大休止という感じで、また「これを書こう」という体勢ができたら、書き始めます。
というか、すでに膨大に書いてしまって、それ自体が僕自身が読み返したり、評価したりできないカタマリになっています。
これをまた解きほぐして、整理しなおすような作業が必要と思うのですが、やはり、そういうことにはきちんと読んでくれる編集者の助言が必要です。
ところが、これを読み解いて整理するには、僕と同レベルかそれ以上の編集能力が必要で、でも、僕自身ではやりたくない(ピッチャーとキャッチャーを同時にやれ、というようなものです)というようなことがありまして。
人気作家の書き物のように「売れる」という保証があれば、そういうことに手をつけてくれる人もいるでしょうが、そういうわけでもないので、これはたぶん物好きな人が読むカタマリのままでありましょう。
そうすると、前に向けて語り続けるには、少し違う切り口がほしい、という気持ちになるのです。
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弁解めいた前置きが長くなりましたが、以前不登校の娘のことでこのブログでとりあげさせていただいた方からメールをいただきました。
わりとハッピーな?メールなのでご紹介します。
この方の以前の記事は、このブログの
2009/9/8,/9/27,10/7
に掲載されています。
そちらから読むと変化がわかって面白いと思います。
(過去記事の一覧性、検索性が悪いのも悩みのタネです。カテゴリーをうまく使えばよかったんだろうけどね……)
さて、メール↓
村松恒平様
こんにちは。
ご無沙汰しております。
私はちょうど1年〜2年くらい前に、村松さんのブログへ
不登校をしている中学生の娘との葛藤の日々での自分の気持ちを
綴らせていただいた者です。
その節はありがとうございました。
その後も村松さんがご活躍されているのでとても嬉しいです。
その後ですが・・・
結局ガンコな娘は、その後も1日たりとも中学校へ寄りつこうとはしませんでした(笑)。
そして中学卒業を機に、それまで10年以上住みなれた場所から新しい場所へ引っ越すという大決断をして、今年の4月から今のところで新しい生活をスタートさせました。
娘は一応通信制の高校へ入学しました。
中学校が終わるころには、その手続きなどでバタバタしましたが、
中3の頃の先生がとてもよい先生で、いろいろとよくしていただきました。
3学期になっても先の進路をはっきりさせる様子がなかったので
通信へ行くとしてもまだ先だろうと思っていたのですが、
急に子どもから「行きたい」と言いだして急展開になりました。
同級生が普通に高校へ行っている時期に
自分だけ浪人・・というのはさすがにいやだったようです。
理由はどうであれ、突破口になったのはよかったです。
新しい住処がその通信制高校から近いということもあって、
また、ここは昔を知っている友達もいないことから、
娘にはよりよい環境となったと思います。
引っ越しを含め(資金の面でも)いろいろ大変でしたが、
頑張ってよかったです。
そしてその後、娘はしばらく通信制高校へ週1のペースで通っていましたが、中学校の勉強をほとんどしていなかったために
勉強自体が好きになれず、だんだんと行く気がしなくなって行きました。
毎回の提出レポートは、友達のを見て写すことができても
テストでは点が取れないので、どのみち留年を繰り返すことになっていたでしょう。
せっかくの勉強の機会があるのに、中学校でも通信制でも自分からその機会を無駄にするなんて・・・と私はとても残念ですが、本人の気持ちだから仕方がないことかなと今は思います。
1学期が終わりを迎える前に、もうすでに学校へは行かなくなってしまっていましたが、その頃に、学校へ行かないなら働かなくては!という気持ちが自然と芽生えたようです。
以前から「バイトするならここで」と決めていたコンビニがあったらしく、自分で電話をして面接のアポを取り、採用されるに至りました。
最初は「タバコ」の銘柄が覚えられない・・・と自信を無くしていた娘でしたが、遅刻をすることもなく毎日しっかりと仕事に行ってがんばっていました。
コンビニのバイトを3か月ほどしたあたりで、近くにずっとバイトをするならここで・・と決めていた系列の喫茶店ができることがわかり、今度は店のオープンに合わせてバイトに応募しました。
そこでは結構の応募があったそうですが、「オジサンに気に入られそうな雰囲気」「声が大きい」などの理由から採用していただき、スタート時の研修を経て今日まで3カ月、途中はコンビニとの掛け持ちで一日15時間も労働をする日がたびたびあったのですが、一日も休まずしっかりと仕事をしています。
親の気持ちからすると、老婆心からいろいろなことを言ってしまいそうになりますし、やっぱり学校で勉強をして欲しかったなぁと思いますが、大きく見れば今日のところでまずはヨシ!とすべきだろうなぁと思います。
何より、全てのことを自分で決めてきたというところで、これでいいのだ!と思います。
これから社会に出て、いろんな壁にぶつかるかも知れません。
そのときに勉強が必要だったなぁと思えば、それから足りないことを補っても
遅くはない、と思います。
・・というか、たとえ遅かったとしても、そうするしか仕方ないですからね。
その娘よりも7歳年上の長女が高校3年の終わりに突然
「学校やめようかな・・」
と言いだしたときもそうだったのですが、
親は子どもよりいろいろと世界が見えるだけに、
そういう早まった子どもの決断に対してすごく不憫な気持ちを持つんですよね。
(他の方はどうなのかはわかりませんが・・)結局卒業しましたが。
結局親として子どもにどうなって欲しいのか、今回の娘の不登校からの日々を考えても、
「何でもいから幸せになって欲しい」
という気持ちだけなんですね。
幸せっていろいろな意味合いがあるかと思うけど、私の場合は
「自分の決断で、自分が納得して人生を送って欲しい」
ということです。
親が子どもの人生に、自分の願望を織り交ぜてしまったら、
たぶん、もっと欲が出ると思います。子どものためによかれと思って・・と。
もう子どもの人生は子どものものなんだから、
子どもの自主性に任せたいと思います。
それがどういう結果になるかは今はわかりませんが。
ただ、コンビニでも喫茶店でも、店長さんはみな学歴としては中卒、もしくは高校中退、でも社会に出てから何らかの方法でその地位を築いている・・という人たちばかりで、娘はその中にいても劣等感や疎外感を感じなくていられる、自分でも真面目に取り組めば何とか生きる道がある、ということを感じているようです。
その点に関してはとてもラッキーだったと思いますし、これからもそんな風に抜け道を見つけながらサバイバルに行ってくれたらいいと思います。
とどのつまり、母親の私自身が高校半ばあたりですでに社会のレールから落ちこぼれて現在に至るので、子どもに大きいことが言えないんですよね(笑)。
勝ち組、負け組って言葉が流行ってましたが、それで言えば完全なる負け組(苦笑)。
でも生きていかないといけないんで、社会の隙間でいつも抜け道を探しながらしぶとく生きているって感じなんです。
引っ越す前の団地のお母さん友達で、高校を卒業して料理の見習いとしてレストランで働いている息子さんに
「できれば公務員になって欲しいんだけど」
と言っている人がいました。
こんな私だからその意味が全く理解できません。
公務員になれば幸せになるというのはそのお母さんの価値観であって、実際はそうなのかどうかはわからない(もしかすると最終的に正解だとしても)。
私はそれが理解できないから、そうじゃない子育てをしているでしょう。だから子どももそんな風な親から育つ子どもになるんでしょうね。
それがいいとか悪いとかじゃなくて、どう答えが出るかは誰にもわからない。
でも幸か不幸か、うちの子どもたちはそんな母親(私)に育てられました。
自分で何とかラッキーな方へ向けてください、って感じでしょうか(笑)。
ちょっと無責任なようですが、親には子どもの人生がどうにもできないなら、親にもそのくらいの無責任さを与えて欲しいと思うのです。
今生きているってこと自体が奇跡と言えば奇跡です。
どう始まったのかよくわからないけど、この世に存在しているって不思議なことです。
不必要につき詰めて考えるより、今生きていることが奇跡で、
不幸じゃなかったらもうそれでオッケーじゃないんでしょうか。
深く考えてクヨクヨしても仕方ないって思います。
(さんざんクヨクヨしてきましたので)
母親(私)は子どもを育てなくちゃいけないし、
11年前に離婚をしてからずっと、真面目に働いてきました。
どこかで働かないとお金がなくて生活できないので
当たり前のようにやってきました。
特に何の疑問も感じずに。
結婚する前はミュージシャンになりたかったのですが、
練習するのと楽器にお金がかかることもあって
がんばって働きました。
今思えば親元にいて生活費の心配なくできたので
甘えていたなぁと思いますが。
(ちなみに今娘は自分の食費と携帯代を支払い、
家賃分として3万円家に入れてくれています。
私のミュージシャン卵時代と雲泥の差ですね・・・)
そうやって食いぶちを稼ぐために働く時期、
それによって自分を成長させる時期というのは必要です。
今娘はまさにその時期にあるでしょう。
いろいろなことを学んで欲しいです。
今娘と2人暮らしですが、娘は仕事のために毎日決まった時間に起き仕事に行き、母は仕事は自由な時間帯ですればいいので全く対照的な生活を送っています。
ぶっちゃけ、私は組織のために働くことに疲れました。
これからの残りの人生をやりたくないことに費やしたくないのです。
ワガママなことは承知ですが、基本は食いぶちを稼げばそれでいいと思っています。
(後略)
●村松コメント
その年齢で食費と3万円を家に入れているって、すばらしいです。
うらやましいと思う人もいるのではないかな。
やはりお母さんの苦労を見ていて考えた部分があったのだと思います。
娘さんの本心というのは、少しもブレていませんね。
中卒でも、高卒、高校中退でも、立派に生きている人たくさんいますね。
むしろ、学校教育に欺瞞を感じる直観力の強い、生命力の高いまっすぐな人が多いと感じています。
既成概念にとらわれず、事業を起こして成功した人も何人か知っています。
しかし、世の中一般というのは、そういう世界に普通の光をあてないで、やや陰の部分のように扱ってきました。
そして、大学に行くのが当たり前だ、という通念に従って、エスカレーターのように進学させていきます。
ところが、いま不況で就職難民が大量に出ていますでしょう。
そんなときに通念というのは、何の保証にもなってくれません。
大学に言っても、鬱になったり、友だちができなかったり、通念の「普通」という枠にはまろうとしてはまりきれないのに、そういう生理的な拒否を無視して進学して壊れた例はたくさんいます。
先日「心が大事の会」に来た学生さんから『便所メシ』という話を聞きました。
今年聞いた話でいちばんインパクトがあるかもしれません。
ひとりぼっちの学生がトイレの個室にこもって弁当を食べるというのです。
なんでそんなくさいところで食べるかというと、食堂やホールで一人で食べるのが恥ずかしい、というのです。
逆にいうと、他の学生はそんなふうにならないようにツルんでいて、トイレもいっしょに行くと言ってました。男子大学生です。
つまり群れから離れて孤立するのがコワいのです。
これは一つの大学だけの話かもしれませんが、そこの大学には、トイレに「便所メシ禁止」という張り紙がしてあるそうです。
大学に行っても就職はドン詰まりです。それを予感するように若い人の中には進学コースになじめないでスピンアウトしようとするエネルギーがたまっているのです。にも関わらず社会通念というあやふやなものに従って、親子が進学という枠にはめて考え続けるがゆえに、どんどん生命力が衰えて、一人でメシを喰うこともできなくなるのです。
大学に行けばなんとかなる、という「普通」はもう十分に壊れているのですが、社会通念がそれを消化するのは何年も遅れるのです。
どちらが得か有利か、というようなことは、じつは比べにくいものであろうと思います。
大学卒というときには、一流大学卒のうまく行っているケースを見るし、中卒というと、引きこもりとかニートを想像する、そういう回路が固定されていて、それが通念になっているのです。
一般論として大学に行ったほうが有利だ、安全だ、という考えが仮に正しいとしても、子どもの生命力、まっすぐに伸びる力を壊してしまったら何にもならない、ということは目の前の現実をみればわかるのです。
一般論ではなくて、一人一人個別の子どもに人として向き合わなくてはいけません。
僕はそういう立場ですので、娘さんがたいへん元気にたくましく生きているメールをいただいて、たいへんに心強く思いました。
時代はどんどん変わっていきます。これからもっと日本人は(あるいは人類全体が)大変な波を乗り越えないといけないかもしれません。
そういうときに社会通念は何も守ってくれません。
一人一人が自分の生命力に素直に生きるときが来ています。