たくさんのコメントをいただいてうれしいです。
改めて考えると、一つのものごと、一つの言葉でもじつにいろいろな角度から眺められます。
それを私たちは、混乱ではなく自由性として確保しなければなりません。
そのために、いつも心と言葉の柔軟体操をしましょう!
少し論点を整理しつつ、ゆっくり話を進めたいと思います。
現在、書きたいことがたくさんあって困っています。
私が人に期待しない、と言ったのは、人嫌いやニヒリズムではありません。
私個人は人に会うのが大好きです。もちろん、誰でもいいというわけではなく、気の合う相手ですが、会うと楽しい人がたくさんいます。
会ったら楽しく話が弾むだろう、という期待はもちろんありますが、なるべく期待レベルを上げません。
たまにゆっくり飲もうと思っていた相手があっさり帰ってしまうと、がっかりします。
相手がいい仕事をふってくれるのではないか、などと仕事がらみで期待してその話題がでないとそれもがっかりします。
パーティに行くときも、誰か面白い人と知り合って話が弾むだろうなんて思っていると、かえって一人ぽつねんとしてしまってつまらないことがあります。
ここに【期待レベルは低いほうが楽しい】という法則があります。
映画でも、レストランでも人の評価がよくて期待して行くと、がっかりすることがあります。期待を膨らましすぎると、楽しくなくなってしまいます。
パーティは楽しい、というところにゼロの基準をおいてしまうと、楽しくないとどんどん気持ちが下がります。
そんなに楽しいものではない、と思って行くと、いいことがあったときに、全部プラスとして受けとめることができます。
それだけではありません。誰かに会って、何かを期待していると、モードの違いもでてきます。こちらがしんみり話したいときに、向こうがはしゃいでいたり、その逆だったりすると、全然気持ちが噛み合ないことがあります。
だから、人と会うときは、なるべくフラットな気持ちになるようにします。
だから、じつは期待しない人のほうが人と会うハードルは低いのです。
何でもあり状態だからです(イヤなら逃げますけど)。
引きこもり気味の人は、こういうフラットな気持ちになれない要素がいろいろ心の中にあるのでしょう。
だから、期待しないということは、別に不活性な状態になるということではないのです。
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それから、人に期待しないということで書きたかったことは、【特定の個人に対して期待しない】、ということです。
たとえば、私がこのブログを書くときに、より多くの人に読んでもらいたい、読んでもらうことによって何かしらよい変化が起きてもらいたい、という期待はあるわけです。
ですけれども、友人や知り合いの中で、「あの人は読んでくれていないのではないか?」というようなことは具体的に考えません。
正直に言って考えそうにはなるのです。
「あの人から感想聞いてないな、読んでくれているのかな」とか、「あの人にこそ読んでもらうべきなのに」とかね。
でも、そういう期待は、ちらりと浮かんでも踏み込みません。萌芽のうちにとどめます。
読んでくれる人がいるのを喜ぶのか、読んでくれない人に対してうらんだり猜疑心をもったりするのかでは、大きく違います。
自分だって、他人の日記やブログを読むのは興味があるからであって、すべてに目を通すのはとても無理です。
興味のある人、読みたい人は読んでくれる、それで十分です。
義務であったら辛くて仕方がありません。
ミクシィで、あしあとをつけた人はコメントを残したり、からんでください、みたいな人いますね。
たぶん、アマチュアの小説書きでも、周囲の全員に読むことや感想を強要(期待)している人がいると思うのです。
そういう期待に応える人は、たしかに何割か本当に小説のファンもいるでしょうが、あとは気の弱い巻き込まれる人か、それに見合う何かを返してもらう期待をしている人だと思うのです。
そういうふうにおつきあいのハードルを上げてしまうと、中味がドロドロと粘着してきます。
戦国時代の武将は、相手の忠誠を確かめるために人質をとり、また進んで差し出しました。
相手の友情や忠誠を具体的な行為やモノで確認しないと気が済まない心性というのは、それに似ています。
【君子の交わりは水の如し】と言います。
魂の共振は、証拠物件を差し出す必要がありません。
一瞬でもすべてをわかりあってしまいます。
だから、どんどん淡く澄んでいくのです。
特定の個人に期待するとドロドロして辛いのです。
しかし、この辛さもまた脳内麻薬が出て抜けられなくなるのです。
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もう一つは、私の言葉でいう【期待で体重をかけない】ということです。
体重をかけられると、かけられたほうは手を放すと相手が倒れてしまう、というプレッシャーを受けることになります。
これがいわゆる依存ということになりますが、依存という言葉はできるだけ使いたくないのです。
なぜ使いたくないかは、また言葉について長く語ることになりますので、次回にしましょう(たぶん)。
体重をかけて、よりかかられるほうも大変です。
だから、【期待しないだけでなく、期待されないほうがいい】ということも言えるのです。
しかし、「期待する」のは、自分です。「期待される」場合は、期待するのは他人や親であるので、同列には扱えません。
まず第一条が自分が【期待するのをやめる】。次に【期待されるのをやめる】という順序になると思うのです。
期待されるのをやめるためには、新しい知り合いに対しては、当初、低く見積もられることです。
それから、親や家族や古い知り合いに対しては徹底的に期待を裏切ることです。
一気にぶっちぎるか、小出しに少しずつ裏切るかは、自分のタイプで決めてください。
呆れられ、あきらめられるところまでやらなくてはいけません。
いわゆる反抗期という言葉が、(最近は昔ほど聞かないような気もしますが)成長に応じた親との関係の調整時期だと思うのです。
このときに、古くなった関係の糸はぶつぶつとぶっちぎっておかなくてはいけない。
引きこもりが増えた一因は、この反抗期という表現形態が機能しなくなったからではないか、という気がします。
単純に反抗というのは、自立へ向かう衝動ですからね。
同語反復にならないためには、もう少していねいに見ていかないといけないので、ここでは一つの仮説として書いておくにとどめます。
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なんかすごく駆け足でいろいろなことを書いています。
でも、これくらいの勢いで書かないと何の話かわからなくなってしまいます。
でも、あとは次回に致しましょう。
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