INNER LIFESTYLE DESIGN
 〜ナチュラルに生きる方法論序説
日本人の論理

知識の身体化について書いていて、一つ、あ、そうか、と気づいたことがあります。

西洋の哲学は、身体の外に構築されているのです。
論理的にがっちり組まれて外化されているから、共有したり批判したりできます。

しかし、日本人の論理は一見似たように見えても、身体化されているから、内部とつながっているのです。共有物というより、その人個人のものなのです。
したがって、相互批判によって、より真理に近づいていくなどということは、ほとんど起きないのです。
ネットでは、ある人の意見を攻撃するときに、人格まで攻撃するでしょう。
また批判される側になっても、冷静に論理的に反論できる人は少数で、やはり人格そのものを傷つけられたように感情的になってしまいます。
それは訓練や考え方の問題というより日本人の論理構造自体に根深くあったのだ、と昨日気づきました。
そう考えるとたいへん面白いことが見えてきます。

これは道具の使用についてはよく言われることです。
西洋では、アーチェリーのように道具を誰にでも精度高く当たるように、どんどん洗練進化させて行きました。
それに対して、日本の弓道は道具よりも弓道という道によって、内的なものを洗練、蓄積し開発したのです。
もちろん、日本の弓にも良し悪し、工夫はあると思いますが、基本精神は「弘法は筆を選ばず」という部分にあるのです。
日本人は弓矢という道具を通じて内面を開発するのです。

西洋の概念と日本の概念を比べるとき、いつも考えるのが、「自由」と「勝手」の違いです。
高校の体育の先生が「『自由』と『勝手』をはき違えてはいけない」と何かのときにお説教したのを覚えているのですが、なんとなく、自由は高級で、勝手は悪いことというイメージが一般にあると思うのです。

しかし、100人の日本人に「自由とは何か」と定義を書かせたとしたら、全部バラバラで定義にならないと思うのです。
ということは、日本人は福沢諭吉以来の文明開化で、いまだに自由がなんだかわかっていない、とも言えます。

定義というものをそもそも日本人は重んじません。
そういうものは堅苦しくてややこしい。
暗黙のうちにわかっていることを交換するのをよしとするのです。

その点、「勝手」という言葉はもともと定義の枠にはまりにくいものです。
いちばんよく使われるのは、「自分勝手」という言葉なので、悪い意味にとられます。
しかし、「勝手口」、「勝手を知っている」、「使い勝手がいい」などの用法では、非常に小回りが利き、機能的な感じがします。
たとえば、自分の部屋に気の置けない友人たちが来たとき、自分が席を外さなくてはいけなくなったという場合、「自由にやっててくれ」よりも、「勝手にやっててくれ」のほうが、ずっと人同士の輪郭がはっきりしてぴったりくる言葉だと感じます。

勝手は、身一つが機敏に動くというイメージがあるでしょう。 
自由は、漠然とした許された領域であったり、態度であったり、多様なものが含まれます。
英語でいうと、freeとliberty という違う言葉が、自由という一つの言葉に訳されるのです。

西洋から輸入されて、いつまでも身体化されない言葉というのは、共有される輪郭がぶよぶよしています。そういうのは、やはり日常でモノを考える道具としては、改めて定義しない限り、疑わしいものです。

自由の定義を考えるとあれこれ切りがないけれども、勝手という言葉はどうこねくり回しても体系化されたりしないのです。
勝手は勝手でしかない。
そういう潔さが言葉として使い勝手がいいのです。

しかし、哲学とか体系には容易に発展しそうにありません。
「人が自由に生きられる社会とは?」というのは考えられても、「人が勝手に生きられる社会とは?」というふうには考えません。
勝手に生きるのは社会ではなく「世間」ではないか? というようなことも考えられて、言葉を一つ変えただけで、全然違うモードに入ってしまいます。
(私はときどきこのように言葉をひねくり回して遊びながらいろいろなことを検証しています(笑))

このように知識の身体化ということを考えますと、いろいろ考えるべき隙間が見えてきますね。
なぜ日本で論争が不毛なのかということがわかってしまいましたし。
日本ではまず論争の仕方やとらえ方を変えないといけないですね。
有益な話をするには、論争にも作法というものが必要な気がします。

そして、教育、これはもう身体化ということをベースに考えると根底からひっくり返ってしまうでしょう。

身体的な教育の各論に立ち入りませんが、個性尊重だ、ゆとりだ、という本質とズレた部分をいじる前に考えるべきことなのは間違いありません。
国の政策は容易に変わりませんが、小さなお子さんを持つご両親は、家庭での教育について、身体的な教育というのは、具体的にいかなることであろうか、と思いめぐらしてください。

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クリスマスプレゼント?に、心理研究会第一回の映像一部アップしてもらいました。
しゃべりがこもっていて聞き取りづらいし、全然完成度を意識しなかった単なる記録なので、自分としては、公開しないほうがいいかな? なものです。
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知識の身体化ということ
 生きた知識、死んだ知識ということをもう少し考えましょう。
私のいう生きた知識とは、言い換えれば「身体化した知識」のことです。

クルマの運転のうまい人は、他のクルマや電信柱のすきまなど、20センチほど余裕があれば、きれいにすり抜けますね。
運転の下手な人だとガチガチに緊張して、どこかを擦ってしまったりしますが、上手な人は、私たちが歩いているとき、走っているときに、電信柱とぶつからないのと同じように、
自信を持って簡単に通ります。
これはドライバーが、自分の身体の意識をクルマの輪郭にまで拡張し、クルマを「身体化している」と言えるのです。

身体化は分析すれば、あるいは動物やロボットにさせようとすれば、たいへんに難しい機能になります。しかし、かなり高度な身体化機能を当たり前に持っています。

知識にもこれと同様のことがあるのです。
「頭に入れる」といえば、頭脳的ですが、「腑に落ちる」「身に付く」「骨身にしみる」などの言葉があるように、日本人は身体の深い部分まで入って、消化され一体化される知識や経験を貴いものとして来ました。

こういう知識のあり方というのは、クルマの比喩でいえば、「自分の命を守るもの」「飯の種になるもの」「世間や人と上手にやっていくためのもの」というような優先順位になるのではないかと思います。いわゆる世間知ということにも近い(この言葉、変換されませんでした)。

小回りが利いて、余分なものがなく、他人との距離感もしっかりしている。
こういうことが日本人の本性であったので、身に付いていない抽象的な知識というものをバカにする、あるいは敬遠するという性質があるのだと思います。

だから明治維新から140年ほども経っているのに、一向に西洋の概念の本質は入って来ないのです。

しかし、一方で日本人的な「知識(広義の知識、ということになるかもしれませんが)を身体化することを尊ぶ」という文化も学校教育などによってかなり破壊されて、どちらつかずになっているのです。

いらない知識はぶよぶよとたくさん抱えているけれども、身の処し方は未熟であるから、精神的に弱いのに、お互いにがつんがつんと衝突しやすいのです。

もう死んだ知識は、みんなで「死んでる!」と指さして捨ててしまわないといけないのです。

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心理研究会、第二回は来年1月上旬or中旬頃です。
2時間みっちり心の話。そのあと打ち上げ。ぜひ、ご参加ください。
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生きた知識、死んだ知識

今日は「死んだ知識」について話をしようと思います。

というのは、「知識や情報は集めれば集めるほどいい」と考えている人が多いように感じるからです。
お金というのは、便利なもので何にでも交換できますから、「集めれば集めるほどいい」とも言えるのです。
しかし、知識はそうではなく固定されたものです。
集めるとガラクタになります。
それが死んだ知識です。

もし間違った知識を持っていても、それは偽札のように摘発されることはありません。
また所有しているだけで、発言などに表されなければ、チェックされることがありません。
発言したとしても、「それは違うよ」と言ってくれるのは、先生か親切な人、親しい人だけで、「この人、間違っているよ」と思っても、たいていの人はスルーします。

ある会社の社長が「団塊の世代」を「ダンコンの世代」と思いこんでいた、という話を友人から聞いたことがあります。
PR誌のインタビュー取材で、何度も「ダンコンの世代」を連発するので、笑いをこらえるのに必死だったと言っていました。
社長ともなると誰にも指摘してもらえないのです。

このように一度埋め込まれた知識は、温存されます。
そして、人の思考回路の中で機能し続けるのです。
それは残置された地雷のようなもので、いつ機能するかわかりません。
たとえば、医療現場や、海や山でのサバイバルな状況などでは、間違った知識が命取りになることもあるでしょう。

死んだ知識とは、間違った知識のことばかりではありません。

スペースデブリというものをご存じですか? 宇宙のゴミです。『ブラネテス』というマンガは未来のデブリ回収業を描いています。
回収業は架空の職業ですが、デブリ自体は、今現在すでに存在します。
人が打ち上げ、放棄、破壊された人工衛星や、その破片です。
デブリ同士が衝突して、より細かい断片になって、より始末が悪くなります。
こういうものが高速で地球軌道を旋回しているのです。
宇宙船に衝突すると致命的な打撃を与えます。
つまり、もはや宇宙にもゴミ問題があるのです。

あまり適合性の高い比喩ではありませんが、私は死んだ知識のことを考えるときに、いつもこのデブリを思い出します。
本来の全体性を失って断片化された知識です。
こういう知識には、体系性がありません。
またその知識を生み出した経験や、それを考えた人の意志から分離しています。
生み出されるプロセスのない結論だけの知識です。

これをつきつめたものがマニュアルです。
ファーストフードでは、「こうすればいい」という結論だけが従業員にインプットされます。それから逸脱する事態には店員は対応する能力を持ちません。
また店員も客も逸脱させないのが「よいマニュアル」です。
逸脱した事態が生じたときは、それによってマニュアルが改良されていきます。
そこにいる人が進歩するわけではなくて、マニュアルとシステムが進歩するのです。

しかし、あるチェーン店のマニュアルで人にインプットされたものは他のチェーン店では役立ちません。
違うシステムだからです。
ときには、矛盾し、学んだことが邪魔になるでしょう。
またもう少し柔軟な接客をしなければいけない店に行ったら、マニュアルでインプットされた機械的な応対はむしろたいへんに邪魔になるでしょう。

私のいう死んだ知識というのは、このマニュアルのインプットのようなものです。
それらはもともと一つの体系の一部でした。
体系自体は、もともと自立した機能を持っています。
しかし、その断片は応用が利かないのです。
そして、Aという体系の断片と、Bという体系の断片は、全く異なる軌道を持っていたのかもしれないのです(人工衛星だとすると)。
だから、もともと辻妻が合わないのですが、死んだ知識はふだん眠っているので、その矛盾を人は見過ごすのです。

では、どこまでが死んだ知識かというと、自分のものとして消化し、血肉化できない知識は、すべて死んだ知識です。

食べ物を考えればわかるでしょう。
食べ物は、元は自分にとって異物です。
それを体内に入れる。消化することによってエネルギーを取り、身体を形成する。
不要なものは排泄する。
消化しづらいものは、身体を重たくして、害します。
消化されたものは自分と一体化します。

一体化しない死んだ知識は、たいへん有害なのですが、誰もそのことを意識しません。

学校というところが、そもそも知識が生きているか死んでいるかに注目しませんから、小学校から大学まで行けば、16年間、生きている死んでいるに無頓着に人は知識をインプットされるのです。

みんなそのように育つので、知識が生きているか死んでいるか、ということに全く無感覚になってしまうのです。



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裸眼で見る
 近頃、絵をコンピュータで分析すると青系の要素が多い、だから寂しい静かな絵です、というような理屈が多いですね。
寂しい静かな絵かどうかは見ればわかります。
それをわざわざ理屈を通して理解しなくてもいいのです。
何か理屈がついたほうが高級なように思うのです。

数値化したり、抽象化したりするなら、その操作によって意外な結論にまで飛躍しないとつまらないですね。
抽象化するということは、細部の要素を切り落とすということです。
いい香りのリンゴでも、香りのしないリンゴでも、同じ一個のリンゴになります。
数値化されないものは、どんどん存在しないかのように扱われます。
人も抽象的な数値として扱われ続けると、数値化されない部分は意味ないのかな、と思うようになります。

カラオケの採点装置がそうですね(私はあれでいい点がでません(笑))。
あれでいい点を取ったからといって、人を感動させると限りません。
カラオケの点を上げることに夢中になってしまうと、違う基準になってしまいます。
前にテレビで郷ひろみが自分の歌をカラオケで歌っていましたが、80点台くらいしか出ませんでした(笑)。ムキになっていました。
本人が歌っても100点ではないということは、100点というのは、どこにあるのでしょう。

でも、人はそういうもののほうが、客観的、科学的であると考えることが多いのです。
自分の感覚より、教えられた知識のフィルターのほうに重きを置く癖がある人は、とくに若い世代(といっても40歳前後まで)にとても多いです。

知識や先入観を持って見るというのは、「色メガネで見る」という行為なのですが、そのメガネを外すことを怖れている人が多いです。

というのは、学校でも職場でも世の中全体がマニュアル社会化してしまったために、自分で判断することが求められる場面はどんどん減っているのです。減っているばかりか、自分で判断をする処罰されるという職場が増えているのではないでしょうか。
タバコを吸うと電気を流す、という条件反射的な禁煙法があるといいますが、それと同じで、自分で判断しようとすると、びくびくっと見えない電気に罰されるのではないかと怯えてしまうのです。
それで、場面によっては「創造性を発揮せよ、自主性を発揮せよ」と要求されても無理なのです。

このブログを読んでも、新しい知識の足し算をするのではないのです。
新しい違う色の色メガネを作っても何もなりません。

自分の裸眼で見て、自分で判断し、行動する。
そういうことを少しずつやってみると、誰もそれを罰する人も電気を流す人もいない、ということがわかります。

最初はおそるおそる、だんだん大胆に。
条件反射から自由に!

創造的で自由であるためには、まず自分の中の条件反射からの脱出がいちばん最初にするべきことです。

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心理研究会の歴史的な?第一回は、もうすぐ。
楽しみになってきました。
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直観と直感
 (PC だましだまし使えたので更新します!)


ここ数日、なんで人を分類するということが自分の感覚から遠いのか、ということを考えていました。

その結果、考え至ったことをご報告します。
それは「直観」ということを重んじるからです。

「直観」と「直感」違う字なのをご存じですか?

同じく「ちょっかん」と読むので見過ごしている人が多いと思いますが、直観は直感とおおいに違います。
直感はなんとなく「勘」という言葉とつながるところがあります。「勘」「直感」という場合、経験や知識と混合して結論が出る場合があります。

しかし、直観は、経験や知識のフィルター一切なしで対象とつながることをいいます。
「そんなことが可能なのか」という議論が当然ありまして、そうなってくるとたぶん厳密な定義が必要な哲学の領域に入っていくのですが、ここでは簡略にします。

純粋な直観とは、つまり悟りとか、霊感とか、啓示とかに近い概念が本筋なのです。

しかし、ここでは知識を媒介にしない、という点を重点にしてこの言葉を使ってみたいと思います。

知識を媒介にする、というのはどういうことかといいますと、たとえば、ゴッホの絵を見るときに、この絵は何年に描かれた絵で、そのとき彼はどういう生活状況、精神状況にあったか、というようなことに照らして絵を見ることです。
展覧会などに行って解説をていねいに読んでいると、下手をすると、絵を見ている時間より文字を読んでいる時間のほうが長くなってしまいますね。
ゴッホに関する解説、知識というのは、いくらでも世の中にあって、また資料に当たれば、新たに生産可能なものです。
知識の世界も奧が深く切りがありません。

知識を身につければつけるほど作品の良さがわかる、という立場が現代では支配的なようです。
しかし、一切の予備知識なしで絵の前に立って、全身がジーンと痺れるように感ずる。ゴッホが遠い人ではなく、身近にその息吹さえ感じてしまう人もいるでしょう。

ふだん自分はこの二つの対照的なあり方のどちらを選んでいるのか、ちょっと立ち止まって考えてみてください。

(続く)

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心理研究会第一回は、12月19日。
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人を分類すること
 シュタイナー教育における「胆汁質」「多血質」「粘液質」「憂鬱質」という4分類についてコメントをいただきました。

私はこの解説を何度か読みましたけれども、あまり頭に入っていません。
こういう分類は、ユングやクレッチマーもしているし、野口晴哉は体癖を九つに分けています。また血液型や星座占いなども、ある種の人を分類する手段です。

こういう分類のややこしいところは、つねに「混合型」が存在するところです。
典型的な**型というのはいいですが、**と**と**の混合だとか言い出すと、その話のほうがややこしくなって、本質を見失いやすいのです。

また西洋人の作った類型ですので、日本人にどれほど顕著に顕れているかもわかりません(これは否定ではなくて、純粋にわからないのです。誰も真剣に検証していないと思います)。

ユングは類型を作りましたが、顕在的に強く表れていない要素は、潜在的に強く持っている、というようなことを言っていまして、結局、人の中にはあらゆる要素がある、という考えなのです。

またニーチェは「父親の性格と母親の性格の相克が、青年期の受難をなす」(ウロ覚え)ということを言っています。つまり、成長期には一人の若者の心の中で両親の性格の違いが喧嘩をするということですね。

つまり、人の中にはあらゆる性格があって、それが複合し、葛藤し、時期によって強くでる面がある、と理解すればいいわけですが、そういうふうに総合すると、こういう分類はほとんど役に立ちません。

人が人を理解するというのは、面倒くさい時間がかかることなのです。
こういう類型を好む人は、それを省略したい、もっと便利にしたいと考えているのです。
しかし、便利にしたいということ自体が心から遠ざかる性質のものなのです。
心のことを面倒くさがらない、この一点の心がいちばん大切です。

たとえば、この4類型だけを頭に叩き込んで子どもを見たり、教育現場に言ったりしますと、うまくあてはまらないケースに頭が「???」となって、身体が動かなくなってしまうでしょう。普通の人が気づくこともおろそかになって、自分の頭の中だけでパズルを解こうとしているようになってしまうでしょう。

人の心を見るには、言葉を媒介にしては遅いし、現実ではない「現実」を捏造してしまうことになるのです。

たとえば、人の血液型と星座を聞いて話す内容やつきあい方を変える人がいるとしましょう。
そうすると、その人にとってはうまく行ったり行かなかったりの試行錯誤があって、「何かうまく行っているような気がする」状態になるかもしれません。
でも、実際はその人の類型に沿った物語に自分をあてはめているだけで、周囲には「何か深い話のできない人」と思われているかもしれません。

シュタイナーは教育は芸術だと捉えています。人の魂と向かい合う芸術です。
たとえば、木彫で仏像を彫る人は、たいてい「自分が仏を作るのではなく、木の中にいる仏様を掘り出すのだ」と言いますね。
そうでなければ仏像は彫れないのです。

それと同様に、魂にも独自の形があり、展開があり、物語があり、結実があると考えるのです。
一人一人の子どもに対して、その最善の環境を作り出してやること。それが基本になります。

私は「花は種のときから赤い花が咲くか黄色い花が咲くか決まっている。だから、赤い水をやったり黄色い水をやったりせずにただ透明な水をやって、環境だけを整えてやればいい」といつも説明しています。

人為的なものを持ち込むよりも、ありのままを見てやればいいのです。

教育は芸術という観点に立てば、当然、教育者は芸術家でなくてはいけません。
教育する側がまず自分の魂を開発し、自由な精神に立たなければいけないのです。
教育熱心な親というのは、「自分を磨くことはさておき、子どもだけは優秀ないい子にする」と張り切ることが多いわけですが、それは自己犠牲のように見えてエゴです。

自分に自信のない親がコンプレックスから英才教育などすれば、最初は子どももそのドラマにつきあってくれるかもしれませんが、いつか必ず破綻します。

シュタイナー教育は、シュタイナーの壮大な世界観の一部であって、シュタイナー教育に携わる人はシュタイナー思想の全貌に理解を持とうとしなければいけません。
そういう総合的な理解があって、気質の分類も役立つこともあるでしょう。

大切なことは目の前の人と向き合うことです。
それを省略するために、都合のいい部分を切り取ってはいけません。

シュタイナー教育の基本方針は、低年齢で知育をしてはいけない、ということですが、日本には小学校のお受験勉強をさせながらシュタイナー幼稚園に通わせるという親がいると知人から聞いて呆れました。
笑っていいのか、怒っていいのか、よくわからないのですけど、日本には、体系的な思想というものを根本的に信用せず、あっという間に骨抜きにしてしまう力がありますね。



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心理研究会第一回は、そろそろ定員と書きましたが、一人キャンセルが出ました。12月19日18時〜です。よろしければご参加ください。

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先天的なものと平等
 > しかし、自由になる以前に、自分の生まれつきのものと、後天的なもの、これを意識、区別できなければいけません。

前回のコメントで以前に書いたこのことの続きがない、とリクエストをいただきました。

たしかに先天的、後天的ということについて前回も書いたほうがいいかなと思ったのです。
というわけで、予定を変えてこちらのことを書きましょう。

先天的とは生まれつきのもの、後天的とは生まれた後からインプットされたものです。
しかし、先天的、後天的という言葉は世の中で以前ほど使われなくなったように思います。

このことの背景には、ひょっとしたら悪しき平等主義のようなものがあるのではないかと疑っています。
つまり、生まれつき才能や素質に大きな差があるという事実を言ってしまうとミもフタもなくなってしまうから、それがタブーになっているということです。
徒競走で全員同時にゴールさせる学校があると話題になったことがありますが、それと似た現象があるのかもしれません(本当にそんな学校はごく一部でしょうが)。

こういう発想は、一見、人に優しいようで、後からたいへんなしわ寄せが来ます。
つまり、生まれたときはみんな同じような素材である、という思想になりますから、家庭環境や、本人の努力や、教育の質や内容が問われることになります。
そうすると、勉強ができない子どもや、やる気がない子どもは、本人の努力が足りないといって厳しく責められることになります。

しかし、たとえば、スケートでもピアノでもサッカーでも素質が重要であるように、勉強だってかなり素質があります。成績だけが単純に努力の問題にされてはたまったものではありません。

こういうふうに人が均質なものとして扱われますと、人が工業製品のように良品と不良品に振り分けられていく環境になっていくのです。
選別やいじめや格差が広がってしまって、不良品に振り分けられてしまった子どもには救いがありません。

人は生まれついたときから違うのです。

ロールブレイングゲームでは、最初に職業を選択するものがあります。戦士だとか魔法使いとか僧侶などですね。そうすると、ある部分は強いけれども、ある部分は弱いというパラメーターの振り分けにより、個性が生まれます。
最初に10の力を与えられているとすると、戦士は力が5、防御が3、知恵が2、魔力が0というように振り分けられます。
これに対して、魔法使いは魔力の数値が高くて、力や防御はからっきしダメという設定になっています。
だから、ある意味、数値は偏っていても平等なのです。

しかし、人の場合は自分で数値の振り分けはできません。
また全体の数値自体が(能力だけをみれば、です)、ある人は最初から15持っていて、ある人は8しか持っていない、というようなことがあります。
頭がよくて、スポーツもできて、顔やスタイルもいい人がいます。天は二物を与えず、といいますが、何であの人は全部持っていっちゃうんだろう、という人もいますね。

これを合理的??に説明しようとすると、カルマの思想というものにつながってくるのですね。
前世、前世の前世、そのまた前世……と連綿とつながる因果によって説明しようとするわけです。
そうなると、すべてその人の過去が作り出したものだから自己責任になります。
不平等とは呼べなくなるかもしれません。
しかし、では、いちばん最初はどうなっていたのだ? という鶏と卵のような疑問はでてきます。
また不慮の事故や、さまざまな自分の不運をカルマと感じるのはいいですが、他人の不幸も指さしてすべて過去の因縁であると、カルマで説明しようとすれば、傲慢で冷酷な人間になりかねないでしょう。
たとえば、極端な場合、生まれつきの障害などに対してカルマで説明しようとすれば、たいへんな差別問題となり簡単にヒューマニズムの領域を逸脱してしまいます。

市民社会で公然と語れるような内容ではなくなってくるわけで、宗教集団のような閉鎖的な場でしか語られることはないのです。
つまり、危険思想です。
しかし、火薬でもある種の薬品でも刃物でもそうですが、危険なものが有用でないかと言ったらそんなことはない、という面があります。これがたいへんにやっかいです。
その性質をよく知っていて、しかも使う人間が善意であることが条件になります。

通俗的な好奇心の範囲で耳目に入ってくるものは、だいたい悪質なものだと思っていればいいでしょう。とくに先方から積極的に勧誘してくるものはダメです。
訪問セールスや押し売りにロクなものがないのと同じです。

このように市民社会の表面には現れて来ないモノが突然を人を飲み込んで洗脳してしまうことがあります。ヒューマニズムというのは思想として多分に雰囲気モノであって、意外に骨格が脆弱なものなのです。
世界にはまだ人権も平等も存在しない国がたくさんあります。
むしろ確立されている国のほうが少ないかもしれません。
誰かが保証してくれるアプリオリなものとして考えるのではなく、選択してそれを支えるということが必要です。

……話がまた大幅にズレてしまった気もします(笑)。

次回、軌道修正ができますかどうか… 
先天的・後天的というカテゴリーしばらく続けてみます。



続く

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