2009.09.25 Friday 14:24
JUGEMテーマ:心
昨日、投影について書きました。
哲学的議論は純粋かつ極端なケースで考えることになりますので、今日は少し泥臭く具体的に考えてみましょう。
投影していいことがあるでしょうか?
たとえば、テストで50点だった子どもが、100点取るべきだと自分に投影したらどうでしょう?
それで、次のテストで実際に100点とれば、それはいいことだとしましょう。
努力次第ですからね。
しかし、努力しても100点を取れなかった子どもは、やる気を失って50点すら取れなくなってしまうかもしれません。
努力が身になりやすい素質と、そうでもない素質というのがあったり。
そもそも素直に努力する素質があったり。
そして、素質がるある人でも次第にハイクラスの戦いになると、ついていけなくて挫折したり、というのもよく聞く話です。
人生に高めのハードルを設定して次々にクリアしていく人というイメージがありますね。
私は全くそういうことができない性質なので、そういう人の割合は40人くらいのクラスで2〜3人ではないかな、と思います。
そうすると、他の人は自分に100点満点を投影するより、60〜80点くらいで、「自分はまあこんなものかなあ」と思っているほうが心は伸び伸びします。
でも、今日の商売は「誰でもやればできます」と追い立てるわけです。
「この方法を知れば誰でもお金持ちになれます」
「この方法で誰でも美人になれます」
簡単にいうと、そういうメッセージが日本中に溢れかえっています。
それでみんなジタバタともがいてしまって、心が苦しくなるのです。
やってもダメなものはダメだからね(と言ってしまう)。
もっとありのままの自分でいいと思わないと。
そういう外の基準を投影するのをやめようとすると、何が起きるかというと……、自分は空虚だ、何も持っていない、と感じるのです。
でも、空虚なのは外の基準の自分ですから。
その内側にありのままの自分というのがあるんだよね。
その空虚感を乗り越えると見えてきます。
ありのままの自分、生まれたままの素質、というものを一度も考えたことがない人が話をすると多いのです。
意識することがないから、たいてい発育不全なのです。
生まれたままの自分というのは、蓑虫みたいなものです。
後から教育された価値観で蓑を編んで、それと一体化して暮らしています。
しかし、あんまり一体化しすぎると、どこまでが蓑でどこまでが自分かわからなくなってしまいます。
だから、蓑を剥がされるのはとてもコワい。
剥がされるとらっきょうみたいに芯に何もないのではないか、と怖れる人がいます。
投影というのは、この蓑です。
蓑と一体化してしまうのは、あきらかによくないでしょう。
蓑虫が蓑から這いだして、広大な世界にじかに無防備に出会う、それが自由なのです。
しかし、自由になる以前に、自分の生まれつきのものと、後天的なもの、これを意識、区別できなければいけません。
**
多くの方に読んでもらえるようにワンクリックお願いします。
↓
**
質問やセッションのお申し込みは、kokoro@hiden.jpまで。
(セッションはただいま空きがあります)
博多セミナー、参加者募集中!