INNER LIFESTYLE DESIGN
 〜ナチュラルに生きる方法論序説
引きこもり脱出5 知的拠点を作ろう
JUGEMテーマ:

読書の対象を絞り、知識をネットワーク化していく。
この一つのモデルを作り出すと、よく言われる言葉で「自分の頭で物を考える」ということができるようになってきます。

引きこもる人は、学校教育の断片かされ羅列された知識を無批判に取り込んでいく、というスタイルに乗れなかったという面もあると思うのです。

だから、自分自身で知識を、もっと大きくいえば、世界観をネットワークするほうがいいのです。

そのためには、取り込む世界は現代のものではないほうがいいのです。
現代は評価が固まっていない、生きた世界です。
だから、知的対象として閉じることができません。
たとえば、現代政治を知ろうと思っても、次々に新しい事件がおき、新事実が明らかになったりします。
その点、歴史は、ときどき新資料などが出てくることがあっても動きが緩やかです。

前回は作家を集中して読む、という例で考えましたので、今回は、一つのカテゴリーを読む例を挙げましょう。

たとえば、「昆虫」の本を読む、というのがイメージとしてわかりやすいかもしれません。

昆虫の本では、「ファーブルの昆虫記」が有名ですね。
まず、それを読むのが基本として、その他にも昆虫について書かれた本がたくさんあるでしょう。
それからいろいろ図鑑なども、眺めたり。
そうやって主だった本を読んでいくと、いろいろな広がりが出てきます。

中味の濃い本と薄い本が一目で見分けられるようになるでしょう。
蜂や、蟻の社会と人間社会を比べていろいろなことを考えるかもしれません。
個別的な知識を蓄積するだけではなく、生命とは生物とはなんだろう、ということから、人とは何だろう、ということまでつなげると、生きる力になります。
珍しい昆虫を実際に自分で見たくなって旅に出るかもしれません。
他の昆虫好きや、学者などと出会ったときにも、会話や質問、情報交換などができるようになるでしょう。

散逸しがちなエネルギーを一点に集中するから、このようなことが可能になるのです。
こうして自分の知的な陣地を作ります。
陣地を作れば、それを拡大していく方向はいつも具体的に見えています。

インターネットは、閉じていない。そして、つねに変化していくものを映しているのです。
それを基盤に自分の考えを固めるということが難しいということがわかりますでしょうか?
だから、ネットのニュースについたコメントを見ると、非常に感情的で短絡的、そして、自分の固定観念と不十分な情報で判断をくだしているものが多いのです。
自分の考えで人を裁くのは快感なのでしょうが、それは自分の固定観念を露わにしているだけです。
そういう自動的反応を物を考えていることと混同してはいけません。

考えを始めるには、安定した閉じた系が必要なのです。
もう一つ比喩をいうならば、頭の中に自分の箱庭のようなものを作るのです。
その中で物を考えることを始めていくのです。

こういう拠点を作って知的な操作をすることがある程度習慣付くと、自分自身のことを考えるときも、さまざまなことを同時に考えて総合的に判断を下すことができるようになるでしょう。

このような訓練がないと、自分の感情に都合がいい事柄だけを集めて物事を判断するようになります。
ある人が嫌いだとなると、その人のいいところは一切見ない、とか、そういう視野の狭い態度を近頃たいへんよく見かけるのです。

知性と感情はこういう領域で相互に浸透、干渉しています。
知的な枠組がきちんとしていないと、心はいっぺんに一つの方向に偏りやすい傾向があります。


*************

多くの方に読んでもらえるようにワンクリックお願いします。





読書 / comments(0) / trackbacks(0)
引きこもり脱出4 系統的読書法と生きた知識
 [2 知識はネットワークで働く]

自分の好きな著者や領域を見つけたら、その関係書を通ったあとにぺんぺん草も生えないくらいに読み漁る、というのが、大切な読書法です。
もちろん、最初は気が向いた本を読めばいいのです。ただし、知己を求めるのが目的ですから、現代のベストセラーはやめましょう。もっと人の知らない自分だけの領域を作り出すのです。
そうして、気になる作家がいたら、その人の本や周辺の本を楽しく読める限りは系統立てて全部読んでしまいましょう。

面白い本は宝物です。
それを私は自分の中で「鉱脈」と呼んできました。
金の鉱脈を見つけたら、1グラム残らず掘ろうと思うでしょう。
それと同じで、面白い本を見つけたら、その周辺をどんどん掘り進むのです。
図書館が無料だというのは、このときもたいへん役立ちます。

私の大学の文学部の卒論では、作家をとりあげる場合、作家の作品を全部読む、しかも生きている作家ではいけない、ということがルールづけられていました。
それならと、ある女性は、生涯にたった2冊しか著書を残さなかった作家を探してきました(笑)。

2冊しか著書のない作家なら、2冊を読めば全てを読んだということになるのです。
100冊著書のある作家であれば、99冊読んでもすべてを読んだとは言えません。
100冊読んでも、存命の作家の場合、101冊目を書いてしまうから、全てではなくなってしまいます。
だから物故した作家が対象なのです。

全てを読んでいないと、ある理論を立てたときに、読んでいない部分に例外があるかもしれないのです。

これは学問の方法論であって、私たちは、卒論を書くわけでも、学者になるわけでもありませんから、そこまで厳密である必要はありません。
しかし、一人の作家を全部読んだということは、一つの完結した宇宙を内的に所有したことになるのです。
だから、好きな作家は少なくとも主要な作品は押さえる努力をしましょう。
友人などとある作家について語る、ある映画監督について語るなことがありますね。そのときに、その人の主要な作品をおさえていないと、なんとなく歯が抜けたような迫力のなさになってしまいます。
何かについて考えるときは、手に入る情報はなるべく多く集めたほうがいいのです。

ここでは、知識の量が多いのがいい、という話をしているのではありません。
絶対量が多いことではなくて、同じ読書でも、領域を絞って集中的に体験することが心にとってたいへん有益なのです。

一人の作家を読んでいけば、解説などでその人の背景や生き方などを知ることになるでしょう。
著作の一覧を見て、まだ読んでいない本のチェックをするのも楽しいものです。
そして、その周辺でも読みたい本がでてきます。
そういうふうに読み進めると、知識がネットワーク状に広がっていくのです。

知識は、そういうふうに組織されているときに、心の力になります。
詰め込み式教育という言葉がありますが、バラバラに押し込まれた知識は、心の力を削ぎます。
知識の断片は、判断に干渉してきます。
「こういうときはこうすべきだ」という知識があっても、なぜそうなのかを知らなければ応用が利きません。
「こうすべきだ」が成立する前提もわかりません。
ただ機械的に応用してうまくいなかいことがあります。
であれば、いっそ何も知らなくても、その場の状況を見渡したほうがよい判断ができる場合があります。

【生きた知識と死んだ知識】があるのです。
個人の中で系統樹やネットワークを持たない知識は、死んでいますが、刺激を受けると機械的に起動することがあります。
それが先入観になったり、固定観念になったりします。
ネットワーク化した知識も、誤ることはありますが、他と連動していますので、つねに新しい情報や経験によって補正されて行きます。
人から疑問を呈されたときも、生きた知識は体系的に他と照らし合わせることができますが、死んだ知識の場合、新たな判断と結びつきません。
むしろ、感情と結びついて反撥することが多いのです。
このような断片的な知識の起動は、結論が決まっているので「考えている」ことにはなりませんが、本人は考えていると思いこみます。
(このような観察は、他人を批判するときに用いやすいものですが、このブログの主旨は他人に対して優越することではありません。まず自己観察に10使ってから、他人に対して1くらい使うようにしてください。そうしないと道を失い、頑なな人間になります。それこそが断片的な知識の働きです)

生きた知識を自分の中に取り入れる、そのいちばんいい方法が、系統的かつ自発的読書です。

【知識と心の関係】、考えたことなかったでしょう?

これは学校では決して教えてくれません。



************************

【↓多くの人に読んでもらうためにポチクリック、ご協力ください↓】



読書 / comments(9) / trackbacks(0)
引きこもり脱出3 自己発見の読書法
 JUGEMテーマ:

引きこもり脱出のための図書館作戦、今回は読書法です。

2つの要点があります。

[1は、波長の合う人やモノを探す]

知己(ちき)を見いだす、という言葉があります。
知己とは、親友、友人のことです。
己を知るもの。自分を理解してくれる人。
波長の合う人。
そういう意味があるので、友人ではなく、ここでは知己と言ってみたのです。

じつは知己と出会うのは、さほど簡単なことではありません。
たいへんな宝物と出会うようなものです。

しかし、書物の世界では、むずかしくありません。
古今東西の偉人、作家、思想家、科学者があなたを待っています。
数百年前の宗教家があなたと波長が合うかもしれません。
あるいは、ラテンアメリカや、アフリカの作家と意気投合するかもしれません。

ネットは「日本」の「現代」を映しています(もちろん語学が堪能であれば、他の広がりもあると思いますが)。そうすると、そこで出会う人の波長というのは、基本的に似ているのです。

図書館で本の著者と出会うことは、もっと広い世界に知己を求めることになります。
波長の合う存在を探すために、本という一目で中味が飛び込んでくる形式がたいへん役に立ちます。
波長が合う本は、慣れてくると本のほうからあなたの眼に飛び込んでくるでしょう。
それが本のオーラというものです。
図書館という場所に本が系統立てて並んでいることも役に立ちます。
本屋は、売れる本が前面にでます。
時代の傾向を大きく現しすぎていて、同様の働きは少ないのです。

気の合う著者や、自分の興味のある領域をここで見つけることは、何かのときに自分を支えてくれるパワーを得ることになります。
自分自身の波長を確認し、それに自信を持つことができます。
実生活で波長の合う相手と出会うためには、まず自分の波長を整えることが前提となります。

図書館で知己と出会いましょう。

(自己発見の読書法2に続く)



読書 / comments(13) / trackbacks(0)
引きこもり脱出2 図書館の性質 
JUGEMテーマ:

さて、図書館につきました。
そこには何があるでしょう。

本です。
系統別に仕分けされた大量の本。
特別な目的がないなら開架式の図書館がいいでしょう。

本という知識のパッケージは、ネットの情報と何が違うでしょうか。

1 商品として洗練された情報である

ネットの情報は原則として無料です。また制作にも費用がかかりません。本は人がお金を出して買います。その分洗練されているといえます。

2 時間的な幅が広い。

ネットの情報は、基本的に「今」です。発信も今、発想も今、消費も今です。古い情報は廃棄されます。wwwの発展がそもそも90年代ですから、それ以前の情報はありません。また記録を目的に使われ、公開されているケースはたいへん少ないです。その場その場で消費されていく性質の情報が大部分と言ってもいいでしょう。

本の世界には、古典的名著が厳しいフィルタリングを経て残っています。

3 完結性が高い

本は一冊で一つの世界を形成し、一つの結論、一つの満足に収束することで商品性を保っていることが多いのです。ネットでは、たとえばブログなど、つねに途中経過です。心にとっては、一冊という単位で完結していく、ということは、情報として非常にとらえやすい、扱いやすいものです。
また一冊の本を読み終わった、という満足感は独特のものです。

4 多様な装丁がある

ネット上でも、バナーやウェブデザインというものがありますが、本のデザイン、装丁というのは、たいへん歴史があり、かつては丹念に作られたものです。
そこには著者や編集者が本を送り出す思いがあって、デザイナーの苦心があります。

かつてはそこにイラストレーター、カメラマン、写植屋など、さまざまな人が関わっていましたが、いまは制作費や単価が安くなって、ほとんどデザイナー一人の仕事となりました。したがって、表紙にイラストも写真もない文字だけのデザインが増えています。

いい装丁の本を見てください。いろいろな人の思いがコンパクトに一つの形になっています。本にオーラが出ています。

5 一覧性が高い

装丁の多様性によって、一目で何の本だかわかります。図書館の中は5〜10分もあれば回れますが、その間に人の興味や営みの全領域を感じ取ることができます。
ああ、こういう世界もあるなあ、といろいろなことが想像できます。

*
本には手触りがあり、愛着があります。本好きには言うまでもないことですが。
ネットを否定するつもりはありません。私だっておおいに活用しているのです。

しかし、同じ「情報」ならネットのほうが手軽だ、と同一視しないでほしいのです。
働きが大きく違うのです。
きちんと差異を認識して、使い分けてください。

以上は本と図書館の性質です。
それをどのように利用するか、次回に書きましょう。 


読書 / comments(0) / trackbacks(0)
ソクラテスの対話編と言葉の力
 JUGEMテーマ:


昨日書き忘れましたが、対話編は、哲学史的な意義とか意味とかを無視して読むのがいいのです。
知識を得る勉強のつもりで読んではいけません。

そうすると、ソクラテス(プラトン)の考えの流れが、2000年以上の時の流れを超えて流れ込んできます。

その強靱でブレることのない思考の流れを追っていくと、身体でいうところの均整美を感じることができます。
現代日本の言論より、はるかに健康に発達しています。

読むことによって、思考の集中力、概念形成力を鍛えることができるでしょう。知識を得ることではなく、そのような訓練として読むことがお勧めです。

プラトンは秘儀参入者(この言葉は大変なので、ここでは説明しません)であったと言われています。
ソクラテスの対話編の著作は、それを読むこと自体、秘儀参入の手段であったり、修行法であったのだと、今回はっきり感じました。

ソクラテス自身は、書き言葉では生命を失う、というような理由で、著作を残していません。今だったら考えられませんが、広く伝えることよりも、生の言葉の生命を大切にしたのです。
そして、聞いた人や弟子たちに口伝で重要なことが伝わっていけばいい、と考えていたのでしょう。

話すこと、聞くこと。
書くこと、読むこと。

それが現代よりも、ずっと深くて重要な行為であったのです。

ソクラテスの対話編は、言葉の力ということを考えるときに、私にとっては、一つの基準となっています。

読書 / comments(0) / trackbacks(0)