副題に「ココロを哲学するサイト」とつけたでしょう?
この哲学についてちょっと。
何年か前から、僕は肩書きの隅っこで、ささやかに「哲学者」と名乗っていました。
どうしてささやかにかというと、「哲学」というと偉そうに思われるでしょう。
普通の人から見たら、いわゆる敬して遠ざける対象、ということになります。
しかし、一方で哲学を「勉強」している人たちからは、僕の書いているものは「あんなものは哲学ではない」と言われる可能性が高いように思われます。
哲学を知らない人からも、知っている人からも疎ましがられるわけです。哲学者と名乗ることの椅子はたいへん座り心地が悪いものです。あまり嫌われたくないから隅っこで名乗っていたのです。
しかし、哲学には一ついいところがあります。
それは自由だということです。
自分自身以外の基準で自分を測る必要がないのです。
哲学は「学の中の学」と言われます。
哲学によって科学を測ることはできますが、科学によって哲学が測られることはありません。
社会学、経済学、言語学など、あらゆる学問に対してこのような優位性があります。
哲学にもいろいろな考え方があると思いますが、僕の哲学は「汝自身を知れ」から始まります。
自分自身を知るということは、人という存在を知ることです。
人という存在を知るということは、人がすべて持っている共通性を知ることです。
人類としての共通性、ある時代の共通性、日本人の民族的な共通性、そのような共通性を知ることによって、自分自身しか持っていない性質を知ることができます。
自分とは何か? 人とは何か? というのは、いちばん根源的な問いかけです。
しかし、自分とは何かを考えるときに使うのは言葉ですから、言葉の性質や使い方もよく理解するのが哲学です。
つまり、考察する対象が人と言葉であるという点で、あらゆる学問に先立ついちばん根源的なものが哲学であるわけです。
では、大学の哲学科がそういう根源的なものを教えるか、といったらそんなことはないのです。
学校で教えているのは『「哲学」学』です。教えている人は哲学者ではなくて、哲学学者です。
絶対優位の筈の学が、学問の1ジャンルに甘んじているのは、いわば先人の書いたものの研究だけをしているからです。
カント、ヘーゲル、ソシュール、フーコー、バルト、ラカン、ああたらこうたらと、哲学の領域で主に論じられる人は決まっています。
しかし、はっきり言って僕は、この人たちの書いたややこしく回りくどい文章を読めません。
しかし、哲学学の世界では、まずこの人たちを読むのです。たくさん読んでいる人が偉い。原著で読んでいる人はもっと偉いという知識の質と量についての序列があります。
そうして学び始めた人々は「ラカンの××はさあ」とか、「ソシュールの○○はさあ……」と名前や概念を仲間同士の会話に織り込んでみて、相手もうんうんとうなづきながらそれらしい返事を返してくれれば、その世界の仲間入りができたと胸を撫で下ろすのです。
前も書いたかもしれまんが、僕はこれを隠語の交換と呼んでいます。
狭い世界でしか通用しない言葉を使うことで、仲間同士の確認をしあい、閉じた世界を作り出すのです。
それが日本における「哲学」の世界ですが、それは哲学を勉強しているのであって、哲学をしているのではないのです。
僕が興味があるのは、フランス人やドイツ人が作り出した概念という舶来の包丁で世界を切り取ることではなくて、日常語という包丁をどこまで研ぎすますことができるかなのです。
日本の哲学の悪口はまだ言えるのだけど、関係ない世界なのでこれくらいにしておきます。
僕の考えでは、哲学なんて、勉強するものではありません。一人ひとりが勝手にやればいいことなのです。
僕を勇気づけてくれるのは、アンジャッシュの渡部がJ-WAVEでやっている「ブラトン」で「××を哲学する」と毎回やっていることです。哲学するって、あんたそれ「話題にしている」だけではないの! って毎回思います。
しかし、それでいいのです。
哲学を勉強している連中はほうっておいて、一人ひとりが自分勝手に哲学するのがいいのです。
あなたも哲学しましょう。