2009.11.18 Wednesday 10:58
あいかわらず書きあぐねているので、「モノと念」の海巳さんのちょっと面白いコメントに思わず反応してしまいました。
>モノに心があるような気がする……というのは僕が時々感じることなのですが、そういう話ともつながる話題でしょうか。
例えばミッキーマウスの人形を用意してきて、誰かがそれにぐさっとナイフを刺したら、僕はそれがただのモノだと分かっても凄い嫌ーな気分です。想像力が働くからでしょうか。
でも、それは感覚としてモノの痛みを感じるというより、実際に自分が痛くなるような、そんなイメージです。イメージというか、実際にそうなのかもしれません。「痛そうだ」と思っているのは僕ですから。
こうしてモノと僕の間を心がいったりきたりしているように、時々思います。
何か思ったことがあったら取り上げてもらえると嬉しいです。
私の友人で「石と話をする」という人がいます。
そういう話は好きなので、聞いたのですが、どういう話か具体的には教えてくれませんでした。
客観的に見れば、お人形さんとお話をするのと同様の一つのファンタジーであろうとも思いますが、彼にとっては単なる事実のようです。
そういう話は本当とか嘘とか、黒白つけないでぼんやり聞いておくのが好きです。
そういうファンタジーの領域とグラデーションになっていたほうが、人の心の生きる領域が広がります。
まじないでも、丑三つ参りや、ヴードゥー教などでは、人形やその人の持ち物を通じて、呪いをかけますね。
また病や災厄を人型の紙に映して燃やす、という厄払いもあります。
そのようにモノというシンボルを通じて、人の中の見えない秩序に働きかける技法はさまざまにあるでしょう。
wiiにサッカーのヘディングのゲームがありますが、ときどき靴が飛んできて、当たると、「いてっ」とか、反射的に叫ぶ人がいました。
モノでないものもヴァーチャルに同調すると痛いのです。
同調といえば、沖縄のある島では、妊娠した妻を持つ夫もつわりになる、という話を民俗学をやっていた友人から聞きました。
そういうことを考えていくとですね、私たちのこの肉体もじつは本来仮の宿りであったものが強く同調同化してしまったのではないのか、という神秘主義的な疑いに至るわけです。
着ぐるみに入ったつもりが、完全に血肉化一体化してしまって、しかも着ぐるみであることも忘れてしまった。
本体は独立しているのに、あまりにも心身と同調一致してしまったので、痛いとか、苦しいとかから逃れることができないのです。
霊というのは、その一体化が死によって再び分離されるという考え方に基づいています。
宗教的行法は、この分離を意図的、自覚的、部分的に体験しようとするものです。
そのブレによって、人の生命の構造を理解するのです。
私たちには、宗教そのものは必要ではありませんが、精神的な生活がある程度「現実」と呼ばれるものから分離していることは、現代では必要になって来ています。
社会的経済的要請や時代の流れ、マスコミの論調やコマーシャリズムに同調していると、ここでもまた「現実」との一体化が起きて、自分が何者かわからなくなっていきます。
精神はそれ自体、独自の生命・生活を持って独立していなければならない、ということは、最初の頃、自由・平等・博愛という概念で書きました。
あらゆる人の心が本来、自由意志を持っていること。
「心が大事」ブログに書いているのは、そのただ一つのことなのです。
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