INNER LIFESTYLE DESIGN
 〜ナチュラルに生きる方法論序説
不登校と便所メシ
えー、あれこれ考えるところあって、更新をすっかりさぼっています。
大休止という感じで、また「これを書こう」という体勢ができたら、書き始めます。

というか、すでに膨大に書いてしまって、それ自体が僕自身が読み返したり、評価したりできないカタマリになっています。
これをまた解きほぐして、整理しなおすような作業が必要と思うのですが、やはり、そういうことにはきちんと読んでくれる編集者の助言が必要です。

ところが、これを読み解いて整理するには、僕と同レベルかそれ以上の編集能力が必要で、でも、僕自身ではやりたくない(ピッチャーとキャッチャーを同時にやれ、というようなものです)というようなことがありまして。

人気作家の書き物のように「売れる」という保証があれば、そういうことに手をつけてくれる人もいるでしょうが、そういうわけでもないので、これはたぶん物好きな人が読むカタマリのままでありましょう。

そうすると、前に向けて語り続けるには、少し違う切り口がほしい、という気持ちになるのです。

**

弁解めいた前置きが長くなりましたが、以前不登校の娘のことでこのブログでとりあげさせていただいた方からメールをいただきました。

わりとハッピーな?メールなのでご紹介します。

この方の以前の記事は、このブログの
2009/9/8,/9/27,10/7
に掲載されています。
そちらから読むと変化がわかって面白いと思います。
(過去記事の一覧性、検索性が悪いのも悩みのタネです。カテゴリーをうまく使えばよかったんだろうけどね……)

さて、メール↓


村松恒平様

こんにちは。
ご無沙汰しております。

私はちょうど1年〜2年くらい前に、村松さんのブログへ
不登校をしている中学生の娘との葛藤の日々での自分の気持ちを
綴らせていただいた者です。

その節はありがとうございました。
その後も村松さんがご活躍されているのでとても嬉しいです。


その後ですが・・・

結局ガンコな娘は、その後も1日たりとも中学校へ寄りつこうとはしませんでした(笑)。

そして中学卒業を機に、それまで10年以上住みなれた場所から新しい場所へ引っ越すという大決断をして、今年の4月から今のところで新しい生活をスタートさせました。

娘は一応通信制の高校へ入学しました。
中学校が終わるころには、その手続きなどでバタバタしましたが、
中3の頃の先生がとてもよい先生で、いろいろとよくしていただきました。

3学期になっても先の進路をはっきりさせる様子がなかったので
通信へ行くとしてもまだ先だろうと思っていたのですが、
急に子どもから「行きたい」と言いだして急展開になりました。

同級生が普通に高校へ行っている時期に
自分だけ浪人・・というのはさすがにいやだったようです。
理由はどうであれ、突破口になったのはよかったです。


新しい住処がその通信制高校から近いということもあって、
また、ここは昔を知っている友達もいないことから、
娘にはよりよい環境となったと思います。

引っ越しを含め(資金の面でも)いろいろ大変でしたが、
頑張ってよかったです。


そしてその後、娘はしばらく通信制高校へ週1のペースで通っていましたが、中学校の勉強をほとんどしていなかったために
勉強自体が好きになれず、だんだんと行く気がしなくなって行きました。

毎回の提出レポートは、友達のを見て写すことができても
テストでは点が取れないので、どのみち留年を繰り返すことになっていたでしょう。

せっかくの勉強の機会があるのに、中学校でも通信制でも自分からその機会を無駄にするなんて・・・と私はとても残念ですが、本人の気持ちだから仕方がないことかなと今は思います。

1学期が終わりを迎える前に、もうすでに学校へは行かなくなってしまっていましたが、その頃に、学校へ行かないなら働かなくては!という気持ちが自然と芽生えたようです。

以前から「バイトするならここで」と決めていたコンビニがあったらしく、自分で電話をして面接のアポを取り、採用されるに至りました。

最初は「タバコ」の銘柄が覚えられない・・・と自信を無くしていた娘でしたが、遅刻をすることもなく毎日しっかりと仕事に行ってがんばっていました。

コンビニのバイトを3か月ほどしたあたりで、近くにずっとバイトをするならここで・・と決めていた系列の喫茶店ができることがわかり、今度は店のオープンに合わせてバイトに応募しました。

そこでは結構の応募があったそうですが、「オジサンに気に入られそうな雰囲気」「声が大きい」などの理由から採用していただき、スタート時の研修を経て今日まで3カ月、途中はコンビニとの掛け持ちで一日15時間も労働をする日がたびたびあったのですが、一日も休まずしっかりと仕事をしています。


親の気持ちからすると、老婆心からいろいろなことを言ってしまいそうになりますし、やっぱり学校で勉強をして欲しかったなぁと思いますが、大きく見れば今日のところでまずはヨシ!とすべきだろうなぁと思います。


何より、全てのことを自分で決めてきたというところで、これでいいのだ!と思います。


これから社会に出て、いろんな壁にぶつかるかも知れません。
そのときに勉強が必要だったなぁと思えば、それから足りないことを補っても
遅くはない、と思います。

・・というか、たとえ遅かったとしても、そうするしか仕方ないですからね。


その娘よりも7歳年上の長女が高校3年の終わりに突然

「学校やめようかな・・」

と言いだしたときもそうだったのですが、
親は子どもよりいろいろと世界が見えるだけに、
そういう早まった子どもの決断に対してすごく不憫な気持ちを持つんですよね。
(他の方はどうなのかはわかりませんが・・)結局卒業しましたが。


結局親として子どもにどうなって欲しいのか、今回の娘の不登校からの日々を考えても、

「何でもいから幸せになって欲しい」

という気持ちだけなんですね。

幸せっていろいろな意味合いがあるかと思うけど、私の場合は

「自分の決断で、自分が納得して人生を送って欲しい」

ということです。


親が子どもの人生に、自分の願望を織り交ぜてしまったら、
たぶん、もっと欲が出ると思います。子どものためによかれと思って・・と。

もう子どもの人生は子どものものなんだから、
子どもの自主性に任せたいと思います。

それがどういう結果になるかは今はわかりませんが。


ただ、コンビニでも喫茶店でも、店長さんはみな学歴としては中卒、もしくは高校中退、でも社会に出てから何らかの方法でその地位を築いている・・という人たちばかりで、娘はその中にいても劣等感や疎外感を感じなくていられる、自分でも真面目に取り組めば何とか生きる道がある、ということを感じているようです。

その点に関してはとてもラッキーだったと思いますし、これからもそんな風に抜け道を見つけながらサバイバルに行ってくれたらいいと思います。


とどのつまり、母親の私自身が高校半ばあたりですでに社会のレールから落ちこぼれて現在に至るので、子どもに大きいことが言えないんですよね(笑)。

勝ち組、負け組って言葉が流行ってましたが、それで言えば完全なる負け組(苦笑)。


でも生きていかないといけないんで、社会の隙間でいつも抜け道を探しながらしぶとく生きているって感じなんです。


引っ越す前の団地のお母さん友達で、高校を卒業して料理の見習いとしてレストランで働いている息子さんに

「できれば公務員になって欲しいんだけど」

と言っている人がいました。

こんな私だからその意味が全く理解できません。


公務員になれば幸せになるというのはそのお母さんの価値観であって、実際はそうなのかどうかはわからない(もしかすると最終的に正解だとしても)。

私はそれが理解できないから、そうじゃない子育てをしているでしょう。だから子どももそんな風な親から育つ子どもになるんでしょうね。

それがいいとか悪いとかじゃなくて、どう答えが出るかは誰にもわからない。


でも幸か不幸か、うちの子どもたちはそんな母親(私)に育てられました。

自分で何とかラッキーな方へ向けてください、って感じでしょうか(笑)。

ちょっと無責任なようですが、親には子どもの人生がどうにもできないなら、親にもそのくらいの無責任さを与えて欲しいと思うのです。


今生きているってこと自体が奇跡と言えば奇跡です。

どう始まったのかよくわからないけど、この世に存在しているって不思議なことです。

不必要につき詰めて考えるより、今生きていることが奇跡で、
不幸じゃなかったらもうそれでオッケーじゃないんでしょうか。

深く考えてクヨクヨしても仕方ないって思います。
(さんざんクヨクヨしてきましたので)



母親(私)は子どもを育てなくちゃいけないし、
11年前に離婚をしてからずっと、真面目に働いてきました。

どこかで働かないとお金がなくて生活できないので
当たり前のようにやってきました。

特に何の疑問も感じずに。


結婚する前はミュージシャンになりたかったのですが、
練習するのと楽器にお金がかかることもあって
がんばって働きました。

今思えば親元にいて生活費の心配なくできたので
甘えていたなぁと思いますが。


(ちなみに今娘は自分の食費と携帯代を支払い、
家賃分として3万円家に入れてくれています。
私のミュージシャン卵時代と雲泥の差ですね・・・)


そうやって食いぶちを稼ぐために働く時期、
それによって自分を成長させる時期というのは必要です。


今娘はまさにその時期にあるでしょう。
いろいろなことを学んで欲しいです。




今娘と2人暮らしですが、娘は仕事のために毎日決まった時間に起き仕事に行き、母は仕事は自由な時間帯ですればいいので全く対照的な生活を送っています。


ぶっちゃけ、私は組織のために働くことに疲れました。
これからの残りの人生をやりたくないことに費やしたくないのです。
ワガママなことは承知ですが、基本は食いぶちを稼げばそれでいいと思っています。

(後略)

●村松コメント

その年齢で食費と3万円を家に入れているって、すばらしいです。
うらやましいと思う人もいるのではないかな。
やはりお母さんの苦労を見ていて考えた部分があったのだと思います。
娘さんの本心というのは、少しもブレていませんね。

中卒でも、高卒、高校中退でも、立派に生きている人たくさんいますね。
むしろ、学校教育に欺瞞を感じる直観力の強い、生命力の高いまっすぐな人が多いと感じています。
既成概念にとらわれず、事業を起こして成功した人も何人か知っています。

しかし、世の中一般というのは、そういう世界に普通の光をあてないで、やや陰の部分のように扱ってきました。

そして、大学に行くのが当たり前だ、という通念に従って、エスカレーターのように進学させていきます。

ところが、いま不況で就職難民が大量に出ていますでしょう。
そんなときに通念というのは、何の保証にもなってくれません。
大学に言っても、鬱になったり、友だちができなかったり、通念の「普通」という枠にはまろうとしてはまりきれないのに、そういう生理的な拒否を無視して進学して壊れた例はたくさんいます。

先日「心が大事の会」に来た学生さんから『便所メシ』という話を聞きました。
今年聞いた話でいちばんインパクトがあるかもしれません。
ひとりぼっちの学生がトイレの個室にこもって弁当を食べるというのです。
なんでそんなくさいところで食べるかというと、食堂やホールで一人で食べるのが恥ずかしい、というのです。
逆にいうと、他の学生はそんなふうにならないようにツルんでいて、トイレもいっしょに行くと言ってました。男子大学生です。
つまり群れから離れて孤立するのがコワいのです。

これは一つの大学だけの話かもしれませんが、そこの大学には、トイレに「便所メシ禁止」という張り紙がしてあるそうです。

大学に行っても就職はドン詰まりです。それを予感するように若い人の中には進学コースになじめないでスピンアウトしようとするエネルギーがたまっているのです。にも関わらず社会通念というあやふやなものに従って、親子が進学という枠にはめて考え続けるがゆえに、どんどん生命力が衰えて、一人でメシを喰うこともできなくなるのです。

大学に行けばなんとかなる、という「普通」はもう十分に壊れているのですが、社会通念がそれを消化するのは何年も遅れるのです。
どちらが得か有利か、というようなことは、じつは比べにくいものであろうと思います。

大学卒というときには、一流大学卒のうまく行っているケースを見るし、中卒というと、引きこもりとかニートを想像する、そういう回路が固定されていて、それが通念になっているのです。

一般論として大学に行ったほうが有利だ、安全だ、という考えが仮に正しいとしても、子どもの生命力、まっすぐに伸びる力を壊してしまったら何にもならない、ということは目の前の現実をみればわかるのです。
一般論ではなくて、一人一人個別の子どもに人として向き合わなくてはいけません。

僕はそういう立場ですので、娘さんがたいへん元気にたくましく生きているメールをいただいて、たいへんに心強く思いました。

時代はどんどん変わっていきます。これからもっと日本人は(あるいは人類全体が)大変な波を乗り越えないといけないかもしれません。
そういうときに社会通念は何も守ってくれません。

一人一人が自分の生命力に素直に生きるときが来ています。
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yumiさん、その後
  話題を呼んだ「yumiさんからのメール」の続編です。

しかし、意外な展開があります。
なんとyumiさんは男性であったのです。

これは男性だと見抜ければ、大したものだったでしょうが、すっかりだまされました(笑)。
読者の皆さんも違和感を感じなかったと思います。

以下は2通目のメールとそのお返事です。

**

村松様、こんにちは。
 
1ヶ月ほど前、
yumiというHNで相談メールを送らせていただいた者です。
 
丁寧にお答えくださり、ありがとうございました。
 
 
すぐにお礼のメールを差し上げるべきでしたが、
急に、非難・拒絶されることに対する恐怖心が強くなったのと、
嘘をついていたことの引け目から、かなり遅くなってしまいました。
 
嘘というのは、僕の性別のことです。
 
「yumi」というHNと、「私」という主語を使っていましたが、実は男です。
 
傷つくのが怖かったのと、自分の現状を認めたくないという思いから、
「yumi」という仮の人格を使ってしまいました。
 
あの時は、そうでもしないと、恥ずかしくて相談なんてできませんでした。
 
そのために、村松様の分析を狂わせてしまったかも知れません。
 
本当に申し訳ありませんでした。
 
 
村松様のお返事を読ませていただいてから、とても複雑な心境です。
 
予想もしない方向からの分析で、とても動揺しています。
 
 
一読して、胸から熱いものが込み上げてきて、泣いてみたり。
 
冷静に読み返してから、
自分と”人並み”との間に、とてつもない距離を感じて絶望感を抱いたり。
 
こんな分析は、一面の真理に過ぎず、
ちょっと本気になれば自分の問題なんてすぐに解決できると考えて、
意識から遠ざけようとしたり。
 
心中、とても忙しいです。
 
 
村松様の分析は、だいたいにおいて、
僕にすんなりと当てはまりましたし、納得もできました。
 
 
まず、僕の”対人恐怖症”について、
 
>対人恐怖は現れ、症状であって原因ではありません。
 
という部分は、確かにその通りだと思いました。
 
僕は中学2年くらいから対人関係に苦手意識を持つようになりましたが、
そのころは、今ほど人を恐れてはいなかったように思います。
 
むしろ、
中学のときは、対人恐怖より、不安症状の方が問題でした。
 
急に、
「自分は気が狂ってしまうのではないか」
と思って強い不安を感じることが時折ありました。
 
そのようなときは、授業中に調子が悪いといって教室から抜け出したり、
頭がおかしくなりそうだといって親に訴えたりしていました。
 
あと、一番ひどかった時には、気分が憂鬱になって、
ごはんが砂の味しかしなくて、喉に通らなかったことがあります。
 
本当に砂の味です。比喩ではありません。砂そのものです。
 
あの頃は、脳内麻薬に酔っていたんだと思います。
このままだと本気でどうにかなると思ってなんとか意識を切り替えました。
 
それから、高校の時は出席が滞りがちでした。
 
特に、体育が嫌で、保健室で寝ていたり、わざと遅刻して休んだりしてました。
 
高校3年の時は、
明らかに出席日数が足りていなかったと思うのですが、留年にはならなかったです。
 
 
それから、
意識と無意識の分裂も理解できます。
 
精神分析では、
たしか、カレン・ホーナイという人が、
神経症の原因は意識と無意識の葛藤にある、
みたいなことを言ってたように思いますし。
 
認知療法でも、
デビット・バーンズという人が、著書の中で、
「あなたの不安は、丸いねじを四角い穴に押し込もうとしていることを
 身体があなたに知らせていることなのかもしれません」と述べて、
意識と本心が食い違っていることが、不安の原因になりうることを指摘しています。
 
自分自身を振り返ってみても、
確かに、僕は、友達を作ることまで”人がみんなしているから”という理由で選んできました。
 
大学での友達も、本心では、一緒にいたいとは思っていませんでした。
 
誰かと一緒でないと、
ひとりぼっちのダメな人間になってしまうので、
そうなりたくない一心で友達を作ろうとしていたんだと思います。
 
進学したのも、大学で法律を学ぶことに決めたのも、そうです。
 
僕は、高校のときの進路決定では、全く悩みませんでした。
 
「数学が苦手だから文系」
「文系なら法律か経済」
「経済は数式が出るから法律。よしっ、決定」
「あとは学力相応の大学を選べばいいだけ」
 
いたって単純な話でした。
 
何か、暗黙の価値観に突き動かされていたことは事実だと思います。
 
 
しかし、”その人”が誰なのかはわかりませんでした。
 
時々、過去のことを掘り返しては、両親に対して、
憤りや、恨みに近い感情を抱くことはありますが、
どちらも強い言葉の人格には該当しないと思うのです。
 
母は、恐怖心がとても強い人で、
半同居状態の祖父母には全く意見できないほどです。
 
父は、朝早くから夜遅くまで仕事に行っていたので、
それほど影響はなかったと思います。
 
そもそも、僕の周りに、高学歴ですごく優秀な人なんていません。
 
それに、小学校で、2年近く不登校だった時も、
ちょっとした内戦状態はありましたが、
最終的には、自分の意思で学校に復帰しました。
 
親に引っ張られたりとか、そういったことはありませんでした。
 
まあ、”その人”を特定することはあまり重要なことではないかも知れません。
 
 
すみません、ここまで書いてきて、自分が何を言いたいのかわからなくなりました。
 
自分の無意識はメールを出したいとは思ってなくて、意識の方が書いているのかも知れません。
 
今、自分がとんでもなく愚かなことをしているように思えます。
 
 
本当に言いたかったのは、
「確かに、自分の中の支配的な要素が、本心を抑圧してる部分はあるけれども、
 一方で、単に臆病なだけで行動できていないという部分もあるのではないでしょうか」
ということです。
 
その場合、単に、ちょっと勇気を出すだけで問題は解決してしまうのではないでしょうか。
 
無理に頑張るのは、強引に失敗体験を重ねて、
事態をますます複雑化することになるかも知れませんが、
自分が今持っている力でも普通にできるように、
問題の捉え方を変えるということはできないでしょうか?
 
 
村松様がよく言われますように、
現在起きている現象というのは、数年前の結果が現れているのであって、すぐには変えられない。
 
変えられるとしたら、それは、数年後の未来だということはわかります。
 
(もし、そんなこと言ってなかったらすみません。僕の勘違いです)
 
しかし、僕は、大学も奨学金と、経済状態が苦しい人向けの授業料免除で、
通えたくらいで、実家は、控えめに言っても、あまり裕福ではありません。
 
なので、経済的に自立しながら、本質の部分を成長させる必要がありそうです。
 
それとも、僕が性別を誤魔化していたという事実に大きな意味があり、そのことで、分析自体も変わってくるのでしょうか?
 
 
実際、自分が道を踏み外しているような気がします。
 
時折、現実を思い出して、こうして焦る気持ちになるのですが、
普段は、自分でも驚くほどゆったりしています。何の問題も抱えていない人みたいです。
 
たぶん、問題から意識的に逃げているんだと思います。
 
さっき、経済状態が苦しいと書きましたが、実は、本心では、
「親がなんとかしてくれる」「自分はこのままでいい」と思っているのでしょう。
 
毎日、正午以降に目覚め、1日の大半をネットで過ごし、
社会に出ずにアフィリエイトとか投資とかで生計が立てれたらなあと夢想し、
たまに気が向いたら、認知療法の本を読んだり、思考の書き換えの練習をしています。
 
村松様のアドバイスに従って、外をぶらぶらしてみたりもしましたが、長くは続きません。
 
確かに、外をぶらぶらしたりするのは楽しいですが、
自分がどんどん堕落する方向に向かってしまうみたいで怖いです。
 
たぶん、3回生のときの就職活動時期に、
怖いことから逃げてしまったのがいけなかったのだと思います。
 
それに、両親が、せっかく僕のためにとお金を払ってくれた、
生協主催の「公務員講座」も、途中で止めてしまいました。
 
今では、頑張る気力も、意思すらもありません。
 
本心では、頑張りたくないとすら思っています。
 
自分に鞭を打つのも嫌です。逃げれるだけ逃げたいと思っています。
 
 
これは、意識と無意識の分裂なのでしょうか?
 
それとも僕のただの怠惰なのでしょうか?
 
また、ただの怠惰であった場合、どのような対策が有効でしょうか?
 
村松様のお考えをお聞かせ願いたいです。
 
 
論旨が何度も変わりましたが、最終的にお尋ねしたいのは、ここの部分でした。
 
 
言葉について、大切なお話をしている最中に、このようなメールを送ってすみませんでした。
 
今の流れがひと段落着いた後にでも、お返事が頂けるとうれしいです。
 
 ***

●以下、村松

お返事までだいぶ時間が経ってしまいましたね。

男性であったとは、すっかり騙されました。

女性に化けることで、どうしてより安全になると感じるのか興味深いです。

しかし、それよりも大切なことは、最初のメールより、2回目のメールのほうが正直に近づいているということでしょう。
つまり、一皮剥けた、ということができます。
「張りつめた感じの女の子」が一皮剥けて、「弱々しい男の子」に変わりましたね。

前提が違っていれば、分析が間違えるのは仕方ありません。
パズルでも、一つヒントが違っていたら、解けなくなるか間違った方向に誘導されてしまいます。
しかし、読者には感じるところがいろいろあったようなので、それはそれで有益でありました。
最初のやりとりは一皮剥けるための必要な儀式であった、として次の段階に進みましょう。

2通目のメールに感じることは、あなたがたいへんな恐怖を感じているということです。

一つは世の中に出ることに対する恐怖です。
以下の部分など悲痛な感じがします。

*

>今では、頑張る気力も、意思すらもありません。
 
本心では、頑張りたくないとすら思っています。
 
自分に鞭を打つのも嫌です。逃げれるだけ逃げたいと思っています。

*

どうあるべきだと要求されることはわかっている、という言葉が多いですね。
ここは心のことを扱うフィールドなので、世間とは違います。
どうあるべきだ、という要求はありません。

生き方を考えるには、一度、どうあるべきか、ということを全部取り除いて、自分がどうありたいかを感じてもらうことからしか始まりません。
しかし、どうあるべきだ、という観念は具体的な外からの要求ではなく、いつの間にか心の一部になってしまって分離できないことが多いのです。
外の凸を恐れているうちに心が凹になってしまうのです。

この比喩でいうと、心は○がいちばんいいのです。どこも凹んでいない、円満です。

私が要求がすることがあるとすると、なるべくあるがまま、素直、正直、ということがいいのです。

というわけで、上記は、こうあるべき、という言い訳を取り去ると

>頑張りたくない。
逃げだしたい。

と要約することができます。

その気持ちは私は否定しません。そこから考えていきましょう。

しかし、そうすると、その後の具合が変なのです。

*

>それとも僕のただの怠惰なのでしょうか?
 
また、ただの怠惰であった場合、どのような対策が有効でしょうか?
 
村松様のお考えをお聞かせ願いたいです。

*
私に怠惰であると結論づけることを暗に要求しているようです。

しかし、本人が

>頑張りたくない。
逃げだしたい。

と言っているのは、怠惰とは違うものだと思います。
怠惰は、ただだらしないだけで、逃げ出そうとは思いません。
逃げるのも面倒くさいから。
せっつかれて、働かないより働くほうが面倒がないと思えば働くのです。

したがってあなたのは怠惰ではありません。

それよりも、私はあなたのもう一つ恐怖を感じるのです。

それは自分の中に精神的な病気を認めることです。

あなたは最初のメールで、いちいち引用しませんが、数回に渡ってカウンセラーを否定しています。
体験によってイヤな思いをしたからではなく、一度もかかったことがないのに否定しています。
カウンセラーを否定することをバネにして私を持ち上げてくれています。

たしかに私は精神医療の専門家とは、出発点も立場も違います。
あまり、専門家にかかることを勧めていません。

この際、私の立場をはっきりさせておきます。
私はうつの大部分は「考え方」や「言葉」の構造を変えることで軽減するであろう、と考えています。
投薬についてはかなり否定的です。
しかし、大部分というのが、どのくらいの割合で、とか、どこからどこまでが可能か、などということは、ここで一般論では言えません。
だから、私としては、ほとんどが投薬という結論になる医療は勧めませんが、最終的な判断はご本人とご家族や親しい人でしていただくしかないのです。
医療や薬品に強く依存する人を否定することはできません。
私のブログを読んで、心が軽くなった、といってくださる方がいればそれでいいのです。

そういう私の姿勢を見て、専門家にかかりたくないあなたは、この人なら自分に都合のいい理屈を考えてくれるのではないか、と思ったのでしょう。
病気ではないけれども、急いで社会に出ていかなくてもいい、というようなことを私がいえば、いちばん都合がいいのでしょう。
あなたは性別を偽っていたし、そのように意識的にか無意識的にか私を利用していると感じました。
相談的な内容のメールには、比較的早めに対応していたのですが、今回はずいぶん時間がかかってしまいました。
どうも返事を書くことに気乗りしなかったのです。頭の中では返事の内容はほぼ固まっていましたが、私の内心が何か書くことにグズグズと抵抗していたのです。

さて、働くことができそうもない、イヤだ、というのは、わかります。わかるというのは、ある程度切実さも想像がつくし、心について考えるという私の立場からは否定しないということです。しかし、それと同時に専門家のカウンセリングを受けるのもイヤだ、ということになると、あなたはたいへん難しい立場に自分を置いていると思うのです。

つまり、椅子に座ることもできず立つこともできない中腰の姿勢のように、あなたはとても不自然な中途半端な姿勢で、ぶるぶると震えながらがんばろうとしているように思えます。
私に言えることはそれはよくない状態に見えるということです。

あなたは自らの症状を病理的に診断されることをたいへんに恐れていますが、その恐怖があなたのエネルギーを奪っています。
あなたはまずその恐怖から解放されなければ、何もできないでしょう。

上に書いた専門家に対する私の立場は「うつ」に限ります。統合失調症など、先天的な原因を持つ病気については、同様のことは言えません。
きちんと診断してもらったほうがいいでしょう。
まずなるべく信用できると思う人を探して、それでも信用できなければ、セカンド・オピニオン、サード・オピニオンを受けてもいいでしょう。しかし、それ以上は無用です。

私が言いたいことの中心は、医者に委ねよ、ということではなく、あなたの中の恐怖や不安を払拭したほうがいい、ということです。

数年前は私は、大病で入院して3度の手術を受けました。お医者嫌いな私としては、イヤでイヤで、なんとか逃げだしたいと思いましたが、どうにも逃げ切れませんでした。
それなりにたいへんな手術でしたが、命の危険があるという手術ではありません。
でも、私の不安や恐怖は大きなものでした。

そして、気づいたことは、不安や恐怖は実体と対応していない、ということです。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」というでしょう。
枯れススキが、幽霊に化けてしまいます。

不安・恐怖が手術そのものと別のものと分かっても、それだけで不安も恐怖も去りませんでしたが、耐えやすくなりました。不安・恐怖は私の頭の中、心の中だけにあるもので実体ではないと理解しただけで、軽減され、逃げ道ができたのです。
手術の実体の苦痛を1という単位としますと、不安・恐怖は5にも10にも増幅します。
そして、逃げ続ける限り追いかけてきます。

死の恐怖も同様です。死は人が誰でもが通過する一点です。
しかし、それに関する恐怖や不安は無限大に増幅されるでしょう。

実体と恐怖を分けること。これが大切です。

恐怖は苦痛そのものです。
実体と出会わないで逃げ回る限り、恐怖は増大していきます。

それが、もう逃げるのはやめたらどうですか、というのが私からの提案する理由です。
案ずるより産むが易し、という諺もあります。さらに
この言葉を調べたら面白い英訳がありました。
Fear is often worse than the danger itself. 
ここでは、Fear=恐怖という言葉が直接使われています。

さらにあなたが専門家の診断を受けた結果について書いておきます。

あなたが何らかの先天的な病気であると診断された場合。
あなたができることと、できないことの限界がはっきりします。
できることに怖じ気づく必要はなくなり、できないことに挑んで消耗することも必要なくなります。
また医療的な対策も講じられ、場合によっては公的な支援が受けられるでしょう。
また家族とその結果を共有することができます。
不安の中であれこれ迷うのではなく、具体的にどうするべきかの選択肢がはっきりします。

あなたが先天的な病気ではないと診断された場合。
あなたは大いなる不安から解消されます。
何年もの間、つきまとってきた恐怖から解放されます。
恐怖と不安で消耗・浪費していたエネルギーを建設的な方向に振り向けられます。

どちらにしても、すっきりとシンプルになれます。

私としては言えるのはここまでです。
あとは、自分で選択してください。

もし、診断を受けたらまたメールください。


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生村松はmuramatsukouheiです。
(綴りの違いに注意)

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ひろさんからのメール
 ドイツでお茶と居合を教えておられるひろさんからメールが来たので、ご紹介します。以前コメントをいただいた方です。


人の中には複数の時間が流れていて、自分自身でその流れをとめてしまうことがある、ということがよくわかるメールです。

とめてしまうのは、自分の意志でとめることもできます。

また何かに傷ついて防衛的になったまま、凍り付いてしまうこともあります。


しかし、時期がくれば、自分の意志でそれを解凍することができます。


解凍すると、それはさほど時間がかからずに自分の一部となります。

ドラゴンクエストをやったことがあるとわかりますが、パーティに一人新米が入っても、高いレベルで戦うので、すぐに同じレベルに追いつきます。

だいたいそういうことと理解すればいいでしょう(笑)。


すべて自分の意志です。

遅すぎることはありません。


私も中学のときに、絵を描くのを絵の教室の先生の心ない言葉でやめていました。

美術教育は、よい悪いの評価をしてはいけません。

評価というものは非常に主観的なものにならざるを得ないからです。

教え子のモチベーションを下げたら、何の意味もありません。


それで、今から10年くらい前から再び描き始めたのです。

うまくなる必要がないと思っているので気楽です。

うまい、というのは他人の基準、楽しいというのは自分の基準です。

楽しんで描いていると、うまくはなりませんが、何か自分の心と通じるようになります。

自分を表すこともできるし、自分を落ち着かせてくれたり、力をくれたりします。


もし、あなたの中で冷凍されたままの部分があったら、解凍してみてはいかがでしょうか。

それはあなたの力になります。


●ひろさんからのメール


村松様


コメントさせていただいた ひろ です。 (@マークが、やっと出ました)


ブログの、yumiさんからのメール を読んだ時、「私の中には、まだ思春期始まってない女の子が凍り付いているんだけどね」と思ってましたが、2月7日、11歳で書くの諦めた私だ、と気が付きました。日記帳の大学ノート破り捨てて泣きつくした後、「今世は、言葉以外のものに専心しよう。」と、立ち上がった自分を憶えています。今世って何?と自問した 自分も。


2月12日、泣きつずけていた子供が立ち上がりました、PCが立ち上がる様に。

きっかけは、45歳のドイツ人女性から「HARA」という本を見せられ、「ああ、その本、18年前、居合教えてたグループが日本語訳を見つけてプレゼントしてくれた。腹について、頭で書かれた本だからものすごく腹が立った。10年後もう一度読んで、頭人間の多いドイツ人に解り易く書かれた、いい本だ。ロングセラーになる のはもっともだ、と思った。」と返事すると、「この本の解説にも、頭で書かれた腹の本とありました。腹で書かれた腹についての本ってありますか?」と、質問された時、一瞬の間に、本一冊書けそうな思考と共に、「書く」と、一言。「えーっ、書くのかあ、一生ひっこんでると思ってたのにー」「ああ、始まってしまった、何 が終わったのだろう」などと思いつつ、「腹で受け止めてくれる読者って、子供だよね」などと、何が始まるのか、未だ見当つきませんが、45年間の病的な筆不精は、とにかく治るのかな?と、期待してます。(お喋り止めて、人の話に耳を傾け、日記書くのだろうか?)


コメント書いている間、とっくに抜け出した筈の禅騒動その他、スイスやドイツの弟子が、日本の居合競技大会に入賞すると、スポーツの方向に向いたので、日本の連盟から離れたり、麻薬中毒や持病持ちの人たちが、居合の練習のおかげで、薬の依存から離れると、医者や精神療法士が手の付けられない、変な人達が寄り集まって 、健全な人が近寄らないグループが出来たり、不快な毎日で苦しんでいた昔のドロドロが、溶けてもいってました。


ドロドロがある程度とけると、2000年6月に皆に言った事、思い出しました。

「武道の基本は、自分の中と外、同時に見ながら動くことだけど、こちらの人達は重心が高すぎて、外か内側か、どちらか一方しか見れない。外の方にしか目のない人には興味ない。私は、これから10年、自分の為に練習する人だけを相手にする。」と、段審査、級審査権を放棄し、習いに来る人に何の紙切れも渡さなくなりまし た。「猫を追うより皿を引け」のことわざを引用して。

もうすぐ、約束の10年です。習っていた人達は、前進しつずけ、教えている私自身は、立ち止まって、「もう、あんな人達、二度と、一緒に練習したくない」と、去って行った人達を裁いていたのです。彼らに、彼らなりの活路をみつけてあげ、感謝されながら、自分の方は、恨みにも似た不快感が残っていたのだから、気が付け て、本当に良かったです。


以上の三点、コメント書かせていただいたおかげです。ありがとうございました。


言葉以前のもの、思考以前のものについては、20年前ドイツとスイスで、居合とお茶を始めた頃を、懐かしく思い出しています。


1990年、居合道の全国大会のため、宿泊した禅寺の日めくりカレンダーに、「善に執われるのは善魔、悪魔より怖い」とあったのが、心に止まり、日本を離れる私への、餞別の言葉として、残りました。


善悪も正邪も関係ない!では話通じないヨーロッパですが、マイペースで生きてこれたこと、今、つくずくありがたくおもっています。


前向きになれました。

<心が大事>で、自分を取り戻せる人達が、一人でも多く増えること、願っています。 これからの展開、楽しみに、応援させていただきます。


ドイツより


●村松の返事


村松です。


お返事遅くなりました。


遠くドイツの方とこのように気軽に交歓できるのは、たいへん面白い時代です。



僕は55ですからほぼ同年代ですね。

失礼ながら、居合という言葉で男性であろうという先入観を持っていました。


異国での生活には、いろいろたいへんな体験があったことだろうと想像します。

でも、人との触れあいの中で、日本文化の本質を伝えて、ご自覚以上に大きな影響を与えているのではないでしょうか。


過去のわだかまりが、僕のブログでほどけた部分があるとすると、著者としては大きな喜びです。


腹で書く腹の本、たいへん面白そうです。

子どもが対象ということは、絵本みたいなものになるかもしれませんね。


またこのメールをブログで紹介させていただきます。

差し支えがあれば、ご一報ください。


では、今後ともご愛読よろしくお願いします。


●ひろさんからの第二信


村松様


お返事ありがとうございます。


私は、1954年 1月生まれです。


今まで、「私の精神は、10歳から12歳のあたりで、成長が止まっている」と、知人に言って、「ピーターパンみたい」と、言われてましたが、子供っぽい態度する訳でもなく、童心を失っていない程度のものでした。


一年ほど前、「ぼちぼち、大人になることにする。」と、周りの人達に言い始めていたのですが、具体的にどうすればよいのか、とにかく、自分の中の、未発達の子供たち、見守って育ててあげようかな、程度のものでした。


11歳の子供が、いきなり、50代のおばさんになったのには(というより、私の体全体になった)たまげましたが、泣くのを止めて、今とても安らいだ気分でいられるのは、幸せなことです。体もしっかりしました。


書くのを諦めた私に続いて、描くのを諦めた私も、立ち上がりました。

24歳の時、一人暮らしの私には、お茶との両立は、経済的にも、時間的にも無理、と、習っていた油絵を、やめたのでした。


16歳の時、「一生に最低一冊、絵本をかく、子供向けだけど、本当は、その隣で読んでいる母親が、子供の心の成長を妨げないような、みえない効果のある本を。」と、決めたけれど、一向にはじまりそうにないねーーと、何年も思っていたことでした。 多分、絵本ですね。


これから10年計画で、気長に見守ることにします。


10年前、居合のグループの方針として、「例をあげるなら、マクドナルドより、おばあちゃん秘伝の郷土料理のレストラン」「24時間営業の、どの町にもある、何でもござれのコンビニエンスストアではなく、遠くから足を運んで貰える、開店時間限定、数量限定の、老舗のような仕事をした い。」と言って、無理だ!食べていけないぞ、と言われてましたが、こうでなくては、生き延びること、できなかっただろうな、と思える今の現状があります。


人間って、面白いですね。


できるだけ多くの人が、オリジナリティを発揮して欲しい。それだけを言い続けています。


なにもかも、これで良かったんだ、と思えるので、私は癒されたのですね。ショボショボしてた、ついこの前までの自分が嘘みたいです。

本当に、ありがとうございました。


お話したいことは、山ほどあるし、質問もありますが、ブログでの紹介、OKです。 心理学とか、勉強してないので、今の自分と、過去の自分の状態、具体的にわかりません。(私は、禅坊主に憑依されてたのだろうか?とか・・)


今後の展開、たのしみにしています。




**


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ムービーの再生、その後

先日来た読者からのメールを紹介します。

これは


ムービーを止めろ!

http://kokorogadaiji.jugem.jp/?eid=83


の続きです。

これは去年の9月のエントリーです。

約5か月間が開いています。


言葉の時点で頭には入っても、それをいわば身体化するのには時間がかかります。

自分を縛っている見えない細い糸がぷつぷつと切れて行く感じです。


少しずつ楽になっていっているのですが、自分の変化にはなかなか気づきません。

そして、あるときはっと大きく変わっていることに気づくのです。


そういう変化が本物です。


やりとりの回数ではなく、それを消化する時間を私は重視しています。


対人恐怖症のyumiさんとのやりとりがきっかけになっていますが、じつはこのyumiさんの件にはじつに意外な展開がありました。

しかし、それは少し先の話に回すことにします。


いつまでも解消されない悩みや、心身的な症状があるときには、それはたった一つできごとではなくて、しこりのようなものが折り重なった層になっているということをこのメールから読み取ってください。

そういう堆積した地層を自分で薄皮を剥がすように剥がして行くしかないのです。

堆積させてしまったものも、自分自身です。


誰でも心に弱さはあります。

しかし、私の観察するところ、こういう堆積を生み出すものは、弱さそのものではなくて、弱さを認めまいとする心、弱さを過剰に守ろうとする心、弱さを隠そうとする心なのです。

一つ嘘をつくと嘘に嘘を重ねなければいけなくなるように、一つそういう過剰防衛的なアクションを起こしてしまうと、意地でもそのラインを守らないと、最初から弱さを認めるより恐ろしいことが起きそうな気がするのです。


素直ということは、世の中で思われているよりもずっと値打ちがあります。

水泳で力を抜けば浮くように、弱さも弱さとして受け入れてしまえば、何かが助けてくれます。


何か、というのは、神様であったり、周囲の人であったり、自分自身の深い力であったりします。

でも、自分自身が恐れて、いらない力みがあると、力はうまく流れ込んできません。


恐れを克服するのはむつかしいことです。

しかし、方向性を見失わず、時間がかかるということを知って、焦ったり投げだしたりしなければ変わっていきます。


一枚剥がせば、次の層はより容易に剥がすことができるでしょう。

このメールはそういうプロセスにあるものです。



***


こんにちは。


以前、ブログに書かれてた「ムービーを止めろ!」について、時間経過とともに気がついたことがありましたので、再度ご報告します。


対人恐怖症のyumiさんのメールに対する村松さんのお返事が、わたしの個人的な経験にも当てはまる部分があり、そこに触れられたことで一気に加速して気がつきました。


村松さんのお返事のどの部分かといいますと、


>yumiさんは、幼い頃からつねにその人から正しい結論を先回りして与えられていたのでしょう。

それも暗黙のうちに結論を強制されるのです。

それが焼き付いてしまって、その人からされたことをコピーしてしまった。

そして、yumiさんの意識、言葉の体系が、自分自身の無意識に対して、同じようにするようになってしまったのです。



>yumiさんの中のその人は「そうするのが当然だ」という形で結論を言うのです。

冷静な論理のつらなりの中に、こういう無言の前提の圧力がうまくはめ込んであるので、反発しづらいのです。

その人はたぶん、高学歴、高収入で、決断力、判断力、実務処理能力に富んでいます。

反面、弱いもの、劣ったものに対する関心や同情心は希薄です。


というところです。


わたしはいます。こんな人が。


そして、わたしが仕事中によく頭の中で何度も繰り返す言葉は、この人の言葉です。


かつて言われた、もしくは言いそうな言葉。


「他の人はちゃんとできるのになんでできないの。


そんなこともちゃんとできないなんて。○○お姉ちゃんはちゃんとできるのに。


上手くやるやり方すらわからないの?」


こんな言葉がインプットされて、仕事場で一緒に働く人の顔をみると自動的にこの言葉が再生されていくのが、この前、スローモーションのように見えました。


そのときに、いままで怯えていたのは、わたしが自動的に再生しているムービーなんだ。目の前の人が、不満そうな顔をしてたら、即それはわたしが至らなかったからだと思うクセがついてたけど、それはちがうかもしれない。

むしろ自分の行為を罰するために他人の言動を利用してきたみたい。いままでこうやって、自分で自分を傷つけてきたのだな。

でも、もういいかげんいやになったから、止めよう。



そう気がついて、一週間経ちましたが、すごく楽なんです。


たぶんそれは、他人の反応をみて、わたしのここが至らないからこうなるのだ。こうしなきゃ。という無駄な努力がないからだと思うのですが、いままでより格段に楽です。まさに、軽いのです。



依然として、人は怖いですけども、わたしが勝手に怖がってるんだと、それがよくわかったので、それだけでも全然ちがうのです。



まとまりがなくて、すみませんが、ムービーがムービーであることの認識がよりはっきりしたことで、気持ちにかなりの変化があったことをお伝えしたくて、メールしました。



ではでは、ブログの更新を楽しみにしています。


(メール了)


**


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yumiさんからのメール(後編)
 


■村松から yumiさんへのお返事■


yumiさん、メールをありがとうございます。

非常に冷静で明晰な文章で、たいへん多くのことがわかりました。


私はコメントにも書きましたように、対人恐怖症についてのケーススタディをほとんど持ちません。

したがって、yumiさん場合が世に言われる対人恐怖症という症例にあてはまるかどうかも判断できません。

また病名をつけるということは、事態を限定し固定して、自由なアプローチを妨げることにもなります。

だから、いったんこの対人恐怖症という言葉の枠を外して、yumiさんのケースだけをお話させていただきます。


そうすることによって、いわば、yumiさんを客観的な分析の俎上に乗せてしまう部分があるのですが、それはこのブログでの相談という性質上、また匿名でのやりとりであるという点で理解していただきたいと思います。

私が書くことは、yumiさんの表層的な意識が、今現在望んでいる答とはかなり違うかもしれません。

私はこのように書くのがいいと判断するのです。

意のあるところを汲んでいただければと思います。

これから書くことをもし理解納得していただけるようであれば、すぐにyumiさんの中で顕著な変化が始まると思います。



**


yumiさんの場合は、私が観察するところの一つのケースに典型的にあてはまります。

名付けるならば「凍った時間」のケースです。


一人の人の中に複数の時間が流れているということが想像できますか?


その中の一つの時間が、ある時点で凍り付いてしまっているのです。


yumiさんの場合は、単純に二つの時間です。二人の人物がいます。


一人は冷静で支配的な母親。

一人は涙を溜めて立ちすくんでいる少女です。


少女は立ちすくみ、母親に泣いて訴えたいのに、母親は早足で少女を置いて歩き去ってしまいます。

母親は決して振り返りませんし、立ち止まりません。

少女は涙を止めて追いかけなくてはいけません。


そういう二人がyumiさんの中にいます。




**


これはいわゆる二重人格ではありません。

二重人格は、どちらも顕在的な意識に現れてきますが、yumiさんの場合は役割が決まっています。


意識がつねに母親であり、無意識がつねに娘です。


意識は言葉という光の当たる部分、無意識は言葉の光の当たらない部分である、という私の意識・無意識の定義があります。

(すでに書いたでしょうかね?)


娘は幼すぎて、自分の気持ちを表現する言葉を持ちません。

母はつねに冷静で正しい判断をしているという自信を持っているので、反論や口出しの余地を与えません。

結論だけを口にします。

したがって、娘は言葉を発することができないまま、母に従うしかないのです。


yumiさんの言葉は、完全にこの母親をコピーしています。


コピーというのは、実際にyumiさんのお母さんがこのような性格であると想像されるからです。

あるいはご両親がこのような性格をわかちもっているのかもしれません。

心のことを考えるのは別に当て物ではありません。

だから、お母さんかどうかはわかりませんが、そういう冷静で支配的な母親の要素というのは、自然に発達するものではありません。

誰か強い影響力を持った人のコピーと考えるのが妥当です。

ここでは、その強い影響力を持った人を「その人」と呼びましょう。


yumiさんは、幼い頃からつねにその人から正しい結論を先回りして与えられていたのでしょう。

それも暗黙のうちに結論を強制されるのです。

それが焼き付いてしまって、その人からされたことをコピーしてしまった。

そして、yumiさんの意識、言葉の体系が、自分自身の無意識に対して、同じようにするようになってしまったのです。

いわば強い性格がプリントされてしまって、それが意識で機能し、支配しているのです。


yumiさんの本心は、ある時点で強い言葉の人格に押さえ込まれてしまったのです。

具体的に見て行きましょう。


>小学校で、2年間近くの不登校を経験し、


この時期です。

本当はこの時期に、泣いて甘えたり、反抗したりしたかったはずなのです。

しかし、どちらの隙も与えてもらえなかった。

だから、無言のまま、不登校という形で表現したのです。


そして、学校に復帰するときには、「その人」に同化するという形でとりあえずの解決に近い形をとったのでしょう。


そこからyumiさんの本心は発達することをやめてしまって、そのときの時間に留まっているのです。

だから、思春期を脱するどころではないのです。

こう書いていますね。



>私は、現在大学4回生ですが、

22歳にして思春期すら脱しておりません。

 

自分の人生を、自分で決断するという精神が希薄で、

アルバイトもせずに、親の仕送りだけでのうのうと生きています。

 

就職活動すらしていません。



この文から多くのことが読み取れます。


>自分の人生を、自分で決断するという精神が希薄で、


これはつねに親から結論を与えられてきたからです。

その人は、自分で決断するチャンスを与えずに、「ぐずぐずしている」とyumiさんをジャッジしてきたのです。


そして、この文章全体がずいぶんyumiさんを突き放しています。


>22歳にして思春期すら脱しておりません。

>自分で決断するという精神が希薄で、

>アルバイトもせずに、親の仕送りだけでのうのうと

>就職活動すらしていません。


この口調のはしばしにある軽侮は、母親が娘のことを母親仲間に謙遜卑下していうときのものです。


そして、さらに22歳になったらアルバイトくらいはするものだ、という断定を含んでいます。

しかし、大学卒業までアルバイトをしない学生はいくらでもいます。

まして、対人恐怖があるのならやむをえないことです。


yumiさんの中のその人は「そうするのが当然だ」という形で結論を言うのです。

冷静な論理のつらなりの中に、こういう無言の前提の圧力がうまくはめ込んであるので、反発しづらいのです。

その人はたぶん、高学歴、高収入で、決断力、判断力、実務処理能力に富んでいます。

反面、弱いもの、劣ったものに対する関心や同情心は希薄です。


それがyumiさんにもコピーされています。たとえば、


>1度目は塾の講師。

 

マイナー過ぎる個人塾です。



この文章は目立ちます。

マイナーな個人塾はいいですけれども、どうしてマイナー「過ぎる」のでしょうか。

これは自分に対する謙遜だけではない要素を含んでいます。

塾は大きいほうがいいものだ、という前提があきらかに暗黙の価値観としてあります。


だから、意識のyumiさんは、その塾をやや低く見積もっているのです。

ところが、実際にはインターホンをならせないほど緊張してしまいます。


ここで、はっきりと二人の人物がいることがわかるでしょう?


意識ではさほど高く評価していないにも関わらず、もう一人のyumiさんはあがってしまう原因。


それは、無意識の内側のyumiさんは、まだ凍ったままの時間にいるからです。


>悪戯をして、これから怒られる子供?


G・I・グルジェフという人は、人を人格と本質とに分けて考えました。

その分類でいくと、yumiさんは、人格は大人なのですが、本質が柔らかい子どものままなのです。


もう一カ所だけ文章からみましょうか。



>まあ、こんなところです。

 

2度目は、、、、

3度目は、、、、

などと繰り返しても、

退屈なだけでしょう、後は推して知るべしです。



ここでまた、娘を謙遜卑下するお母さんの人格が出てきました。

すごく苦しくて恥ずかしい辛い体験だったと思うのに、他人事のようにクールです。


多くの人は、一度ダメだったら、辛くて二度とはチャレンジしないものです。

それを意識のyumiさんは、自分を駆り立てて三度もチャレンジしています。

無意識がいやだ、辛いと言っていることと完全に分裂しているのです。


これは、嫌がる子どもに無理にお稽古ごとをさせる親と同じです。

手を引っ張り、背中を押して駆り立てても、ますます嫌いに苦手になるだけです。


強引に失敗体験を積み重ねると、ますます事態は複雑になります。

そういう解決法はダメです。


そもそも知らない場所で物怖じするというのは誰にでもあることです。

私もこう見えても(どう見えるか知りませんが)たいへん内気で小心です。

立派なホテルのロビーなどに行くと、ちょっと緊張したりします。

慣れない場だと、カップを持つ手が震えたりとか、誰でもあるのではないでしょうか。

ただ年を取って、いろいろ経験を積むと、少しだけ様子がわかって普通に振る舞えるようになってきます。


場慣れ、ということを少しずつしていくことが大切ですよね。


しかし、yumiさんは場慣れをす前に、アルバイトの面接といういきなり高いハードルに挑んでしまいました。

これは、相手に自分の価値を認めさせて、お金を払ってもらうという場ですから、いちばん緊張レベルが高いのですよ。


それでダメだった、という体験を重ねると、それがインデックスに入ってしまいます。そのインデックスは、何かのときに、あのときもダメだったから、今回もダメなのじゃないか、そもそも自分という人間はダメなのではないか、といつも簡単にひっぱり出されることになるのです。


そうなると、何が起きるかといいますと、話すべき相手と対面しているのに、自分の内側ばかり見ていることになるのです。

アルバイト先にいったら、仕事場はきっちり整頓されているか、人間関係はどうか、働きやすそうか、自分の能力をうまく活かせそうか、細かい条件は折り合うのか、いろいろな情報がいっぺんに入ってきます。そういったことを肌で感じながら話すのです。


ところが、そういうことが苦手な人は、自分ではダメではないのか、嫌われたり、見透かされたりしないか、そういう心配ばかりに心理的なエネルギーが流れる癖がついてしまっています。

外に向かうべきエネルギーが全部、自意識に向かってしまいます。自分は変に見えるのではないか、ということばかり気にしていたら、やはり変に見えてしまうのです。

そういう様子が相手にも見えてしまうので、悪循環になるのです。


いわば、そういう癖が絡まって塊になってしまったのが対人恐怖なのでしょう。

この結び目をゆっくりほどいてやらないといけません。

焦ってぎゅうぎゅう引っ張るとますます強い結び目ができてしまいます。

対人恐怖は現れ、症状であって原因ではありません。


対人恐怖そのものを相手にするのではなく、上に書いた母と娘の分裂を見つめることで解決が見えます。


*


じつは解決の道筋はたった一つしかありません。

凍り付いた時間を解凍して、少女のほうのyumiさんを大人にしてあげることです。


そのためには、まず意識のほうのyumiさんはさんには、しばらく黙って見守っていてもらわなければいけません。

本心のyumiさんが自分で行動して、小さな成功体験を積み重ねなければいけません。


>自分で決断するという精神が希薄で


と書いていますが、本心が自分で決断するまで、じっと待たなくてはいけません。

じりじりと焦って口を出したり、遅いとか、それはダメ、意味がない、とか評価してはいけません。

それから、自分のしたいことをしなければいけません。

世間並みのことをしようと思ってはいけません。

人と自分を比べてはいけません。


こういう禁止は意識のほうのyumiさんに言っています。

今までは、「人がみんなしているから」という理由で行動を選んできたはずです。

友だちを作るのまで「人がしているから」では楽しくもなんともないでしょう?

そもそも会っても楽しくなければ、それは「知り合い」であって「友だち」ではありません。

そういう行動はますますギャップを深めます。

「友だちを作る」ことではなく、「友だちと愉快な時間を過ごす」、「友だちを好きになる、うちとける」というミッションに変えてみてください。それがしたいのかどうか、心によく聞いてみてください。

ほしくないうちは友だちなんか作らなくていいです。

一人で行動してください。


前に書いたかもしれませんが、一人でも家には籠ってできることで完結するのはダメです。

ネットは人に会わなくても済むようにするシステムなので、解決を促しません。

むしろ、自己完結してしまう回路を作り出します。


小さい用事でもいいから外に出ることです。

映画やお芝居を見に行くとか、散歩する、山に登る、絵や音楽を楽しむ。

それから習い事はいちばんいいです。

陶芸など私もやっていますが、基本は土と自分の対話ですからね。


子どもの頃、得意だったこと、したくても親に認めてもらえなかった習い事があればそれをするのがいちばんいいです。


世間並みのことをするのではなく、自分のしたいことをしなさい、と言われてもすぐに何も出て来ない人は多いのです。

そんなことは考えたこともなかった、という人がけっこういます。

そういう人は宙を見つめてぼかんとしてしまいます。

機能が発達しないまま止まってしまっているのです。


今の世の中は、学校に行く、進学する、テレビを見る、ゲームをする、マンガを読む、DVDを見る、ネットを見る、となんとなく要求されていることや、みんながしていること、流行っていることで時間を埋めていけば、簡単に埋まってしまって時間が足りないくらいになります。


それを全く空白にしてしまって、自分は何がしたいのだろう? と一回も考えることなく成人してしまう人が多いのです。


私の時代には、「退屈」という言葉がもっと若者の間で頻繁に使われました。

時間はあるけれども、お金はさほどない。何をしていいのかわからない、何か面白いことないかな、といつも飢えていたのです。

若者はそのような時間の空白を持て余していました。


しかし、今の時代はその空白を黙っていても何かが消化しきれないくらいの情報量で埋めてくれます。


だから、改めて自分が何をしたいのだろうと考えると、初めてぽっかりとした空白と出会う人が多いのです。


だから、すぐにしたいことが出て来なくても、急いてはいけません。

とにかく小さなことを思いついたらやってみる、ことです。

少女は最初は聞き取れないほど、か細い声で何かいいます。

いつも聞いてもらえないので、声を出せません。

yumiさんの中のその人も聞くのに慣れていません。

だから、じっと耳を傾けなければ聞こえないでしょう。


曖昧に聞こえる小さな声でも、それを実現してあげることです。

小さな実現があれば、次はもう少ししっかりした声が聞こえるようになります。


 RPGというゲームをしたことがあればわかりますが、最初は小さな経験値でどんどんレベルが上がります。

yumiさんは、すでに大人の意識と二人連れのパーティなので、自分に与えるミッションを間違えなければ(つまり、やりたくないことをすること、それからその時点でハードルが高すぎることをすることです)、すごい勢いで少女の部分が成長します。


半年くらいの間に顕著な変化が現れるでしょう。


これはじつは、とても単純な力学です。


*


しかし、心の中でもう一つの同時に別のできごとが起きます。


「解凍」が進むに連れて、凍っていたさまざまな感情が蘇ってくるのです。


流すことができずに溜めこんでいた涙や、押さえ込んでいた怒りの炎、言おうとして言えなかった言葉、そういうものが湧き上がってきます。

あるいは、支配していたその人への反抗心、これもはっきり形に現れます。

こういう凍った感情は、何十年経っても消えません。ただ凍り付いているのです。


解凍された感情がでてくるのは悪いことではありません。

それが解けてでてくれば、正しいプロセスを進んでいると言えます。

ただ、そこに過去の思い出したくないような事柄がいろいろからんでいて、傷が癒えるには時間がかかります。

私はそれを「小骨が突き刺さっている」、と呼んでいます。

精神が生き生きとした力を持ち始めれば、相対的に小骨の影響力は小さくなります。

それは正しい方向に進んでいけば時間の問題です。


決して焦ってはいけません。


これにさらに現実のプロセスという三番目の要素が絡んできます。

家族との関係と経済的な要素です。

なるべく余裕を取って、第三の要素が他のブロセスを妨害しないようにしないといけません。


yumiさんの場合は、経済的な自立を決して急がないことです。


短くて2年、できれば3年、あるいはもっと長く親にぶら下がるつもりのほうがいいです。

焦ると、結局、失敗と自己否定のループを強化してしまいます。


その間、語学の勉強をするなり、茶道や華道、料理の修行をして花嫁修業のふりするなり、親が納得し、人に言いやすいような形を作ってあげるほうがうまくいくでしょう。


実生活でこれ以上の干渉を避けつつ、解凍作業に必要な時間と空間を手に入れなければなりません。


解凍のプロセスは単純ですが、それにまつわるさまざまなことは、ほどけていくのにそれなりの時間がかかるのはやむを得ないことです。


一通のメールから私が申し上げられるのは、以上のことです。


具体的な事柄については、可能であれば、一度セッションに来られるといいと思います。


この記事はコメント不可としますので、感想や疑問などあれば、メールで受けつけます。



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yumiさんからのメール(前編)

1月6日付けの記事で対人恐怖症のことでコメントをいただいたyumiさんから、メールをいただいていました。

遅くなりましたが、そのお返事を書きました。


心のあり方について、一つの新しい概念を書いています。


読者の方はメールを読んで、自分ならどう答えるだろうと立ち止まって考えてみてください。心について深く考えるきっかけになるだろうと思います。


かなりの長文ですが、相談的な内容ですので、一気に載せます。

(と思ったら、長過ぎて載らないようなので、前編と後編にわけます)


■yumiさんからのメール■


村松様、はじめまして。

 

「心が大事」に、

対人恐怖症に関しての見解をお聞かせ願いたいとコメントさせて頂いた者です。

 

この度は、リクエストに答えてくださり、ありがとうございました。

 

私のことは、ここでは仮に、yumiと名乗らせてください。

  

 

リクエストしておけば、

いつか対人恐怖症に関する話題も取り上げてもらえるだろうという心持ちでしたので、

まさか、直接メールを差し上げることになるとは思ってもみませんでした。

 

正直、コメントを頂いたときには、覚悟ができていなかったので、混乱していました。

自分のことを書くのは恥ずかしいですし。そう、恥ずかしいのです。

かといって、今更、引っ込みもつきません。

 

旅の恥はかき捨てとも言いますし、

私の“対人恐怖症“のリハビリにもなるかと思い、

こうして、メールを送らせてもらっている次第です。

 


 

私は、現在大学4回生ですが、

22歳にして思春期すら脱しておりません。

 

自分の人生を、自分で決断するという精神が希薄で、

アルバイトもせずに、親の仕送りだけでのうのうと生きています。

 

就職活動すらしていません。

 

小学校で、2年間近くの不登校を経験し、

中学校、高等学校と、少しも馴染めなかったことから、

自分の潜在的な問題には気づいてはいましたが、

今まで本気で人生と向き合わなくても、

なんとか誤魔化せていけたので、ずっと目を背け続けてきました。

 

 

私の”対人恐怖症“ですが、

ちゃんと診断をしてもらったわけではありません。

 

ですが、気の利いたカウンセラーなら、社会不安障害とか、

回避性パーソナリティ障害などと言ってくれると思います。

 

カウンセラーのブログや、対人恐怖症の本などを読む限り、

こういった用語は、どなたも割と適当に使っておられるようなので。

 

要するに、

他人の評価にさらされる場面に身を置かれることを極度に恐れる(≒社会不安障害)

重症になるとそういった場面を徹底的に避けるようになる(≒回避性パーソナリティ障害)

ということのようです。

 

 

私の場合、今現在、

回避が進行しているようです。

 

 

大学1回生の頃は、

『大学で人生を変えてやる!!』

くらいの意気込みでしたから、

そりゃ、無理してでも友達を作りました。

 

そりゃあ、もう、片方の手だけでは数えられないくらいです^^;

 

さすがに、自分からアプローチするというのは、

ハードルが高すぎでしたが、友達は本気で作ろうと思っていれば、

自然にできるものだと知りました。

 

引き攣った顔で、

どこの国の物とも知れない言語をたくさんしゃべりました。

(自分が年上のお兄ちゃんに話しかけている小学生みたいで本当に情けなくなりました)

 

誘われて、社会科学を研究するとかいう、

怪しげなサークルにも入会しました。

 

友達の趣味に付き合って、

萌えグッズとか、沢山販売されている店にもいきました。

 

正直、あまり、気乗りはしませんでしたが、

友達に付き合って、大学教員に、弁護士になる方法とか、聞きに行ったりもしました。

 

どうして、この人は、

大学教員に対して、こうも臆せず物を尋ねられるのだろうと、心から、尊敬したものです。

 

 

みんないい人だったと思います。

 

しかし、関係が長引いていくにつれ、だんだんと、

自分ひとりが“対人恐怖症”であるという事実に引け目を感じ始め、

意識的にか、無意識的にか、徐々に距離を置き始めるようになりました。

 

同時に、

「私は対人恐怖症なんだから、社会不適合者なんだから、

人とまともに付き合うことなんてできないんだ。」

「みんなも、どこか私のことを馬鹿にしているに違いない。」

などと、思い込むようになり始めました。

 

 

ここからは、悪循環です。

 

人との関係を長期にわたって遠ざけていると、

徐々に、自分の社会不適合感が強化されていき、

その裏返しとして、なにやら、プライドっぽい物まで芽生えてきます。

 

もう、アルバイトも何もできません。

(アルバイトなんて、元からしていませんでしたが)

 

 

『これでは、あまりにダメ過ぎるだろう!!』

 

デールカーネギーの名著「道は開ける」でしたでしょうか?

それとも、中村天風の「成功の実現」でしたでしょうか?

あるいは、新興宗教の経典だったかもしれません。

 

まあ、何かの名言に刺激されたのでしょう。

 

突如、そう思い立ったのが、

大学4回生になったばかりのことで、

たった3度ですが、アルバイトに挑戦しました。

 

 

1度目は塾の講師。

 

マイナー過ぎる個人塾です。大学の求人システムから探しました。

 

中学、高校の時に、個人塾に通っていて、

とてもいい思い出がありましたから。

 

(先生が、とても、生き生きした魅力的な方でした。

 塾講師としては、ある意味破綻していたかもしれませんが、

 成績とか、進路とか、あんまり深刻に考えていない人でした。

 学校では、馬鹿と、お利口さんでは、露骨に序列がつくので、

 ある意味、癒しの空間になっていたと思います)

 

まあ、とにかく、これから頑張るぞ!

ということで、アパートの一室に向かうのですが、

自宅アパートを出るだけでもガクブルです。

 

いえ、普通に外出するのは何ともないのですが、

何分、壮大なチャレンジへの前途ですので、武者震いでもしていたのでしょう。

 

まあ、目的地に着くころには心臓がバクバクになっていましたよ。

 

インターホン、鳴らせませんでしたからね。最後まで。

 

結局、塾生と思しき女の子が代わりに押してくれました。

 

 

面接では、自分があたかも、

これから裁かれる罪人であるかのように感じました、、、、。

 

すみません、ちょと、美化しました。

 

より、正確には、

悪戯をして、これから怒られる子供?

 

自分の感覚にしっくりくるような形で、言語化できません。

 

とにかく、

「怒られる」「非難される」「相手は気分を害している」

という思考が自分の中に渦巻いて統制が取れなくなるのです。

 

もう、こうなったら、

自分のことしか考えていない状態です。

 

相手とコミュニケーションなんて、成立しようがありません。

 

 

塾長さんは、大人の気配りとして、私にこう言ってくれました。

「人手が足りなくなったら、お手伝いをお願いします」

「その時は、こちらからお電話します」

 

残念だという気持ちはほとんど感じませんでした。

ただ、やっと苦しみから解放されたと思うだけでした。

 

 

まあ、こんなところです。

 

2度目は、、、、

3度目は、、、、

などと繰り返しても、

退屈なだけでしょう、後は推して知るべしです。

 

 

そして、今に至ります。

 

回避性パーソナリティ障害です。逃げです。

 

気づくと、アルバイト情報や、就職情報など、少しも収集しておりません。

(元々、ですが)

 

机の上を見ていても、

「マーケットの魔術師」「松下誠の投資DVD12枚セット」

そんな本が置いてある始末です。

 

ネットサーフィンをしていても、

アフィリエイトなどの情報を割りと精力的に集めていたりします。

 

アニメに没頭して時を忘れていることも多いです。

 

あるいは単に、ダラダラしていることもあります。

 

 

だいたい、

以上のようなことが、

私の抱えている“対人恐怖症”にみられる具体的な現象です。

 

 

書いていて、少し、ストレス発散しました。

実際、こんなことをストレートに言えそうな相手というのはとても少ないのです。

自称カウンセラーにこんな話をして何になるというのでしょうか?

おそらく、独り言を呟く以上に無益なことだと思います。

書いている途中で、絶対に、虚しくなって、止めると思います。

 

最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。



(お返事は後編につづく)

読者から / - / trackbacks(0)
モノと念
執着や欲望の話はなかなか難しく、書きあぐねています。
今回は、ちょっと中休みで久しぶりにいただいたメールを紹介します。

***
村松様

お久しぶりです。
以前、「認知の歪み」を取り上げていただいた**です。
かなりの時間を割いていただいてありがとうございました。

その後もブログは欠かさず拝見していますが、自分で宣言した内容(ブログを印刷して10回以上読む&『神様学』を手に入れる)がなかなか実行できなくてこんなに時間が経ってしまいました。

このへんで勝手に中間報告させていただきます。

やっと、『ほとんどすべての人のための《神様学》入門』を、ネットで申し込み→入金→ダウンロード→印刷、の作業が終わりました。
これから読むぞ!という所です。

”心理学は読まない話 認知の歪み1〜8”のほうも、印刷して、マーカーでラインを引いたりしながら今で3回読みました。

こうして縦書きに並べ替えて見開きにすると、すでに1冊のテキストですね。
ブログなのにすごいクオリティー…といまさら感動しています。

全体を通して読んで、最初にハッとしたのが「心は嘘をつく」という事でした。
私は、それまで、嘘といえば他人に対してつくもので、自分の心の中では嘘などつけないものだと思い込んでいました。

でも、そういえば、例えば、建前の意見を言っているうちに、いつの間にかそれが自分の本音だと思い込んでいる事がありますね。初めだけチラッと「これは私の本音ではない」と頭をよぎるのですが、一瞬で消えていきます。心がすばやく偽装工作をしているのでしょうか。

また、2〜4を読んで、過去を思い出す時、確かに、ここを認めると自分には都合が悪いな〜という所をスルーしていることにも思い当たりました。さらに、その「あ、今、都合の悪いことをスルーしたぞ」という通報をもみ消していることにも…。

でも、「自分が自分に嘘をつくわけがない」と思い込んでいると、その事にも気づかず毎日を生きてしまいますね。

今回はっきりと、「心は嘘をつくんだよ」と言っていただいて、それを前提に考えてみると、心の動きがずいぶんクリアに見えるようになりました。少なくとも、「あ、今嘘ついた」と気づけるチャンスができました。

ブログの紹介文にある、「ゆっくりと確実に効きます」。そのとおりです。

さて、他にも、「心理学上の認知療法は有効であるものの、あくまで一つのツールとして使う」等、前半は比較的理解できてきたのですが、後半の「投影をやめてみる」は、私にとってはかなりの難関です。

まだ、今の自分の感覚では、「やっぱり投影は必要なのではないかな」「投影をやめるなんてできるはずもない」という所に立っています。
ちょうど、「投影」を「化粧」に置き換えてみるとぴったり来ます。
「素顔で人前に出るなんてありえない」という感じでしょうか。
なので、蓑をはがせない蓑虫の例えはよく理解できたのですが…。

でも、あと7回読んだらまた何かが見えてくる気がするので、これから引き続き挑戦してみます。
いつになるか分かりませんが(汗)また報告させていただきます。

From *****

P.S.

今の、「霊」の話題を読んでいて、質問したいことが出てきたのですが…お時間あれば触れてくださいませ。

「モノ」に、霊あるいは思念が宿る、という考え方をどう思われますか?
「ルイ王朝の呪われた宝石」的な話や、人形の髪が伸びる、形見の品が命を救ってくれたなど、モノに魂が宿るような話は昔から多いですよね。
私は、それを思うと、アンティークの指輪やぬいぐるみなど、可愛くてもなんとなく怖くて買えないのです。
電車の忘れ物市で傘を買うくらいならできるのですが、高価な物になると、何か手放したくなるようないわく因縁があるんじゃないかと疑ってしまってダメです。
地球環境のことを考えると、何でも新品という生活は良くないと思うのですが。
フリーマーケットなど、売り手から直接買うならば割と平気なので、「元の持ち主が分からない」ところに恐怖の原因があるのでしょうか。
村松さんは、モノはあくまでもモノだと思われますか?

【村松コメント】

心が嘘をつく、というのを自分の感覚でとらえたのは大きいですね。
そこからまたいろいろ展開すると思います。

モノにつくものは、私は「念」と呼んでいます。
じつは、霊より念のほうがずっと強くて恐ろしいのではないか、というのが私の感覚です。

念は生のエネルギーですからね。
モノがそういうものを伝える媒体になるということはありえます。

絵画が画家の思いを伝えるように、長年使った食器や万年筆に所有者の思いが入っていても不思議ではないと私は思います。

私は陶器は好きですが、骨董は買いません。
使った人の思いや、保存されていた時間を持ちこみたくないのです。
やはり知らないのは不安ですね。

たぶん筋のいい骨董屋では、何かお清めのようなことをしてくれているとは思いますが。
「呪いの**」みたいな話はたくさんありますから、何かあるでしょう。

陶器だったら、作家さんの作りたての新作を買うのが好きです。安くて(個人の展示で買えばデパートなどよりおおむねよいものが安いです)、作家さんを勇気づけることもできて、しかも、作家さんと仲よく話すこともできる、というメリットがあります。
そして、使っているときも、作った人の顔を思い浮かべられるので、温かいエネルギーが流れます。

そういうモノの力が心に干渉してくるときはたしかにあります。

だから、パワーストーンのようなものもたしかにエネルギーの干渉があると思うのですが、そういうものに依存する、ということで崩れているバランスのほうが、差し引きするとはるかにマイナスだと思います。
そういうスピリチュアル系ではなく、食器でも衣類でも、自分が気に入ったものなら高くても思い切って買ってしまう。そして、それをずっと大切にするという人はモノといいエネルギーの交流ができると思います。

とはいえ、買うだけは買って大切にしないと、ただの買い物依存になってしまいますのでご用心。



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続・お母さんからの長いメール
 不登校の娘さんを持つお母さんから、メールが来ました。
また長い(笑)のですが、いろいろ心境の変化が綴られていてうれしいので、ご紹介します。
今回は前略後略の一部抜粋版です。

読者からのメールが続きますが、大切な理論の実証です。
実際の体験に裏打ちされることで、説得力が増すと思います。

気持ちの持ちようで、生き方はどんどん変化していく、という実例はたくさん読んでほしいのです。


**

(途中から)
 
娘には村松さんがとっても面白い考え方をする人だよ、とか
この人はすごい!とか
いろいろと聞かせています。
 
 
普段新品の本などまず買わない私が
3冊も買ったのを見て
ただならぬものを感じてもいるようです。
 
 
私は
「どうしてもこの人の本の売り上げに貢献したかったんだ!」
(他意はないです。失礼な響きがあったらすみません!)
 
というのを聞いて、
娘が私の真剣な気持ちを理解してくれたら嬉しいと思います。
 
 
8月には娘とたくさんぶつかる機会があったと以前書いたと思います。
そのときには娘が
私は娘の不登校に対して、何も策を講じてない!ってことに
ストレートに不満をぶつけてきました。
 
 
「インターネットで何か調べたことはあるの?」とか、
「そういう本を読んだことはあるの?」
 
と執拗に迫ってきたんです。
 
 
そのお陰で、いろいろと調べる機会を得て、
村松さんのブログに行き着くことになりました。
だから娘には、
村松さんのブログや本との出会いは、
私の彼女の不登校に対する真剣な思いだって
わかってほしいのです。
 
 
面倒なんかじゃなくて、
家族のことは家族で面倒見るのが自然なことだと
私もやっと受け止められるようになったから。
 
 
今一番悩むところなのは、
押し付けにならないように
だけど甘やかしにもならないように
いかに彼女の自主性を育てる(見守る)かというところです。
 
 
ここが本当に難しいし、
根気のいるところでもあります。
 
 
以前の私だったらもうとっくに
がまんできずに
声をあらげていたと思います。
 
 
私もずいぶん成長させてもらっているなと感じます。
 
 
村松さんがよく言ってみえる、
(正確に言えてなかったすみません)
「問題を問題と捉えず、傍観する」
という言葉にすごく助けられています。
 
 
人ごとのように感じるってこと、
気が付けばかなりできるようになってきています。
 
 
村松さんのブログを読むようになってから、
不思議なんですが、
世間と自分とか自分の家族を
比べることがあまりなくなってきているんですよ。
 
 
以前から他人と比べても仕方ないって
前から知ってはいたんですけど、
どうしても比べては不安になってました。
 
 
比べる対象が実在のもののこともありましたが、
もしかすると実在などしないかも知れないもののこともよくありました。
こっちの方が多かったかも知れません。
 
 
それってよく考えると、
自分自身が勝手に作り出した
幻覚(うまく言えてませんが)のようなものなんですよね。
 
 
それって時として
すごくきれいで頭が良くて家柄がよくて
英語もペラペラと話せる帰国子女だったり、
 
小さな頃から教育にお金をかけてもらって
おりこうさんに育った子供だったり、
 
主婦になってもお洒落で、
自分のお店なんか持っちゃったりして
スマートな人生を素敵に生きる主婦だったり、
 
すごくいいパートナーにめぐりあって、
信頼と愛情に溢れた幸せそうな女性だったり、
 
小さな子供がいて
家族仲良く暮らしている若い夫婦だったり・・
 
 
数限りない自分より幸せそうな想像上の人物と自分を比べて
「あー、自分ってそんなものとは大違い」
 
ってうなだれてばっかりだったんです。
 
 
今も確かに、そういうものはどこかに存在するだろうとは
わかっています。
 
 
でも、だからそういうものと自分を比べることは
できないんだし、自分は自分というもので、
その上でも下でもないんだって思います。
 
 
ちょっと前までは本当に馬鹿みたいな考え方をしていたと思います。
 
 
例えば水泳を始めたとしたら、
いきなりオリンピックの水泳選手と自分を比べて、
 
「はぁ〜。私なんて下手くそだしなぁ」
 
なんて思っていたんですよ(笑)。
 
 
比べる対象が遠すぎるし、
そんなんじゃ何をしても楽しくない(笑)。
 
 
今は・・というと、
自分は自分の人生を生きるだけだ!って思っています。
 
 
そして自分は自分なりに
自分に対して尊い気持ちを持つべきだと思っています。
 
 
今私は自分に対して
「私なんて・・・」
 
っていう卑下した気持ちを持たないようになってきています。
 
 
実は普段、特に最近は家の中で私はとても明るくて、
(って自分でいうところがかなりずうずうしいですが)
冗談ばっかり言っているんですよ。
 
 
これは例の、父親にSOSを出した高校生さんの
親御さんが愚痴るっていうところにも通じるものがあると思いますが、
私は最近までどちらかというと
普段からブツブツ言う母親だったんです。
 
 
それもストレスがたまって我慢の限界に来たときに
全部ぶちまける!みたいな感じで
またそのときには、思っている以上のことを言ってしまったり。
 
 
それはうちの母親がまさにそんな感じで、
それをずっと見ていたのでそうしてもいいものだと思っていたところもありました。
 
 
でも子供はかなりそれで混乱するんですよね。
普段ニコニコしてても、
何かの拍子で怒ると、
普段言わないことまで言われてしまう。
 
じゃ、普段はどうだったの??ってなりますよね。
じゃ、いつもそう思ってたの?って。
 
 
そこの矛盾は、今不登校の娘からも指摘を受けました。
そんなんじゃ信用したくてもできない!って。
 
 
そういうときに言う言葉は、
売り言葉に買い言葉みたいなものなんだ!って
私は言い訳を大義名分みたいにしていたんですけど、
実際、それってやっぱりしてはいかんことだと
今になって反省しています。
 
 
子育ての本を読んだときには
わかってたはずなんです。
「一貫性のないしつけはいけない」
とか、
「気分のムラにまかせて叱るのはダメだ」
とか、
「脅して動かそうとしてもだめ。言葉にうそがあってはいけない」
 
ってことは。
 
でもかなりそういうものを
乱用していたという実感があります。
 
 
そして、そういうものをしないように気をつけてみると、
けっこう気安くそういうことをしていたんだなぁと
あらためて気づかされます。
 
 
子育ては日常だから、
ついついいい加減な気持ちで
親の立場にあぐらをかいてしまうんですね。
かなりとんでもないことを平気でやっていたんだろうなって
恥ずかしく思います。
 
 
・・で話が逸れましたが、
今子供が不登校な状態だから余計に、
家の中が深刻になってはヤバいぞって思ったんですね。
 
 
それでも、正直、まともに現実を見ると
めっちゃ情けなくなることはあるんですよ。
だから、今考えても仕方ないことはとりあえず棚上げにする意味でも
カラ元気でも何でもいいから・・・って感じで
とにかく冗談言ってバカやっているうちに、
その状態がだんだん普通になってきて、
 
 
子供の前でも、自虐的ジョークを逆手に取って
 
「あーら、こんなことをしたら私の美しさにさらに磨きがかかってしまうわ〜」
 
とか、
 
「ちょっとこの色気にはマドンナもまっつぁおね〜」
 
 
とか言って笑いを取るようにしていたら、
いつの間にか謙虚に自分をマジで卑下するっていうモードが
どこかに行ってしまったんです。
 
 
うそばっかりついているうちに、
言葉に自分の脳みそがだまされて、
どれが本当かうそなのかが
わからなくなってしまったみたい(笑)。
 
 
そういえば村松さんが本の中で、
読者の方が鏡に映る自分に対して
会いたくなるくらい素敵・・と言い聞かせているということに対して、
それよりは「自分を許す、受け入れる」というメッセージを
かけてあげた方がいいというようなことを言ってみえました。
 
 
あなたを許すよ。
あなたを受け入れるよ。
 
 
今まで私は本当に自分にすっごく厳しくて、
いつも自分の何かにイライラしていました。
 
でも、この年になってやっと、
どうしてだか、自分に対して
そう言ってあげたい気持ちになっています。
 
 
自分って世界に一人しかいないんですよね。
それも数多くの他に淘汰されたものから生き残って
この世にこうして生きている。
 
 
前は、自分よりもっともっと優れた人がこの世にはゴマンといるのに、
自分ってなんてちっぽけで意味がないんだろうって思った。
こんな自分、生きている価値なんてあるのかな?って思いました。
 
 
例えば、事故か何かに遭ったら
血の流れも心臓の動きも
ぱたっと止まってしまってもう元に戻らない。
 
体を作っているものの中には、
目に見えないような小さな組織で構成されているものもあって、
そんなものも死んでしまったら全部おしまいです。
 
 
でも、生きているって、そういうものが何も言わずに、
日々静かに刻々と動き続けていて、
体が正しく動くようにってしてくれてるんですよね。
 
 
何かの拍子に今死んでしまったら簡単に壊れてしまうくらい
命なんてデリケートなものなのに、
でも今ここに自分として生きている。
 
 
なんだか、それだけでもうすごいじゃないか!って
思う今日この頃なんです。
 
 
私が誰よりも上で誰よりも下であろうとも、
私は私でしかないし、私でいいじゃないかと。
 
 
そしてそういう気持ちはもちろん、
子供に対しても同じであると思います。
 
 
子供は親を選んで生まれてくるというお話がありました。
 
 
だったらなお更、その子が授かった意味が
あると思うのです。
 
 
だったらなお更、その子が
「どうして私なんて生まれてきたんだろう」
 
と嘆くよりは
 
自分が存在する意味を肯定できるように
育ててあげたいし、そうしなくてはいけない!って
思います。
 
 
自分がこの世で唯一の存在であるのと同じように、
子供に対してもそういう気持ちで
子供の存在に対して敬う気持ちを持つことが
とても大切だと思います。
 
(いまさら何を言っているんだろう?と思われるかも知れませんが・汗)
 
 
でもそんなことも立ち止まって考えられなかった
今までの日々でした。
 
 
村松さんの本の中にはまた、
「健全な自己愛」
というのがありました。
 
 
うまく言えないですが、
自分を大切に思うことは
やっぱり大切です。
 
 
自分を愛せない人は
人を許せない、受け入れられない、愛せないと
ずっと聞いてはいたけど、
じゃあどうすればいいの?って思っていました。
 
 
今はなんとなくですが、
わかるような気がしています。
 
 
自分を信じる。
自分の子供を信じる。
 
(信じたい、ではなくて、あえて言い切ってみました!)
 
 
根拠はないですが、
何とか生きていける、
明るくしていれば、
大丈夫だって思いがしています。
 
 
 
そして関係あるかどうかわかりませんが、
娘がこのごろメキメキとお洒落になってきました。
 
 
ちょっと前までは
引きこもっているんだから、
新しい洋服とか
必要ないだろう・・・って思っていました。
 
 
大きな間違いでした。
 
 
娘が
「服がないから外に出られない」
と言ったんです。
(買い物くらいは出ていましたが)
 
 
その頃私の仕事がまだうまく言っていなくて
生活がかなり厳しい状態で
新しい洋服を買ってあげるとかっていう時期じゃなかったのですが、
 
 
(それにいつも、学校にも行ってないくせに・・・っていう気持ちがありました)
 
 
ちょうどいいタイミングで、このところ仕事もだんだんとうまくいくようになってきて、
少し贅沢ができるようになってきました。
 
 
それで安くでも意外とお洒落なものが買えるお店
 
(しまむらという、知る人ぞ知る有名なお店です。
地方にしかないらしいのですが、東京の若い女性の間でも
ひそかなブームになっているらしいです)
 
をはしごして
二人であれやこれやとやっているうちに
二人ともみるみるとセンスがよくなってきたんですよ。
(自分で言うとはやっぱりずうずうしい?)
 
 
実は私もここ半年くらい隠匿生活をしていて
美容院もまともに行っていなかったりで
久しぶりにカットをして、家で娘に髪を染めてもらったら
つき物が落ちたみたいにさっぱりして
 
「やっぱりお洒落したほうがいいね〜」
 
って実感しました。
 
 
あのとき娘が服がないから外に出られない!って言ったのは
核心をついていました。
逆説みたいだけど、結果的に正しかった。
 
 
子供もまだ中学生の分際ですが、
別に学校へ行っているわけじゃなし・・ってことを利用して
髪をちょっと軽い色に染めてみたいというので
私がやってあげました。
 
 
そうしたらいい感じの色になって、
自分も気に入っているらしく、
買ったばかりの服とかを自分なりにアレンジして
なかなかセンスよく着こなしができるようになっているんですね。
 
一人ではあまり出かけない娘が、
私とだとお洒落をしてどこへでも喜んでついて来るという感じです。
 
 
これは少し前、
「自分なんて生きている価値もない」
 
と言ってた娘にとっては
自分を大切にするという意味で
とても大きな進歩じゃないかなって
私は肯定的に捉えています。
 
 
 
お陰で私の美しさにも磨きがかかりましたし(笑)。
 
 
 
 
 
またまたうまく言えないのですが、
村松さんのお話を拝見しているうちに、
 
自分が今までは2次元の世界にいて
身動きのとり方がわからなかったのが、
3次元の世界を教えてもらって
そこに行ってみたら分けわからないけど
自由になれた・・みたいな気持ちになっています。
 
 
え、こんな世界もありなんだ〜?
みたいな。
 
 
なんか、不思議な世界に入るための
なんとかドアを教えてもらったみたいで、
ちょっぴりお得な気分なんです。
 
 
だから自分を許したいとか、
受け入れてあげたいと思えるようになってきたのだと思います。
 
 
 
私には本当に嬉しいことです。
 
 
 
だから村松さんには、元気で書き続けてほしいのです。
 
 
 
ブログをあのペースであの密度で更新するって
どなたかも言ってみえましたが、
すごいエネルギーがいるんだろうなと想像します。
 
 
だから体に気をつけて、
がんばってほしいです!


---------

●村松コメント●

娘さんがおしゃれをしたいって気持ち、いいですね。
そういう変化を積み重ねていけば、いいほうに流れますよ。
人は自由であれば強いものです。

>自分が今までは2次元の世界にいて
身動きのとり方がわからなかったのが、
3次元の世界を教えてもらって
そこに行ってみたら分けわからないけど
自由になれた・・みたいな気持ちになっています。

ここは、我が意を得たり、です。

創造的に自由に生きていけば、人の可能性は無限に広がります。
まさに2次元から3次元に広がるような無限性があります。
それが人の自由であり、自然なのです。

また変化があったらメールください。


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メールでわかる5つのこと
 今回は

ムービーを止めろ! 認知の歪み6
http://kokorogadaiji.jugem.jp/?eid=83

への読者からのお返事メールです。

このように自分の中の変化を記述してもらえると、私としてもいろいろな意味で大変助かるし、本人にとっても自分の歩みを確認できるという意味で有益であろうと思います。

メールを読んでいただいたあと、コメントします。


**********以下メール

村松さん

ブログでのお返事ありがとうございます。

>アブクがでてきたときに、それを否定せずに出るに任せること。
>他人事のように、「あ、出た」と思ってください。

以前メールで書いたことと重複しますが、
いまお腹の中に溜まっている怒りやいろんな感情は、
アブクを社会通念などを理由に押さえつけたことで
社会通念を押し付けたと思われる相手への怨みも加わって
行き場がなくて苦しかったみたいです。

出してはいけないから、出てしまったらただ見ればいいと
認識が変わっただけでだいぶ楽になりました。
日常で実践して、また報告したいと思います。

また、先日父親と話し合う機会があったときに、
はじめて父親に対して怒りました。
昔から、お前は文句を言える身分じゃない、
だってお前は○○だから。と○○の内容は
その時々で変わりつつ言われいて、
社会的にはそうなのかも…とずーっと黙って、
言うこと聞いた振りをしてたのですが
絶対に違う! と思って、腹の底から怒り(怒鳴り)ました。

父親は、他人の感情に巻き込まれない人なので
どこまで伝わったのかよくわかりませんが、
怒りきったことで、だいぶ気持ちが澄んだ感じがしました。

わたしの怒りは、30数年間積もり積もった「違う!」
なので爆発しましたが、
普段から感情をその都度(ネガティブであれポジティブであれ)
出していれば、大爆発ってしないのかもしれませんね。

そのことと、歯車になってしまうことがまだごっちゃになってしまいます。


視力が落ちて足が太くなったことについて、
コメントでわたしも同じですとあり、
なんとはなしにほっとしました。

こんなごく個人的と思ってたことでも、
共感してもらったり同じと言ってもらうだけで
気持ちが軽くなるものなんですね。

あと、足が太くなることに関して村松さんのコメントを読んで、
自分に照らし合わせるとむしろ、
自分の行動に対する自信のなさ(恐怖感)がぴったりくるように思いました。


また、何かしら変化を報告したいです。

それでは。

*****以上メール

このメールは、シンプルですが、大事な発見がいろいろ含まれています。
今回、番号をふってみましょう。


1.
>出してはいけないから、出てしまったらただ見ればいいと
認識が変わっただけでだいぶ楽になりました。

怒りや自分の中のネガティブな感情が出るとき、それを押さえつけるという反射とセットになってしまうことが多いのです。
しかし、うまく切り離せたようなので、これからどんどん変化が出ます。

2.
そして、認識が変わるだけで、楽になる、このシンプルな事実も大変重要なのです。
心は無形のつかみがたいモノですが、言葉の使い方が鍵を握っています。
言葉の使い方が歪んでいる、あるいは正確でないと、心はつねにその言葉に干渉されます。

「心の中で何を思おうと勝手だし、どうせ他人にはわかりゃしない」と考える人がいます。
しかし、筋道だった考え方をして、それを他人の共有できるほうが、心はずっとのびのびとします。
自分にしか通用しない「筋道」を後生大事に抱えていることを、稽古事では「筋が悪い」と言いますね。
認識を、シンプルで、心にとって楽なものに変えていくこと。
筋の悪い言葉を捨てていくこと。
それがこのブログの目的です。

3.

>絶対に違う! と思って、腹の底から怒り(怒鳴り)ました。

この腹の底から、という感覚にじつは大切なものが含まれています。
人は頭で怒り、心で怒り(これは部位でいうと心臓です)、最後に腹の底から怒ります。
笑いも同様ですね。
いちばんの笑いは「お腹を抱えて」笑います。

つまり、丹田、腰、腹、仙骨といろいろ言い方はありますが、人の中心の部位に、生命の原初のエネルギーはあるのです。
頭脳は、生命から見ると末端なのです。
しかし、人の身体のいちばん高いところにあって、情報を処理し、さまざまな指令を出しますから、現代の文明はどんどん頭脳中心主義になっていくのです。

しかし、膣も子宮も男根も生殖のための器官はもっと低いところにあります。
下ネタというのは軽蔑されていますが、生殖は生命にとってはいちばん大切なものです。
植物の美しい花は生殖器ですからね。
植物はそれをいちばん目立つ最上部に持ってきている。

人は頭脳を最上部に持ちますが、本能のセンターを腹部に持っています。
お腹から怒る、お腹から笑う。
心は、この本能、生命と強く結びついているときが健康なのです。
しかし、現代人の心は非常に頭脳的なものの支配が強くなっています。
心は頭脳の働きの一部だと考えている人もいます。
しかし、心は脳の従属物ではありません。

これは大テーマなので、ここで深入りしませんが、「腹の底から怒り(怒鳴り)ました」
という言葉で、心にエネルギーが戻ってきているのがわかります。

4.

>わたしの怒りは、30数年間積もり積もった「違う!」
なので爆発しましたが、
普段から感情をその都度(ネガティブであれポジティブであれ)
出していれば、大爆発ってしないのかもしれませんね。

心の中に起きた感情は、出さないかぎり消えません。
変形して一見鎮静することがありますが、どこかに残っていると考えたほうがいいのです。
私が「心のエネルギー」という言葉を使って、力学的に心を見ていこうとしているのはこのためです。
「エネルギー保存の法則」が物質の世界にあるように、精神のエネルギーにも同様のものがある、ということが私の観察の基礎になっています。

この方の場合は、30年間、いわば怒りを「積み立てて」来たわけですが、「元金」だけを入金しても、その元金はいつまでも消えずに、つねに「利子」を生み出します。

そのように観察すれば、恨みの感情をいつまでも持ち続けることの有害性がわかると思います。

喜納昌吉も「泣きなさい〜 笑いなさ〜い」と歌っているでしょう?
心はいつもさらざらと川のように流れているのがいいのです。

それにしても30年分のものが出たのはすばらしい。
お赤飯を炊くか、シャンペンを抜いてお祝いしてもいいようなことです。

5.

>そのことと、歯車になってしまうことがまだごっちゃになってしまいます。

これは、社会の歯車になるのがイヤだということでしょうか?

ここにも認識の違いがあるようです。

仕事をするということは、社会で有用であると認められているということです。
そこで潤滑に回る歯車であることは悪いことではありません。
歯車になりきれないから苦痛が起きるのであって、うまく歯車になれれば苦痛ではありません。

歯車に成りたくないと思っていたら、ギシギシときしみをあげるのは当然です。

仕事をするときは、なるべく潤滑な歯車として回るように全力を尽くす。
そうして、仕事が終わったら、ぱっと切り替えて自分自身に戻る。
そういう切り替えがなめらかにできるということが、心が自由であるということです。

仕事の現場には理不尽なこともあるかもしれませんが、そのこととこれは別のことです。

歯車になりたくない、といつも拒否して、仕事の時間をただ苦痛として感じているのは、不自由極まりないことです。

考え方の180度の転換でしょう?
それでまたいろいろなことが変わってくるでしょう。

心の中に入っている言葉のソフトを入れ替えるのです。
もっと性能のいい、気持ちよく動くためのソフトに変えるのです。

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こんな短いメールの中に5つもポイントが入っていました。
本当はまだ書けるのですが、これくらいにしておきます。



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変化のプロセス
昨日の記事について、何度かコメントをいただいている海巳さんからメールをいただきました。
内容はとてもいいし、いろいろな意味でフォローが利いています。
なので、私としては、改めて注釈することやコメントすることはありません。
そのまま、ご紹介します。

本日もコメント不可の設定にしますので、感想などはkokoro@hiden.jpにメールでください。

明日から3日間福岡です。
いろいろ書きたいこと溜まっていますが、来週にします。

留守番よろしくお願いします。

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こんにちは、海巳というものです。「心が大事」楽しませて読ませていただいています。今回の記事「SOSの本質」の中で、清掃のバイトをしていたというコメントを取り上げて頂きました。まず、「的外れなことを言っていなくてよかった」と思いましたね。

記事を読んで、コメントのようなものを残しておきたいと考え、メールしました。村松さんの返信のように、鋭い視点で書けるといいんですけれど。言葉に関しては僕も修行中です。

まず、白状しなければいけないこと。それは、「清掃のバイトは自分から見つけたわけではない」ということです。母が知人に頼んで斡旋してくれたのです。仕事も全部ちゃんとできたわけではなくて、遅刻したりもしました。
どう考えても格好悪い告白ですが、「はじまりはそんなもんだった」ということです。段々、自分から仕事を貰いにいったり、他人のヘルプに入ったり、責任を増やしていったわけです。
重心を持たない紙飛行機がロクに飛ばないように、ある程度の責任・不自由を持つこと抜きに、自由にはなれませんね。自分の思考の殻に囚われないために、他人から不自由を譲って貰うのです。変な表現ですけど、僕の直観だとそういうイメージです。

ここで一つ、当時のバイトのエピソードを紹介します。

僕が清掃の仕事を始めたとき、教育係として、10歳年上の男性がついてくれました。よく働くし、遅刻もしないし、愛想も悪くない良い人でした。大学も卒業しています。
僕は初め、「不況のあおりを食らってしまったのかな。こんなに良い人なのに、少し要領が悪かったんだろうな。気の毒に」なんて思いました。
ほとんどの仕事は、彼と二人三脚でした。疲れたらお互いの肩を揉んだり、インスタントコーヒーを作ったり、休憩時間にほんの少し雑談をして……2週間もするとすっかり打ち解けました。

多分、僕はずっと誰かに優しくしたかったのだと思います。色々なしがらみがあって、家族にはそれがどうしてもできなかった。それが一番つらかったのかな、と今では分析します。「誰からも愛されない」は、相手を憎めば戦える辛さですけど、「誰も愛せない」は、戦えない。
本当に、耐えられないんです。

そんな僕がすごく衝撃を受けた出来事があって、(と前振りしておいて地味な話です)ある日相方の彼が、携帯の画面をぼおっと眺めているのを見たのです。それも、一日に何度もです。
それまでもそういうことはあったと思うのですが、関心がなかったので見過ごしていました。少し親しくなっていたので、僕は「メールかな、聞いてみようかな」と興味を抱いたのです。
彼にコーヒーを差し入れたとき、その画面がちらっと目に入り、僕は体が凍ったのを覚えています。彼はメールなんか読んでませんでした。待ち受け画面にした奥さんと子供の写真を見ていたんです。一日に何度も。
ショックからさめて僕は、「ああ、軽はずみな気持ちで聞かなくてよかった」と心の底から思いました。実際のところ親に養ってもらい、金銭的なものについて無頓着な僕が、踏み込んで良い部分ではないと感じたのです。
奥さんとお子さんの話は、時々ありましたから、それは十分予想できる光景でした。でも、僕は打ちのめされたのです。

その日、家に帰った僕を襲ったのは、自分に対する痛烈な「恥ずかしさ」でした。自分はあの人をなんだと思っていた? 要領が悪い? どの口で言っていた? 人をそんな風に量れるようなものを、自分は一つでももっていたか――。

というエピソードがあって、これは衝撃的でした。ただ、これ一つで人生変わったとは言いません。
重要なのは、ここです。この光景に衝撃を受けられるだけの準備が、その時の自分にやっとできた。そして、それを逃さずに捕まえることができたのは、「他人を気遣いたい」という責任を引き受けたからだった、ということです。

その時からでしょうか、学校の問題や、家庭の問題が、「自分の問題」として目の前に迫ってきました。
もう、いい学校に行きたいとか、家族から好かれたいとか、やめよう。不格好な今を、ほんの少し良くするためだけに、全部注ごう。そう思いました。
すぐに行動を大きく変えることはできませんでした。でも、僕が思っていたよりもずっと早く、周りは僕の決意を感じ取ってくれたように思います。すごく優しくしてもらえた気がするのです。
多分、僕の周りを見る目と、周りの人の僕を見る目、両方変わったのです。

僕はカウンセラーにかかったこともあるのですが、あれはやはり人を選びます。心の病気という蓑をあげることは、万人に良い方法ではないです。
ちょっとお薬の助けで精神を安定させるくらいなら悪くないと思います。でも、最近のカウンセリングは「自分を肯定させる」という結果を得るために、「君は間違っていないよ」という方向へと、傾きすぎている気がします。
バランスを取り戻すのが最終目標なんだから、村松さんのように「しがみついている『それ』から、一度離れろ」という方向にいったほうが、万人向けです。(まぁ、抽象的ですけど)

なんか話が色々な方向へ飛行しだしたので、ここらで一度やめます。結論みたいなものが出ませんでしたが、プロセスが結構大事ですので、と言い訳します(笑)読み返すと結構な量ですね……。ほとんど自分語りですし。恥ずかしい……。でも、大事なことを丁寧に思い出す時間がとれて、僕も良かったです。情熱の一部でも伝わればいいな。

僕も文章を趣味で書いていますから、この密度のブログを毎日更新するのが、どれだけヘヴィか少しは分かるつもりです。このブログを村松さんが書きながら、毎日普通にご飯食べて、寝たり起きたりしてると思うと、余計すごい気がします。
僕も普通に頑張ります。応援していますー。


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