ナチュラルに生きる方法論序説

巻頭言

これは心にセンタリングするブログです。

今の世の中は中心がお金や経済で回っています。でもお金で価値が一元化していく流れは、人にはちょっとしんどいものです。だから、それとはズレた次元に、心という中心を求めて行こうと思います。

本当はセンタリングというからには、究極的には魂や霊に、あるいは神に中心を求めたほうが安定がいいでしょう。しかし、現代ではスピリチュアルな領域もすっかりカテゴライズされてしまっていて、語り口も決まりきっています。どこかで読んだようなことが順列と組み合わせを変えて書かれ、何の目新しさもありません。そういう領域で書いてもちっとも面白くないので、心という中途半端な領域で四苦八苦しながら哲学するつもりです。
そもそも、自分の心がわからない者には霊や魂のこともわからんだろうと思います。

読者の皆さんにもお願いがあります。

愛読者を自任される方は、ぜひさまざまにアクティブな応援をお願いします。
これは心を見つめる、心について考える、という運動です。
私が書く、あなたが読む、ということで完結してしまうのは意図するところではありません。

もし読むということが、お昼にコンビニ弁当を食べる、ハンバーガーを食べるということと同じような消費活動に過ぎないなら、昨日と今日と明日に何の変化もありません。

雑多な知識の断片を十分に消化することなく頭脳や心に次々に取り入れて満足するなら、それは「死んだ読書」です。
本来、読書というのは、食事を取るのと同様に書物の内容を血肉化するところにあるのです。
だから、よいものを取って、毒物は取らないようにしなければなりません。
ぜひこのブログについては、生きた読み方をしていただきたい。

なぜなら心というのは生きて、毎日変化していくからです。

もし、心は変わって行かないと思っていれば、このブログを読むことは意味がありません。
むしろ有害かもしれません。

このように読み方を読者に強制する権利も方法も、もとより、著者にはありません。
一度公開した文章を読者が「どのように読もうが勝手」だと思うことを物書きのはしくれとして僕は知っています。
僕もそのように読むことがあります。
ただ、そういう読み方をしてもらいたいと望んでいる、ということはきちんと言葉にしておく必要を感じたのです。
そのような読み方があるということも、著者がそのように思っているということも全く想像しない読者もいるように思うのです。

具体的にはそれは次のようなことです。

  1. 書いてあることを読んで知識として蓄積するのではなく、自分の心、経験と照らし合わせて吟味してください。
  2. そのときに何を感じたか、できるなら言葉にしてみてください。同意ではなく違う意見でもいいのです。
  3. 出てきた言葉をこのブログあてのコメント、メール、あるいは自分のブログやツイッターなどに書いてください。
  4. このブログへのリンク、クレジットなどもお願いします。
毎回ではなくていいのです。
心に自然に言葉が浮かんできたときに。

そのような連鎖全体を書くことととらえたいのです。

それだけは物足りない、さらに応援したい方に!

あるいは違う応援をしたい方に!

本が売れない時代になってきまして、村松も物書きとしての自分の活動を考えなければいけません。
その部分のフォローとしまして。
  1. 単なるカンパ。
  2. 著書を購入する。
  3. 心理研究会に参加する
  4. セッションを受ける
などで、心の中で思うだけでなく、力強く応援してください。
美術教育で評価をしてはいけない件。反響がありました
前回の記事に関連して、あるお母さんから次のようなメールが来ました。


**以下引用。前略。

……。

ブログの記事で、美術の教育のあり方についてかかれておられましたけれども、先ほど息子が図工が嫌いだ。と言い出しました。
図工大好き人間だったので、理由を聞いてみると

「きれいなはなの絵を描きましょう。って先生が言うんだよ。きれいな花なんて俺、描けないよ。きれいな色使ってとか、濃淡をつけて、とか丁寧にとか色々言われる。女子じゃねぇから、俺(そんなの無理)。
俺は雑草を描きたい。雑草って、先生に怒られている子どもたちみたいじゃん。じっと先生のお怒りに耐えていて。でも、先生に許してもらえなかったら引っこ抜かれちゃうんだよ。」

うわー、ブログに書いてある通り!
と思ってしまいました。


****

こういう話、たくさん転がっていると思うのです。
いい先生もいるだろうけど、よくない先生もいる。
でも、いちばん大切なことはそこに「理念がない」、ということです。
いい先生もよくない先生もたまたまいるだけで、芸術教育の方法論とか根本的な発想がないのです。

それが、先生の勝手な思いや理屈でどうとでもできるという現状を作っています。

こんな返事を書きました。

**以下返事。

すばらしい自分が何をしたいのか明確な自覚を持っている息子さんではありませんか。

次のように伝えてください。

・・・
今回のことは先生のエゴである。
表現は強制されるものではない。

しかし、生きて行く上で他人のエゴとは必ず出会うものであるから、よい機会だ。
よく観察し、上手に切り抜けなさい。

ある一人の先生のエゴによって、図工や絵を嫌いになるのは筋違いだ。

それはそれとして、好きな絵を描きなさい、


*****


多くのお母さん、お父さんがこういうの変だよ、とわかれば、少しずつ変えていけるかもしれません。
そのために書いています。
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どうしたら自分を愛せますか? 3(自分を育てる方法) 
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自分を愛するには「自分」について真剣に考えないといけません。

前回、こう書きました。

**

「2,000円の生活費があるとします。
1,000円を自分を責めるのに使う。
850円を自分を責められることから守るのに使う。
残りは150円です。

他の人は2,000円のエネルギーで生きているのに、わずか150円のエネルギーしか自分のために使えないのです」

**

こういう状態の場合、自分はどこにいるでしょうか?

1,000円の部分でしょうか?
850円の部分でしょうか?
150円の部分でしょうか?
それともそれを合わせた全体の2,000円でしょうか?

世間では、この2,000円の混乱状態を自分と呼ぶことが多いでしょう。
しかし、自分を愛するときには、150円の分だけを自分と考えるのです。

その理由はこういうことです。
私たちが生まれ、育ったのは自分の力ではないのです。
精子と卵子が結合して生命として誕生する。
それは神様の力、自然の力です。
そして、両親が愛し合ったのは、両親の力です。
育ててくれたのも親です。
それから学校の先生にいろいろなことを習います。

こうして考えると、外の影響を受けたことばかりで、生まれ育つ間には何一つ自分でしたことはないのです。

では、どうすれば自分が何かをしたと言えるようになるでしょうか?
いつから自分を持ち始めるでしょうか?

ちょっと考えてみてください。

とても単純なことです。
単純すぎて誰も言っていないことかもしれません。



その答えは、

1.自分の動機で何かをすること
2.その結果を自分で受け止め評価すること。

この2つです。
簡単で当たり前のことでしょう?

1について。  
意外に私たちは自分の動機で何かをしていません。
親に言われたから。先生に言われたから。会社の仕事だから。世間ではみんなそうしているから。

そういう他人の動機だけでも一定の期間生きていけるのです。
でもあるとき、ふと苦しくなります。
他人が要求することとは何か違うことを自分が求めているような気がする。
そういうことは若いときに確かめてみるべきなのです。

あまりに長いこと自分の動機で動いたことがない人は、自分が何を感じているのか、はっきりつかめなくなってしまいます。

2についても同様です。
言われたことを言われたからする。
言われた通りにする。
言われたことを守れば責任は発生しません。
言われた通りにしないと、不良になります。

評価も親がします。
先生がします。
世間がします。
自分自身が評価をくだし、受け止める時間はありません。

いつも誰かが評価してくれる。
評価を待つようになる。

自分自身で受け止めるという習慣がなくなってしまうのです。

誰かがほめるか、評価してくれないと不安になる。
自分が何をしているのかわからなくなる。
それで、すぐにモチベーションを失ってしまう人が多いのです。

僕だって、こういうブログを書いたら誰かに褒めてもらったり、しっかり読んだ感想なり意見なりの反響がほしい気持ちはあるのです。
実際は反響は期待の100分の1もないです(笑)。
それでも書くのはやめない。
それは書く理由が自分の中にあるからです。

僕はかつて「自由とは自分の理由で生きること」と書きました。
他人が評価してくれなかったらやめるんだったら、それは自分の理由とは言えません。

もちろん他人の評価の中には、していることに意味があるかどうかの指標も含まれています。
それを重視する人は多いでしょう。

たとえば作家や画家で、作ったものが片端から売れて行くなら、作る人にはたいへんありがたい。
それでお金を稼げば世間も評価するでしょう。

中には「お金の儲け方を教える」といってお金を儲けている人もいます。
中身は何もない俗流錬金術ですが、それでも何万人、何千人というファンがいます。

僕はそんなことは書けないし、書きたくないのです。
だからこれでいいのです。
他人の評価を得るために自分を変えられない人もいます。

ゴッホの絵の話を持ち出すのはあまりにベタですが……まあ、そういうことです。
自己評価が絶対ではないけれども、世間の評価もまた絶対ではありません。
僕も自由に書くけれども、世間の評価を期待していないわけではありません。
そういう割合の「塩梅」がその人の生き方のバランスをとって選択肢を広くします。
オール・オア・ナッシングで中間がないと非常に生きづらくなります。

自分で行動し、自分で評価する。
それを一定以上の割合でしないといけない。
そして、他人の評価もある割合でしか受けつけないことです。

芸術教育はとくにこの認識が重要です。
絵を描くことなど、絶対他人が評価してはいけない。
とくに子どもの絵はそうです。

勇気づけたりヒントを与えるのはいいけど、評価してはいけない。
自分で描いたものを自分で受け入れて、次にどうしようかと考える繰り返しが必要なのです。

他人が評価するのは、そのサイクルを破壊することなのです。
僕も子どもの頃、二度に渡って先生の評価ですごく迷わされました。
二度目のときなど、すっかり絵に嫌気がさしてその後30年くらい絵を描かなかったのです。

小中学校の美術の先生というのは、悪くいえば「作家になりそこねた人」ですから、謙虚にしていただきたいのです。
評価することよりも、子どもに絵の楽しさを教えることです。
子どもに絵を描かせて描くことを好きにさせるだけで、とてもいい仕事なのです。

いろいろなケースを書きましたが、元に戻りましょう。

自分の理由で行動する。
自分で自分のしたことを評価し受け止める。

これが一つのサイクルです。魚で言ったら「尾頭つき」です。

美術教育だけではなく、日本の教育にはこのサイクルがありません。
動機も評価も全部誰かが持って行ってしまいます。
中間の面白くもない努力だけが生徒に残されます。

しかし、教育がおかしいといってもよくなった試しはありませんから、自分たちはどうすればいいのか、という話をしましょう。

わたしたちが、他人の理由で行動するのに慣れてしまったこと。
これが「150円」の原因です。

150円というのは、先ほどの

**
「2,000円の生活費があるとします。
1,000円を自分を責めるのに使う。
850円を自分を責められることから守るのに使う。
残りは150円です。

他の人は2,000円のエネルギーで生きているのに、わずか150円のエネルギーしか自分のために使えないのです」

**

このことです。
この150円のエネルギーでは自分を愛せないのです。
では、どうすればいいでしょう?

この150円を投資するのです。
わざわざお金の比喩にした理由はここにあります。
投資とは、先ほどの「尾頭つき」のプロセスを小さなことでいいからしていくことです。

難しい言葉では、「投企」、あるいは「自己投企」と言います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/投企
Wikipediaの説明では、「投げる」ほうはあっても回収する、評価するほうがあやふやですね。

僕はハイデッガーなど面倒くさくて読めませんが、同じようなことを言っていると思います。
ハイデッガーの場合は、150円のことを「主体」というでしょう。
そこから話がどんどんややこしくなる。

私たちが生きていくのに役立てるには、150円でいいのです。
話を進めましょう。

150円を投資したら2割ついて180円で戻ってきます。

実際の投資話では、2割つくと言われたら騙されると思ったほうがいいです。
でも、この話の比喩では本当です。
損することもないし。

この投資で失敗するとしたら、誰かに否定されたときなのです。
しかし、自分自身を投資するのに本来人に干渉されるべきではありません。
もし干渉する人がいるなら、その人に見つからない小さなことから始めましょう。

何度か投資していくうちに、150円は複利で増えて行きます。
150円で2割だと30円ですが、500円だと100円利子がつきます。

だんだん自信がついてきます。

どうしてそんなに利子がつくかというと、
「本来自分のものであったものを取り返している」
からなのです。
自分の行動はもともと自分のものですからね。
自然に戻ろうとしているエネルギーがあるから、そちらには大きく転がるのです。

自分が雪だるま式に増えて行くわけです。
こうして150円だったものが、2,000円のうちの1,000円近くになりますと、「自分は自由だ」という感覚が芽生えます。

自分が愛せるのは、この自由な自分です。
他人の動機や評価でまぜこぜになった自分ではなく。

自分自身が外からの影響と対等になったくらいから、そのような変化が生まれます。

それでも自分自身はまだ半分。
自分はさらに1,000円を越えて全予算の2,000円に近づいてきます。
9割以上が自分のものになると「自由」という状態から、僕が「自然」と呼んでいる状態に移行し始めます。

全く別の変化が起きます。
日々の予算が2,000円であったものが、じわじわと増えて行くのです。
内部の割合ではなく、枠組み自体が拡大して行くのです。
このブログのタイトル「自然の道」とは、そういう意味です。

しかし、このことに深く立ち入るのは今はやめておきましょう。

「どうしたら自分を愛せますか?」がテーマでした。

まず他人の影響と自分を分ける。
次に自分自身を育てる。
そうすると、自分自身を自然に愛せるようになる、ということが答なのです。

「自分探し」が一時期流行りましたが、これからは「自分育て」で行きましょう。

*********

ワークショップ「自然の道」『アートの日』のお知らせ。
自分育てに最適であります!

2015年5月23日14:00
東京都
豊島区目白3-2-9-4階 東社協保育士会会議室

久しぶりに書道をやります。
参加費 3,000円。

腸の感覚を使って書道をします。
自分でやってけっこう面白かったので、みなさんにも楽しんでいただけると思います。
初めての方、歓迎です。


第一部

内臓ダンス+マンダラ+書道。
内臓ダンスで喚起した感覚を使って書を書きます。

面白いものが書けます。

いわゆる書道とは全然基準が違います。
だからしたことがない人でも大丈夫。

習っている人も、違う感覚から書を見直す機会になるでしょう。

筆という道具、墨という液体、これがあると白い紙に無限の広がりが出ます。
お手本のように書くのではなく、そういうアートとして、書を見直します。

必要なものは用意しますので手ぶらで参加できます。

**

第二部

この日の特別イベントとして、終了後、僕が習っている陶芸「サカイ工房」の展示を見に行きます(一部のみ参加も可)。

すぐ隣の池袋駅直近のギャラリーでなので、移動は5分くらいです。

実用的な陶器がほしい方、販売もしているので、けっこう掘り出し物があります。
陶芸のプロではありませんけど、皆さん個性的な作品を作ります。

もちろん、僕の作品もあります!

**

第三部

中華懇親会。

展示を見るのは20分前後。

興奮さめやらぬまま、池袋でおいしい中華を食べて懇親会を予定しております。
予算は食べて飲んで2500円。

内容盛りだくさんです。
ぜひご参加ください。

懇親会参加の方はその旨、お知らせください。

お申し込みは、entry@hiden.jpまで。

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原発事故で経済が終わること
愛の哲学、続きますが、今回はちょいと社会的なことを書きます。

3.11以降、ずっと政治や社会を見てきたけれども、ようやくそうだったのか、というところに収まったので。


**

ようやく3.11以降の政治家、官僚の動きの全貌が見えてきたように思う。

彼らは最初から福島一発で経済が終わることに気づいていて、そのことだけに対応していたのだ。

生命より経済が大切、というのは、じつは国民の生活のことではなかった。
日本経済がまもなく原発事故によって破綻する、その延命をどうするか、ということであった。

うかつにも、僕は3.11以降のどうにも焦点がズレたような動きは彼らの鈍感さからくるのか、と思ってイライラしていた。

しかし、彼らは自分の利益に関しては十分過ぎるほど頭が回る。
そして、僕らに隠して、生の質のいい重要な情報をつかんでいる。

原発が使い物にならないとなると、今まで資産であったものが、おそろしく危険な金食い虫になる。
+100が-100に逆転するのだから、日本国は倒産するのである。

先日、IMF管理の記事がでていたが、倒産するとIMFから金を借りる。
そうすると、日本全体が差し押さえられる。
公務員給与のカット、退職金ゼロは、ざまあみろな要素もあるが、国民の預金、不動産まで管理下におかれ、IMFに吸い上げられるということが起きるようだ。

このときに自民党の中枢は何を考えたか。
自分と自分の一族の特権、資産を増やすことだ。

実質的な対策よりも、除染のほうがてっとり早く金になる、というようなことだ。

自民党の一年生議員に近い連中は付和雷同しているだけだろうが、世襲議員たち、権力の中枢にいる者は、一様にこの認識を持ったはずだ。

戦争成金、戦後のどさくさに財をなした者。
戦犯ですら、処刑されなかった者は、戦時中のコネクションを活かして財をなした。

とにかく放射能対策よりも、利権があれば、自分も一枚噛むということに忙しかったに違いない。

事故の報道について、大本営発表という言われ方をしていたが、まさに、これから戦争が始まるのではなく、いまは戦時中なのだ。
古株の政治家たちは、原発に関する利権を探して鵜の目鷹の目であろう。

仮に日本が倒産しようと、自分たちは海外に預金や不動産を持ち、日本で利権をあさるだけあさったら、いつでも逃げられる選択肢を持っているはずだ。

とにかく彼らは国民から吸い上げるだけ吸い上げる。

もういわば使い捨てなのであるから、絞れるだけ絞る。
マスコミは押さえたので、他に抵抗してくる基盤はない。

政治家が忙しいのは、権力内部で自分の取り分を確保することであろう。

日本の経済は終わる(倒産する)。
もし開催できる状況であれば、たぶんオリンピックの直後くらいではなかろうか。
オリンピックで最後の金をかき集める。

経済以後に、一般人がどう生きるのか、どう備えるのか、というのは、僕のテーマの一つだが、まだ話についてきた人は一人もいない。

みんな目の前の生活で忙しいのだろう。
僕のような閑人が一人で考えないといけない。

とにかくもはや怒ったり、苛立ったりしている場合ですらない。

戦えると思う人は戦ったほうがいい。
逃げられると思う人は逃げたほうがいい。
自分も成金になれると思う人は権力に媚びたほうがいい。

信じない人、あきらめている人、どうにもできない人、面倒くさい人はいままでと何も変わらずに生きて行くだろう。

そのようにして時代は進む。



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どうしたら自分を愛せますか? 2(自己愛の強い人について) 




自分を愛しているとは、どういう状態だと思いますか?

自己愛? ナルシスト? それはここで語ろうとしていることとは、また別の領域です。
母親が子どもを愛するのは、ちっとも大げさなものではないでしょう。
たんたんと静かに日常を送る。
その中にひたひたと愛は満ちているのです。

自分を愛するというのは、じつはぼーっとしているようなことです。

*他人が自分をどう思うかに余計な気を使わない。
*他人の基準で自分を測らない。
*自分がしたいことがわかっていて、可能な限りそれを実現する。
*人に何か言われても大して落ち込まない。
*褒められても過剰に舞い上がったりもしない。

そういうある意味、ぼーっとした状態が自分の中に愛があるということだと思います。
自然な状態では、愛は血液のように自分の中をめぐっているのです。
だから、自分を愛している状態とは、「当たり前の状態」であるわけです。

だいたい自分を愛する自分と愛される自分に分裂することが不自然、不健康と言えるのです。
自分を責める自分と、責められる自分が分裂しているのと同様に不健康です。
裁く自分と裁かれる自分。
正しい自分と間違った自分。
みんな分裂です。

人には60兆の細胞があると言われていますが、僕が自然と呼ぶ究極の姿は、60兆の細胞が全部一つの意志で動く状態です。

会議でも、意見が半々に分かれていては、ムダに疲れるだけで、何もできませんね。
全員一致であれば、思った事は瞬時に行動に移せるのです。
一つの意志というと、北朝鮮のような独裁国家を思い浮かべるという反応が現代では多いと思うのです。
しかし、ああいう国家は異端者を投獄したり、処刑したりしないと成立しません。
それは僕の60兆の細胞が全部生き生きした状態とは違うのです。

一つの生命、一つの身体ですから、本来利害の対立はないのです。
イデオロギー、考え方の対立もありません。
では、なぜ現状私たちがいくつもの価値観に分裂しているかといえば、外からインプットされたものに影響されているからです。

頭脳は矛盾した価値観を抱えているのです。頭脳とは、つまり言葉の世界です。
本来統合されえない複数の価値観の断片を私たちはインプットされているのです。

しかし、身体は言葉を抱え込みませんから、一つなのです。
ですから、私たちは身体の声を聞くことで、自分の中の混乱を鎮めていくことができます。

心で心を押さえ付けることはできません。
言い換えれば、言葉で心を押さえ付けることはできません。
一つに統一することができません。

不愉快なことがあって、「怒るな怒るな」と念じても、考えているうちに、かえって火がついて爆発してしまうことがあります。
それは取り扱いを間違えているのです。

身体と心が一致して、分裂が少ない状態、それが自分に対して「愛がある状態」であるととりあえず定義しましょう。

じつは、世間でいわゆる「自己愛の強いタイプ」に分類される人は、内部に分裂を含んでいます。

これには二つのタイプがあります。
一つのタイプは、外では超強気で振る舞うけれども、一人になった途端にどぉぉよよよぉぉぉん、と落ち込むタイプです。
これは、ジェットコースターみたいに無理にアゲるから、その分、落ちるのです。
自信満々と裏腹に自己嫌悪も強いです。

もう一つのタイプは、自分を愛する自分と、愛される自分とがラブラブなタイプです。
これは幸せですが、やはり分裂していると、前者と同じ要素を持っています。

自分を愛するといっても、ぼんやりしたものではなく、たいてい具体的な長所を愛している。たとえば、美貌、頭の良さ、芸術的才能、スポーツ能力、仕事の手腕、何かそういうものに対してナルシスティックになっているのです。

しかし、才能でも何でも上には上がいる。
またそれまでは順風満帆でも、壁にぶつかるときもある。

こういうときに、がーんと落ち込むと最初のタイプに似て来ます。

もう一つの反応は、自己合理化する、ということです。
現実を見ないで自分の都合で世界観をねじ曲げてしまう。
こうなると、「あの人はアレだから」と周囲からも距離を置かれてしまいますが、そういう現実すら見なくなります。

スポーツや、囲碁、将棋のような勝負事は、いやおうなく、自分の相場、限界がわかってしまいます。
しかし、芸術活動などは、「理解しない周囲が見る目がないヤツばかりだ」と合理化することができるのです。
一回自己合理化の回路ができてしまうと、ほとんどそこから抜け出すことはできません。

だから、自分が分裂している状態は、たいへんに不安定で、本当に自分を愛していることにならないのです。

これで、ようやく「どうしたら自分を愛せますか?」に答えられます。

やはり次回に続く。

**

内臓ダンス+シンクロームのお得なセット。
習った日から、自分に恋人に、家族に、ペットにしてあげられます。

シンクローム講座
http://synchrome.asia/2015/03/28/1020/
JUGEMテーマ:恋愛/結婚


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どうしたら自分を愛せますか? 1
どうしたら自分を愛せますか? について書くと予告したけれど、もう少し、自分を愛せない人について書く必要があるようです。

先日、スピリチュアル系?の記事にこんなことが書いてありました。
二枚の紙を用意します。
一枚には感謝の言葉を書き、一枚には否定的な罵倒辞を並べます。
それをそれぞれ果物と同じ容器に入れておくと、罵倒辞のほうが早く腐るのだそうです。

また血液も同じようにして変化を観察すると、罵倒辞のほうは顕著に悪い変化が現れる、というようなものでした。

本当かどうかわかりません。しかし、そういう結果が出ても不思議ではない気がしますね。

心の中では、もっと明快です。
悪い言葉、否定的な言葉は自分を痛めつけます。

言葉が物質に作用することには否定的な人がいるでしょうが、言葉が心理に作用することは毎日私たちが体験していることです。
ちょっとイヤなことを言われてどーんと落ち込んだり。

自己否定的な人は、毎日それを自分でしているのです。
自分で自分を殴るようなものです。
バカバカしい。

ところがその人は、「自分を否定しているのではなくて、ダメな自分を正しているのです」というでしょう。

しかし、こんなのは30秒で論破できるのです。
そもそも「自分を正す」ことができる自分がいる、というのが嘘なのですからね。
その嘘に陶酔しているのです。

もし自分で自分を正すことができるなら、とっくに正しくなっているでしょう。
正すことができないのは、認識や方法が間違っているからです。
しかし、そのことは正そうとしない。
正されるほうの自分は激しく否定するのに、正すほうの自分は正しいと信じ込んでいる。

10年以上も同じことで自分を否定し続けている人がたくさんいます。

10年以上一つのことをして、何の効果もなかったらどうですか?

とてもムダなのです。
部屋の中で暖房をつけていて、暑すぎるからと同時に冷房をつける、それはムダだと誰でもわかります。
生きて行くのに、自己否定をするのも同じくらいムダです。

2,000円の生活費があるとします。
1,000円を自分を責めるのに使う。
850円を自分を責められることから守るのに使う。
残りは150円です。

他の人は2,000円のエネルギーで生きているのに、わずか150円のエネルギーしか自分のために使えないのです。

では、どうしたらいいでしょうか。
今すぐばかばかしさに気づいてやめることです。

どうしたら自分を愛せますか? の答は、「自分で否定するのをやめること」、なのです。
自分でする。
無責任のようですが、何人ものそういう人と話してきて、いろいろ奮闘努力した上での結論です。

その人は、まず「どうしたらできますか?」と聞きます。こうしたら、というと、「それができないです」というのです。
では、こうしたら、というと、「それもできないです」といいます。
どこまでいっても、「それならできます」「それならできました」という言葉はでてきません。

自分で自分を正そうとするのは無理だ、と書いてあるのを読んだら、「ああ、バカバカしい。やめよう」とすぐにやめればいいのです。
しかし、真剣に読んでいないのです。
自分の都合のいい世界でしか読まない。

自己否定を「やめられません」と言った時点で、もう僕が何を言ってもムダなのです。そこでやめない人はもうやめません。
どうも、あれこれ聞いてくのも、やめることが目的ではなくて、「やめられない」ということを僕という道具を使って証明しようとしているようなのです。やっぱりダメだった、ということを証明するために「どうすればいいですか?」と聞いてくるのです。

ですから、自分でできない人はダメなのです。
ダメと見捨てられて、「ほらみろ、やっぱりダメだ」とますます今いる場所に安住するのが重症の人です。

しかし、そこまで重症でない人のために、どうしたら自分を愛せますか? について考えたことがあるので、次回こそ書きましょう。
(懲りないですね、僕も)

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毎年、少し遅れて申し込む方がいます。
もったいないです。
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http://croquis.hiden.jp
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【まず自分から愛すべし】
【まず自分から愛すべし】

愛にはいくつかの基本があります。。
今まで書いて来たことは、ずいぶん変なことを書くなあ、と思われているかもしれないけれど、全部基本なのです。
日常生活でなんなとなく身に付いたクセが基本であるとは限りません。
何か習い事をしたときに、基本姿勢が日常動作と違ってとまどうことがあるでしょう?
しかし、その基本姿勢の上に、合理的な体系が組み立てられるのです。

基本は、わかっているかどうかで、大違いの結果を生みます。
基本を外れていると結局遠回りをします。
遠回りをしただけでなくいい結果を生みません。
土台が歪んだまま上に家を立てるようなものです。

さんざん自分で苦労した結果、帰ってくるのが基本です。
帰って来られればいいですが、ひずんだ形のまま、一生ごまかしごまかし生きなくてはいけなくなるかもしれません。
愛なんてめいめい勝手でいいだろうと思っていませんか?
めいめい勝手でいいんですけど、やっているうちにそこに合理的な筋道が見えてくるのです。

男の世界の喧嘩でも、「勝てばそれでいいだろ」という生き方もあります。
腕力や体力が強いだけの乱暴者もいます。
しかし、素質や腕力だけでは、系統だった武道や格闘技を習った人にはやがて勝てなくなります。
あまりいい比喩ではないですけどね。

前置きはこれくらいにして、もう一つの基本を書きましょう。
愛の基本は、まず「自分を愛すること」です。

愛に生きるためには、自分を好きになるって大切にすることです。
自分自身を大切に扱って育てることです。
いつも身辺をきれいにし、気がかりなことを残さない。
自分を高めるチャンスを探し、いつも心を生き生きとさせておくことです。

自分が愛せない自分を他人に愛してもらうことはできません。

自分でまずいと思っている料理を人に出せないのと同じです。
まずい料理で人をもてなせばどうなりますか?
自分でまずいと思っている料理は、器や盛りつけに気を使うことができません。
相手の好みを考えに入れる余裕もありません。
出したあとの会話もぎこちなく盛り上がりません。
相手が顔をしかめるのではないかと心配し続けないといけません。

これでは愛はありません。

自分で自分は愛せない、だからこそ、人の愛がほしい、という人はけっこう多いのではないでしょうか。
しかし、それは無理筋です。
さびしさを他人で埋めようとして、ずっとうまく行くケースはほとんどありません。

なぜなら、そういう女性が慰められるのは、会って楽しいそのときだけだからです。
一人になると急にさびしく不安になる。
だから頻度高くメールや電話をせずにいられない。
毎日のように会わないと気が済まない。
いわゆる依存です。

そういう女性とつきあえるのは、やはり依存性の高い男性であるか、心よりも若さや身体に惹かれた男性ということになります。
どちらも行く末を考えるとさほどよいことがありません。

だいたい想像がつくでしょう?
たいへん類型的なできごとが起きるのです。
「わたし」が楽しい、「わたし」が苦しい、と切実に感じているけれども、外から見れば、よくある愚かさでしかない。
その決まりきったコースから逸脱できるかどうかが、その女性の賢さなのです。

外からみれば、と書きましたが、その「外から見る」という冷静な視点を自分の中でもてないのです。
外からみようとすると、自動的に自分を叱責したり、否定したりしてしまう。
それはかなり高いパーセンテージで幼いときに母親から言われたことの口真似なのです。
自己否定のシステムについては、それだけで独立して一冊の本が書けるほどなので、いつまで書いてもキリがない。
ここでは、これ以上深入りしないことにしましょう。

愛は血液のように自分の中を循環しているものです。
それがほのかな暖かさとなって人に伝わります。
いずれ詳しく述べますが、愛とは激しいものではなく、そのようなものです。
自己否定は愛の流れを止めてしまいます。

自分の中の愛せない一部について、恋人が癒してくれることはあるでしょう。
しかし、8割くらいは自分が好きでないといけません。

自分が嫌いな人は、4割くらいしか自分のことが好きでないとします。
数字は便宜ですが。そして、生きているからには、たいてい4割くらいは自分が好きなのです。
そうすると、6割を人に負わなければなりません。
6割を男性が負うには、自分を犠牲にしなければなりません。

自分を犠牲にするのは、身体目当ての男か、自分をまだ確立していない男です。

依存性の高い女性が、自分のある男とつきあえば、自分が思うほどかまってもらえないので「冷たい」とうらむことになるでしょう。

精神的に自立した男女が惹かれ合うことのほうが、依存し合うよりずっと品があって、質の高い喜びがあるのです。

日本には「割れ鍋に綴じ蓋」という言葉もあり、そんなに完璧に自立した者同士を考えるのは難しいかもしれません。

それでも、まず8割くらいは自分のことを愛せることは大切なことです。
それをせずに外に愛を求めても失敗します。

どうしたら自分を愛せますか? という質問も当然でてくると思います。
それについては次回書きましょう。

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ブログタイトル「自然の道」にしました
本当はもっと早くすべきだったんですけど。

旧題「心が大事」は、いわば心理の領域について言語化する「運動」だったのです。
しかし、心と身体の境目は世の中で思われているほどはっきりしたものではなくて、分けて考えるのは不健全であるという考えに至りました。

身体について考えると、今度は身体と宇宙もつながっています。
そういうことの探求の全体を「自然の道」と呼ぶことにしたのです。

したがって、この「自然」の中にはアウトドア志向はほとんどありません(笑)。

あえて同語反復的なサブタイトルをつけてみました。

自然というより、ナチュラルと言ったほうが、たぶん素直に受け取られやすいのは不思議です。
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愛のワークショップ報告
愛のワークショップ報告


3月14日開催の『愛のワークショップ』、とてもいい感じでした。
レクチャーはかなり概念的で深かったのですが、全体にまろやかで、温泉に入ったような温かい愛のエネルギーが流れました。

……というのは、主催者の自己評価ですが(笑)、参加者にも同様に感じてもらえたと思います。

女性の力はつながることで強くなる、と感じました。
その他、新しいヒント、アイデアなども浮かんだので、機が熟したら第2回を企画したいと思います。
今回も参加者数は多くなかったので、苦しいのですが、少人数でもつないでいきたい企画です。




4月の話。

4月18日14時から2時間、『自然の道 * 内臓ダンスとシンクローム』を行います。参加費は5,000円。懇親会つきです。

今回は内臓ダンスとシンクロームに絞って、濃いめにやります。
とくにシンクロームは、一回で実践できるようになるので、たいへん有用なものだと思います。
こんなに簡単に教えていいのか、とときどき自問します…(笑)。

体験者の方も繰り返し共有することで理解が深まり、施術が安定して他の人にもしてあげられるようになりますので、ぜひご参加ください。
初めての方は、自分や家族のちょっとした身体の不調に対応できるようになって、本当にお得だと思います。

内臓ダンスは、CD(12曲入り2,000円)も完成し、ファンが激増中であります。

**

そして、『言葉のクロッキー』いよいよ2015年度版が4月から始まります。
ピカピカの一年生! 一年に一回の始まりです。
今回は課題を10年ぶり(くらい)に3問増設!
ますますハードな文章虎の穴になりました。
どんなのかはこれがわかりやすいです。

参加者のブログ/『言葉のクロッキー』とは?
http://hirotograph.com/2015/03/13/kotobano_croquis2014/

『言葉のクロッキー』申し込みサイト
http://croquis.hiden.jp
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「愛のワークショップ」は何をするのでしょう?
「愛のワークショップ」いよいよ今度の土曜です。
みなさん様子を見ていますか?
人数今のところかなり少なめです。
あなたが埋没してしまう恐れはありません。

でも目立ちすぎることもありません。
みなさん、このプログラムは初めてですから、なんだかわからないのは同じです。
僕も初めてだし!
自分だけ様子がわからないと思う必要はありません。
予備知識や準備も要りません。

どんなワークショップでしょう?
ここに長い文章を書いていますが、レクチャーはちょっとだけで、7,8割はワークショップになると思います。

たぶん、心のいろいろなところを刺激されているうちに、あっという間に時間が経ってしまうでしょう。
いっしょにゲームをしたあとは、ビールやワインで愛について語り合いましょう。
たぶん懇親会になる頃にはみんな仲良くなっています。

3月14日14時開始!
今すぐ「愛のWS参加」と書いて

entry@hiden.jp

にメールしましょう。
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【男は「生理のない女」である】
【男は「生理のない女」である】


僕は女性にもっと自信を持ってもらいたいし、女性同士がもっと力強く賢く暖かくつながってほしいと思っています。

それは僕の願望というより、そうあることが自然で健康であると感じるからです。
孤立して相談できる相手がいなかったり、孤独になりたくないがゆえに派閥を作ったりするのは本当にもったいない。

女子会が流行っていますが、仲のいい女性同士が本当にリラックスして盛り上がっている姿はとてもよい熱気を感じるのです。

女性と男性は、対立しているのではなく、補いあっています。
女性が元気になれば、男性が引っ込むということはなくて、両方がより高め合うことができます。

哲学者のボーボワールは、「人は女に生まれない、女になるのだ」という有名な書き出しで始まる『第二の性』を書きました。
つまり、自分の本性を生きているのではなく、文化的な抑圧によって女としての生き方を強いられている、というのです。
フェミニズムの先駆ともいうべき作品です。
ボーボワールは、サルトルのパートナー、恋人でしたが、結婚せず、それぞれにまた別の恋人を作ったりする生き方でも先駆的でした。

『第二の性』は、つまり第一の性は男性である。女は第二の性に貶められている、という意味を含みます。

イブはアダムの肋骨から作られたとかですね。
僕は高校生のときに年長のいとこの影響で背伸びして読んだので、途中までで放り出してしまったし、覚えていないことが多いのですが印象には強く残っています。
ボーボワールは古今の文献の中で女がどう語られているかを執拗に検証していきます。

その手法があまりにまわりくどくて、なかなか「こうだ」と断言しないので、若くせっかちな僕はいやになったのだと思います。

しかし、その中で印象に残っているのは、「女は去勢された男だ」という言い回しです。
ちんちんを切られた、あるいは持っていない男、女はそのように扱われていると書いてありました(僕の記憶の中では)。

ボーボワールはあるいはちんちんがほしかったかもしれません。
最近の僕の目から見ると、そんなことが想像されます。
そう思っている女性もいるはずです。
直接聞いたことは一度しかありませんが。

しかし、男性だって女性器(ろくでなし子さんの登場に関わらずその名称は書きにくい)がほしい人はたくさんいます。
いわば対象形なのです。

凸と凹どっちが本質的で優れているかなんてこと考えても仕方ないですね。ボリューム的には字でも凹のほうがむしろありそうです。
女性にはおっぱいやお尻がありますからね。

僕が最近考えているのは、むしろ、男が「生理のない女」だということなのです。
女性は月に一度、生理を体験します。
これによって、毎月自分の身体の内なる営みを確認しているのです。

毎月一度、身体、生命、地上的、具体的なものに引き戻されるのです。
男はそれがないから、ふわふわと夢の世界、観念の世界をさまよいがちなのです。

歯止めがないから、原発を作ったり、戦争をしたりするのです。
原発が深刻な事故を起こしたのに、「原発を止めれば経済が止まる。だから原発は推進する」というのは典型的男の論理です。

子どもたちの命がなくなったら人類は滅びて経済はありません。
しかし、経済がなくなっても生命はあります。
自然の恵みを採集して食べるのは経済ではありません。
もともと金の動きは生命に必須ではないのです。
社会が経済が回らないといけないように発展してきたので、実情はもちろんあらゆる人に経済、お金が必要です。
しかし、少しずつ経済に大きく依存しないで生きようとする人々が出て来ています。

現代社会のあり方は、屋上屋を重ねるという言葉通り、どんどん制度、システム、法律を上塗りしていくだけです。
よくないとわかった組織、制度を反省し、壊して別のデザインに変えるということができないのです。

何十年も前に計画されたダムや、高速増殖炉の「もんじゅ」、リニア新幹線など、素朴に感じることができれば、バカバカしく有害であるとすぐにわかることも止めることができません。

そういう社会を止めることができるとすれば、女性の力であろうと僕は思っています。
男社会は「原子力ムラ」というように全部が連動していますから、強大です。しかし、逆に一つを止めれば全部に波及します。

そういう機運は高まっていますが、具体的に方法、出口は見つかっていません。
僕はその糸口は女性の力だと思っています。
男にはあまり期待できません。
そして、女性の力を社会につないでいくものは愛だと思って、ワークショップを始めるのです。

だからといって、これは社会運動でもないし、フェミニズムでも政治でもありません。

難しいかもしれないことを書きますが、それらのものは、「言葉の運動」になってしまうのです。
運動とは、エネルギーが動いた現れです。
つまり、本質は言葉以前のエネルギーや感覚なのです。
しかし、それを継続させよう、広げようとしたときに、言葉で定義や方針や説明をすることになります。

そうなったときに運動は早くも死にかかります。
言葉は、固定し限定するためのもので、運動ではないのです。

愛はそのようなものではありません。
つねに運動であり、エネルギー、感覚に留まります。
そして、個人をうるおし、人とつながります。

そのような愛が海のように世の中に広がったときに、世の中は動き始めます。

でも、まず一人一人が愛の波動を生きなければなりません。

【生理はバージョンアップである】

生理が重い、つらい、という人はたいへん多いと聞きます。

なんかたいへんネガティブな、女に生まれたことの重荷、税金のように感じている人が多いのではないでしょうか。

でも、実際はそれは違います。
女性の身体は月に一度リセットされるのです。
更新、バージョンアップされます。

経血は使用済みの血です。
月に一度更新されることによって、女性の心身はつねに新鮮な状態を維持しているのです。

生理を悪者にして考えるのは、たいへん逆立ちした考えなのです。
生理が重い人は、どこかで我慢したり、無理をしたりして、生命のエネルギーのめぐりが悪くなっている人が多いのです。

人の身体にはいろいろ例外がありますが、これはおおよそ言えることです。
しかし、逆は真ならずで、生理が軽い人でも心にいろいろ重荷を抱えている人はいます。

女性の身体はそれだけタフなのです。

そして、生理は軽くなります。
僕のしているシンクロームという施術で結果的に軽くなった人は何人かいます。
鎮痛剤を飲まなくて済むようになった人がいます。

僕のしていること以外にも、方法はたくさんあると思います。
苦痛に耐えるのが当たり前と思い込まないでください。
毎月イヤなつらい思いをするだけでなく、女性としての生命が輝きだしているかどうかのバロメーターなので、真剣に考えてみてください。

女性の身体は月の周期と同調しています。
その波にうまく乗れば、女性は自然の力を味方につけることができます。
若さや美しさはそこから来るのです。

いつも自然で愛の力に満ちあふれている。
それが女性の本来の姿です。

*今回はとても大事なことを書きました。
共感された方はぜひシェアしてください。

納得いかない方はぜひコメントを。

そして、今週土曜はワークショップです!

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