INNER LIFESTYLE DESIGN
 〜ナチュラルに生きる方法論序説
期待しないことについてのいくつかの原則

たくさんのコメントをいただいてうれしいです。


改めて考えると、一つのものごと、一つの言葉でもじつにいろいろな角度から眺められます。

それを私たちは、混乱ではなく自由性として確保しなければなりません。

そのために、いつも心と言葉の柔軟体操をしましょう!


少し論点を整理しつつ、ゆっくり話を進めたいと思います。

現在、書きたいことがたくさんあって困っています。


私が人に期待しない、と言ったのは、人嫌いやニヒリズムではありません。


私個人は人に会うのが大好きです。もちろん、誰でもいいというわけではなく、気の合う相手ですが、会うと楽しい人がたくさんいます。

会ったら楽しく話が弾むだろう、という期待はもちろんありますが、なるべく期待レベルを上げません。


たまにゆっくり飲もうと思っていた相手があっさり帰ってしまうと、がっかりします。

相手がいい仕事をふってくれるのではないか、などと仕事がらみで期待してその話題がでないとそれもがっかりします。

パーティに行くときも、誰か面白い人と知り合って話が弾むだろうなんて思っていると、かえって一人ぽつねんとしてしまってつまらないことがあります。


ここに【期待レベルは低いほうが楽しい】という法則があります。


映画でも、レストランでも人の評価がよくて期待して行くと、がっかりすることがあります。期待を膨らましすぎると、楽しくなくなってしまいます。

パーティは楽しい、というところにゼロの基準をおいてしまうと、楽しくないとどんどん気持ちが下がります。

そんなに楽しいものではない、と思って行くと、いいことがあったときに、全部プラスとして受けとめることができます。


それだけではありません。誰かに会って、何かを期待していると、モードの違いもでてきます。こちらがしんみり話したいときに、向こうがはしゃいでいたり、その逆だったりすると、全然気持ちが噛み合ないことがあります。

だから、人と会うときは、なるべくフラットな気持ちになるようにします。


だから、じつは期待しない人のほうが人と会うハードルは低いのです。

何でもあり状態だからです(イヤなら逃げますけど)。

引きこもり気味の人は、こういうフラットな気持ちになれない要素がいろいろ心の中にあるのでしょう。


だから、期待しないということは、別に不活性な状態になるということではないのです。


*


それから、人に期待しないということで書きたかったことは、【特定の個人に対して期待しない】、ということです。


たとえば、私がこのブログを書くときに、より多くの人に読んでもらいたい、読んでもらうことによって何かしらよい変化が起きてもらいたい、という期待はあるわけです。

ですけれども、友人や知り合いの中で、「あの人は読んでくれていないのではないか?」というようなことは具体的に考えません。

正直に言って考えそうにはなるのです。

「あの人から感想聞いてないな、読んでくれているのかな」とか、「あの人にこそ読んでもらうべきなのに」とかね。


でも、そういう期待は、ちらりと浮かんでも踏み込みません。萌芽のうちにとどめます。

読んでくれる人がいるのを喜ぶのか、読んでくれない人に対してうらんだり猜疑心をもったりするのかでは、大きく違います。

自分だって、他人の日記やブログを読むのは興味があるからであって、すべてに目を通すのはとても無理です。

興味のある人、読みたい人は読んでくれる、それで十分です。

義務であったら辛くて仕方がありません。


ミクシィで、あしあとをつけた人はコメントを残したり、からんでください、みたいな人いますね。

たぶん、アマチュアの小説書きでも、周囲の全員に読むことや感想を強要(期待)している人がいると思うのです。

そういう期待に応える人は、たしかに何割か本当に小説のファンもいるでしょうが、あとは気の弱い巻き込まれる人か、それに見合う何かを返してもらう期待をしている人だと思うのです。


そういうふうにおつきあいのハードルを上げてしまうと、中味がドロドロと粘着してきます。

戦国時代の武将は、相手の忠誠を確かめるために人質をとり、また進んで差し出しました。

相手の友情や忠誠を具体的な行為やモノで確認しないと気が済まない心性というのは、それに似ています。


【君子の交わりは水の如し】と言います。

魂の共振は、証拠物件を差し出す必要がありません。

一瞬でもすべてをわかりあってしまいます。

だから、どんどん淡く澄んでいくのです。


特定の個人に期待するとドロドロして辛いのです。

しかし、この辛さもまた脳内麻薬が出て抜けられなくなるのです。


*


もう一つは、私の言葉でいう【期待で体重をかけない】ということです。


体重をかけられると、かけられたほうは手を放すと相手が倒れてしまう、というプレッシャーを受けることになります。

これがいわゆる依存ということになりますが、依存という言葉はできるだけ使いたくないのです。


なぜ使いたくないかは、また言葉について長く語ることになりますので、次回にしましょう(たぶん)。


体重をかけて、よりかかられるほうも大変です。


だから、【期待しないだけでなく、期待されないほうがいい】ということも言えるのです。



しかし、「期待する」のは、自分です。「期待される」場合は、期待するのは他人や親であるので、同列には扱えません。

まず第一条が自分が【期待するのをやめる】。次に【期待されるのをやめる】という順序になると思うのです。


期待されるのをやめるためには、新しい知り合いに対しては、当初、低く見積もられることです。

それから、親や家族や古い知り合いに対しては徹底的に期待を裏切ることです。

一気にぶっちぎるか、小出しに少しずつ裏切るかは、自分のタイプで決めてください。

呆れられ、あきらめられるところまでやらなくてはいけません。


いわゆる反抗期という言葉が、(最近は昔ほど聞かないような気もしますが)成長に応じた親との関係の調整時期だと思うのです。

このときに、古くなった関係の糸はぶつぶつとぶっちぎっておかなくてはいけない。


引きこもりが増えた一因は、この反抗期という表現形態が機能しなくなったからではないか、という気がします。

単純に反抗というのは、自立へ向かう衝動ですからね。

同語反復にならないためには、もう少していねいに見ていかないといけないので、ここでは一つの仮説として書いておくにとどめます。


*


なんかすごく駆け足でいろいろなことを書いています。

でも、これくらいの勢いで書かないと何の話かわからなくなってしまいます。


でも、あとは次回に致しましょう。



**


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期待と希望についてさらに考える
 たくさんのコメントをいただいて、楽しみな展開になってきました。

というのは、私が何らかの結論をはっきり持っている事柄ではなくて、リアルタイムでみなさんと同期していっしょに考えることができるからです。

こういう状態は、パチンコで言ったらビカビカと光って音が鳴っている状態、確変中(というのだと思う)のようなラッキーでハッピーだと思います(笑)。いや、それ以上ですね。


今回は、コメントの中で主要であった次のようなことについて考えましょう。


*


>投影はぜひやめたいのですが、期待はどうなんでしょう…。

期待する心は、希望でもある気がします。


*


>私は「誰かに理解してもらえる」ということを期待していましたけど、これも適わぬ願いなのだ、と、言い聞かせています。


それはある意味本質を突いたことなのですけど、

それでもときに寂しいなあ、と思うときがあります。


*


>期待することは人にとってベースにある希望のように思われることですね。

 期待はできるだけしないように、というのは厳しい。なんというか、「精進料理を食べれば健康になれる」みたいな、「分かるんだけどー!」という実感があります。

 でも、人への期待でただれてしまった胃を修復する意味では、重要だと思います。



**


期待がなくなることは、希望を持たなくなることとイコールではないか。それはさびしいことではないか、という意見ですね。


これを考えるときに、私はまず


・「希望と期待は何が違うのだろう」、ということを調べるのです。

・それから、「『希望を持つことはいいことだ』と当然のこととして語られていることは、本当だろうか」、ということも調べます。


調べるというのは、辞書を引くのではなくて、自分の体験や心の中で調べるのです。


私はあまり希望という言葉で物事を考えたことがありません。

たとえば、このブログで実現しようとしていることは、私は希望しているというより、意図しているのです。意図して行為しています。

意図が成功したらいいな、とは思いますが、それはどうも希望という言葉ではしっくりこないのです。

むしろ野望、といったほうがしっくりします(笑)。

でも、野望というのは外から見た言葉で、自分から野望するとはいいませんね。


そういう希望音痴の私ですから、希望とは何かを調べるのに皆さんのお力をお借りしたい。


抽象的に考えるのではなく、自分の中を調べてください。次のような順序でします。


いま、現在どのような希望を抱いているのか?

過去にどのような希望を抱いたことがあるか?

その希望は満たされたか、どこにいったか?

そのように見渡したとき、希望することは自分にとってよいことだったか?


このように考えて行くと、希望というものの輪郭が見えてくると思うのです。


それから、希望と期待は何が同じで何が違うか、ということを考えるのです。


その結果を教えてください。


*


それから、人に期待してはいけない、という場合、純粋に心の領域に限定していただきたいのです。

(但し書きというのは、書いて行くと非常に煩雑になって、本筋がわかりにくくなってしまいますから、なるべく省略したいのですが、この場合、仕方ありません)


たとえば、上司が部下に、発注者が仕事先に、よい品質の仕事を期待し、管理するというのは、これは社会的な関係、経済的な関係とも絡んできますので、純粋ではありません。

それは直接的に心の消耗ということには関わりません。


もっと心の根幹の部分で何かを他人に期待するということについて考えていただきたいと思います。




*


けっこう考える手続きがあるものでしょう?


私にとって、書く、考える、というときには、いつもこうしているのです。


考えるも、書くも、言葉という道具を使うので、その道具を吟味しなければなりません。

職人さんの世界では、自分で自分の目的に合った道具を作る、自分の手や身体にあった道具を作るということは珍しいことではありません。

そうしなければある程度以上、精緻な作業はできないのです。


言葉という道具も同じです。

使いながら、吟味して、研ぎすませていかなくてはいけません。

また自分の身体の一部のように自由自在に操れないといけません。


言葉を研ぎすませるにはどうするか、というと、石を研ぐのに他の石や金属を用いるように、他の言葉と当てるのです。


「期待」「希望」。似ていますが、二つ言葉がある以上必ず違います。


同じところはどこか、違うところはどこか?

そのように意識的に照らし合わせることによって、言葉の意味やニュアンスの輪郭がくっきりします。

そのようにくっきりした言葉は道具としてより精度が上がるわけです。


「『希望を持つことはいいことだ』と当然のこととして語られていることは、本当だろうか」


ということを考えるときに、誰もが希望はいいものだと思うのは、希望の反対語として「絶望」という言葉があるからだよなあ、ということも考えます。


そうすると、「希望」と「絶望」は、幾何学的に厳密に正反対に位置するものだろうか? ということを考えます。

希望が+1であれば、絶望は-1の位置にあるか?  というようなことですね。

それはどうも怪しいぞ、という気がします。


では、絶望とは何だろう? と希望という言葉を研ぎすますのに、絶望という言葉とも摺り合わせるわけです。


そうして吟味していると、もろく崩れて道具としては使えない、使いたくない、という言葉もでてくるわけです。


*


日本の哲学用語というのは、おおむね海外からの輸入に頼っています。


つまり、他人様の道具を使って考えているわけです。

しかも、それを日本の熟語に訳しています。そのような概念を指す言葉の多くは、日本にはなかったので、造語されたり、他の意味だったものを援用したりして、間に合わせました。


そういう言葉で考えることは、日本人の日常と離れた別の空間を作り出してしまうだけで、生活を潤しません。


ふだん使っている言葉がいちばん大切なのです。

翻訳語は頭にあるだけですが、ふだん使っている言葉は、全身の細胞に染み渡っているので、じつはずっと強い力を持っています。

それを考える言葉に研ぎすませていくこと。

そこから哲学というものは始まって行くと思っています。


だから、あなたの中にある「希望」という言葉を調べてみてください。


*


言葉は道具と書きましたが、文章にしたときには、その道具自体が一つの織物の一部として編み込まれて本体になっているわけです。

そういう不思議な性質があります。


そして、私が考えていることがあなたに伝わる。

すごく面白いことですよね。



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人に期待してはいけない


最近、自己観察して発見したこと。

「人に何かを期待して報いられないことほど消耗することはない」


ふだんあまり精神を消耗しないような生き方をしているのに、先日妙にぐったりと疲れたので、これは何なのだろう、と考えたのです。


そうして省みると、他人にあることを期待していた部分がありました。それが全然思惑通りに動かなかなったのです。

他人に期待していると、報いられないときに(期待を「裏切られた」、ともいいますよね)、怒りや悲しみ、落胆などの精神エネルギーがでます。そして、さまざまな連想が働き、今度はそれを抑え補正しようとするエネルギーが出て、多量のエネルギーが相殺、浪費されるのです。

そして、人に寄りかかろうとして姿勢を崩していますから、そのあと、自分の姿勢を立て直すのも難しいことです。

人によっては、期待を裏切られたという不平不満や恨みを抱えたままになるでしょう。


最初から一人ですくっと立っているのに比べると大きな違いになります。


つまり、人は他人に(家族も含めて)何も期待しないほうがいいのです。

もちろん、生きるということは他人の恩恵は大きく受けるわけです。

それは感謝して受けるがいいのです。

しかし、期待してはいけない。


期待しないということは、ゼロベースということなので、よいことをしてもらったときに人に感謝ができます。

期待すると、期待に応えてくれることがゼロベースになるので、感謝より不満が生まれるのです。

すごく大雑把にいうとですけれどもね。


人に期待する、ということを過剰にしていきますと、確実に心のエネルギーがうまく流れないようになります。

エネルギーの流れがねじれてくるのです。それが、ねじれたまま固定されてしまうと、(つまり、うらみつらみをもったり、人のせいで自分の人生がダメになったと考えるとです)、さらにそこにいろいろなものが溜まっていって、より複雑な様相を呈するのです。


というわけで、人には何か期待するのは、非常に心にとって悪い、ということを自分の心で感じたのです。


そして、ひょっとしたら、心にとってそれがいちばん悪いのでは? と思うようになりました。

それよりも心にとって悪いことは何だろう? 

と考え始めました。


さらには! 


それ以外に心に悪いことは存在しないのではないだろうか?

というところまで、現在、私の中で仮説が広がっているのです。


この「心が大事」ブログでは、じつにさまざまな現象、領域について書いてきています。

しかし、多くの言葉を使って書くことは目的ではありません。

できればたった一つの原理に帰一したいのです。

数学でいえば、公理とか、定義とかの、一つか、あるいはごく少数の出発点を設定して、それですべて説明がつくように心理的概念をすべてゼロから構成しなおしたいのです。


とても大胆なことを言っていますけど、実際、心理学というものは分裂しすぎて力を失ってしまっています。

さらに専門用語や概念や領域がたくさんあって、たいへん難しくややこしい。でも、それを全て足し合わせたところで大したことができないのです。


そうして、そのような専門性があるがために、人々は心を専門家任せにして、人が自分でモノを考えないようになっているのです。


自分の心を自分で知るというのは大事なことです。

だったら、心を考えるのに、分裂せずに一つで、単純な原理からスタートしていて、特別な専門用語を使わないものを作ろう。

それがこのブログの趣旨なのです。


というわけで、「人に期待しない」ということは、その出発点としての要素に値するのではないか、といま考えているわけです。

人に期待しない、というのは、あまりにも部分的なことではないか、と思われるかと思いますが、これはボジティブに言い換えれば、「自分の生命を自分の価値で生きる」ということです。

いわば生きる価値の自給自足のようなことです。


しかし、「自分の生命を自分の価値で生きる」では、入り口としてあまりに抽象的なので、「そうですか」で終わってしまって実際的でもないし、ダイナミックでもありません。

「人に期待しない」であれば、誰でもそこから考え始めることができると思うのです。


この仮説の検証にぜひ皆さんの力を貸していただきたいのです。


いま、現在消耗している人、落ち込んでいる人、そういう状態を思い出せる人、それは「人に期待したからではないか?」とちょっと考えてみてください。

もちろん、自分が落ち込んでいるのは違う理由だ、というコメントも大歓迎です。

むしろ、そちらが大切です。


なぜ人は消耗するのか。落ち込むのか。

それを一つの原因で解けたらすばらしいけれども、そんなにうまくいくでしょうか。


みなさんのコメントお待ちします。


(人に期待しない、ということにはいろいろ付随的な説明が必要ですが、それは次回以降に致します)

 

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我慢する人と堪忍袋
 私は人はみんなしたいことをしたほうがうまくいく、と思っています。


自分が我慢しているときは、何かがうまく行っていないと感じます。

もちろん、我慢が一切できないとか、そういう話ではありません。

ただ、

もう少しうまいやり方はないのだろうか、

もう少しいいモノの言い方はないだろうか、

もっとよくするにはどうしたらいいか、

どうしようもなければここは自分に合わない、逃げ出すべきだろうか、

と目まぐるしく物事を考えます。


それに対して、自分が我慢しているからうまく行っている、と考える人も多いでしょう。


忍耐強い人は尊敬に値します。


しかし、忍耐強くないのに我慢している人、というのは、私はたいへん警戒するし怖いのです。


その人の中で堪忍袋が風船のようにみるみる膨れ上がっていくのが目に見えるからです。

いつ破裂するか、どきどきです。


およそ、堪忍袋というのは、伸び縮みが柔軟でなければなりません。

堪忍袋は我慢を一時期貯めるだけで、どこかで小出しにする、ガス抜きする、忘れる、胃袋のように消化する、という機能と一体になっていないと、ただ貯めておいて爆発するだけの時限爆弾のようになってしまいます。


しかし、その怒りが爆発するとき、それは我慢重ねた怒りなので、本人にとって正義の怒りなのです。


そういう恐ろしい人がいました。

その人は爆発の快感に慣れてしまって、完全に脳内麻薬出してしまうのです。

だから、あきらかに爆発するために我慢と怒りを溜め込む、ということをたぶん無意識にするのです。


我慢するなら一生飲み込んで墓場まで持っていってくれれば、尊敬します。


しかし、いずれ吐き出そうと思って溜め込むくらいなら、その場で自分が我慢しなくていい解決を話し合って求めるべきだと思うのです。そういうことをしないで腹にいろいろ溜め込んでいる人は、顔を見るとわかります。

私はなるべく近づかないようにしています。

フリーだからできるのですけれどもね。職場や仕事先にいる人はたいへんだと思います。


そういう人がまた「我慢する人」になると、だんだん世の中に我慢が蔓延するわけです。

ほら、そう考えると、みんながしたいことをしないとダメでしょう?


一時期、「すぐにキレる若者」が注目を集めましたけれども、彼らもキレるときには、我慢してたまりにたまったものを爆発させていたように思います。

ただ、その我慢が人には通じない種類のものだったのです。自分勝手で狭量で頭が悪く、性格が歪んでいるところからイライラがたまりやすいので、小さくてすぐに破裂する堪忍袋がみるみる膨れ上がって行くのです。

結局、理解力も表現力もないから、自分が我慢していると思っているのです。


悪口書きましたが、ここに書こうと思ったのは、ダメな人をクサす目的ではないのです。


私とあなたのこと。


したいことをするということ。


それが大事です。



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したいことをすべし
 したいことをすべし。


これを小学校では教えませんね。


まず教えることは「人に迷惑をかけるな」「授業中は話をするな」という禁止から入ります。


「する」ほうから教えないで、「しない」ほうから教える。


教室という四角い箱の中で、いろいろな性格の子どもたちを教えていれば、そうなるのもわかります。

たとえば、大草原の青空の下で教えたら、きっと違う教え方を考えるでしょう。


しかし、教室でも、カリキュラムを作り直し、工夫をすれば「する」ほうから教えることはできると思います。


それをどうするか、という具体的な議論は教育学のほうでやっていただかなくてはいけませんが、とにかく「する」ほうから教えないと日本人の精神の土壌は変わりません。


日本人の精神の土壌が悪いというわけではありません。

しかし、社会がどんどん欧米化、アメリカ化しているからズレているのです。

ナイフやフォークで納豆や焼き魚を食べているような具合です。

最もこの現象は今に始まったことではなく、日本の知識人という人たちは、何十年も前から、必ず似たようなことを嘆いていたように思います。

それでも日本のメンタリティやシステムは少しずつしか変わりません。

日本文化と西洋文化が共生するようなシステムのデザインをもう少し積極的に考えることは有益だと思います。


「したいことをすべし」に話を戻します。

したいことをしなさい、というと「したいことをしていいなら人を殴ってもいいのか」とか、「泥棒をしてもいいのか」「痴漢をしてもいいのか」というようなことを聞き返されることを覚悟しないとけません。

そういう反問が浮かぶ人が必ず何パーセントかいるのです。


「村松がしたいことをしろと言ったから人を殴った」と言われたらかないませんから、きちんと手当しなければいけません。


論を進めるのに、そんなことは論外である、自分で考えなさい、と放り出したいのですが、よくよく考えてみると、ここにもちょっと面白さがあります。

哲学とか心理とかは、そんなことは当たり前だと放り出してはいけないのです。

当たり前のことを疑っていったときに、意外な真実が浮かび上がってくることがあります。


人を殴るとか、泥棒をするというのは、法律違反です。

したいことをしなさい、と言われてすぐにルール違反を考えるというのは、つまり、私たちの中には、「したいことをする」=「ルールを破る」こと、という考えが多かれ少なかれあるわけです。


しかし、もちろんしたいことをすることとルールを破ることは直接関係ありません。

私は将棋や碁や麻雀が好きですが、このようなゲームにも厳密なルールがあります。

しかし、そのゲームの中では、自分の考えやセンスでさまざまな選択をすることができます。

棋風という言葉があるように、プロになったからといって正解は一つではありません。

そこが面白さです。


私たちは人生の中でさまざまなゲームを選び、思い思いにゲームをします(人生がゲームだとしての話ですが)。ルールもあり、マナーもありますが、なるべく伸び伸びとプレイをして上手になり、自分らしく勝てるようになりたいものです。

誰かに教えてもらうのは最初だけでいいのです。

後ろで見ている人にあれこれ言われたら嫌になってしまうでしょう。


つまり、したいことをしなさい、と言われたときに、すぐにルール違反のことを考えてしまうのは、ゲームの中で自分を表現する可能性を十分に感じていないのです。

だから、したいことをしなさい、自由にしなさいというと、ゲームの中で工夫するのではなくて、ゲーム盤をひっくり返してしまうようなことしか考えつかないのです。


そういう頭や心のあり方は、最初に書いた


>「する」ほうから教えないで、「しない」ほうから教える。


という教育のあり方が影響しているのです。

何かしたいと思ったときに、どういうやり方でやるかより先に、何が禁止されているか、ということが気になってしまうのです。


考えてみると、じつは、このこと自体は少しも日本的ではありません。日本の伝統は「する」文化だと思います。

「西洋化した日本の教育システム」が「しないで考え込む日本人」を生んだような気がします。

それはわけて考えないといけません。

しかし、そのことはまた大テーマなので置きまして。


人には二通りのタイプがいます。


「みんながしたいことをすれば世の中うまくいく」と考える人と、「みんながしたいことをしたら世の中大混乱してしまう」、と考える人です。


あなたはどちらのタイプですか?




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自分のはじまり
 人というのは、いちばん未熟なまま生まれる哺乳類らしいです。

他の動物の子どもは、生まれてすぐに自立できたり、すぐにではなくても、比較的早めに親からの自立を果たします。遅くとも数ヶ月でしょう。

人の子どもほど、生まれたときに無力なものはありません。
3歳や5歳の子どもでも、自然環境の中に置いたら、たぶん死んでしまいます。

こういうことを指して、岸田秀氏は「人間は本能が壊れた動物」と言っていたと思います。
動物にはそんな呑気な設計はありません。
外敵に喰われてしまいます。
10年以上も親の庇護から離れられないというのは、すでに人は自然そのものから、はぐれてしまっているのです。

「人は社会的動物だ」と言われるのも、その無力さによるものでしょう。

人は赤ん坊の間、たいへん弱い状態にあるわけですが、この間に、不快によって自他の区別をつけていくのです。自分自身の輪郭をこのときにしていくのです。
この期間を、もし快適な母胎の中にいるならば、自意識はまどろんだままで、自分自身というものを形成することができません。

お腹が空いたときおっぱいがない、それが不快で、赤ん坊はぎゃあと泣きます。それでお乳を与えられるということを繰り返すうちに、母親の存在を自分の外の存在として知覚するようになるのです。

動物はその自己意識を発達させる期間を持たないので自立が早いのです。
だから、動物は自他の境目がなく自然と一体なのです。

人の悩みは自分という意識があることから生じますが、人の大いなる可能性も自分という意識が生まれるところから始まります。

オレは動物のほうがよかった、てなことは言わないで、人に生まれなければできなかったこと(たくさんあります)を楽しみましょう。


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心理研究会12月19日(土)18時より第一回開催決定です。
あと1名空席有り。
入会金、会費は当日ですので、予定が確定できない方もとりあえずエントリーしてください。
お問い合わせはkokoro@hiden.jpまで。

「ネットと無料」ニュース
こっちもあれこれ書いています。


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自由の定義
 自由については、それだけをテーマに哲学書が書かれることがあります。
しかし、あまり複雑な概念は日本人に馴染みません。

そこで僕は、「自由」という訳語を作った人に敬意を表して「自分の理由で生きていること」という単純な定義を採用しています。

「相手が悪い」と思うと自分が自由性を失ってしまう、ということを書きました。
これは「相手が悪い」ということに固執してしまった瞬間に、「他人の理由」で生きていることになってしまうのです。
これは「自由」ではなくて、「他由」ですね。

誰が悪いか、ではなくて、自分がどうして行くか、それだけを考えればいいのです。


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精神の自由 自由な精神
 精神が自由であること。
これは大切な理想で、精神が不自由なほうがいい、という人はいないと思います。

しかし、では、自由とは何か?
精神が自由である状態とは、どういう状態か?
そんなことを立ち止まって考えたことがある人はそんなに多くないと思います。

「自由とは何か? その定義を述べなさい」
という問題があったら何と答えますか?

*

私は精神の自由というと、いつも南アフリカのネルソン・マンデラ氏を思い出します。
マンデラ氏について、私はごく外面的なプロフィールしか知りませんが、27年間を政治犯として過ごしたあと、南アフリカの大統領になった人です。

27年間、身体的行動の自由を奪われていたわけですが、彼は自らの志を変えませんでした。
行動の自由は奪っても、精神の自由は奪いようがなかった、という例だと思うです。

刑務所の中にいても、精神の自由はありえるのです。

ところが、正反対のケースもあります。
ときどき電車の中で、見るからにストレスを溜めた若い人を見ることがあります。
身体的には、健康そうで可能性に満ちているのに、なにごとか悩みに囚われている。

会社や勤め先でイヤなことがあるのかもしれません。
毎日勤めていれば、ときにはイヤなこともあるでしょう。
しかし、半年も一年も悩みを溜め込んだ表情を見ると、なんと不自由なことであろうか、と思います。

勤め先で継続的にイヤなことがある場合でも、無数の選択肢があるのです。
たとえば、イヤな上司がいた場合、

*対応策をとって事態を改善する
*仕事を変わる
*少しのイヤなことは無視して、気分転換を早くする。

大きな選択肢だけで3つあります。
そして、対応策をとるときにも、

*誰かに相談する
*上司が何を望んでいるかをよく聞く
*配置換えを要望する
などなど具体的な選択肢があるでしょう。

誰かに相談する、という「誰か」にもいろいろ選択肢があるでしょう。

このように枝分かれを考えると、選択肢は無数にあるのです。
それなのに、自分が非常に不満な状態で放置している。
事態を自分で変えられる、という可能性は眼中に入らないのです。

こういう人の内面で何が起きているか、覗き込んでみると、たいてい、みんな同じことが起きています。
「悪いのは自分ではない」という言葉がぐるぐる回っているのです。
相手が悪い、周囲が悪い。従って、自分は何も態度を変える必要がない、ということになるのです。

相手が悪いということに理があるかどうかは、この場合、少しも重要ではありません。
ある家の前を通ると、毎回犬に吠えられてイヤな思いをするとします。
そのときに、毎回不快な思いをしながら、「犬が悪い」「犬の飼い主が悪い」といって、自分の正しさを主張し、他人を責める気持ちになって意味があるでしょうか?

ただ、普通に歩く道を変えればいいでしょう。

【他人が飼っている犬の性質を変えることはできませんが、自分の行動を変えるのは簡単です】

自分が不快なのに、「他人が悪い」といって、行動パターンを変えようとしない。
こういう糊ではりついてしまったようなのを、膠着状態というのです。

こういう膠着状態にはまった人は、本人は自由勝手に振る舞っているつもりでも、少しも自由ではありません。








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一つの謎から始めます
 心のことはわかっていると思っても、じつはわかっていない。
そのことを感じてもらうために、一つの謎から始めます。

*
「謎」

私たちは、自分に心があると思っています(当たり前です)。
それを「わたしの心」「僕の心」という言い方をしますが、では、自分の心は自分の所有物でしょうか?
わたしたちには、自分の中の「悲しみ」や「怒り」がどうしても押さえられないときがあります。自分のものなのに、コントロールできない、これはどういうことでしょうか?

ここでもう一つの謎が生じます。
「自分」が「心」をコントロールできない、といったとき、「自分」は心の外にいるのでしょうか? 
心ではない「自分」が存在するのでしょうか?
自分とは一体何でしょう?


この謎にすっきりと答えられる人は、このサイトを読み続ける必要はないかもしれません。

「ちょっと不思議」に思った人は、その不思議さを心に置いておいて、ときどき取り出してみてください。その不思議な隙間から、少しづつ内面の世界を探検して行きましょう。

この答を短く、誰にでもわかりやすく書くことはできません。
現代の教育に慣れた人は、早く正解を知りたいと思うでしょうが、簡単に答を得ることだけが重要なのではありません。

このサイトで僕が書き続けること全体でゆっくりと答えていくことになるでしょう。

さて、サイトの最初に「謎」を1コ置きました。
長い長い謎解きになるかもしれません。


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