INNER LIFESTYLE DESIGN
 〜ナチュラルに生きる方法論序説
一体化するな
 あいかわらず書きあぐねているので、「モノと念」の海巳さんのちょっと面白いコメントに思わず反応してしまいました。

>モノに心があるような気がする……というのは僕が時々感じることなのですが、そういう話ともつながる話題でしょうか。
 例えばミッキーマウスの人形を用意してきて、誰かがそれにぐさっとナイフを刺したら、僕はそれがただのモノだと分かっても凄い嫌ーな気分です。想像力が働くからでしょうか。
 でも、それは感覚としてモノの痛みを感じるというより、実際に自分が痛くなるような、そんなイメージです。イメージというか、実際にそうなのかもしれません。「痛そうだ」と思っているのは僕ですから。
 こうしてモノと僕の間を心がいったりきたりしているように、時々思います。
 何か思ったことがあったら取り上げてもらえると嬉しいです。

私の友人で「石と話をする」という人がいます。
そういう話は好きなので、聞いたのですが、どういう話か具体的には教えてくれませんでした。
客観的に見れば、お人形さんとお話をするのと同様の一つのファンタジーであろうとも思いますが、彼にとっては単なる事実のようです。

そういう話は本当とか嘘とか、黒白つけないでぼんやり聞いておくのが好きです。
そういうファンタジーの領域とグラデーションになっていたほうが、人の心の生きる領域が広がります。

まじないでも、丑三つ参りや、ヴードゥー教などでは、人形やその人の持ち物を通じて、呪いをかけますね。
また病や災厄を人型の紙に映して燃やす、という厄払いもあります。

そのようにモノというシンボルを通じて、人の中の見えない秩序に働きかける技法はさまざまにあるでしょう。


wiiにサッカーのヘディングのゲームがありますが、ときどき靴が飛んできて、当たると、「いてっ」とか、反射的に叫ぶ人がいました。

モノでないものもヴァーチャルに同調すると痛いのです。

同調といえば、沖縄のある島では、妊娠した妻を持つ夫もつわりになる、という話を民俗学をやっていた友人から聞きました。

そういうことを考えていくとですね、私たちのこの肉体もじつは本来仮の宿りであったものが強く同調同化してしまったのではないのか、という神秘主義的な疑いに至るわけです。
着ぐるみに入ったつもりが、完全に血肉化一体化してしまって、しかも着ぐるみであることも忘れてしまった。
本体は独立しているのに、あまりにも心身と同調一致してしまったので、痛いとか、苦しいとかから逃れることができないのです。

霊というのは、その一体化が死によって再び分離されるという考え方に基づいています。

宗教的行法は、この分離を意図的、自覚的、部分的に体験しようとするものです。
そのブレによって、人の生命の構造を理解するのです。
私たちには、宗教そのものは必要ではありませんが、精神的な生活がある程度「現実」と呼ばれるものから分離していることは、現代では必要になって来ています。

社会的経済的要請や時代の流れ、マスコミの論調やコマーシャリズムに同調していると、ここでもまた「現実」との一体化が起きて、自分が何者かわからなくなっていきます。

精神はそれ自体、独自の生命・生活を持って独立していなければならない、ということは、最初の頃、自由・平等・博愛という概念で書きました。

あらゆる人の心が本来、自由意志を持っていること。
「心が大事」ブログに書いているのは、そのただ一つのことなのです。

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霊の理解 / comments(4) / trackbacks(0)
恨み/霊界のシステム
 昨日、禁を破って(笑)、ぽんさんのこんなコメントに反応してしまいました。

*****

>ただ恨みの感情だけは、エネルギーとして保存される可能性があります。


保存。
生きている今でも、自分は恨みを保存しています。
恨みを表現したくとも、相手がもうこの世に存在しない。
相手に届かない気持ちを表現したい、という欲求を、どう収めればよいのでしょうか。

生きたまま浮幽霊になっている気分です。
 
 ******
 
 ここにとても大切な内容があるからです。
 
 非常にはっきりしています。
 恨みを捨てたいとは書いていないのです。
 
> 気持ちを表現したい、という欲求を、どう収めればよいのでしょうか。

これは収まりません。
それはもう自分のもので相手のものではありません。
表現しても収まりません。
たとえ相手に復讐することができても収まりません。

恨みを持っている人は、必ず「捨てたくない」か「捨てられない」のです。

これは、そこに過剰にエネルギーを投資してしまっているので、ゼロに精算したくないのです。

株の世界では「見切り千両」と言われます。
自分の買った株が下がった場合、損を出しながら切ってしまう。
未練を持って、これをしませんと、株は半額以下まで下がるようなこともあります。
そうなると、売るに売れない「塩漬け」状態になります。

それと似ています。しかし、株はまだ回復する可能性がないわけではありません。
しかし、恨みは自分が捨てようと思うまで、なくなりません。

心を扱うときには、目に見える物質を扱うとき以上に言葉は正確に焦点を絞って使わないといけません。

ですから、最初の問いは

「恨みは捨てないのですか?」

です。そして、この時点で素直に「捨てる」という人は皆無に近いです。
そう言えるくらいだったら自然消滅しています。
そして、「捨てる」と決められれば、その先はさほど難しくありません。

次の問いは、

「では、いつまで恨みを捨てないのですか? あと5年? 10年? 死ぬまで?」

**

今日は死んだ後、恨みがどうなるか、ということについて書きましょう。
「講釈師 見てきたような嘘を言い」という言葉がありますが、私も死後の世界を見てきたわけではありません。
死後の世界を語る書物は古今東西たくさんありますが、じつはその本質はかなり共通しています。それを総合して、なるべくシンプルなわかりやすいものとしてお話します。

霊の五感もない、記憶もない、自分というものもかなり失われている、という基本状態から始めます。

まず霊は肉体を失ったので、五感で得ていた楽しみを失います。
直接的に言えば、食欲や性欲です。
これはもう満たすことができません。
食べることやセックスを楽しむことはいいのですが、それに執着してしまうと、その執着だけが残ります。

生きているときと同様に飢えや渇きを感じるのに、それを満たすことができないで苦しむのです。
これがいわゆる餓鬼道とか、ある種の地獄に形象される苦しみです。

霊というのは、死後肉体を離れ、比喩として「上昇」していきます。上下左右の「上」には神様がいたり、おおよそ人はいい意味をこめていますね。
本来、死後上昇していくはずの霊が、見えない鎖で地上につなぎとめられている。その鎖の部分が執着になるわけです。

もう死んだら食べ物は必要ないのですが、それがわからないで、必死に地上にとどまろうとする。それがたいへん苦しいのです。
執着してはいけない、ということを肉体があるうちに学んでおかなかったことがそういう形で現れます。

こういう強い執着があって、上昇していかない霊が、文学や絵画でも、いわゆる幽霊、亡霊のような形で描かれています。
こういう霊がどうしたら上昇できるか、というと、もう必要ないということを自ら理解しないといけません。
弱い執着なら自然に薄れていくでしょうが、強い執着は火のようにメラメラと燃えて、最後の最後まで苦しみつくし、焼き尽くすようにしないと解放されません。

食欲、性欲など肉体的な渇望は、最も低いレベルで、そのあともあります。肉体のレベルではなく、心のレベルで、金銭欲、名誉欲、支配欲など、あらゆる霊界では不必要な欲望が焼け落ちるのです。そういう不要なものを捨てるに従って、霊は高みに昇っていきます。

だから、恨みも、死んだら終わりではなく、外に地上的な対象を求めている限り、ジリジリと自らを焼くような苦しみを肉体がない分だけ純粋に味あわなければいけません。

物質的な人生観では、どんなに苦しくても死ぬまでだ。死んだらチャラにできる、と考えられるわけですが、このような世界観だとそうは行かないわけです。
苦しまないで済むからと練炭自殺をする若い人もいますけれども、自殺は殺人と同様の最大の罪ですから、死後たいへんな苦しみを受けることになると言われています。

霊的な世界観というのは、生のサブシステムなのです。
コインに表があれば裏があるようなものです。
すばらしい演劇があれば、裏方さんやスタッフがいて、舞台裏も楽屋もあり、練られたシナリオがあります。

霊的なシステムがどのようなものか正確にこうだというのは難しいものです。
しかし、人の生というドラマは、演劇よりも何倍も複雑なものですから、それを支えている背後の精密なシステムがない筈がない、というのが私の考えの基本です。
そういう見えない世界を人はたくさんの書物で語ってきました。
くだらない読むに耐えない本もたくさんあるのですが、読むに値する深遠な書物もあります。それがほとんど共通のことを語っているのです。

霊界が生を支えているシステムであるとすれば、自殺はシステムの意志に反する行為になります。だから、そっちへ行くと苦痛であるという設計になっていて不思議ではありません。
そういう合理性を突き詰めていくところから、本来道徳律というものは生まれてくるのです。

だんだん本格的に抹香臭くなってきたので、これくらいにしますが、この程度のことを理解していると、雑な宗教にころりっとだまされることはありません。

そして、最初のコメントの話に戻りますと、つまり、恨みというものを抱いていたら、どこかで清算をしなければいけない。
誰かが取ってくれたり、自然消滅することはありません。
それは生きているうちに自分の意志で捨てたほうがいいということです。



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浮遊霊のことなど
 以前の記事で霊には五感もなければ、記憶もない。そして、感覚器官や記憶によって支えられている自我も存在しない、という状態を一つの仮定としました。

これに基づいて浮遊霊を考えていきます。
まず、五感がないわけですから、地上的な位置を把握できません。
次元が違うので、霊にとってはあまり意味がありません。
また記憶がないので、誰かに対する恨みの記憶も、キープできません。
ただ恨みの感情だけは、エネルギーとして保存される可能性があります。

そのような存在ですから、地上を自分の意志で自由に行き来することはできません。
磁力に引かれるように、自分の縁のある場所、惹かれる場所に流れていって定着するでしょう。
いわゆる浮遊霊となって、あちこちを移動するにしても、外からの波動に対応して引き回されているだけで、霊自身の意志ではありません。

移動するかどうかが重要ではなくて、自分の意志を持ち得ない、ということが重要です。

人は意志を持つ存在ですから、はるかに人のエネルギーのほうが強いのです。

霊が人に悪さをできるのは、人が意志の方向性を失ったときと、恐怖に囚われたときです。

もし、霊が上記のような性質ではなく、自分の意志があるように振る舞ったことがあるなら、それは改めて研究しなければなりません。
しかし、霊が出るゾーンにわざわざ出かけていく必要はありません。
そういうところは波動がよくありません。
わざわざ好奇心で出かけるような場所ではありません。

霊に面白半分に関われば、ケガをします。

私がここに霊について書いているのは、好奇心を満たす新たな何かを付け加えるためではなく、混乱した霊概念をシンプルなものにするためです。
霊は動けないし、自分も持っていない、と言っているのだから、ある種、ミもフタもないことを言っているのです。

しかし、そのことを知らないと霊感商法などに簡単にひっかかってしまいます。

普通、霊の存在を否定するのは、唯物論の立場から否定するわけですが、唯物論で唯心論的なものを否定しても、何の効力もないのです。
たとえば、唯心論の立場から政治や経済を批判しても意味がないのと同じです(宗教政党は何やら新しく出てきましたけれども…)。

だから、私は霊は存在するだろう、という立場から、霊の存在の扱われ方を批判しているわけです。目に見えない世界にも筋道はあります。
心を考えるときにもはっきりした筋道があるでしょう?
それと同じです。
その基本は知っておいたほうがいいのです。
知ろうとしてケガをすることもありますが、知らないことでケガをすることもあります。

だから、私は最低限のことを書いておきます。

(続く)

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霊を見る人
 前回hamiさんが、浮遊霊の話をコメントしてくれました。
浮遊霊の話は後で簡単に触れるとしまして。

霊を見る、感じる、という人は聞いてみるとけっこういます。
いわゆる「霊視・霊感」といって商売をしているような人ではなくて普通の人です。
私の感覚では、40人くらいの学校のクラスであれば、2〜3人はいる感じです。
この人は見ていそうだな、と思って話をしてみるとかなり当たります。

私の感じた比率が正しければ、日本には少なくとも500万人以上、霊感がある人がいるわけです。
しかし、進んでそういう話をする人というのはごく一部で、あとは、言われれば話す人や、言われても言わない人もいるでしょう。
見える人にとっては、霊は特別、特殊なことではなくて、子どもの頃からもうひとつの現実として身近にあるのです。
そういう人にとっては、霊は疑いようのない現実です。

しかし、霊はあらゆる人が共通のものを見るわけではありません。
私たちの視覚であれば、そこにコップがあるといえば、万人が同意するでしょう。

しかし、霊が見える人同士には必ずしもこのような一致はありません。
むしろ、一致しないほうが多いでしょう。
したがって、信憑性が低くなるわけです。

これはどういうところに起因するか、と言いますと、霊は比喩としてしか現れない、ということがあります。
私たちの五感は、身体の器官に依存しています。
眼があるから見え、耳があるから聞こえるわけです。
しかし、霊感には眼に見えるこのような物質的器官はありません。
だから、視覚、聴覚という比喩を借りてイメージを定着させるわけです。

眼は光という波動に反応し、耳は音という波動に反応します。
しかし、霊は光でも音でもない波動なのですが、人が受け取るときには、眼か耳、あるいは匂いというものもあるかもしれませんが、身体器官と結びついた感覚に翻訳して理解するわけです。

たとえば、霊の言葉を聞く人がいるとして、その人は日本人なら日本語でメッセージを受け取るでしょう。
しかし、それが霊が日本語を話しているのではありません。
アメリカ人の霊能者なら、日本人の霊から英語でメッセージを受け取るに違いありません。
そういう翻訳の作業があるわけです。

たとえば、神のメッセージを聞く、というとき、神のメッセージは日本語ではありません。
一般的な意味での言葉でもないでしょう。
もっと1秒にも満たない瞬間のものです。
月も星もない漆黒の夜に稲光の一瞬、見えなかった風景の全体像が垣間見えるようなものです。
これをヴィジョンという言葉で呼びます。
この像は、言葉ではありません。
しかし、この体験を言葉にしたり、絵にしたりしなければ、人に伝える手段はないのです。
神のメッセージが立体だとすると、この地上に現れるときは、それを平面図に落とすような一面化が人を通してなされているはずなのです。

宗教的な書物は、つねにそういう努力をしてきたのです。

そういう構造を理解していないと、いろいろな事態を上手に解釈できないのです。

ここに翻訳作業のようなものがあるわけですから、当然、意訳もあれば誤訳もあり、妄想もあれば、意図的な操作も無意識の歪曲も容易に入り込みます。

したがって、霊について語られる言葉に共通性、客観性を求める作業は困難を極めます。

したがって、霊の存在を否定する人は、「存在するわけがない。客観的科学的根拠がない」、といいます。
霊の存在を肯定する人は、「存在する。なぜなら私は見た。見ることができる」と言います。

こういう両極の人は迷いがなくてよいのですが、両者が議論しても水掛け論になって、絶対に交差することがありません。
私は科学的根拠がないから(科学的にわからないから)存在しないとも思わないし、誰かが見たから、という根拠で存在するとも思わないのです。

では、どういう立場であるか、というと、前に書いたように霊は人間的な現象としては明らかに存在している、ということです。その本質には何があるかいつも考えていますが、その本質は世の中で思われているのとはずいぶんズレたところにあるでしょう。

心について語るときに、霊的な領域というのは、たいへん重要かつ興味深いものですが、また取り扱いがたいへん難しい危険なものです。

しかし、危険があるから得るものも多いかもしれません。
フグも「しびれるくらいがうまい」、といいます。
あまり深入りしないようにしながら、必要なことは書いていく、という姿勢でいこうと思います。



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(更新しないと下がる〜。霊の話題も下がる〜(笑))


この原稿はほとんど昨日、ギャラリーの番をしながら書きました。
ギャラリーバルコ 
「おかえりバルコ 第三回【DRAGON ART】祭」
グループ展ですが、なかなか充実した展示になりました。
10日までです。






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霊のシミュレーション
 もし霊がこの地上に存在するとしたら(仮定法にしておきます)どのような存在形態をとるでしょうか?

『ゴースト/ニューヨークの幻』という映画がありましたが、この中では、ほとんど普通の人間の姿で出てきました。ただし生きている人からは見えないし、声も聞こえません。生きている人に触れようとしても、触れることもなく透過してしまいます。

『シックス・センス』でも、『クリスマス・キャロル』でもそうでしょう。
人の姿をして自由に移動できる、というのが西洋の通俗的な霊観念のようです。

もし霊がそういう存在であれば、スケベな男性は、死んだらみんな女風呂を覗きにいくでしょう。ミュージカルや格闘技、コンサートなど行き放題です。
しかし、実際はそういうことはなさそうです。
霊は透明人間ではありません。

そもそも霊が移動できるか、ということが疑問です。
日本の幽霊は足がありませんね。これは寄って立つ基盤がない、ということと、移動ができないことを表しています。
地縛霊、という言葉もあります。
だいたい幽霊というのは、出る場所が決まっています。
その人の縁がある場所です。

そして、霊には見ること、聞くこともできないでしょう。
私たちの五感は、身体に依存しています。
見ることは、眼球のメカニズムと、それにまつわる脳神経などの器官によって、映像処理されています。他の五感も同様です。
身体という物質的な根拠を失えば、五感もまた失われます。

そして、脳に依存する記憶というものも失われます。

五感から刺激がない状態。
そして、自分を確認する記憶もない状態。

そういうものが霊だとすると、その状態で「私」という自意識を持つことができるでしょうか? 

(続く)

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薄くて読みやすいのは『達磨』。
厚くて読みでがあるのは『秘伝シリーズ』。
本の形をしていないのは『神様学入門』!
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主体は人である
 食べ物をジメジメとした場所にほうっておくと、カビが生えます。
カビの生育には、温度と湿度と栄養などの条件が揃う必要があります。
マイナスの意味で語られる霊現象というのは、だいたいこれと同じ原理です。

カビが生えたときに、食物を放置して、そういう条件が揃ってしまったことを悔いるわけで、どこからカビの胞子が来たかということは問題にしません。
カビの胞子というのはそこら中にいるのです。

あくまで主体は人であって、そこに触媒として、自分の外のいわゆる「霊」というものがいて働くとしても、条件が整わなければ、それが主体的に悪さをするということはできないのです。

人の精神の中には、さまざまな可能性の種子が含まれています。その中で、非常に特殊な条件下でしか発芽しない種子がぬくぬくと育つと、どんな奇怪な現象が起きても不思議ではありません。
しかし、それは突然起きるわけではありません。

この話の最初にさかのぼれば、「自分の意志で決定したくない」「自分で判断したくない」という気持から始まっています。
つまり、霊に取り憑かれるという形で、その願望は形で現れたわけです。

「心の中で何を思っていようが、人にはわからないし、勝手だろう」と思っている人がときどきいますが、思っていることはやがて現れてくるのです。
だから、ふだんの心持ちが大切です。


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