INNER LIFESTYLE DESIGN
 〜ナチュラルに生きる方法論序説
セッション後の変化!
 先日、セッションを受けた方からのメールが来たので、本人の承諾を得て、ちょっと割り込みで紹介します。



***




二週間前にセッションをしていただいた、****です。




わたしは、三年計画で、インディアンの住んでいる街へ行こう、と思っていて、今
は、インディアン関連の本や神秘主義関連の本を系統立てて読んでいます。具体的な
目的がきまると、行動も具体的になるのだ、と感じています。まず、インディアンの
用品が売っている店へ行き本を買いました。次に図書館でインディアン関連の書物を
借りて、少しずつ読み始めています。




アイヌの料理屋に行ったりもしました。アイヌの本を読んでいて、その人の本の話
をアイヌの人に話すと、そのアイヌ料理屋の人の知人のようで、その人は癌で、「も
うだめだなあ」と言っていました。わたしが飯を食べていると、人がやってきて、話
しかけよう、と思い話しかけました。すると、その人がいろいろ話をしてくださいま
した。その人は、彫刻家をしている、と言っていました。アイヌ料理屋で働いている
人がもう一人いて、その人は、「二年くらい引きこもっていました」と言っていまし
た。




海へ行ったりもしました。わたしは、都市のなかで人と話しているときよりも、自
然のなかで遊んでいるときのほうが、面白い、と思っています。公園にある自然も自
然だと思いますが、わたしには物足りないのです。では、わたしは、どのような自然
が好きなのか、と言うと、まだ具体的にどう、と説明することができません。水曜日
に山に登る計画をしていますが、その山に登ったらまた自分の好きな自然というもの
がどういうものなのかはっきりするのかも知れません。




何かしら自然のなかで楽器を演奏したい、と思いました。アボリジニーの人たちが
吹いている楽器を注文し、いまは待ち遠しい、と思っています。




村松さんに、話をうかがったときからすると、少しは頭脳中心の堂々巡りの考え方
から、抜け出すことができているのではないか、と思っています。体が発する無意識
のメッセージというものはあまり聞くことができていないのかも知れません。さっき
は、体が、「ご飯が食べたい」ような感じ、を発しているようでしたが、無視しそう
になっていました。
三年後、にインディアンの住んでいる街に行く、と計画を立ててみると、やってやる
ぞ!、という気が起こります。インディアン関連の書物をよんでいると、正直、自分
だったらこうする、というのを感じます。まだ「こうする」というのは具体的になっ
てはいませんが、ボンヤリしているのですが、明らかにそれは自分のなかにある、と
感じます。




客観視すると、自分のような人間はいくらでもいるのだ、と思います。今、起こし
ている行動を観察しているとそう思います。これから本当の自分になることができる
ように鍛えあげていきたいです。村松さんにセッションをしていただくまで、自分が
堂々巡りをしていることにすら気がつくことができませんでした。そして今ではすべ
て自分の責任であると思っています。目の前にいる人間を批判するのと、観察するの
では、方向性がまったく違うのだと思います。




ありがとうございました。


***

村松コメント


彼は仕事をやめて一年強くらい引きこもり気味で、方向性を失っていた20代後半の青年です。

動くことが面白くなったようで、先日はスケボーをやったそうです。
2週間どうしているのかな、と思いましたが、たいへんに活性化していました。

いろいろな話をしたのですが、「何かしたいことないの?」と聞いたら、「インディアンの土地に行きたい」とぽつんと言ったのです。
それ、いいじゃない、いま、エアチケットも安いし、さほど遠い不可能な夢ではないよ、インディアンのこと調べたり(ネイティブ・アメリカンと言わないといけないのかな?)、どこにいくか、行き方を調べたり、英語勉強したり、周辺のこといろいろ楽しんでできるじゃない? ……

それで彼の磁石の針がぴったりと決まったようです。
そういう方向がはっきりすれば、人は動くことが楽しくなります。

インディアンに憧れるということは、やはり人工的な環境よりも、自然が好きなのでしょう。海や山に行ってみる、アイヌ料理屋に行ってみる、そういうアクションが次のヒントをくれます。

そういう自発的なアクションを起こすことが、じつは無意識との対話なのです。
言葉で考えていると頭の中で回ってしまって何もしない、そこで停滞してしまう人がたいへん多いのです。
自分がしたいこと、できることの範囲の中で日々動いていくこと。
そうしたら、自然に自分のことがわかってきます。

動いていれば、偏った考え方や感じ方は現実によって、また接点をもった他人によって、補正されていきます。
しかし、動かなければ、同じ材料をいつまでもグルグルと掻き回していることになるのです。

彼は堂々巡りからは抜け出しました。
セッションを受けようと一歩踏み出したときに、ループから抜け出していたのです。
セッションを受けるかどうかについても迷っている人はいませんか?
迷うのは考えているのではありません。
永遠のループの中にいるだけです。
(以上、ちょっと宣伝)

ループから抜け出した彼には、新しい世界が開けるでしょう。
3年後、ぜひインディアンの街を訪れた報告をしてもらいたいものです。



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T君からのメール
 JUGEMテーマ:


今朝起きてみたら、5月にセッションをしたT君からメールが来ました。
昨日の記事を読んで書いてくれたようです。
一部をご紹介します。

**

村松さん。
 
 
ふと気にすれば、過去に抱え込んでいた「よく分からない」という苦しみが今の自分にはありません。
'メールを送る'行動を起こしたのは、今でも良い事だと思いますし、その一歩先の村松さんとの関わりも良い転換期の始点のような気がします。
改めまして、ありがとうございます。本当に、生きている間に巡り会えて良かったです。(ちょっと大げさかも(笑))
 
少し前はそのまま最近のことをメールしようと思ってました。
でも「心が大事」でセッションのことが書いてあった、読んでみたら心の中で「ウッ」って声が出てきそうでした。
昨日(9/3)の、
 
>このようにして、1時間半で、言葉の定義や使い方のごく一部を補正するわけですから、残りの部分は再計算して確かめていく必要があります。
>そういう時間は本人自身のものです。
>セッションが終わってからの日常の時間にそのプロセスは進みます。
>だから、1〜2週間くらい経って、再計算が進み、消化された頃にメールをもらうとだいたいの様子がわかります。数ヶ月、あるいは1年以上が経ってまたメールをくれる人もいます。
>そういうのを読むのも楽しみです。
 
のところで、村松さんとのセッションで自分は何をされたかぼんやり分かったような気がしました。
と言っても、それは言葉以前のところで感じ、ただ受け入れたんだと思います。まだ言葉を思い浮かべることは出来ても、言葉で表せていませんから。
 
 
もう村松さんが色んな形で言っていますが、自分は整理する準備、実際に整理する手前まで来たのだ。村松さんに連れて来てもらったのだ。
ここからは、今からは自分でどうにかするんだと、そう思いました。
それと、これからについて“やり直そう”“仕切り直そう”と思いました。
 
今こうして人に話すという形で書いても、このことになんらおかしいと思いません。
自分の過去だけど、自分だけど自分じゃない別人の過去だと思っている。だから、何も知らない、何も分からない、子どものようにただ一点以外は何もない状態から生きることを始めよう、と思っています。


(個人的な内容なので中略)

今一度言わせて下さい。村松さんありがとうございます。
上の文を書いたおかげか、何か少し心がほっとしたような安らいだようなそんな気がします。
ああ、これが理解していくことで自分が変わる、ということですね。
自分の中ではとても大きいことでしたので大か中感動ですかね? でも人から見たらとっても小さいことですし、「他の人にとっては小感動。自分にとっては中感動。」ってところかな。
 
何か、このメールを書く前に書こうと思っていたことが、わざわざ村松さんに聞く事でもないんじゃないかって思ってきました。
自分はこうこうこう思ってます。これから時間がかかっても何とかやっていきます〜、みたいなこと書こうと思ってました。
・・・別にいいですね、当たり前のことですから(笑)

(後略)
*

以上のようなメールです。T君ありがとう。

心は本来、形の固定されないもの。エネルギー、あるいは場(磁場のようなもの)としてとらえられるものです。

でも、悩みは心そのものではありません。悩みは時間とともに堆積するのです。
たとえば、心という川の流れに、誰かにイヤなことを言われて、一本の言葉の杭が刺さったとします。
それを放置すると、そこに流れて来た水草やら、ビニール紐やら、いろいろなものが絡まっていきます。
これが「恨み」というものです。
恨みで川の流れは淀んできていますから、勢いを失い、恨みはますますいろいろなものを巻き込んでいきます。
こういうことをかつて日本人は知っていましたから、恨みは「水に流す」という知恵がありました。
それは相手のためだけではなく、自分自身の精神衛生、すっきりした生き方のためでもあったのです。

今は、恨みを自分の心の真ん中に据えて生きているような人がいます。
「人を呪わば穴二つ」といって、いいことはないのですがね。
そうこうするうちに、心の川には砂洲ができてしまったり、川の流れ自体が削がれて弱まってしまったりするのです。

そうして時間をかけて堆積してしまったものは、解消するにも時間がかかります。
でも、解消する方向に働き出すか、ますますそれを堆積させていくかではまるで心の軽さが違います。

もともと川の流れには勢いがありますから、原因になった杭自体をえいやっ、と抜いてしまえば、全てはいっぺんに流れていきます。

しかし、整理を始めてみないと、埋もれてしまって杭がどこにあるかがわかりません。
どこにあるかはわかっても、いろいろなものが絡みついていて、それをどけないと抜けない、ということがあるのです。

心は自由であるのがいいのです。
でも、自由というのは、ある達成された状態ではなくて、自由でありたいと思って、その方向に歩み出した人は、もう自由なのです。
自由とは、そういう永遠のプロセスです。
自由に向かっていくか、いろいろなものに絡め取られていくか。

人は自分で方向を選ぶのです。


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セッションの実際
 JUGEMテーマ:

セッションを時間の流れで説明しましょう。

まず、あなたがセッションを受けたいと思い立つ。
そして、具体的に申し込みメールを出すというアクションを起こす。
これが第一段階です。

思ったことに迷いがある。迷いがあると、結局は行動には出ないのです。
あれこれと思っているうちに、最初の受けたいと思った衝動は忘れてしまいます。
しかし、迷いは残っている。したがって、迷う限り、行動は起きないのです。

だから、「決めた!」というのが第一段階。

迷う人は、いつも他のことでも迷っているはずなのです。
迷っていることを「考えている」と呼んでいます。
しかし、「考えた」結果、アクションが起きることはないのです。
いつもアクションは起きません。
だから、不活性で想いだけが頭の中をグルグルと回っています。

そのグルグル回りを抜け出さないといけません。

というわけで、メールはこちら!
kokoro@hiden.jp


……というと、怪しいセールストークみたいになりますが(笑)。

でも、これは本当のことです。

決める、ということで一つのスイッチが入った状態になります。
レールの転轍機を自分の意志でガチンと違う方向に切り替えたのです。

そこからセッションは働き出します。

だから、「受けよう」と思ったら、ぱっとメールを出す。
「今は必要ない」と思ったら、ぱっと切り替えることです。
うじうじしてはいけません。

そして、申し込みメールには、当然、相談事を「書く」わけですが、この書く行為も、もやもやしたものをある特定の人に(この場合、村松です)わかるように整理する作業です。
ここで、すでに客観化の作業が始まります。

私は申し込みのメールを受け取ると、日時の調整とともに、相談内容を読んで、もう少し知りたいこと、もう少し書いてもらいたいことなどを返事に書きます。

設定する日時は、なるべく早く。平日なら数日後、土日なら、だいたい1〜2週間うちです。
その間に、2〜3度メールのやりとりをします。

会って最初から話すのでは時間がもったいないですからね。
事前に把握できることは、メールで聞いてしまいます。
それから、どんな話を聞こうか、どんな話をしようか、とあれこれ私も事前に相談内容についてよく考えます。
メールでおおよそ、話の糸口になりそうなことはつかめるのです。

相談者が私のブログや本を読んでいるというのも大変大切なことです。
読んで、納得する部分がある、共鳴する部分があるから申し込むので、話が全く噛み合わない、理解されないという事態が起きないのです。
いろいろな前提を共有して話を始めることができます。
よくカウンセラーとの相性が合う、合わないということを心配しますね。
セッションでは、この点はかなりのレベルまで最初からクリアされています。
また、カウンセラー側はクライアントとの信頼関係を築くのに、あるエネルギーと時間を使うものと言いますが、これについても余計な時間をカットできます。

だから、セッションには読者でない人は受け付けません(来ませんけど(笑))。
たとえば、あなたが家族や友人にセッションを受けさせたいと思ったときには、このブログを読んでもらう必要があります。
そうして、本人が自発的に来たいと思えば、ご本人からの申し込みという形で受け付けます。
読んでも、何が書いてあるかわからない、ピンと来ないという人はフィルターがかかるわけです。

それで面談になりますと、何か特別なことが始まるわけではなくて、まず一杯お茶を飲んで、メールで書いてきてくれたことの続き、私がいつも書いていることの続きで話が始まります。
お互いに緊張することなく、なるべくシームレスに本質に入っていきます。

私はこのブログで何か大切なことを隠したり、神秘めかしたりする気はありません。
しかし、いっぺんには書けないし、読めないし、読者もいちどきには理解できない。それに例外やら脇道などのヴァリエーションもありますから、すべては書く尽くせないのです。そこに面談の価値があるわけです。

セッションでどういう話をするかということを幾何学の比喩で書きましょう。
たとえば、相談に来た人が「平行」という言葉を使ったとしますと、「しかし、その線を伸ばしていくと、ここで交差するんじゃない?」という話をして確認するわけです。
平行でないものを平行という言葉で呼んでいると、そのあとの計算はどうしても辻褄が合わなくなるでしょう。
それと同じことが私たちがふだん使う言葉にもあって、とくに自分の人生や生き方、過去などを適切でない言葉で括ってしまうと、そこがズレているだけで、全部計算があわなくなってしまいます。
一カ所がズレているだけで、考えがストンと自分自身が納得できるところに落ちないで、いつも同じところをグルグル回ってしまいます。

僕はもともとが編集者であり、物書きなので、言葉に敏感なのです。
そういう言葉の周辺というのは、エネルギーが淀んでいます。
そういう結び目をいくつか、一つか二つほどくか緩めるだけで、あとは自動解凍していくものです。

こういう話をするのに、経験的には、1時間半〜2時間くらいかかります。
1時間では足りないし、3時間では多いです。

このようにして、1時間半で、言葉の定義や使い方のごく一部を補正するわけですから、残りの部分は再計算して確かめていく必要があります。
そういう時間は本人自身のものです。
セッションが終わってからの日常の時間にそのプロセスは進みます。

だから、1〜2週間くらい経って、再計算が進み、消化された頃にメールをもらうとだいたいの様子がわかります。数ヶ月、あるいは1年以上が経ってまたメールをくれる人もいます。
そういうのを読むのも楽しみです。

このプロセスを読めばわかるように、相談に来る方は、ずっと自立性を保ったままで、依存状態が生まれることはありません。
このように最小限の接点で済ませることが大切なのです。

というわけで、90分1万5千円は、90分だけではなく、その全プロセスにつけた値段です。
でも、念のために、一回では心許ない、さみしい、リピートしたいという人には、半分の時間、半分の値段でお受けします。

(90分 1万5千円 追加30分5千円 対面のみ 東京・目白に来られる方)

いちおう面談をベースにしていますが、オンラインでのセッションなども、どういうスタイルでできるか模索中です。

セッションのお申し込みは、kokoro@hiden.jpへ。


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心を軽くするセッション/一期一会・非リピート系

私の行っているセッションについて、話の切れ目で書こうと思っていましたが、いっこうに話が切れる気配がないので、ここで割り込み的に書くことにします。

セッションとは、聞き慣れないでしょうが、いわゆるカウンセリングと思っていただいてもいいでしょう。

しかし、違う名前を使うにはわけがあります。
カウンセリングには、さまざまな公的な資格が関わっています。
カウンセラーの資格を取るためのサイトには、こんな解説があります。

「学校心理士、 交通心理士、 催眠技能士、 産業カウンセラー、 医療心理士、 認定心理士、 臨床催眠資格、 臨床心理士、 臨床発達心理士、 応用心理士、 認定カウンセラー、 交流分析士、 家族相談士、 家族心理士、 教育カウンセラー、 精神対話士、 心理相談員、 遺伝カウンセラーなどがあり、そのなかでもカウンセラーとしての区分には、医療、教育、司法、福祉・公衆衛生、産業、研究の6つの分野に分かれており、各々が専門職としてまったくちがった内容を求められることになります」

この分類以外にも何かありそうですが、いずれにしても恐ろしくたくさんの領域に分かれているものです。
それぞれに学会やら、さまざまな団体などが関わって、それぞれの基準を作っているのでしょう。

こういう人々のテリトリーにはあまり抵触したくない、というのが、違う名称を使う理由の一つです。
その分、わかりにくくなっても仕方ありません。
旧来の資格や権威は、私は持っていないし、ほしくもないのです。
ここに私が書くことによって、信用してくれる人だけを相手にするのでいいのです。
団体がいくつに分かれても、心の本質は一つです。

カウンセリングという言葉を使わないもう一つの理由は、カウンセリングには、治す人、治される人、というにニュアンスがついて回るからです。
これは捉え直すと、医者と患者のアナロジーです。

僕の使うセッションは、音楽の領域で、いわゆるジャム・セッションと言われるものです。ウィキペディアでは、以下のように書いてあります。

>複数のミュージシャンが共に演奏すること。一度きりのものなど、継続的でないものを指すことが多い。ギグやジャム。

医者と患者は、リピートすることが前提です。
医者はあまり簡単に病気が治ってしまっては、仕事が減ってしまいます。
患者も自分に病気というレッテルを貼られて、そのモードに入り、不安になった分、医者に依存していきます。
心には身体以上に言葉が干渉しますから、「病気」というレッテルを受け入れることは、つねに病気であるという意識を自分に焼き付けていることになるのです。

セッションは一期一会です。
何のセッションかといいますと、あなたの心の迷いや、悩み、重さをめぐる対話によるセッションです。
心そのものは扱えませんから、言葉を扱います。
自分について考える言葉の構造の中にいろいろなものが詰まっているのです。
押し入れの中にぎゅうぎゅう昔のもの、見たくないものが詰まっている。
それは、自分では整理しきれないので、一緒に押し入れから出して、「これはいらないんじゃない?」「これ捨てちゃおうよ」「これはこういうふうに収納すれば?」そんな話をすると思ってください。

中には、ばっちくて触りたくないものがあったり、コードや針金が絡んでややこしいものがあったり、一回では全部押し入れから出し切れなかったりするケースもあります。

しかし、押し入れから出して、光をあててしまうと、相談しに来た人も自分から、「これはたしかにいらない」「これは忘れていたけど、大好きだからまた使おう」といろいろなことを考え出します。
整理していく方向性とモチベーションが生まれて、いろいろなアイデアが出てきます。

そうなると、あとは本人が整理を実作業として進めていく時間が必要なわけで、それには、少なくとも何か月かかかります。
だから、方向性がわからなくなったり、どう処理していいかわからないモノにぶつからない限り、セッションのリピートをする必要がないのです。あまり干渉することは不要なだけでなく、余計な依存関係を生み出します。
この整理作業の間、僕はときどきメールをもらって簡単なお返事を書くだけです。
整理している本人にとっては、毎日、さまざまな発見があるようで、日が経つにつれて、内容はいきいきとしてきます。心の中で、こんがらかっていたものがほどけていく様子が伝わってきます。

そういうプロセスには、ある時間が必要なのです。押し入れに何がどれくらい詰まっているかによってプロセスは違います。しかし、確実に整理されて心は軽くなっていきます。

医師や、占い師、カウンセラーといった職業は、給料制ではない自営の場合、リピーターによって成り立っているといって過言ではありません。
しかし、私にとっては、あまりリピートするということは、セッションがうまく行っていないということです。

ときどき「いいカウンセラーがいるので、もう何年も通っています」という人がいます。
私は「ああ、そうですか」と言って何も言いません。
こういう人は、もうそのことにかなり心理的な投資をしてしまっているので、依存関係ができあがっています。それを外から否定することはできません。人が寄りかかっている杖を振り払ったり奪うことはできません。
自分で気づくしかないのです。

カウンセラーがリピートを前提にするのは、商売だから仕方ありません。
私のセッションはどうしてリピート前提でなく成立するか、といえば、私の本筋は「書く」ことだからです。
自分の方法論でセッションをして、セッションで得た観察をまた自分の捉え方にフィードバックする。そのようにして理解や方法論を裏打ちし洗練させていきます。書くことに6のエネルギーを使い、セッションそのものに4というバランスで考えています。

極端に言ったら、このブログを読むだけで、心というものの輪郭がしっかりしてきて、エネルギーがきれいに回るようになる。それを目指しています。
それではちっとも私にお金が入りませんが、売れるか売れないかわからない本など書いていたのでは間に合わないと思って、無料でオープンに読んでもらえるブログという形式を選んでいるのです。
いわば、日本全体の「心という畑」を耕したらすごいことになるだろうな、というのがいちばんの書く動機なのです。その作物を自分のものとして取り込む方法については、いまのところ、大したアイデアがありません(笑)。そのうちなんとかなるでしょう。

読むだけではわからない。自分にどう適用したらいいのかわからない、まだ書いていないことや、もっと深いことが知りたい、という方だけがセッションを利用していただければと思います。

割り込みついでに、次回はセッションの具体的なことを書こうと思います。




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