INNER LIFESTYLE DESIGN
 〜ナチュラルに生きる方法論序説
投影の蓑虫 認知の歪み8
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昨日、投影について書きました。

哲学的議論は純粋かつ極端なケースで考えることになりますので、今日は少し泥臭く具体的に考えてみましょう。

投影していいことがあるでしょうか?

たとえば、テストで50点だった子どもが、100点取るべきだと自分に投影したらどうでしょう?
それで、次のテストで実際に100点とれば、それはいいことだとしましょう。
努力次第ですからね。

しかし、努力しても100点を取れなかった子どもは、やる気を失って50点すら取れなくなってしまうかもしれません。
努力が身になりやすい素質と、そうでもない素質というのがあったり。
そもそも素直に努力する素質があったり。

そして、素質がるある人でも次第にハイクラスの戦いになると、ついていけなくて挫折したり、というのもよく聞く話です。

人生に高めのハードルを設定して次々にクリアしていく人というイメージがありますね。
私は全くそういうことができない性質なので、そういう人の割合は40人くらいのクラスで2〜3人ではないかな、と思います。

そうすると、他の人は自分に100点満点を投影するより、60〜80点くらいで、「自分はまあこんなものかなあ」と思っているほうが心は伸び伸びします。

でも、今日の商売は「誰でもやればできます」と追い立てるわけです。

「この方法を知れば誰でもお金持ちになれます」
「この方法で誰でも美人になれます」

簡単にいうと、そういうメッセージが日本中に溢れかえっています。

それでみんなジタバタともがいてしまって、心が苦しくなるのです。

やってもダメなものはダメだからね(と言ってしまう)。

もっとありのままの自分でいいと思わないと。

そういう外の基準を投影するのをやめようとすると、何が起きるかというと……、自分は空虚だ、何も持っていない、と感じるのです。

でも、空虚なのは外の基準の自分ですから。
その内側にありのままの自分というのがあるんだよね。
その空虚感を乗り越えると見えてきます。

ありのままの自分、生まれたままの素質、というものを一度も考えたことがない人が話をすると多いのです。
意識することがないから、たいてい発育不全なのです。

生まれたままの自分というのは、蓑虫みたいなものです。
後から教育された価値観で蓑を編んで、それと一体化して暮らしています。
しかし、あんまり一体化しすぎると、どこまでが蓑でどこまでが自分かわからなくなってしまいます。
だから、蓑を剥がされるのはとてもコワい。
剥がされるとらっきょうみたいに芯に何もないのではないか、と怖れる人がいます。

投影というのは、この蓑です。
蓑と一体化してしまうのは、あきらかによくないでしょう。
蓑虫が蓑から這いだして、広大な世界にじかに無防備に出会う、それが自由なのです。

しかし、自由になる以前に、自分の生まれつきのものと、後天的なもの、これを意識、区別できなければいけません。

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投影とリアリティ 認知の歪み7
 
さて、認知の歪み10パターンに一瞬戻りますと、メールをくださった方は、「〜ねばならない思考」について書かれています。
たしかにそういう考えで自分を縛ってしまうことはありますね。

しかし、そういう物を10パターンも自分にあてはめると、あっちを意識している間にこっちを忘れたり、なんだかバタバタしてわからなくなってしまいそうです。

そのように複雑なのはよろしくない。
これはたった一つのシンプルな言葉に集約できるのです。

それは

「投影するな」

自分に対しても、他人に対しても、世界に対しても、過去や未来に対しても、何も投影するな、ということです。

これを生涯言い続けたのは、クリシュナムルティという出自が神秘主義と深く関わる哲学者です。紹介するのは面倒臭いので、調べてください。ウィキペディアを読むと、何やら難しいことが書いてありますが、私にとっては、「投影するな」ということだけを言い続けた人です。
(自分の記憶と印象だけで書くので、若干実体とズレているかもしれませんが、そんなに大きくは違わないと思います。興味が湧いた方は本人の著作を読んでみてください)

投影するというのは、主に「現実」に対して「理想」を投影する、ということです。
「〜ねばならない思考」というのは、自分に対して「こうあらねばならない」ということを投影しているわけです。

あるいは、世の中に対して、「こうあるべきだ」という理想を投影する人がいます。
そういう人にとっては、理想は高く美しく、世の中の現実は低く醜いものとなるでしょう。そうして自分の中には、不満と恨みが溜まります。

このように理想を投影することによって、じつは対立と分裂が生み出されるのです。
投影することによって、人はリアリティと向き合わないようになるのです。

よく犯罪者のニュースに対して、「こういうヤツは許せない」という日記を書く人がいますが、犯罪者は法によって裁かれるので、許せないと言ったからといって罪と罰の目盛りが重くなるわけではないのですが、人はそこに「あるべき姿」を投影しないと気が澄まないのです。

親は子にいい子でいなさい、いい学校に入りなさいと投影し、女性は自分にもっと痩せるべきだ、スタイルがいいべきだと投影し、恋愛はこうあるべきだと投影し、医者は平均体重はこうだから、この体重を過ぎたらメタボだと投影し、ビジネスマンは金銭的な成功を投影します。
自分にも他人にも世界にも投影だらけです。
テレビでも雑誌でも、いつもあるべき姿が無数に投影されます。
近頃流行の心理学もどきも、心を自由にするどころか、こうあってはいけない、こうでなければいけない、という新たな投影の回路を作り出します。

このような投影をすべてやめたときに、どうなるのでしょうか?
そのことにクリシュナムルティは言及しません。

なぜなら、「投影をやめればすばらしいことが起きる」と言ってしまったら、「人々が投影をやめた世界」という理想を今の現実に投影するという自己矛盾に陥るからです。
たぶん、言いたかったと思うのですが(笑)。
町の人に会っても、世界のインテリと対談しても、ただくどいほどに「投影をやめなさい」と同じことを繰り返し続けたのです。

私はご本人ではないので、別に少しくらい矛盾していても平気です。
クリシュナムルティに変わって、投影をやめることについて、もう少し考えてみましょう。

多くの人は、投影をやめることを恐れています。

よりよい世界の理想を投影することをやめたら、世界は混乱と悪徳に陥ってしまうのではないか?
自分自身に理想を投影することをやめたら、進歩や努力をやめて、わけのわからないただの怠け者のような存在になってしまうのではないか?

さて、どうでしょう?

ちょっと投影をやめてみてください。


*

人が全く投影しないということがありうるのか、どうか。

人が象を見て象だと認識し、自動車を見て自動車だと認識することも、ある種投影だと言えます。子どもの頃、絵本で見た象を動物園で見たとき、「あ、象だ」と一致したときに、そこで認識活動はある満足を得たような気がします。
もし、絵本で見たこともなく、名前も知らなければ、大きくて全くヘンな生き物だ、ともっとよく観察したかもしれません。

投影というのは、そのような認識の省略形でもあります。
投影が起きた時点で、人はリアリティへの接近をやめることになります。

さらに、この投影に、世俗の欲望や理想を結びつけたときに、より差別的な世界観を肯定し、その中に一体化することになります。

悟りとは、差取り、だとは、前に書きました。

悟りとは、投影をやめて絶対的なリアリティと出会うことです。
理想を投影することは、リアリティに対する恐れでもあります。
リアリティというものが、どこまでも深い暗黒だとすると、そこにペタペタとレッテルを貼って浅く、自分の取り扱えるものにするのが投影です。

リアリティが「どこまでも深い暗黒」だというのがわからない人もいるかもしれません。
リアリティには、どこまで見たら見終わったといえるかわからない際限のなさがあるからです。
たとえば、ある人を「知っている」というのは、どういうことでしょうか? あの人は、会社員です。いい人です。ゲームが好きです。そういう属性を増やしていけば、その人を知ったことになるでしょうか。
人はそのような他人の投影に影響されてその範囲で生きることが多いものです。
でも、そこから逸脱する部分の自分が必ずいるのです。
極端な場合、いったんその投影を逸脱して、猟奇的な殺人者などになってしまうと、世間からはどういう人かもうまるでわからなくなります。
「心の闇」などという慣用句をレッテルとして貼り付けて扱うよりなくなるのです。

(犯罪者といっしょにして恐縮ですが)芸術家や哲学者、宗教家なども、みんなそういう闇を抱えて、リアリティの際限のなさと向き合っています。そうでない者は偽物です。
ニーチェに有名な言葉があります。

「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ」 

ニーチェ、かっこいいのです。
だけど、こんな状況たいていの人はいやですよね。

(ちょっと深入りしすぎたので、ここらで次回に仕切り直し)


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ムービーを止めろ! 認知の歪み6
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何度かお話したことのある女性から、以下のようなメールをいただきました。

*(以下メール)

心から見た過去と未来 認知の歪み4 へのコメントです。

コメント欄に書くのは気恥ずかしくなったのでメールで送ります。

過去はムービーに過ぎないと実感できたらだいぶ楽になりそうな気がします。

というのも、いま怖いと怯えているものは過去のムービーを勝手に再現しているからという自覚がある、でもいつまでも上映中なのにうんざり。だからです。

過去のムービーを見たくないと目をそらすと視力が落ちます。(明らかに世界がぼやける)

ちなみに、視力がぐんぐん落ち始めた時期と、すごく頑張って社会適応した時期が一致するんですよね。ついでに足が太くなった時期も。

なので、過去のムービーの自動再生がなくなれば(少なくなれば)視力もよくなるかなー。足細くなるかも。という期待とやじうま精神もあるんです。

続きを楽しみにしています。

**
●村松コメント●

視力が落ちたり、足が太くなったり、というのは、面白い現象ですね。
いや、面白がってはいけないかもしれませんが、かなり興味深いです。

ムービーといっても、映画館でやるわけではなくて、いきなり自分の要る部屋のテレビがすごい音量でイヤな映像を流し始めるような感じでしょう。

そんなテレビだったら、修理するか、コンセントを抜いて捨ててしまうかしますね。

心の中で起きた現象はどうすればいいのか?

まず、そのムービーという構造を理解して、それは自分ではない、異物であると認識することです。
過去が自分ではない、ということは言いづらいことですが、それが自動再生されてしまう機構自体は完全に異物であるといえます。

異物であると認識すれば、人体に異物を排斥する働きがあるように、心も次第にそれを排除します。

時間がかかるのは、このシステムが脳内麻薬と結びついているからです。
このシステムが発動するたびに、苦痛が生まれます。そして、苦痛を緩和する脳内麻薬が出るのです。
この脳内麻薬に中毒して、人は自分の苦痛を手放さなくなるのです。
SMは、まったくこういう原理です。

そこまでシステムを理解すれば、この自動的機構は異物として客観化されます。
そうすると当然排除する力が働きますが、いわゆる「深く食い込んだ」状態においては、遅々とした歩みになるでしょう。

そういうときに、本当に排除的なプロセスが働いているか不安になると思いますが、そこでいっぺんに投げ遣りになってはいけません。
認知の歪みでいう「オール・オア・ナッシング思考」ですね。
ちょっとうまくいかないと、積み木でもすぐにグシャグシャに崩してしまう。
そういうふうに「どうせダメなんだー!」と投げだしたい心が第一の関門です。

とにかく、時間がかかります。というのは、そういう状態に根を生やすにも時間がかかっているからです。
しかし、それに対処しようとする気持ちがある以上、遅すぎません。

年齢がいって心が硬化してしまうと、異物のはずのものも一体化してしまって人格の一部になってしまいます。そうなると、本人にも他人にも手がつけられません。

第二の関門、それは出てきたときにいじらない、ということです。

ムービーという比喩を使いましたが、ここではアブクという別の比喩を使いましょう。

水面があって、下のほうに泥が堆積していて、そこからボコリっと、ガスが浮かび上がってきた。そういうイメージです。水面でアブクがパンと弾けて、中の有毒ガスが漏れる。臭くてイヤな感じ。

それは人への怒りの爆発であったり、爆発できない恨みであったり、自己嫌悪であったり、いろいろです。

このとき、「ガスが抜けた」と思うことが大切です。
悪いものが出ていった。
それは戻りません。
オナラやゲップをしても、体内に戻らないでしょう。

出たということは軽くなったということです。
手術のあと、ガスが出ないとお腹が苦しいでしょう。
それと同じです。
抜けると楽になります。

ところが実際に何が起きるかというと、「またやった」という自己嫌悪に陥るのです。
そして、言葉で自分を責めます。
しかし、そうして責めることで、同じ事を繰り返さなくなることはありません。
そうでしょう?

したがって、自分を責めることは無益だということが確実に言えるのですが、それ以上に有害なのです。
最初に書いた「泥」というのは、簡単にいうと無意識のことです。
そこからせっかく異物があがってきたのに、言葉で自分を責めると、もう一度それを抑圧してしまうのです。

わかりますか。ここはとても大切です。
ガスとして上がってきたときには、それは異物なのです。
しかし、それを出るに任せないで言葉で干渉してしまうことで、再び自分と一体化してしまうのです。

アブクがでてきたときに、それを否定せずに出るに任せること。
他人事のように、「あ、出た」と思ってください。

それができると、4回5回と繰り返すうちに(それくらい繰り返すことがあります)、少しずつ毒ガスが薄れているのに気づくでしょう。

それが私が知るムービーへの唯一効果的な対処法です。

このように、心には何が正しいかを知ることと、それをストップすることには、全く別のプロセスがあるのです。
「これは間違っている」とわかっていてもやめられないことがたくさんあるでしょう。
「わかっちゃいるけどやめられない」という歌の通りなのです。
認知の歪み10か条も同様なのです。
とてもよくできた分類ではあるけれども、それを生かすためには、やはり心をいろいろな角度から眺める経験を積んだほうがいいのです。

「わかっちゃいるけどやめられない」
このことは、現象としては誰でも知っていることですが、その現象を注意深く見ていくといろいろなことがわかります。


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難しさについての寄り道 認知の歪み5
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難しい、というコメントをいただきました。
テレパシーは正しかったです。
難しい、ということ、読む、ということは、心の働きに関わることですから、少し(またも)脱線してそのことについて書いてみたいと思います。

テレパシーではなくて、じつは書くときに「どれくらい伝わるかな」、という手応えはわかるのです。
でも、表面的な反応のいいことばかりを書こうとすると、迎合的になって、体系性やバランスを崩してしまうのです。

私も本来、もっと読みやすい読み切りコラムで書きたいのですが、なんかズルズルとつながってしまいます。
そうしないと大事なところがこぼれてしまうのです。

最近、読みやすい、わかりやすい心理学風コラムが多いですよね。
ミクシィニュースにも、「あなたが嫌われる7つの話し方」とか、そういうコラムが載っています。

ああいうのは、ガラクタですから、真に受けてはいけません。
どんな話し方をしても、好かれる人もいれば、嫌われる人もいます。
またそういうところにリストされていないものでも、イヤな話し方はあるでしょう。

そういうもので、「ちょっと得した感」を感じるのは、無料のカップヌードルに釣られて列を作るのと同じです。短期的には毒にも薬にもならないし、長期的には有害です。

なぜ有害かというと、ガラクタの断片を入れることだからです。
しっかり身につかず、生きていく意志と一体化しない知識は、心の力を損ないます。

そんなことを考えたことはなかったでしょう?

高等教育を受けていないお百姓さんや、漁民は精神的に健康です。
要らない知識を詰め込まれると、大学生くらいで心が元気でなくなってしまう人はたいへん多いのです。

我々の身体は、何かを食べたら、血となり肉となりするか、エネルギーで放出します。残りは排泄しますね。
ということは、血肉化して一体化することもなく、エネルギーに変換されることもなく、排出されることもない知識は自分の中に入れてはいけないのです。

心の中に自分の一体でない断片が存在すること。これはたいへんよろしくないのです。

よくドキュメンタリーなどを見たあとで、「たいへん考えさせられた」というでしょう?
でも、これもよくないのです。
問題意識だけを植え付けられて答がない状態というのは消化不良なのです。
放送する側も答を持っていない。だから、みんなで考えてみましょう、というけれども、99パーセントの人は解決に向けて考えたり、行動したりしません。
心の中に問題意識というものがたまるだけです。
知識は必ず、自分の中の考えにフィードバックされたり、行動の方向をわずかでも変えなければなりません。
そうしなければ、消化され、一体化されないのです。

だから、私のブログは読みやすく断片化することで、入りやすくするということはしないのです。
入るときに抵抗があったほうが、異物として認識されて消化されるのです。
したがって、わかりやすいこと、共感を呼びやすいことだけを切り取ることもしません。

ただ、わかりやすさには最善を尽くしています。

そもそも「難しい」、というのは、いろいろなレベルがあります。

1.専門用語があって難しい。

学者の中には、「ご存じのように」と前置きして難しい専門用語を使ったり前提を作り出す人がいます。あれは、面倒なので説明を省きながら、この程度のことを知らない人は読まんでいい、と差別しているのです。
なるべく、未定義の用語を使わないように努力して書いています。

2.説明がヘタであったり、論理に飛躍があったりする

これは私はプロの物書きであり、書いていることの高度さに比して、全体にわかりやすいのではないかと思います。しかし、わからない納得できない部分があれば、コメントまたは、メールでご質問ください。

3.聞いたことのない新しい概念である

すでに知られていることなら書く必要がありませんから、ここに書かれているのは、新しい概念が多いのです。
新しい概念に触れると、人はどうなるか、というと、ぼぅっとします。ときには、眠くなります。
こういう反応であれば、それは全く正しいのです。
宗教的な書物を読むときに、そういうことがよく起こります。

人の心は、新しい概念を少しずつしか受け入れません。
「今日はここまで」とストップしてしまうのです。ストップしたあと、消化しているのです。
だから、毎日、少しずつ読めばいいのです。

それから、心に邪魔する要素があると、入りにくくなります。

私も数学で、微分積分の概念がまったく入りませんでした。現実生活に類推しづらい領域になると、「こんなことを知る必要があるのだろうか」という疑問が頭をもたげて邪魔をするのです。
対数とか、虚数とか、「こんなのいるのかな?」と思っていたのです。
(じつは数学としては、そういう純粋概念が面白かったのかもしれません。しかし、もともと勉強も数学も好きではなかったのです)

「こんなことを知る必要があるのだろうか」という言葉があると、それもストッパーになります。
直観的に「必要ない」と思ったら仕方ありません。
しかし、そうでなければ、知る必要があるのだろうか? という疑問はしばらく不問の状態にしておいてください。全体像がわかってきたときに、今「分からない、難しい」と思っている部分がいちばん高い機能を持って働くのです。

難しいことは急いでわからなくていいです。
時間がかかってわかることに値打ちがあります。

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心から見た過去と未来 認知の歪み4

過去はムービーに過ぎない、と書いて、なんとなくモヤモヤと納得できない人もいるのではないかとテレパシーで(笑)感じています。
もう少しそのことを書いてみましょう。

過去・現在・未来と私たちは、いつも3つセットで語りますが、では、未来を見てみましょう。

時間論には、じつにさまざまなものがありますが、私たちのごく一般的な時間感覚に従えば、未来はまだ存在しません。しかし、その存在しない世界に対して、私たちは想像したり、期待や不安を抱きます。

過去も同様なのです。過去という世界はもう存在しません。
私たちは未来に対して想像するように、過去に向かっては記憶を再現します。
未来への想像が現実そのものでないように、過去の記憶の再現も現実そのものではありません。

記憶が正確でないことは多々あります。
自分の都合がいいように変形していることもあります。

記憶はつねに編集されています。
20歳であれは、20年間、24時間全てのことを覚えているわけはないので、記憶していることと、その人は特別な関係を持っているのです。
たとえば、非常に厳格な親に育てられた場合、イヤな思い出や恨みだけが心に残っていることがあります。

しかし、親が老いて人格が丸くなり、あるいは衰えて弱さを露呈したときに、ふっと、今まで強調されていた面と違う面を思い出したりします。

私たちは、未来を変えられるでしょうか?
私たちは自由な選択肢をもって、それを意志的に選択していると思っていますが、それはたしかでしょうか。
いつも決まり切った選択肢しか選べないから、私たちは私たちではないのでしょうか?

そんなふうに子どもの頃、哲学したことはありませんか?

未来は変えられるけれども、過去は変えられない。
それが私たちの通念です。
しかし、心という視点で見たときに、そういう固定観念自体がかなり怪しいものだ、と私は思っているのです。
心というのは、徹底的に「今起きている」ことなのです。
今起きているのでない以上、過去も未来も等距離あるのです。


(ますますモヤモヤした…? 続く)


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過去とは何か 認知の歪み3
 映画のシーンに、スタローン演じるランボーのようなタフガイが自分の体内に入った弾丸をナイフで切開して取り出すようなシーンがあります。
映画で見るのは簡単ですが、これは、相当な胆力、判断力、精神力がなければできることではありません。

普通の人なら、弾丸をすぐに取り出さなくてはいけないと判断して、それを実行することは難しいです。

自分で自分の心を判断し、それに対処するのはある意味、それ以上に難しいことです。
心には弾丸のような具体性、物質性がありませんから、そもそも診断することが難しいのです。

そして、診断よりも変えていくことがずっと難しい。

ある心のクセには、過去の根っこがあります。
雑草を抜こうとして、思わぬ根の深さに手こずったことがあるでしょう。
過去のある経験をきっかけとして、心によくないクセがついてしまうと、そのクセは繰り返すたびに根を張り、強化されていきます。
「自分はダメだ」とすぐに自己否定するクセがついた人は、自己否定してはいけないと理屈でわかっても、心の動きのクセまではなかなか直りません。頭でわかっているのと、それを実行するのはあきらかに違うのです。それで直らないことをもって、自分はダメだ、とまた思ったりします。

では、根を張っている過去とは何か、と考えますと、それは物質的には実在しないのです。
過去は私たちの記憶の中にあって、イメージすることはできますが、手で触れることはできません。
またイメージですが、変えることはできません。
ある人に不用意な一言を言って傷つけてしまった。あるいは傷つけられた、そういう記憶があるとすると、それを個人の意志で編集し直して別の話にすることはできません。

そういう存在として過去は心の中にあります。
しかし、それを想起する機能は現在の心のものです。
つまり、現在の心が、何かのきっかけによって、過去の姿を映画を映すように映し出しているのです。

すごく辛く悲しいムービーがあって、何かのボタンを押すとそれが映写されてしまう。
そういう自動性が過去ではなく「現在の心」にあるわけです。

自分という範囲は、制御できる領域です。
コップを取りたいと思ったら、それをつかんでくれるのが自分の腕です。
それが自分をボカボカと殴ってきたら、それは自分ではなく他者です。

そうすると、何かの刺激によってムービーが勝手に映写されてしまう状況も、制御を失い他者に支配された状態ということになります。

心の連動性が低いのが自由である、ということは書いた気がするのですが、外からの刺激によって、自動的になにごとかが喚起されてしまうのは、最も不自由なことです。
制御を取り戻さないといけません。

つらい過去であっても、過去そのものは否定したくないと意識的にも無意識的にも執着する人は多いのです。
しかし、過去はいまの心の中にあります。

実在しない心の中のムービーなのです。



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嘘をつく心と自己改造セミナー 認知の歪み2
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この「認知の歪み」の10か条は、使いようによっては有益な道具であると書きましたが、それはナイフやフォークが道具であるというのと同義で、他にも金槌や鋸のような道具も必要な場面があるかもしれません。
そのように限定的な意味です。

心の断面図としてよくできている、と私は書きましたが、これはある断面に見えた断層であって、それが役に立つのは何段階も先です。

まず読むのが第一段階。
性格に理解するのが第二段階。
次に、あ、自分にもある、と受け止めるのが第三段階。

しかし、素直にいくとは限りません。心はつねに嘘をつきます。いつも自己合理化しようとする力も働いています。いちばんの欠点は見過ごして、ささいな点を問題にするかもしれません。
そういう狡猾な動きをするのが心です。
このような嘘を自分で見抜くのは、難しいものです。

どうして心は嘘をつくのでしょうか。
これを一つの比喩によって語ってみます。

将棋崩しというゲームを知っていますか?
将棋盤の上に駒を箱からひっくり返し、音をさせないようにとっていくという遊びです。
最初のうちはいいのですが、そのうち、他の駒の重さが乗った駒を動かそうとすると、崩れて音がしてしまいます。

心も同じように積み重なっている部分は動きたがらないのです。
そこを動かすと、全部がガラガラと崩れて来そうでコワい、という無意識の力が働くのです。

つまり、心のエネルギーの流れ方の回路が変わってしまう。その恐怖が強いと、不自由でつねに心の内部の軋轢が高いのです。
いっそ、ガラガラと崩してしまえば、平らになって楽になるのです。
ときどき強烈な体験をして、なにかふっきれたようになる人がいます。
しかし、それは自分が予想したり許容したりする範囲を超えて、なにかの体験をいやおうなく受け入れたということによるものです。自分の頭の中で考えることでは、つねに現状維持的な範囲の中での思考になります。

ある種の洗脳的なセミナーは、こういう原理を利用しています。
一人の参加者を取り囲んで、いっせいに心理的に個人を攻撃するのです。
「心が狭い」とか、「人の眼を見ない」とか、「言葉に自信がなさそうだ」とか……いろいろあるでしょう。
囲まれた人は、いちばん言われたくないと思っていた言葉を次々に押しつけられて、パニックになり、やがて積み上げていたものがガラガラと崩壊するわけです。

そのあと、大部分の人の心はたぶん軽くなると思いますが、もっと再建不可能に崩壊してしまう人や、決定的な傷を負う人もいるかもしれません。危険な方法です。

私たちは、人の欠点を間近で見ても、よほど親しくなければ、忠告しようとは思いません。
ただ遠巻きにして接点を少なくしようと思います。
忠告しても、多くの場合、逆恨みされたり、かわされてしまったりするだけでしょう。

だから、日常の場では、そのような心理的なゲームの場とは違って、人に直接つきつけられることは少ない。いくらでも自分自身から眼をそらしていられるのです。
眼をそらしているのだけれども、じつは無意識は見ています。
それを心理的用語でいうと、抑圧しているのです。
そのように無意識は知っていて、意識が眼をそらしている領域が多いほど、心理的恐怖は増大します。

*
話がどんどん流れていくので、自分でもどういう展開かわかりません(笑)が、あとは、とりあえず次回。


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心理学は読まない話 認知の歪み1
 認知の歪み



以下のようなメールをいただきました。
認知の歪み、についてです。
認知心理学、認知療法というものがあるのですね。

なお、文中にでてくるメルマガとはこれのことです。

プロ編集者による 文章上達 <秘伝>スクール

(文章のメルマガですけど……)

*
(以下メール)

こんばんわ。

以前からメルマガを読ませていただいています。
「秘伝」の1巻にも質問を載せていただいていたりします。
先月、ブログを始められたと聞いて、早速お邪魔しました。
が、内容があまりにも好きなジャンルだったので、片手間にざっと読むわけにいかず、 
主人が送別会で遅くなる今日になって、やっとじっくりと読ませていただきました。

ああ、ほんとに好きなんです、こういう話をするのも読むのも。
でも、なかなか日常生活では、人とこのレベルまで話し込む余裕がなくて。
これからも時間の許す限り、読ませていただきたいです。

現在話を進めておられるテーマとは少し離れますが、
今、私は、「認知の歪み」についてすごく関心があるのです。

メンタルヘルスのカテゴリで開設なさっているのでご存知かとは思いますが、「認知の歪み」とは、心理療法で使われる「考え方の悪いクセ」のようなもので、10のパターンに分けられるそうですね。

自分がものごとを必要以上に辛く感じたり、うまくいかない気がするのは、この「認知の歪み」があるせいではないかという気が前々からしていて。

最初に概要を見た時には、どれも自分には当てはまらないように思ったのですが、よくよく考えるうちに、そうではなさそうだと気付いてきました。

例えば、10のうちの一つに、「〜ねばならない思考」というものがあります。

私の場合、家事、育児、ママ友関係、夫との関わり方。
今は働いていないので、この辺がメインの人間関係になるのですが、これがうまくいかない時には、自分の中に「○○な自分(妻・母親)でなければならない」という思い込みがあるようです。

なのに、理想どおりにできない(したくない)
→できない自分は駄目だと嫌な気持ちになる
→その嫌な気持ちから逃れたいけれど、やっぱりできない
→自分に対してイライラや焦り、周囲に対しては「〜のせい」「〜してくれないから私はできないんだ」という不満を持つ
→やつあたり、けんか、ストレスによる体の不調

…という道をたどっているように感じます。
もちろん何もかもこの通りではなく、最悪のルートを書いたので少し極端ですが。

でも、自分で、ノートにこのフローチャートを書いたあと、反対側のページに、
違う展開を書いてみたんです。

「〜ねばならない」を「〜できたらもっといいんだけどね」に変えてみました。

〜できたらもっといいけど、今はしたくない、余裕がない
→でも今は仕方ない、罪悪感を持たないようにしよう
→ちょっとだけでもできればよし、できなかったらまた次やってみよう
→自分は「ねばならない」から解放されて気が楽になり、周囲へは、「今はできない、ごめんね」と一歩下がった態度が取れる
→対人トラブルが減る

以上、専門家から見たら間違っているのかもしれませんが、自分なりに考えた「認知の歪みの修正法」です。

ネットで見ても、「認知の歪み」について、「○○思考とはくいうものです」と例が一つ二つ書かれている程度で、修正法まで噛み砕いて書いてあるサイトはほとんど見かけません。(それをすると、商売が上がったりになってしまうのかもしれませんが)

もし、お時間が許せば、村松さんのブログで扱っていただけたらなぁと願っております。 

あと、質問ですが、毎回添えられている絵は村松さんのものでいらっしゃいますか…? 
(どこかに説明が書かれていたらごめんなさい、見つけられなくて)
すごくほほえましいのですが、本文との関連とか、これは何だろう?とか、違った意味で考えさせられていますので(笑)、また記事にしてくださるとうれしく思います。

では、これからも全国の心の畑を耕し続けてくださいね!
またお便りいたします。

●村松コメント●

「認知の歪み」知りませんでした。
こう見えても心理学の本はほとんど読まないのです。
通俗的な本は、断片的であてはまらないケースがたくさんあるし、専門的な本は、難しい専門用語ばかり多く、学者によっては文章がヘタで、回りくどい割には何が言いたいのかわからない頭が痛くなる本が多いのです。

だから、私は心理学の本を噛み砕いたり、翻案したりしてこのブログを書いているのではないのです。
元になっているのは、自分自身の観察、経験、人とのつきあい、それからさまざまな読書体験ですが、そのなかに心理学の文献はほとんど入っていません。

それより、私にとっては宗教や神秘主義の文献があるルーツになっています。批判力と共感力、それからもちろん理解力があれば、このような書籍は、人間に対する興味深い理解の宝庫です。
いわば、魔女のスープのようなドロドロの不気味でときには偽物っぽく、ときには毒薬のように危険な原液です。
万人にはお勧めしません。
しかし、面白い。
心理学になってしまうと、また濾過しすぎの薄味になってしまって面白くもないし、役に立たないのです。

前置きはさておきまして、「認知の歪み」です。
ググりますと、いちばんにこんなページが出てきます。

このページはわかりやすいのではないでしょうか。

この内容は、心に元気がない人について、私が観察してきていずれ書こうと思っていたこととかなりかぶっていて、驚きました。
うれしいような、うれしくないような。
うれしいというのは、考えていたことが共通な認識に出会って裏付けられたことであり、うれしくないのは、発見したと思ったことにきちんと先行者がいて、なんだ、と思ったことです。

この認知心理学の創始者は外国人ですが、この心理は日本人にも全くよくあてはまります。
ある心の断面図として、使いようによっては、かなり有力だと思います。

メールのやりとりでは、この10か条についての解説をお望みでしたが、門外漢の私がするのは筋違いなので、仁義としてもできないし、モチベーション的にもできません(やればかなり上手に書けると思いますけど(笑))。

しかし、このメールをきっかけに周辺のことを書くのは面白いので、次回から考察していきましょう。

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心理学というもの / comments(4) / trackbacks(0)