしてみるへきです。尊敬できそうな先生がいたら、私塾というか、その先生が主宰している場所に行ってみることです。

カルチャーセンターでは、表舞台しか見えませんが、私塾は深入りしててくと、楽屋裏まである程度見せてもらえることがあります。
できた先生は一挙手一投足まで見ていて勉強になります。

カルチャーセンターはいわば切り身のお魚です。
しかし、私塾では丸一匹を捌くところまで見られます。
アラの部分まで捨てるところがありません。

*

本日は師と弟子にちなんで、ちょっとした与太話をしましょう。

今から30年も前、私のいた月刊『宝島』編集部は『どるめん』という民俗学と考古学の雑誌の編集部と同居していました。
編集部といっても、季刊なので編集長一人です。編集長のTさんは、郵送で学者の原稿を集め、いつも地道に校正の仕事をして、センブリを飲んでいました。
このTさんがときどき妙なことを言い出すのです。

「考古学は面白いけど、民俗学はつまんねえ」
「縄文はいいけど、弥生はダメだ」
というようなことを単調な作業の合間に叫ぶのです。本当はマルクスと神秘主義の関係とか、もっというにはばかるような過激発言もあるのですが、それはやめておきます。

そのTさんがある日、
「折口信夫っているだろ? あれは本当はのぶおっていうんだけれども、コレモン(オカマのポーズ)だから、弟子にしのぶちゃんと呼ばせていたんだ」
と言い出したのです。

「弟子にも見どころのあるヤツは、『お前ちょっと来い』と寝室に呼んで、そのときに折口は黒いふんどしを穿いているんだ。それで寝室でかわいがった弟子だけに秘儀を伝授したのだ」

これは学問のジャニーズ事務所ですね。

折口信夫といえば、柳田國男と並ぶ民俗学の神様みたいなものですから、若い私たちとしては、Tさんのいつものホラ話として話半分に聞いていたのです。
それ以降も全面的に信じたわけではないけれども、記憶にはよく残っていました。

この文を書こうとしてwikiを読んで、折口が男色家だったのは事実であったと確認しました。

日本的な習い事は、「この先は曰く言い難し」「この先は口伝」というものが多いのです。
それだけ知識は大事に秘密にするものでもあったし、最後には人格の交流を通じて伝わるものでもあった。

そういう例として挙げるには、折口信夫はじつに不適切ですね!
だから、与太話なのですけど。

でも、この年末に書きたかったのです!

学問といっても四角四面なだけでなくて、その根源においてはじつに泥臭い、人臭い顔をしておるのです!

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師と弟子 / comments(0) / trackbacks(0)
師というもの
 師と弟子という言葉には、先生と生徒という言葉とは決定的に違うものがあります。
知識の身体化の流れで師と弟子について何回か書きましょう(例によってあてにならない予定)。

師というものは、知識と人格が結びついているものです。
師という文字の原義は、師団、出師などの言葉があるように、軍を発するときのリーダーのような意味であったようです。
これが引退して若者を育成するようになったところから、先生に近い意味の師が用いられるようになったようです。

したがって、師と呼ばれる者のリーダシップは全人格的なものです。
師の教えるモノは、右から左への知識の受け売りではありません。
身体化どころか血肉化した知識です。
知識を頭に入れ、身体に入れ、応用し、評価選別し、いろいろな場面で試し、消化し、再構成したものです。
つまり、知識というものは、何か中正な、不変な何かではなく、人の経験を経由することで進化成長し、変化していくものなのです。

知識が変化するというと驚くかもしれません。
数学や物理法則などは普遍性があるわけですが、知識と呼ばれるものの中でそのようなものはごくわずかです。

たとえば、科学と言われるものは客観性がある、となんとなく信じられています。
しかし、たとえば、原子力は安全かという問題になりますと、安全だという学者も危険だという学者もいくらでも出てきます。

かつて日本初の公害病、水俣病が大きな被害を出したときにも、「水俣病は水銀が原因ではない」という御用学者がたくさんいたのです。

だから、法則には普遍性があってもそれを積み重ねた結論は恣意的でありうるということです。

これは、知識というものが世に思われているほど、いわゆる「客観的」なものではないという一例であります。しかし、師が教えるものが恣意的である、ということではないのです。

たとえば、価格.comで商品を検索すれば、同じ商品をいちばん安く売っている店がわかります。知識は、この「商品」と同じようなものではない、ということです。
同じ料理でも料理人が違えば味が違うように、師が違えば教わるモノも違うのです。

かつては大学を選ぶにも、「**先生がいるから」と師を慕って選ぶ学生がいました。今もそんな学生がいたら、その学生は見どころがあると思います。
私自身は、そんな見どころは全然なくて、非常に凡庸になんとなくイメージで大学を選んだので偉そうなことは言えません。

たぶん、人文系より理工系のほうが具体的に自分の方向と先生や専門分野を吟味している学生が多いだろうと想像します。

しかし、先生を見ずになんとなく何か教えてくれるだろうと思って大学に行って、あてがいぶちの授業を受けて、知識は固定的なものだと思っている、ということになりますと、授業もビデオで見れば十分ということになります。
あるいは、インタラクティブなパソコンシステムでもあれば、ゼミを除いた大学全体が巨大な任天堂DSになってしまいます(DSには学習ソフトがいろいろあるのです)。

そこに先生が人として居る、という意味は、そこに生徒が人として居る、というところからしか出てこないのです。
でも、大学で先生と生徒が人としてのお互いの個性を知り合う、という場は少人数制のゼミなどでなければ実現しないものです。

師と弟子、というのは、それ以上に人と人との濃密な関係なのです。



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