ココロを哲学するサイト

巻頭言

これは心にセンタリングするブログです。

今の世の中は中心がお金や経済で回っています。でもお金で価値が一元化していく流れは、人にはちょっとしんどいものです。だから、それとはズレた次元に、心という中心を求めて行こうと思います。

本当はセンタリングというからには、究極的には魂や霊に、あるいは神に中心を求めたほうが安定がいいでしょう。しかし、現代ではスピリチュアルな領域もすっかりカテゴライズされてしまっていて、語り口も決まりきっています。どこかで読んだようなことが順列と組み合わせを変えて書かれ、何の目新しさもありません。そういう領域で書いてもちっとも面白くないので、心という中途半端な領域で四苦八苦しながら哲学するつもりです。
そもそも、自分の心がわからない者には霊や魂のこともわからんだろうと思います。

読者の皆さんにもお願いがあります。

愛読者を自任される方は、ぜひさまざまにアクティブな応援をお願いします。
これは心を見つめる、心について考える、という運動です。
私が書く、あなたが読む、ということで完結してしまうのは意図するところではありません。

もし読むということが、お昼にコンビニ弁当を食べる、ハンバーガーを食べるということと同じような消費活動に過ぎないなら、昨日と今日と明日に何の変化もありません。

雑多な知識の断片を十分に消化することなく頭脳や心に次々に取り入れて満足するなら、それは「死んだ読書」です。
本来、読書というのは、食事を取るのと同様に書物の内容を血肉化するところにあるのです。
だから、よいものを取って、毒物は取らないようにしなければなりません。
ぜひこのブログについては、生きた読み方をしていただきたい。

なぜなら心というのは生きて、毎日変化していくからです。

もし、心は変わって行かないと思っていれば、このブログを読むことは意味がありません。
むしろ有害かもしれません。

このように読み方を読者に強制する権利も方法も、もとより、著者にはありません。
一度公開した文章を読者が「どのように読もうが勝手」だと思うことを物書きのはしくれとして僕は知っています。
僕もそのように読むことがあります。
ただ、そういう読み方をしてもらいたいと望んでいる、ということはきちんと言葉にしておく必要を感じたのです。
そのような読み方があるということも、著者がそのように思っているということも全く想像しない読者もいるように思うのです。

具体的にはそれは次のようなことです。

  1. 書いてあることを読んで知識として蓄積するのではなく、自分の心、経験と照らし合わせて吟味してください。
  2. そのときに何を感じたか、できるなら言葉にしてみてください。同意ではなく違う意見でもいいのです。
  3. 出てきた言葉をこのブログあてのコメント、メール、あるいは自分のブログやツイッターなどに書いてください。
  4. このブログへのリンク、クレジットなどもお願いします。
毎回ではなくていいのです。
心に自然に言葉が浮かんできたときに。

そのような連鎖全体を書くことととらえたいのです。

それだけは物足りない、さらに応援したい方に!

あるいは違う応援をしたい方に!

本が売れない時代になってきまして、村松も物書きとしての自分の活動を考えなければいけません。
その部分のフォローとしまして。
  1. 単なるカンパ。
  2. 著書を購入する。
  3. 心理研究会に参加する
  4. セッションを受ける
などで、心の中で思うだけでなく、力強く応援してください。
SBA講座やります。そして有料モニター再募集

SBA(象徴的身体調整)とは、何だ、短く言え、と言われるとたいへん困るのですが、一つ間違いがないことは、僕のライフワークの芯になっていくだろうということです。

全く新しい世界で、スキーでいったらまだ誰のシュプールもないバージン・スノーが広がっているのです。
その新世界を過去の次元の言葉で語ることはとても難しい。

麻雀の点数やルールと同じことです。最初はなんのことかちっともわからない。わかってしまえば、さほど難しくもないのですが、では、麻雀をどうやるか、何が面白いのか、短く言え、とやったことがない人に言われても難しいでしょう。

あえて説明をすれば。

象徴の力、という今まで忘れられていた、あるいはあやふやに思われていた力を、とてもシンプルに現代的に再生する技術です。

先日も、陶芸の年長の友人が腱鞘炎で手に激痛を訴えていたので、SBAをしますと、痛みがその場で消えてしまいました。
全く手は触れずに、象徴的に「干渉」したのです。この干渉は、まず「象徴的身体」に影響を与え、次に磁気的身体を整えます。
最終的に今回のように「肉体」レベルにまで影響が及ぶことがあるのです。

SBAの目的は、病気治しや痛みを取ることではなく、このプロセスにある「象徴的身体」や「磁気的身体」の原理を確定し、人の身体に関する理解を深め、さらに応用的な展開を図ることです。

このSBAを試行的に少人数に実践的に教え始めます。
SBAは、僕個人の特殊な才能ではなく、背後にある世界観を理解すれば、誰にでもできる技術である、という理解でものごとを進めています。

とはいえ、本格的に人に伝授したことはないので、どれほど早く人がそれを習得できるのかはまだわかりません。
試行的という所以です。

最初の講座は、3回連続講座で、3回続けて受講できる人のみ、とハードル高めに設定しました。
一回目で概論をやり、二回目までに誰かに実践してきてもらう。
二回目からは、実践して気づいたことから話し合う、というウルトラ超速成講座を予定しています。予定通り運ぶかどうか。

場所は滋賀県大津。
5月18日金曜の朝10時から。
日程を見て、参加可能な方はご検討ください。

SBA中心の話にしましたが、
「自分らしく自分の夢を実現する会」も5月17日にあります。こちらは、「願望実現系」とは一味違う夢の話をしたいと思います。

*

滋賀の講座は、元新橋芸者で売り上げナンバーワンだった千代里さんが僕の愛読者で企画してくれました。
詳細はこちらをご参照ください。

千代里の福ふく日記
http://blog.chiyorin.com/?eid=496

*

それから、SBAそのものの有料モニターを募集します。詳細は以下と同じです。
効果を感じなければお代はいらない、という気楽なものです。興味がある方はぜひどうぞ。

SBA有料お試しモニター募集(期間限定)
http://kokorogadaiji.jugem.jp/?eid=234

今回はとくに期限は切りません。
募集を打ち切るときは、ここの文章を削除するか変えることにします。

*

SBA講座は、おそろしく少数になりそうなので、濃くなります。お近くで都合のつく方はぜひご参加ください。
SBA / comments(0) / trackbacks(0)
SBA有料お試しモニター募集(期間限定)

SBAは、Symbolic Body Adjustmentの略です。
日本語にすると『〈象徴的身体〉調整』。

短く説明すると、磁気的身体と肉体の間の不調和を調整するものです。
長く説明すると一冊の本が書けるので、今回は書きません。

しかし、全く書かないわけにもいかないので、簡単な原理とどのような効果があるかを象徴的に言いましょう。

人が宇宙の星だとすると、それを本来の軌道に戻すものです。
人には歩むべき自然の道があります。
それからそれたときには、磁気的な不調和が生じているのです。

これに象徴的な干渉を与えると、本来の調和と軌道に戻ります。
人の身体の中の宇宙は本来調和のとれたものだからです。
水が高いほうに流れることがないように、人も本来自分自身の軌道に戻る力を持っています。

この象徴的な干渉によって、心身を癒し、運を開き、生命の活力を取り戻します。

近しい人にモニターしてもらっていくつか顕著なヒーリングの実例を得たので、今回ややオープンな形でモニターを募集します。

下記が要項です。

*遠隔でします。
*施術上、お名前、年齢、ご住所などを教えていただきます。
*ご家族の方でもかまいませんが、同居で経過が観察できる方に限ります。
*どのような現象が起きたかをブログその他に書く場合がありますが、とくに許可を得ない限り、実名、住所など個人を特定できる形で公開することはありません。
*ちらかった部屋のほうが掃除の効果があるように、何か具体的な不調がある場合が効果がわかりやすいです。
*無料ではありません。効果があった場合、後払いで自分の納得のいく金額を払ってください(0円でもいいですが、その場合は次回はありません!)

冷やかしはお断りですが、お試しはチャンスです。
とくに関心のある方向けですので、期間限定、2012年3月末で終了します。

下記へ、住所、氏名、年齢、職業など簡単な自己紹介と、困っている状態があれば

G 小文字になおして送信ください
muramurainG@gmail.com
- / comments(0) / trackbacks(0)
ある返事 災難と主体性
久しぶりです。
これは、『銀河の家』という会員制の掲示板に書いたある人へのお返事コメントの転載です。


*

災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。
死ぬ時節には、死ぬがよく候。
是ハこれ災難をのがるる妙法にて候

これは良寛さんの有名な言葉ですね。
これは災難にあった知人にあてた手紙の一節だったような。

出口王仁三郎も

「虎に食われない妙法は、虎に食わせてやることだ」といって、腕を突き出したといいます(人に聞いた話で細部はたぶん違う)

どちらもさりげなく凄まじいことを言っています。

つまり、災難を避けようとすれば、主体性を失って、より不自由な状況に追いやられると言っているのです。

僕が3.11事故後、数日間毎朝震えるほど不安であったのは、事故後すっかり変わってしまった世界への(何も変わらない世界でもあります)同調、チューニング現象であったと思っています。

いま、僕はシフトを終えて、まったく創造的、主体的な状態にあります。
しかし、ここで再び大きな震災やそれに伴う事故が起きたとき、まだあれをしておけばよかった、もっと速く対応すべきだったと思い当たる可能性があります。
しかし、それは間に合わなかった、ということで仕方ないでしょう。

僕がいちばん警戒しているのは、自分の中にうらみが残る、ということです。
東電と保安院に代表される推進派の人々は、今に至るも何の責任もとっていません。
その事態に対して、政治的、社会的になんとかするのは、とてもむつかしいことです。

だから、せめて僕はいまのうちに「馬鹿野郎、原発には反対だ」ということを書いておくのです。
書かないで心のうちに溜めておけば、それはうらみになります。
死んでも成仏できません(笑)。
いわば自分の心の健康のために馬鹿野郎、と言っているわけで、それは聞きたくない人がいても仕方ないことです。

3.11以後、何も自分の生活を変えず、何の批判も口にしない人たちもたくさんいます。
鈍感な人もいるし、もの言えば唇寒し、と思っている人もいるでしょう。

でも、僕は平然としているように見えるそういう人たちの中に、主体的でないものがあるのではないか、と感じるのです。
当然目に入っているものを見て見ぬふりをする心理的な機構が働いているので、無意識に抑圧された部分の圧が高まっているはずなのです。

それが当人の心を壊すように働くこともあるだろうし、家族への八つ当たりになることもあるだろうし、橋下支持のような社会的なムーブメントになることもあるでしょう。
僕はどちらにしろイヤだなあ、と思っているのです。

今回の事故に関して、

1.最悪の事故だ。
2.二度と起こしてはいけない
3.そのためには、事故を起こした責任者はきちんと裁かれる必要がある。

この3点だけは、全国民が一致してもいいと思うのですが、なぜか議論はここを素通りして、もっとややこしい分裂化個別化の方向に向かうのです。
マスコミが隠蔽したの、嘘ついたの、いろいろ言われますが、じつはこの素通りが最大のミスディレクションであるかもしれません。

この3つが素通りしたまま、話が進むなら、日本はまったく本質的な議論ができない国ということになってしまうで
しょう。

- / comments(13) / trackbacks(0)
バリで10万ルピアを不当に払わされたトラブルとブラックマジック情報
バリで10万ルピアを不当に払わされたトラブルとブラックマジック情報


ツイッターを読んでくださっている方ならご存知と思いますが、僕は今バリにいます。
今回はその中でのちょっと面白い珍しい体験を書きます。


さて。

ここのところ、けっこう意識してしまうほどの肩こりがあるのです。昨年の展示や、秘伝メルマガをたたんでGOLD2012を始めたことなど、いろいろ2011年の疲れが出たのかもしれません。
あるいは、運動不足など他の要因かもしれません。

先日、バリに来てからずっと降り続けていた雨が上がった夕方、「ちょっとでもビーチ行こうかな、どうしうよかな」と一人で自分相談していたところ(よく一人で対話するのです)、「やっぱダルいから行かないほうがいいや」という結論が出たのです。

しかし、この肩こりは寝れば治るというものではなさそう……。
そこで「マッサージに行こう」と思いたったのです。
海外でのマッサージはタイでさんざん行きまして、前回のバリでも温石マッサージ他、少し追加取材すれば本一冊くらいは書けるほどの経験を積んでいるのです。

アジアはなにしろ安い(高級ホテルのスパは別です)。
タイでは二時間で千円ちょっと。それにチップを500円くらいあげるのです。
これを体験すると価格的にも質的にも、阿呆らしくて、僕は日本ではほとんどマッサージ受けません。

なんか千円前後で一時間も二時間も他人が自分にかまけてくれる、ケアしてくれるというのは、すごいと思いませんか。

日本ではいまほとんど他人の身体に触らないでしょう。
握手とか、ハグとか、キスとかあまりしないですよね。
一日中人の身体に触れないことがよくありまん。
下手に触ると、セクハラだ、ホモだ、ロリータだ、変態だ、と言われかねません。
子どもの頭を撫でるというようなことも難しい時代のような気がします。

しかし、人と人が身体を接触するというのは、何か必要な気がしているのです。そこに一種の尖ったものの「中和」が起きるのではないかと感じています。
そして、うまいマッサージは、日常感覚と違う半眠半覚醒の状態にしてくれます。これがたまらないのです。

説明するとそのように長くなりますが、僕の内部は全会一致で瞬時にマッサージに行こうと決めたのです。
ネットで検索すると、マッサージについて少しは書いてありますが、地理がわからなかったり、いまいち決め手に欠けたので、「歩いていて適当に入る」という方針を取りました。
そもそもマッサージは、店によってより人によって決まる部分が多いので、ブログの情報は参考にしかなりません。

しかし、レイキのことを書いたブログがあって、ちょっと気になったのです。レイキって何? まあ触手療法です。公式的なことはwikiで調べていただくとして、僕は名前しか知らなかったので、一度体験してみてもいいと思ったのです。

それでも別にその店を目指すでもなくタンブリンガン通りを歩き始めました。すると、トラブルが訪れたのです。

スクーターに乗った男性と後ろに乗った女性が目の前をよぎりました。とくに用がある相手がいるはずもないので、通り過ぎようとしましたが、「ハロー」とか「エクスキューズ・ミー」とか呼びかける声がします。
物売りの類いにしてはしつこいので、振り向きますと、女性が伝票に細かい札をホチキスで留めたものを持っています。

黒地にRIBと書いた制服を女性は着ていて、それは入った覚えのあるレストランです。
「昨日、こちらのものを食べましたね? 勘定が10万ルビア足りないです」ということを彼女は英語でいうのです。
たしかに、前の記事に書いたステーキの英語名が伝票にあります。
そこに綴じられた札に10万ルピアの札はないのですが、そんなはずはないのです。総額で14万ルピアほどです。
間違えるわけはありません。

しかし、僕にも弱点がありました。店の人が受け取って確認するところを僕は見ていないのです。
よく外国映画で主人公の男性はさっと勘定をおいて出て行くではありませんか。あれをイメージして金額をおいて出たのです。それが失敗でした。
もちろん、店の人の確認なしで出るのですから、二度、三度と金額は確認したのです。

女性は詰問する様子ではなく、余裕で微笑みすら浮かべています。バリでは、激昂したり強い感情を現すのは恥ずかしいこととされているらしいです。

しかし、英語で払ったのだといっても全く動じません。
仕方ないからもう一度払いました。
10万ルピアというと、すごい金額のようで皆さんげっと思っているかもしれませんが、今のレートで840円ほどです。
言葉の能力が十分でないのにややこしいトラブルにしたくなかったので払いました。それに確認しないで出たのはこちらに非があります。
とはいえ、あまり愉快ではありません。

彼女は僕が支払うことに満足し、「僕はちゃんと払ったけど、誰かが持って行ったに違いない」という弁明は完全に聞き流していました。

僕は歩きながら、三つの可能性を考えました。
通りすがりの客が!0万札だけを抜いていったこと。
彼女ではない店の人間が途中で抜いたこと。
彼女と男性の2人組が組んだ新手のたかりであること。

最後のケースだったらくやしいですが、女性の落ち着いた物腰からして違うと思いました。
もし、そうだったら相当な役者です。

じつは、この日の帰り、この店の前を通ったときに、店の別の男性から「エクスキューズミー、サー、昨日……」とまた言われたのです。
例の彼女が出て来て、支払ったことがすぐに知れたのでよかったのですが、つまり、このことは店全体で話題になっていたわけで、彼女のたかりの可能性は消えました。

このときも彼女は微笑んでいましたが、どう思っているのか知れたものではありません。バリ人は感情を表に出しませんが、妬みやうらみを持つと、ブラック・マジシャンに呪いをかけさせるのです。
全員がそんなことをするわけではたぶんありませんが、すごく珍しいことでもないようです。
そんなわけで彼女は微笑みの下で、僕がごまかそうとしたと思っているかもしれません。
若いときならどう思われているか、相当に気に病んだと思いますが、今はネガティブな想像に深入りはしません。
しかし、この店の前を通るときは、そういうことで顔を知られていると思うと、いい気持ちはしませんね(サヌールは、このメインストリートとビーチ沿いの道の二本でできている街といって過言ではないのです。だから毎日通ります)。

そんなできごとがあったので、これは本当にマッサージですっきりしたいと思い僕は足を早めました。
それで建物の二階にあるレイキもメニューにあるマッサージに通りかかり入ったのです。

(レイキ体験と、その周辺のことは、『GOLD2012』に続きます)



なんか、大切なところからは有料というのは慣れないので申し訳ない気がします。もう一つネタを。

*

バリ人の友人にブラックマジックで人を呪ってもらうといくらかかるの? と聞いたのです。

すると、具体的な金額は言わなかったのですが、かかる病気などの呪いの重さによって違うというのです。

いちばん高いのは、5年くらい病気で苦しんで死ぬことだそうです。
すぐに死ぬのは、その4分の1くらいの価格らしいです。
病気で亡くなるとお金も散在するでしょう? と言っていました。
金も使わせて家ごと衰えさせてしまおうということでしょうか。

だいたいの金額を聞こうかと思いましたがやめておきました。
あまり深入りすると恐いです。
いちおう、そのような呪殺が迷信ではなく存在するという前提で二人で話しているわけです。

彼には言わせると、かつてのバリでは毎日働いて、農産物などで食べるのに困らないから、人はお金をブラックマジックに使ったそうです。他にお金を使う用途があまりなかったそうです。

ところがお金の経済が発達して、買いたいものが増えたことで、ブラックマジックを依頼する人は少なくなったようです。

この変化はせいぜいここ二十年くらいの話で、経済の波は今も激しい勢いでバリを変貌させているのです。




ティガル・サリの池  ウブド、バリ 2012.1.17
- / comments(1) / trackbacks(0)
ある返信/政治と文学をめぐって
『銀河の家』の中のあるコメントに対する返事。
とくにコメントはつけません。



*****さん


率直な言葉をありがとう。

『不安であることの正しさについて』は、はっきりとした意志として、原発の「語られ方」に対する批判でした。
今もその意志は変わっていません。

厳密に考えると難しい線引きになるかもしれませんが、原発の今後や、事故の対処について僕らは何かの決定に直接関われるわけではありません。
すると何ができるかというと、語られ方について関わるということです。

そこにおいて、僕は言論を分裂させ、拡散させるのではなく、統合させること。なるべく少ない議論で本質に至ること、というようなことを考えていた気がします。
焼け石に水かもしれませんし、議論を少なくしようとしても、ぎゃーぎゃーと騒ぐ声を一つ加えただけかもしれません。

どのように説明しても、この部分はどうなんだ、と取り出されると、たぶん大幅に逸脱していると思います。

僕の中に文学があり、芸術や哲学もあるように、政治や社会もあります。
もっと私的で雑多な欲望や方向性もあります。
その中で政治が突出して現れる場面もあります。

「文学というのは、永遠に結論を保留するための形式なのです」

と僕はたしかに書きました。

そういう意味では、

政治や法律は「つねに選択し、決断していく」形式なのです。

秘伝のメルマガでは、文学や表現の枠組みで語りました。
それは一つのメルマガのコンセプトであって、僕全体のコンセプトではありません。

ただし、僕は、いずれGOLD2012にも書こうと思っていたのですが、文学、哲学、芸術、政治、社会、教育といったものを別々のものとして扱おうというのではなく、「一つの部屋」に統合しようと思っています。
そういう意味で*****さんの語ったことは、たいへんいいところをついています。

僕の中では、原発に関する議論も哲学も芸術もつながっています。
しかし、そのつながり自体について毎回明示することはできないので、断片化することがあります。
それからあきらかにそういう説明では収まらない突出した政治性を現したものもあります。

総じて、現時点でこのことに関して、僕は論理的にも、感情的にも***** さんを納得させるために整合性のあるきれいな理屈を言おうとしておらないのです。そう思って読んでください。
ただ、触発されて書きたくなったので、僕のほうからの眺めはこうですよ、ということを書いています。

とにかくブログに関しては、僕自身の衝動としてあのときは「書かざるを得なかった」ものです。僕は原発事故に震撼していたのです。
いちばん最初に震撼したものだから、今は少し落ち着いています。
でも、四号機の倒壊が危険云々と言われると、当時の感覚を思い出します。

ツイッターに関しては、反原発ツイートを激しくやり過ぎてある知り合いからリムーブされました(笑)。それでもいいと思っていました。3.11は、僕にはさまざまな事柄のパラメーターをゼロにリセットするできごとでした。
だから、僕が発言することで、友人が友人でなくなったら、それはふるい落としてかまわないと思っていたのです。

そのようにツイートするのは、必ずしも人に影響を与えようと思っているだけではなくて、僕自身の認識運動でもあります。

「これは一体何なのだ」という、日々浮かび上がってくる知らなかった現実やニュースを消化し続けるのに、何かしら書く必要があったのです。
RTは必ずしも主張ではなく、メモ、要確認であったりもします。

あまり詳しくは知らないのですが、サルトルは「現実参加(アンガージュマン)」ということを言って、デモや運動の先頭に立ちました。
つまり、「哲学者や文学者だからといって、この場面で部屋に閉じこもっていていいのか?」という意味で、当時とてもかっこよかったのです。
しかし、やがて過度の政治主義に陥って、存在がやせ細っていったと言っていいと思います。
社会の危機にあって、なにも直接的に発言しない文学者や学者がいいのか、発言や行動をするべきなのか。二つの道があります。
どちらがいいというのは、簡単に語ると間違いそうです。
しかし、3.11 以降、ある人の言動に何の変化もないとすれば、それは現状維持のほうに自分の重りを乗せていることになるだろうと僕は思います。

とはいえ、僕は本当に政治には適性がないので、そちらの方向には踏み込まないでしょう。
もはや、いろいろな人が声を上げ始めているので、あまり僕がつけ加えることはないのです。
反原発を一つの運動としてとらえるなら、この言い方はずいぶん傲慢に聞こえるかもしれませんが、これは物書きとしての本能であって、誰もがいうのと同じことを言うなら、存在価値を失ってしまうのです。

僕の子どもの頃は、サッカーをすると、ポジションも何もあったものではなく、わーっとみんなボールのほうに走って行ってしまうのです。
そうすると、広大な人のいないスペースが生まれます。足の遅い僕はいつもそういう場所に立っていました。
僕にとって書くことは、ボールを追いかけることよりも、誰もいない場所を探すことです。
そうすれば、人より機敏でなくても、チャンスにつながるボールが来ることがあります。まあ、そういう感じでぽつりとピッチに立っています。

ツイッターやブログでは、何を書いて何を書かないというようなことは約束できないのですが(自分で自分を縛りたくないのです)、GOLD2012では、何かを批判するより、未来につながる創造的な原理について書くつもりです。




- / comments(7) / trackbacks(0)
またバリ日記「バリ島にてステーキを二回続けて喰うこと」
バリ島サヌールにいます。
到着した昨日夜から今までずっと雨。
そして、ときどき土砂降り。

来るときに雨季とかそういうこと、全く考慮に入れてません。
雨なら雨の風情も楽しいや、と言いたいわけですが、少し負け惜しみも入っています。

やはり雨には行動を制約されます。
散歩も思うにまかせないし、今回はヴブドに直行しないで海辺のサヌールに宿をとったのに、ビーチにはまだ行けてません。

昼も雨のすきまをぬってスーパーマーケットの方向に歩いて行こうとしたら、雨が激しくなって挫折。傘はあるけどちょっと無理。

雨を避けて入ったレストランで昼飯。
こういうとき、僕は肉の塊的なものを食べるのを覚えたのです。
なぜなら、インドネシア料理はもっと大衆的なワルンで食べたほうが安くておいしい。あちこちに老舗、名店的なものがあるのです。
パスタは専門店のほうがうまいだろうし、中華も同様。カレーはインドのほうがうまい。
残るのはわりと肉や魚のグリル。

このレストランでは、ステーキの上にシーフードまで乗っかっているというSURF & TURFなるものを注文。シーフードは小さなエビが二匹でしたが、立派なソースがついていました。

IMGP0787.JPG

写真をご覧ください。一口食べたあとがあります。
こういうのは撮り慣れないので(ふだん食べ物は撮らないし、記念写真的なものは撮りません)食い意地が先に立ちます。
珍しいよね、食べてから撮るヤツ。
まして、お皿を並べ直して構図を決めるというようなことはしないのです。じつに男らしい。
僕は熱々の料理が冷めると魂が逃げるような気がして来た途端にガツガツと食べるのです。それが早食いと太る原因だからやめましょう。

これは800ルビアだから、700円を切ります。
今は安い輸入肉や、ステーキ屋もあると思いますが、僕の世代にとってはビーフステーキは高級品であった時代があって、ある種の復讐心があり、背徳感があり、征服感、ぜいたく感などがたっぷりあります。

そのような復讐心まで満たして700円はまことに安いと言えましょう。ライス別。たぶん60円くらい。

・・・

夕飯には僕はナシチャンプルの名店を目指していました。
ところがそれが見つからないうちに、また激しく雨が降り出したのです。




IMGP0791.JPG

……僕が二度続けてステーキを食べたのはそういうわけです。

二枚目の写真もまた少しかじった後があります。その部分だけソースがとれてしまって、写真としては台無しです。

しかし、このステーキはじつに美しい盛りつけであったのです。東京の千円くらいのステーキではこうは行きません、復讐心を満たすにはこうでなくてはいけません。
お高くとまりやがって、と激しくフォークで刺し、ナイフで切るのです。

こちらは、850ルピアでしたが、食後にでかいケーキとアイスクリームがつきました。もちろん写真は忘れました。

味はどうなんだ、と言われると……うーん、松坂牛とか霜降りとかではありません。肉です。肉。

味だけで言ったらチキンとかのほうがうまいかもしれません。

しかし、このようにして僕は一日にして二度復讐心を満足させたのです。

・・・

バリでステーキを食べるときに困ること。それは「ミディアム or ウェルダン?」と聞かれることです。
「レア、ベリーレア!! 」という選択肢はありません。
たぶん宗教的なものと思いますが、「血がしたたりそうなステーキ」という概念はたぶんないのです。
レア、といって急に野蛮人を見るような冷ややかな目つきになられても困るので、いつもミディアムで我慢します。
一回だけ勇気を出して「レア」と言ってみたことがあります。
変な顔はされませんでしたが、出て来たステーキはどうみてもミディアムでした。
ウェルダンなんて言ったらどんなのが出てくるのでしょう。
意外にカリカリに焼けてうまいとか?

それからオーダーするときに、印象に残ったのは、何を頼んでも「One?」と聞き返されることです。
「一人で来てステーキ二つも頼むわけないだろうが!! 」と思いますが、必ず聞かれます。
今日、がーんと「気づきがあった」のですが、これは英語のオーダーだからなのですね。
英語国民がオーダーすると、どんな注文の前にも、aとか、oneとかが文法的に付くわけです。
僕の注文にはそれがなかったのです。
複数形ではないだけで許してはもらえないのです。
ステーキを注文すれば、それはステーキ概念の一般を指して宙を飛び交い、aとつけるまでは地上に降りてこないのです。
僕は何度もこの文法的間違いを正されていたのです。

この小さな隙間から紐解いて壮大な比較文化論を展開することも可能かもしれませんがやめておきます。

この日記には、何の複雑な理論も教訓もないのです。
ユーモアのつもりだけど、世間の人にはちっともおかしくないかもしれません。僕が面白いと思っても世間の人には面白くもなんともないことが多々あります。

その場合は、バリ島でステーキを食べるときに役立ててください。

・・・・

あ、そうだ。
いよいよ創刊です。
申し込まなくてもいいのかな。
ファイナル・アンサー?

読者限定プレミアム・メルマガ
『GOLD2012+銀河の家』http://maga.hiden.jp/gold2012/




- / comments(2) / trackbacks(0)
あけましておめでとうございます/自由と十牛図とメルマガ


みなさま、あけましておめでとうございます。

昨年2011年は、3.11の年。
他のどんなできごとに代表させることも、象徴させることもできない年でした。

では、

1. 2012年はどんな年になるでしょう?

2. 2012年をどんな年にしますか?

この2つの質問の違いがわかりますか?

1は、外からくる影響です。
もしときどき予想や警告がなされるように、日本にまた大きな地震や災害が来るなら、僕らはそれをふせぐことができません。
またもっと大きなレベルのできごと、国や行政が何か理不尽な決定をし、実行に移しても僕らがそれをすぐにとめるのはたいへんに難しいことです。
身の回りで、運がいいこと、悪いことが起きる。それも自分が関与できないからこそ「運」です。
それが1の「どんな年になるでしょう?」です。

2は、内側から来る自分で変えられる範囲のことです。
何を読み、何を話すか。どこへ行き、誰と会うか。何を食べて、何を食べないか。
僕らが変えられる範囲はあきらかに存在します。

2012年は、僕にとって、この1と2をはっきり分離させる年です。
自分の「可動性」を確認してできること、したいことをします。
それを僕は自由と読んでいます。

「自由とは自分の理由で生きることだ」と僕は何年か前に書きました。
1に翻弄され、1に対応することにせいいっぱいであれば、それは自由ではありません。
他人の理由で生かされていることになります。
2012年はまた「洗脳」という言葉がよく使われましたが、もしあなたの行動が「洗脳されたもの」や「教育されたもの」であったとき、自分自身で選択したつもりでも、それは自由ではありません。

自由な行動は、生命の芯から出ます。

僕はずっとそういうことを考えて来たけれども、教育から来たもの、先入観、既成概念を一枚ずつ脱ぎ捨てるのは、時間がかかります。脱ぎ捨てるためには、その本質を理解しなければいけません。
「自由なんてめちゃくちゃで、何やってもいいんだから、なろうと思えばいつでもなれる」と考えている人がいるとしたら、その人がいちばん自由から遠いのです。

自由はプロセスであって、目的地ではありません。
目的地は「自然」です。
あるがまま、ということです。

禅に十牛図というものがあります。
これは牛と人に関わる十枚の図からなっています。
それぞれの図に短いタイトルはついていますが、全体は判じ物のようです。
詳しくは検索してください。

これには多様で深遠な解釈があると思いますが、僕はとても現代的に単純に解釈しています。

子どもが牛を探し出します。
これはいわゆる「自分探し」です。
本来の自分を見つけるプロセスが始まるのです。

本当の自分は牛の形をしています。
それをなんとか見つけ出します。
そして、牛に乗って家に帰ります。

これによって、本来の自分と表層の自分が一体化した境地を現しているのです。

ところがやがて牛を忘れます。
そして人もいなくなります。

本来の自分を探そうと発心し、やがてそれを探し出し一体化した挙げ句に、表層の自分も本来の自分もいなくなってしまいまます。
表層の自分と本来の自分という区別がなくなったときに、内側も外側もなくなってしまう。
自分と世界という対立した二つの世界もなくなってしまうのです。

自然はこの境地です。

しかし、十牛図で今の自分ではない本来の自分いるのではないかと気づいたときに、旅(プロセス)が始まったように、自由を探すというプロセスを経なければ「自然」には至りません。

自分→自由→自然

僕はこれを一連の言葉として捉えています。

2012年。僕は自由に生きるということに加速がついて来たと感じています。
そうでないと間に合わないとも感じています。

間に合わないというのは、具体的な期限ではなくて、今しないなら、いつするの? ということです。
Now or Never!

もうご存知の方がいると思いますが、昨年末で文章のメルマガを終刊して、今年は新たに有料メルマガを出します。
これが僕の「今年の抱負」に当たるものでしょうか。

『GOLD2012+銀河の家』
http://maga.hiden.jp/gold2012/

ここで僕が書くものは、自由になるための地図と磁石、水筒にお弁当にバナナ、リュックに登山靴のようなものです。
山を登るためのエスカレーターのようなものではありません。
山登りをする人は、ベテランから注意やコツや必要な持ち物を聞くでしょう。
僕自身もまだ山頂には到達していない。
景色を眺めたり、危ないところに注意しながらいっしょに登りましょう、ということです。
ハウツーではあるけれども、ライブであって、まだ死んでいない(知識というのはよく「死んで」いるのです)、そういうものを書きます。
つまり、死んだ偉い人の保証付きのブランドを推し頂くのではなく、リアルタイムで悪戦苦闘して紡ぎ出される知恵の生成の現場に立ち会ってもらおうという趣旨です。
わからなければ質問をすることもできるし、触発されて、自分の意見や経験を述べることもできるのです。

有料なので、僕の文を読むのに、対価、犠牲を払ってくれる少数の読者に対して書いていきます。
そういうスタイルがこれから書こうとすることには必要なのです。

今年はSBA(象徴的身体調整)というまた別の大テーマもあるのですが(僕の発明物なので検索しても出て来ません)、これについてはまだ短く説明することができません。

要するに、2012年、村松恒平はしたいことがたくさんあって、元気です。
自由を求めてどんどん行っちゃいます。

どんどん行っちゃうわりには、普通にさみしがりなので、みなさま、できることなら本年もおかわりなくよろしくお願いいたします。






- / comments(0) / trackbacks(0)
ONE & ONLY  ■■ 絵画と陶芸とクリスマス

来週、12月19日月曜〜12月25日日曜まで、川口のmasuiiギャラリーで『ONE & ONLY 陶芸と絵画とクリスマス』と題した個展を致します。
久しぶりの個展で、とくに陶芸は初の個人での展示なので楽しみです。

川口は都心部からは離れていますので、不便な方には強くお誘いすることはできませんが、お近くの方、ついでのある方、時間の都合のつく方、ご縁のある方はぜひいらしてください。
親しくお目にかかりたいと思います。

お昼にくれば滅茶苦茶というお茶を、夜にくればワインなど差し上げたい、と思っております。作品は点数が多いので、ゆるりと過ごすつもりで見に来てください。

期間中、基本的に在廊します。
在廊しないのは、月曜の夜と金曜の昼の予定です。
たぶん6時を回ったあたりから毎晩軽く飲んでいるかもしれません。

突然尋ねて来ても大丈夫ですが、いついくよ、いまくるよ、とメールでご一報くださると、確認と心づもりができてうれしいです。

オープニングはありませんが、12月23日はクリスマスパーティです。おもてなし、というほどのことはできませんが、ミニライブなどやります。いつもよりニギヤカに飲んでいると思います。



村松恒平


- / comments(0) / trackbacks(0)
浦沢直樹×手塚治虫 『PLUTO』をめぐって
またツイッター仕様で書いてしまって長くなったのでこちらに載せます。

**


『PLUTO』1 子どもの頃、光文社版の鉄腕アトムを全巻持っていた。大判で帯のようなシールまでついていたのだが、一時期倉庫にしまったら、消えてしまった。

『PLUTO』2 そのことは今も痛い。たぶんある人がプレミアに目をつけて売り飛ばしたのだろうと耳打ちした人がいた。憎いが証拠もなく何もできなかった。犯人とおぼしき男性はやがて若くして癌で死んだ(毒)  

『PLUTO』3 その鉄腕アトムでも『地上最大のロボット』や『ロボイド』の巻は、最高峰だった。しかし、いちばん印象に残っている場面は違う

『PLUTO』4 スカンク草井というギャングが出て来て、アトムを「悪の因子」で誘惑する。「ロボットは悪を行えて初めて完全になるんだ。お前は不完全なロボットだ」。アトムはぐらつく

『PLUTO』5 子どもの僕には、なぜアトムがそんなことで悩むのか理解できなかった。だからこそ印象的に覚えている。原作の長崎尚志も同じところでひっかかった仲間のような気がする。

『PLUTO』6 スカンク草井のような浦沢直樹向きのキャラクターが物語に登場しないのがその情況証拠だ。スカンク草井はいわば法則神として、物語の全体の背後に溶けてしまったのだ

『PLUTO』7 『PLUTO』では、アトムはなかなか出て来ない。出て来てもすぐにめざましい働きをすることもない。それどころか中盤であっさり死んでしまう。

『PLUTO』8 アトムは60億人の精神を背負って死から蘇る。しかし、眠っている。60億人の精神を持つということは、神になることであると同時に狂気のまっただ中にいることだ。

『PLUTO』9 アトムは完全なるロボットになった。しかし、完全なるものには地上に対するモチベーションがない。だから眠り続ける。そして、ゲジヒトの体験と精神という偏りを与えられて目覚める

『PLUTO』10 アトムは60億人の精神を背負うという狂気を克服する。そして、さらに憎しみを克服したときに、最強の完全なアトムとなって光芒を放ち、人類の危機を乗り越える

『PLUTO』11 全編を通して憎しみとその連鎖という言葉は執拗に出てくるが、愛という言葉は出て来ない。憎しみは現実であって、愛は抽象名詞だ

『PLUTO』12 死と狂気と憎しみを克服するという通過儀礼を経て、ようやく鉄腕アトムは現代にヒーローとして一度だけ蘇ることができた。どこにも楽天的なものはない

『PLUTO』13 「正気な世界」が壊れて行くとき、新しいヒーローは狂気をまとっているだろう。ポピュリズムは、そのエネルギーに反応する。橋下や石原の幼稚性の垣間見えるファシズムに対する期待もそのような反応だ

『PLUTO』14 この世界を作り直すには、何かいままでの「正気」の外の原理が必要なのだ。しかし、それは容易にポピュリズムに収束されるか、排除される。どうすればいいか

『PLUTO』15 『PLUTO』は、その答ではない。しかし、この時代の一つの切実な神話なのである





注意 『不安であることの正しさについて』をまだ買ってない皆さんはいるかな。
↓このリンクで簡単に注文できます

http://t.co/c5JfKRy
- / comments(0) / trackbacks(0)
村祭の中のダンス
村祭にダンスを観に行く


この旅の前半は、毎日のようにバリダンスを観に行って、生意気な? 素朴?な 感想を書いていた。
なにしろ、バリにいても、別にスポーツや遠出するような観光もせず、固定的にすることはないので、とりあえず評判のいいグループはこの際、全部観てしまおうかと思っていた。

ところが、ツイッターでやりとりをして知り合った能楽師のNさん(お会いしたことはない)から、「バリダンスはぜひ祭の中で観てください」という強いお勧めをいただいた。
「仏像だって寺で見るでしょう」と。

これはもっともな話で、僕にはほとんど叱責のように聞こえた。
ルドルフ・シュタイナーは、絵画や彫刻は建築から独立したと言っている。
このことは、日本の社寺や、ヨーロッパのそれを見ればわかる。
建築起源であると同時に、神仏への信仰が起源にある。
しかし、そのことを感覚は忘れて、宙に浮いたような芸術観が生まれてくる。
本来のものがそこにあるのなら、それを観るべきであるというのは全く正論だ。

とはいえ、ツテもないし。
着ていくバリの正装もないしな、とおっくうに思っていたら、こちらの日本人のお知り合いを紹介してくれた。
バリの画家の奥さんであると紹介されたKさんに電話をかけると、親切にすぐに情報を調べて、連れて行ってくれるドライバーまでセッティングしていただいた。
その晩にあるという。

さあ、困った、正装はどうしようと思っていると宿の人に話が通じていて貸してくれるという。
あれよあれよというまに、すべてがトントン拍子に整ってしまった。
神事はうまく行くときはこういうものである。

空模様もたいへん怪しかったが降らなかったし、やはり自分は行いがいいなと思っていると時間になっても迎えのクルマが来ない。
正装して街角に立っているので、うれしいような恥ずかしいような羞恥プレイめいた時間である。

途中、一台のクルマが止まったので、これかと思って「Muramatsu!」というが、反応無く先方は「テンパール!! ?」と叫ぶ。テンパール? デンパサール? 違うな。なんだかわからないうちに、通り過ぎてしまった。
やがてモンキーフォレスト通りの一方通行を大きく一回りしてやってきたのが同じクルマだった。
テンパールは、templeだったのである。

こちらのヒアリングもひどいが、バリ人の英語はときどき相当癖がある。
そして、こちらは「村」とか、「祭り」とか、「ダンス」という言葉だったら反応したと思うが、「寺」は想定していなかった。
そして、先方はその時点でMuramatsuの名を知らず、こちらも彼の名を知らなかった。
そんなわけで約20分のロスタイム。

ダンスには間に合ったが、このせいで席はふさがってしまい、最初から約一時間半ほどは立って観ることになった。

会場はクルマで15分ほどの隣村。
広い空き地が駐車場になっている。
トライバーのレジュンさんはいい人だが、携帯電話がひっきりなしにかかってくる。
正装した人々でいっぱい。
お寺には300 〜500人くらいの人がいるのではないか。
地面に座ってお祈りをする。

バリでお祈りをするのは5〜6回目だろうか。
聖水を受けて清めてもらうという気持ちがあれば、難しいことはない。
前の人のすることの真似をするだけで十分に間に合う。
誰かに先導してもらわないと入りづらいかもしれないが、座ってしまえば異邦人に対する排他的な雰囲気は少しもない。
機会あれば体験すべし。

バリのお祭は、日本のような露店はないし、飲み食いはとりあえず見当たらない。
お祈りと芸能、そしておしゃべり。
バリ人は信心深くお酒飲まないね、たぶん。

タイ人の信仰は、現世利益的なものを強く感じるが、バリはそういう感じではない。

ダンスの会場に行くと、すでに席は埋まっていた。

子どもがいっぱいステージの前に立っている。あるいはステージの上に座っている。
子どもから老人まで会場にいっぱい。

踊りが始まった。

地元の小さな子どもたちが上手に踊る。
「村一番の美少女」(僕の勝手な想像)もいる。
たぶん観ている村人たちは、「そろそろうちの子よ」とか、「そろそろ誰それんちの・・ちゃんが踊るわよ」とか、かなり知っているのではなかろうか。
そういう反応や応援は観て取れないが、日本の学校の運動会などよりはるかに濃厚なはずだ。

いわゆる緊張感とか、アガるとか、そういう様子は観て取れない。一人の小さい子どもなど、踊りの最中もステージを歩いたりして大きくとがめられることもない。
ステージ入り口の幕からこちらを覗いてにやっと笑う子どももいる。
だから、踊りもうまい下手はあるかもしれないが、おおきなミスはなく、みんな集中している。

しかし、ちと不安が募りだす。舞台上には立派なガムラン楽器が置いてあるのに、音楽がCDかテープのようなのだ。音質はいいけど、これでは見に来た甲斐がない。
そう思っていたら、半分ほどプログラムが済んだところで赤い派手な服を来たガムラン隊が現れた。そこらに座っていた子どもをおろして、ようやく演奏が始まる。

想像するに、あまり曲数が多いと練習しきれないのであろう。
小さな子どもたちは慣れた演奏で踊るほうがいいかもしれない。
ガムラン隊人数が多い。30人近くいる。舞台の半分を占める。
いい演奏だ。

ダンスのクライマックスでは、若い男女三人ずつが踊った。
それが違う曲で2セット。

それまで小さい子どもが踊っていたのに、若者が出てくると舞台か狭い感じ。
そして、手足が太くて逞しい男性と年頃の女性が恋のかけひきとわかるダンスを踊る。

これが二つともよかった。

あるいは実際に恋仲のカップルがいるかもしれないし、ダンスのパートナーと恋が生まれるかもしれない。そういう想像を掻き立てる。

踊りという言葉は、そもそも「男を取る」と書いて「男どり」なのだ、と民俗学を専攻していた大学の先輩が言っていた。あるいは「雄捕り」とか「雄盗り」とか表記してもいいかもしれない。

その説はその後一向に聞いたことがないが、たぶん本当だと感じる。
もともとダンスにセクシャルなものは含まれていたはずで、それが象徴化されたり、秘められたりすることで洗練されていったのだろう。

村娘が祭の夜に踊りで恋しい男性を誘惑するなどの場面を想像すると素敵ではないか。

この夜のダンスはそれほどセクシーではないけれども、男女がひきつけあってはつれなくする、という恋のかけひきは面白い。とくに大男がまじめに踊るのは、ユーモアがあって、楽しい。

最後のダンスには、この村で新しい恋が生まれて、家族ができ、子どもが生まれてずっと村の繁栄が続いて行く、というメッセージが感じられた。

最初の頃、ざわついていた子どもたちも、ガムランやダンスに集中してじっと見入っている。
そういう子どもたちがガムランやダンスを習い始めるのだろう。

レジュンさんに話を聞くと、ダンスやガムランは全員が習うわけではないようだ。親が習わせたりするわけでもない。習いたい子が自然に習い始める。それが自然につながっている。

レジュンさんに「ガムランは難しい?」と聞くと「かなり」とうなずいていた。
「あなたもするの?」と聞くと「二曲弾ける」というようなことを言っていた。
覚えるのはやはりたいへんなんだ。
楽譜ないし。

半分期待していた神秘的な熱狂はこの夜はなかったけれど、村の共同性が息づき、継承されていく中心であり、受け皿である芸能の力を観たなあ


祭の間は降らなかったけど、帰って着替えて食事に出たら、土砂降りに出会った。
やはり雨も祭は避けると見える
- / comments(0) / trackbacks(0)