INNER LIFESTYLE DESIGN
 〜ナチュラルに生きる方法論序説
言葉以前の世界


今日、ツイッターで「心が折れそう」と書いていた人がいたので、思わずコメントしてしまいました。

「折れる」という言葉を使うと復元力がないではないですか。

何年間も鋼鉄のように鍛え上げた心で、大きな挫折を味わったなら、「折れる」という言い方もいいですが、今日、会社に行きたくないというのに「心が折れそう」という言葉を使うのは、よくないです。


そんなことや、今までの話の流れもあって、言葉と心の関係についてもう少し書きます。


それは言葉以前の世界の広がりについてです。

ほんのちょっとだけアクションを起こして検証してみましょう。


一つ目を動かしてみてください。

目の前に「緑」のものを探してください。

あなたのいる部屋にも必ず、いくつか緑のものはあると思うのです。


黄緑から深緑、青緑まで、広義に緑と言えるものでいいです。

私の目の前には、ざっと見ただけで10以上あります。


さて、今度はその緑同士を比べてみてください。

同じ緑がありますか?


同じ緑といえるものは、ほとんどないと思います。

同じ緑のインクで刷られていても、光の当たり具合が変われば違う色です。


私たちは、じつに広汎なものを緑と名付けているのです。


そして、名付け終わってしまうと、今度は緑という言葉を操作して世界を見るようになるのです。


「信号が青というけれども、あれは緑ではないか」ということがよく言われます。

しかし、進めという記号としては青という認識で用が済んでしまうので、世の中は何十年も緑を青と呼んで改めません。


言葉というのは、そのようにたいへん大雑把なものです。


それに対して、言葉で括られる前の色はとてつもなく多様です。

散歩していて、植物を見るときに「緑はいいねえ」と言いますが、私は絵を描くようになってから、緑の多様さを意識的にじっと見るようにしています。

同じ葉っぱでも、当然種類によって緑が違います。

陽に当たる部分とそうでない部分も全然違います。

そういうものを見ると、何か植物の生命力に触れたような気がするのです。


そういうことに全く興味のないビジネスマンにとっては、それらはつまり「緑」であるに過ぎません。


そのように言葉にしてしまう、ということは、実体を閉じ込めてしまう、封印してしまうことなのです。


なぜならば、実体は扱うこともできないし、同じものを共有することもできません。

それで同じものとして認識するために便宜的に言葉を使うのです。


そして、人は言葉の世界に慣れてしまうと、つねに世界に言葉をはりつけて意味化していきます。

これが自動的にまんべんなく行うのが人間です。

人は自分の言葉でねつ造(悪い言葉でいえば)した世界に住んでいるのです。


言葉が介在しない世界の実体はあまりに多様で、エネルギーに満ちています。

だから、人はいつも世界を省略し、編集することによって、自分の扱えるものにしようとするのです。


ですけれども、ときに、その編集機能が変調を来たしたら、世界は可能性のない絶望的な牢獄のように見えてしまうかもしれません。

環境を変えるために自分で行動しようとはせずに、あの人が悪い、この人が悪いと世界をうらんでしまう人もいます。

それはいわば自分がねつ造した世界なのです。


だから、編集機能が変調をきたしたときには、言葉を介在させないで、もう一度世界を感じ直すことが必要なのです。

そのようにして自分の言葉の使い方を補正していく必要があるのです。


何かを感じるためには、自分の身体や、自然、芸術などに触れることです。

そこには根源的な多様性があります。


意識(言葉)の世界が煮詰まってきたら、無意識(言葉以前)の世界と交流する時間をとりましょう。




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心理研究会、月一回開催中です。3月は17日水曜日19時から2時間。


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写真は工房集の作家さんの使い切った筆と絵の具箱です。

何か溶岩の原とか、荒々しい自然の風景のようです。

芸術とは、人の中の自然性の発露であると私は考えています。


集は3/7まで、私の友人のアーティスト多数を含む展示をやっています。

なんかサイト更新されていませんが、お近くの方はぜひ一度訪れてください。

http://minuma-hukushi.com/KOBO-SYU/index.shtml









意識と無意識 / comments(4) / trackbacks(0)
占い依存の危険性
 いわゆる占い依存で、自由意志どころか自分の輪郭すら怪しくなった状態の人を描きましたが、こういう状態がいわゆる「低級霊が憑きやすい」状態です。
そのことが書きたくて霊の話を書いたのです。

走行をやめると、自転車でも安定を失ってふらつきます。人が方向性を失うというのは、世の中で思われているより、恐ろしいことです。
もし、国家が政治、経済、軍事のイニシアティブを完全に捨てて、他の国に言われるがままに右往左往していたら、他の国に容易に乗っ取られてしまうでしょう。
たいへん無防備な状態です。

人の五感は顔に集中して前を向いています。
歩く、走るという行為も、前進するようにできています。
病人でも寝たきりになると、回復することが難しくなります。
つまり、前に進んでいる状態が人としていちばん自分の機能を生かしていて快適なのです。

前進というと、軍隊や学校での行進を思い浮かべるかもしれませんが、あんなに足並みや速度を揃えなくていいし、行く方向も自分の目標でいいのです。

要するに、人は少しでも前進していないと不活性になります。生命力が衰え、体力も精神力も落ちていきます。そうすると、精神的な免疫力も衰えるのです。
占い依存では、そういう状況が訪れます。

占いでも、自分が何かをしたいけれども、そのためにどうしたらいいか、というような問い方であればいいかもしれません。本人が最終的な判断を手放さなければいいのです。
しかし、それができる人はかなり安定感の強い人です。安定感の強い人の大部分は、そもそも占いに近づきません。
「自分はどうしたらいいのでしょう?」「自分は誰でしょう」と占い師に尋ねはじめたら危ないのです。

そのような状況は、本当に誰かに乗っ取ってください、と言っているようなもので、人につけこまれなければ、「低級霊」につけこまれた状態になりやすいのです。

(続く)

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意識と無意識 / comments(5) / trackbacks(0)
占いと占い依存(4) 意識と無意識15
 気学のことを書きましたが、占いというのは、最終的に「南に行け」と言われたら、自分が北に行きたくても南に行くしかなくなるものなのです。

なぜなら、「南に行け」と占いに出ているのに北に行ったら、何か悪いことが起きそうな気がするでしょう?
そういうのを「気がかり」というわけですが、こういう気がかりがあると、それが原因でうまく行かないことがあります。

それは、最高峰のスポーツ選手を見ればわかります。
最高の努力をして、これ以上ない、目の前の試合のこと以外は何も心にも頭にもない、という状態にしないと必ず負けます。
そして、勝つというイメージトレーニングをするでしょう。

それ以外に気がかりがある選手は負けます。

もし占いの結果に従わないとすると、わざわざ気がかりを作り出していることになります。
スポーツ選手のようにはっきりとした形には表れませんが、私たちの日常生活においても気がかりは、心のエネルギーを分裂させ、奪います。
ただ、私たちの精神生活が雑然としているので目立たないだけでダメージは大きいのです。
(何か郵便物を出さなければいけないとか、振り込みをしないといけないとか、そういう気がかりもありますね。そういう小さな用事は早く片付けてしまったほうがいいのです。グズグズとルーズにしていると、ときどき思い出して、大きな悩みに近いくらいエネルギーを奪います)

つまり占ってもらったのに、それに従わないというのが作戦の分裂なのです。

そもそも、占いというのは、自分の判断や感覚を放棄して、超越的な法則、超越的な意志に行く先を委ねるということですから、それ自体が危険なのです。
私はこの「心が大事」で、自由ということを心の第一義においています。
自分の理由で生きている、ということです。
しかし、占いに従うというのは、自分の理由を放棄するということです。

その目的は何でしょう?

恋愛の成就や金銭的な成功などなどでしょう。
それは自由の価値より劣りますが、とりあえず、自由を放棄してまでそういうものが手に入れたいときがあるとしましょう。

だったら、とことん占いを試してみればいいのです。
自分の人生を賭けるほど、信ずるに足る占いがあるかどうか。
3か月なり、半年なり、占いに従って暮らしてみれば、求めていたものが手に入るかどうかわかります。

しかし、占いの世界に巻き込まれた人は、そういう批判的な検討をくわえる能力も次第に麻痺してきます。
自分というものを投げ出してしまったので、占いが当たっているかどうかも、立ち止まって評価できなくなります。

その結果どうなるかというと、占いの結果が気に入らないと別の占い師に移るのです。
今は、電話占いやネット占いが盛んなようですが、同時期に複数の占い師に次々に電話するようになると重症です。

Aという占い師とBという占い師が、全く正反対のことを言ったとしますと、どちらかが間違っている、あるいは両方が間違っている、ということになります。
普通の神経であれば、どちらがより信憑性があるか、検討するでしょう。
しかし、占い依存にかかってしまった人は、今度はCという占い師にお伺いを立てるのです。

自由意志を手放した結果、自分というものの輪郭がぶよぶよになってしまって、誰かに何かを言ってもらわないと、不安で仕方ないのです。
だから、際限なく電話をかけまくるのです。
そのようにして、自分の方向感覚も位置感覚も見失ってしまうのが、占い依存の泥沼です。

電話占いは1分200円くらいするものもあるようですから、1時間近く話せば1万円です。
そんなことで数百万から1千万くらい使ってしまう人も少なくないようです。
何百万も使ってしまって、自分も占い師になったという人もいます。

占い依存には、自由と方向性を失った泥沼があります。
人は自由意志を手放してはいけない、というはっきりした教訓があります。


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意識と無意識 / comments(6) / trackbacks(0)
占いと占い依存(3) 意識と無意識14
 昔、一回の見料が5万円という占い師と会ったことがあります。
テレビに出るような有名人ではありませんから、最初は高額な見料に客が来なかったようです。
何か月もしてから初めての客が来たといいます。

「相談の最後に、客の気になることを一言つけくわえるのです。そうすると、客は必ずリピートします。それからだんだん客が付き始めたですね」
と彼は言っていました。
そういう心理的な技巧を使うのです。

細木数子も、タレントや芸人の顔色を見て、隙を見つけるとガツンと悪いことを言っていました。
そういう手練手管と知って相手にしないタレントもいましたが、あきらかに怯んだり顔色が変わるタレントもいました。そういう人は、収録後に「細木先生〜」といって、たぶん一回何十万という相談料を払う顧客になるのでしょう。
あー、テレビに出て、出演料を取る上に露骨に営業までしているよー、と思って見ていました。
したたかなものです。

占いという超越的なものを背景に、相手の運命を操れるようなフリをして、言い放題、やり放題です。
気の弱い人であれば、骨までしゃぶられてしまいます。
無防備に近づくものではありません。

占いのいちばん恐ろしいところは、運命を超越的なものに委ねて自分の意志を失ってしまうところにあります。

次回はいよいよその本質に迫ります。


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意識と無意識 / comments(1) / trackbacks(0)
占いと占い依存(2) 意識と無意識13
 占いほど、アマチュアとプロの境目があやふやな職業はありません。
私もじつはかなり楽屋裏を知っています。

昔、知り合いの女性が少し占いを習ったところ、タレント性がありそうだ、ということで、知り合いの編集プロダクションから占いの本を書け、と言われた話があります。

彼女は本を書き上げたのですが、出版時期がズレて、プロ野球はどこが優勝する、とか、いろいろ予言をしたのを書き直さないといけないと言っていました。
なんかいい加減な企画だなあ、と私は思いました。その後、プロダクションの経営者が持ってきたテレビ出演の話を彼女が断ったため、出版そのものも立ち消えになってしまいました。彼女を占いタレントに仕立てようとしていたようなのです。

占いは、わりとそういう感じです。すべてがあやふやになりやすいのです。

占い師は物書き業ともかなり接点があります。
私もじつは占いのシステムを占い師に依頼して作ったことがあります。
これは、似たような結果ばかり出ないようにするためには、かなりの量のテキストを書かないといけません。
それはいかにもテキストを書く、という感じの内職のような力仕事です。

だから、占い師がライターのようなことをする、あるいはライターが占い師になる、ということは珍しくありません。

星占いは12星座ですが、それと血液型を組み合わせると48通りになりますね。
そういうふうにちょっと複雑な味付けにすると、テキストの量は簡単に膨れあがります。

そういう話をしていたら、友人のライターが「占星術と血液型を最初に結びつけたのはオレだよ」と胸を張りました。
そういうことも占い師が考えたわけではなくて、もともと雑誌の企画の思いつきなわけです。

ある程度のアンチョコさえあれば、ライターはいくらでも占いの原稿は書けます。
占いの解釈の幅も、どう広げるかはライターの裁量なわけで、ある意味で柔軟なほど面白いと言えましょう。

したがって、同じ雑誌の星占いでも、A誌とB誌では全く違うことが書いてあっても何の不思議もありません。
そんなことで抗議や問い合わせをする人もいません。

だから、書くほうも占いを大して深く信じていないし、読むほうもちょっとしたヒマつぶしでいいのです。

しかし、お金を出して人に占ってもらうとなると、そうはいきません。

(続く)


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意識と無意識 / comments(0) / trackbacks(0)
占いと占い依存(1) 意識と無意識12
占いと占い依存


私たちの社会は、一見合理的な秩序によって運営されています。
しかし、人は自然科学や合理性では割り切れない志向性をおおいに持っています。
そういう非合理の世界は、合理的な秩序によって辺境に追いやられます。

占い、神秘主義、オカルト、宗教、スピリチュアリズム……そういう非合理の領域が生命力を失ったことはありません。
これからも、科学の進歩によって非合理が一掃された、ということにはならないでしょう。
合理主義の世の中になって、科学がいくら進歩しても、宗教は相変わらず強い力を持っています。
オウム真理教には高学歴のインテリがたくさんいましたね。
合理的な思考を頭脳にインプットすればするほど、ころりと簡単に非合理に逆転してしまうのです。

光が強くなればなるほど、闇のコントラストもまた強くなります。

ここで、非合理と呼んでいるものは、今までの記事で無意味とか無意識と呼んでいたものにとてもよく似ています。というより、一つのものの違う現れ方ともいえます。

さて、占いとは、このような合理性と非合理性の境目、波打ち際の遊びです。
非合理性の世界から取り出してきたものを実生活の役に立てたい、というわけです。

占いというのは、一種の因数分解です。
たとえば、私たちはある人を見るときに、会社の課長で、結婚していて、子どもが2人というような社会的な属性で見ています。

しかし、星占いなどを見れば、「あの人は意外にこういう性格で、……当たっている〜」「たしかにこういところがあるねー」とか、そういう社会の枠組みとは違うところで、その人の姿をあれこれと想像することができます。

自分の運命であれば、努力してもどうにもならないと諦めかけているところに、「金運は吉」とか「ステキな彼との出会いがありそう♪」とか「仕事運が開けそう」とか書いてくれる。
占星術は、順番に回っていますから、万人向けに書けば、ある人がずっと悪い、ということはないのですね。
そういう日常と違うところから感覚を揉みほぐしてくれるところが魅力なのです。

しかし、それは波打ち際の遊びだからいいので、次第に沖のほうに出ていくと、溺れたり、もっと沖に流されて帰れなくなったり、鮫に食われたり、遊びでは済まない事態になってきます。

大学時代、先輩の実家の親は気学を信じているという話を聞いたことがあります。
引っ越しをしようと思ったときに、方位が悪いので、一度違う方向に引っ越してからもう一度引っ越すというのです。

バカバカしいほどのお金とエネルギーがかかると思いますが、本気なのです。
そういう人はけっこういるはずです。
それだけの犠牲を払っても、それを上回る運気をもらえるという実感があるなら、他人がとやかくいうことではありません。

しかし、私はごめんです。
人生をややこしくするものは必要ありません。
知らないほうがいい。

この話を聞いたときに、占いというのは究極的には、自分の判断や感覚を捨てて従うというところまで行ってしまうのだな、と知りました。

テレビや雑誌で面白半分に「今日の運勢」を見ているときとは違う深淵があるのです。

(続く)



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意識と無意識 / comments(0) / trackbacks(0)
書道占い 意識と無意識11

書道占いセッションをセッションのメニューにくわえます。

時間、価格は
(60分1万円/90分1万5千円 以下30分ごと5千円 対面のみ 東京・目白に来られる方)
です。

通常のセッションと同じです。
通常のセッションも60分1万円の枠を新設します。


*

さて、書道占いとは何でしょうか?

一文字の漢字を筆で書いてもらって、そこからさまざまなものを読み取る技術です。
私が開発したものです。
占いまでオリジナルで作る人はあまりいないでしょう?

それを作ってしまいましたのです。

いろいろなところで数十人に実験しましたところ、「当たる!」「面白い」と大評判。
世界で私だけができる占いです。
今までは、書道占いとして独立してときどき機会を見てやっていたのですが、今後はセッションと結びつけていこうと思います。

わかりやすいので「占い」と呼んでいますが、占いというよりリーディング技術です。(なんか微妙な違いですが、占いそのものには私はどちらかというと批判的な立場です。占いについては、次回書きます)。

漢字というものは、大変象徴性の高い複雑な記号です。
そして、筆という道具は、ペンなどに比べて心の中のたいへん微妙なニュアンスまで反映してしまう筆記用具です。
だから、一文字から非常に多くの情報を読み取ることができます。

そういうリーディングを一つの要素として盛り込んだセッションです。
いわば無意識界に降りていく「はしご」として、書の文字を使うのです。
たぶんなかなか面白い展開があるのではないかと思います。

ぜひ、一度ご体験ください。

というわけで、次回は「占いと無意識」になるはず。


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意識と無意識 / comments(0) / trackbacks(0)
人の自然性 意識と無意識10
 「みんなしたいことをすればいいんだよ」(したいことをしなさい、というときに非合法なことは含みませんけど)というと、「そんなことをしたら大混乱になる」という反応をする人がけっこうたくさんいます。
いつも我慢して生きている人です。

こういう人は、自分が我慢しているからいろいろなことがうまく回っていると感じています。
したいことをすると言ったら、人は盗みや、痴漢や、殺人や、その他のあらゆる破壊的でふしだらなことをすると思っているのです。

世の中は、無秩序で人と人は衝突しあい、収拾がつかなくなると思っています。

しかし、したいことをすることは無意識を大切にすること。無意識を大切にするということは、人の精神を本能的、生命的自然的なものに近づけていくことです。

本能とはどういうものかを見てみましょう。
たとえば、蟻や蜂は、本能にしたがって見事な巣を作り、集団生活を行っています。
空腹でないライオンは、シマウマと同じ水場で水を飲み、シマウマも怖れることはないといいます。
肉食獣は他の動物を殺しますが、自分の生存に必要な分だけです。
人間のほうがはるかに意味なく残虐に他の生物を虐げるということはよく言われることですね。

二つの概念を比べてみましょう。

1.人の自然性は本来調和の取れたものである。

2.人の自然性は本来不調和なものであり、それを理性によって押さえているから社会生活が成立するのである

2はとてもたいへんそうでしょう?
つねに自然と理性のエネルギーがぶつかりあって、エネルギー的にたいへんな浪費をすることになります。
そして、ついに調和的な時代は来そうにありません。

心というものの面白いところ、おそろしいところは、心の中で思っていること、頭の中に抱いている概念が、現れることです。

いわゆる「願望は実現する」なんて本があるでしょう。
心に強く念じ続けたことは実現するという……。
あれは副作用があってよくないのですが、ある程度、そういう現象は起きるでしょう。

だから、2のような概念を持っている人は、つねに心の中にエネルギーがぶつかりあう軋轢を抱えることになるのです。
そして、理性が自然をねじ伏せるということは、意識が無意識をねじ伏せるべし、という考え方です。

したがって、心のエネルギーを省エネして、より本質的なものに使うべし、という私の立場からは、1が正しい、ということになります。

これはたぶん議論の枝分かれが無数にあるところでして、具体的な疑問が呈されていないのに、私のほうから一つ一つそれに検討をくわえ、反駁するということはできません。

一例を挙げますと、心理学者の岸田秀氏は、「人間は本能の壊れた動物である」と規定しています。本能が壊れ、自然性からはぐれてしまったところから人間の精神生活は始まっている、という観点から氏はさまざまな興味深い著作を書いています。

私の考えでは、人は本能が壊れていません。
本能をより高度なものに変換して生きているのです。
本能を土台にしたり、素材にしたり、エネルギーにしたりして、より高度な能力を開花させているのです。
つまり、人は生物であり、動物であり、哺乳類であり、その土台の上に人であるのと同様のことです。
人になったからといって、動物でなくなるわけではないのと同様に、本能からも完全に切り離されてしまうわけではありません。

こういうことが議論になると、とかく水掛け論になるのですが、さきほど書いたように、人には考えた通りのものになる方向性があります。
だから、なるべく自由で調和的で人を快適にする概念が正しいのです。

人は考えた通りのものになると同時に、無理なものをあてはめようとすると、必ずそこからはみ出そうとする性質もあります。
それが人というものの面白さです。

だから、人について考えるときは、なるべく無理のないスムーズな概念、ストンと腑に落ちる概念を受け入れたほうがいいのです。
学者や知識人が言ったことでも、なんとなく腑に落ちないことは鵜呑みにしてはいけません。

というわけで、人はしたいことをしても、それが本当に自分の内側から出てきた場合は調和的だととらえたほうがいいのです。

我が魔術師クロウリーは、「人は自らの軌道を持った星である」と言っています。
地球は太陽の回りを公転していますが、他の星とぶつからないでしょう?
宇宙は広大だからです。

人はその星のような存在なのです。
みなさん占星術が好きな人が多いでしょう。
だったら、自分の軌道を感じなければいけません。

生きていてガツンガツンと人と衝突するのは、自分自身の軌道から逸脱しているのです。
軌道から逸脱した同士がぶつかりあっているのです。
それは、本来の軌道に戻りなさい、というメッセージです。
もっと自然に自分自身の道を見出すならば、誰もその行く道を阻む者はありません。



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自由な人、不自由な人  意識と無意識9
考える、という言葉に値する創造的作業とは何か? ということをときどき考えることがあります。

たとえば、些細なこと。
お昼をラーメンにするか、カレーにするか、というのも考えるといいますね。

その結果、「昨日のお昼もラーメンだったから、今日はカレーにしよう」、と決めることもあるでしょう。

これは一見、論理的に見えるかもしれません。
しかし、2日続けてラーメンを食べてはいけない、ということの根拠は別にないわけです。

こんなへんな理屈があるよりは、「店の前を通ったら、いい匂いがしたからカレーにした」というほうが、行動としては健全なのです。

え? どっちでもいい?

そうでしょうか(笑)。

意外に世の中、こういう根拠のない理屈が見えないルールになっているのです。

うちの亡くなったおばさんは、麻雀が大好きでしたが、旦那さんにはいつも遠慮していました。いっしょに遊んでいても、帰ってきそうな時間になると、さっさとやめてしまうのです。

その他にも、いろいろなことで、おじさんには遠慮して譲っていました。

おじさんは折り目正しいまじめな人でしたが、やさしい人で、そんなに遠慮しなくても怒ったりしなかったと思うのです。
おばさんの遠慮と、おじさんの実像との間には、かなりギャップがあったような気がします。

しかし、そういう姿勢を一生貫いたのは偉いと思います。

かつての家庭の中の女性たちは、妻として母として、さまざまなものを役割として引き受けて耐えてきました。
それで一生耐えられるのならば、すばらしいと思います。
中途半端に自分を出して夫婦が不和になるよりもずっといいでしょう。

しかし、耐えられないのに我慢して、いつもブスブスとくすぶり、ときどき爆発する、というのはよくない。

だったら、自分の好きなようにやってみたほうがいいのです。

本人が我慢しているつもりが、相手にとっては全然見当違いのことがあります。
「こういうことをしたら怒られるのではないか」「こうしたら、変に思われるのではないか」「世間の人はこうしているのではないか」いつも自分のしたいことよりも先にそのことを考えてしまう習慣はたいへん危険です。

というのは、「相手のためにこうしてあげている」という意識が生まれるからです。
そこに恩着せがましさが生まれ、次にその恩を相手が感じていない、という恨みが生まれます。

「自分のしたいことをしていない」→「誰かのために犠牲になっている」→「そのことに対する感謝が感じられない」→恨みがたまる

こういう図式があるわけです。
結局、自分のためにも生きていないし、他人のためにも生きていません。

こういう人は自由な人とは相容れません。
こういう人から見れば、自由な人は自分勝手な図々しい人に見えるでしょう。
自由な人にとっては、こういう不自由な人は、自分の足を引っ張りかねないうっとうしい存在です。

自分のしたいことをしない限り、自由ではありません。

したくてもできない、という人もいるかもしれませんが、本当に時間にもお金にも何の余裕もない、浪費していない、という人はそんなに多くないはずなのです。

では、なんでお金や時間をしたいことのために使わないのか?

それは生きていく理由を人のせいにすることに慣れてしまったので、じつは何がしたいかよくわからないのです。

それで、テレビのCMに煽られたり、流行に流されたりすることで、その不在を埋めているのです。

自分が何をしたいか知るためには、しばらくそういう既成の価値観をインプットしたり、それで動くのをやめなければいけません。
そうしてじっとしていると、最初、心の中がすごくノイジーな状態になります。
いつもそのノイズは鳴っているのですが、いつもは聞こえていません。
インプットしなくなったから聞こえるのです。
静かな環境にいると自分の耳鳴りが聞こえるようなものです。

それでも、じっと耐えていると、ようやくか細いぼやっとしたメッセージが聞こえるようになります。
はっきりと聞き取れなくても、その声にしたがって動いてみることです。
そういうふうにしていると、最初にあるかないかあやふやだったメッセージが次第に明瞭なものに感じられてきます。

それが無意識と仲よくなる方法です。

誰もがみんな自分自身のために生きるようになったら、日本はとても生きやすい国になると思うのです。



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汝の意志するところを行え 意識と無意識8
 「汝の意志するところを行え。それが法の全てとならん」というのは、20世紀最大の魔術師と言われたアイレスター・クロウリーの言葉です。

魔術師と言っても、奇術師の類ではありません。
どちらかというと、RPGなどのゲームに出てくる魔術師に近いのです。
英国には、そういう魔術の伝統があります。
だからといって、火炎を噴き出したり、地震を起こしたり、というような攻撃的な魔法を使うわけではありません。

何をするかというと、「意識を変容させ、宇宙意識と合一する」というようなことになるのだと思います。
非常に内的な修行を一生をかけてしていました。
しかし、魔術団体の内紛やら、性魔術やら、麻薬やらで、つねに話題を提供し、たいへんにスキャンダラスな存在だったようなのです。

じつに面白い、ある種めちゃくちゃな人物です。
偉大な魔術師とも、ただの性格破綻者とも、両極端の評価があります。

こんな感じ。

しかし、彼にインスパイアされたアーティストも多く、少なくとも偉大な実験者、精神世界の冒険者であったと私は思います。

「汝の意志するところを行え。それが法の全てとならん」は、そのクロウリーのシンプルにして根幹を成すメッセージです。
それらしく文語になっていますが、要するに「したいことをしろ、それ以上の法はない」ということです。

「したいことをしろ」と言われたら、あなたはどう感じますか?

先を読む前にちょっと立ち止まって考えてください。


……



……



いいですか?



……


まだ?


……


立ち止まってもらえましたか?


「言われなくてもしたいことをしている」という人は意外に少ないのではないでしょうか。

日本人は「したいこと? ……できればいいけどねー」という人が多いような気がします。


しかし、無意識は「する」のです。
言葉がないのですから、「したい」と「する」の間に何の逡巡もありません。
そこにギャップがゼロなわけですから、「したい」=「する」なのです。

しかし、意識はちょっと待てよ、と「考える」わけです。
するべきかどうか? したほうがメリットがあるか? したらどう思われるだろうか?
「したい」と「する」の間にさまざまな邪魔者を生み出します。

そうすると、結果的にしたいことをしなくなるのです。

「いや、自分はよく考えてから行動に移す」という人は、よく自己観察してみてください。
行動するときに考えているのは、「いつ、どのようにするか」という部分です。
「するかしないか」は、考えるのではなく、決定するのです。
あるいは、決定することもなく、し始めるのです。

「するかしないか」を考えたり迷ったりしたら、それはもうかなり「しない」ほうに針が傾いているといっていいのです。

スポーツクラブに行くか行かないか、というようなことから人生のもっと大切な決断まで、考えればいい結論が出るというものではなくて、答はもっと内側で決まっていると考えるべきなのです。

それに素直になれるかどうかです。

迷ってから行動に出ると、行動自体もすっきりせず、結果もよくないことが多いのです。

無意識は「する」。
意識は「考える」。

このことについて、次回も考えたいと思います。



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↑現時点で申し込みありません。
敷居が高いのか、関心がないのか、参加費ほど価値がないと思うのか、そういう心理はじつは私はちっともわかりません(笑)。
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