ココロを哲学するサイト

巻頭言

これは心にセンタリングするブログです。

今の世の中は中心がお金や経済で回っています。でもお金で価値が一元化していく流れは、人にはちょっとしんどいものです。だから、それとはズレた次元に、心という中心を求めて行こうと思います。

本当はセンタリングというからには、究極的には魂や霊に、あるいは神に中心を求めたほうが安定がいいでしょう。しかし、現代ではスピリチュアルな領域もすっかりカテゴライズされてしまっていて、語り口も決まりきっています。どこかで読んだようなことが順列と組み合わせを変えて書かれ、何の目新しさもありません。そういう領域で書いてもちっとも面白くないので、心という中途半端な領域で四苦八苦しながら哲学するつもりです。
そもそも、自分の心がわからない者には霊や魂のこともわからんだろうと思います。

読者の皆さんにもお願いがあります。

愛読者を自任される方は、ぜひさまざまにアクティブな応援をお願いします。
これは心を見つめる、心について考える、という運動です。
私が書く、あなたが読む、ということで完結してしまうのは意図するところではありません。

もし読むということが、お昼にコンビニ弁当を食べる、ハンバーガーを食べるということと同じような消費活動に過ぎないなら、昨日と今日と明日に何の変化もありません。

雑多な知識の断片を十分に消化することなく頭脳や心に次々に取り入れて満足するなら、それは「死んだ読書」です。
本来、読書というのは、食事を取るのと同様に書物の内容を血肉化するところにあるのです。
だから、よいものを取って、毒物は取らないようにしなければなりません。
ぜひこのブログについては、生きた読み方をしていただきたい。

なぜなら心というのは生きて、毎日変化していくからです。

もし、心は変わって行かないと思っていれば、このブログを読むことは意味がありません。
むしろ有害かもしれません。

このように読み方を読者に強制する権利も方法も、もとより、著者にはありません。
一度公開した文章を読者が「どのように読もうが勝手」だと思うことを物書きのはしくれとして僕は知っています。
僕もそのように読むことがあります。
ただ、そういう読み方をしてもらいたいと望んでいる、ということはきちんと言葉にしておく必要を感じたのです。
そのような読み方があるということも、著者がそのように思っているということも全く想像しない読者もいるように思うのです。

具体的にはそれは次のようなことです。

  1. 書いてあることを読んで知識として蓄積するのではなく、自分の心、経験と照らし合わせて吟味してください。
  2. そのときに何を感じたか、できるなら言葉にしてみてください。同意ではなく違う意見でもいいのです。
  3. 出てきた言葉をこのブログあてのコメント、メール、あるいは自分のブログやツイッターなどに書いてください。
  4. このブログへのリンク、クレジットなどもお願いします。
毎回ではなくていいのです。
心に自然に言葉が浮かんできたときに。

そのような連鎖全体を書くことととらえたいのです。

それだけは物足りない、さらに応援したい方に!

あるいは違う応援をしたい方に!

本が売れない時代になってきまして、村松も物書きとしての自分の活動を考えなければいけません。
その部分のフォローとしまして。
  1. 単なるカンパ。
  2. 著書を購入する。
  3. 心理研究会に参加する
  4. セッションを受ける
などで、心の中で思うだけでなく、力強く応援してください。
【恋愛において没個性化戦略は苦戦する】
【恋愛において没個性化戦略は苦戦する】

最近のブログ記事には、
「男性がいやがるあなたの7つのクセ」とか、「誰にでも好感をもたれる8つの言い方」とか、そういう記事多いですね。
思わず読んでしまうけれども、内容はあまりないよう。

こういうのを真に受けてはいけません。
誰かが嫌がるのではないか、好かれないのではないか、こうしたら好かれるのではないか、そういう視点を中途半端に持つのはよくありません。

残念ながら好かれる人は自然にしていても好かれるのです。
自然にしていては好かれない人が、「こうしたら好かれる」という記事を読んでそれを表層的に実行しても不自然に見えるのです。

したがって、こういう記事は自然に好かれる人にも、自然にしていては好かれない人にも役に立ちません。
こういう記事をたくさん読んでも好かれる人にはなりません。

本当に所作を美しくしようと思ったら、茶道でも華道でも着物の着付けでも、日本古来のものを習えばいいと思います。
伝統的なものには、こうするんです、と決まったことがたくさんある。
最初は言われた通りにするしかない。
やっているうちにその意味がわかってくる。

そういうものには深〜い栄養があります。

「7つのクセ」的なものを愛読する人は、そういう面倒なことはしたくない。
文化の美しさとかもわかんない。
だから、ただですぐに読めるブログで間に合わせる。
そういうニュアンスしか感じないのです。

そもそも、こうしたら好感を持たれるのではないか、と考えていくと没個性化するのです。
なにしろ、万人に好かれようとする努力するわけですから、角が丸くなってくる。
この没個性化戦略は、有利でない、ということを書こうと思います。

面白いから戦略といってみますが、要するにいちばん安易に流れるとこうなるわけで、何も考えていない人はこの作戦をとるわけです。

僕は編集者をしていたので、売れる小説について考えたときに、このことに気づいたのです。

誰にでも70点で評価される小説と、8人まで0点の評価でも、2人が100点の評価をする小説。
人が小説を買うときはシビアなもので、自分にとって85点以上でなければ買わないとする。
そうすると、前者は一冊も売れない。
後者は2冊売れる。

平均点でいうと、前者は70点。後者は20点。でも結果は後者がいい。

人が交際相手を選ぶとなると、小説を選ぶよりシビアですから、理想的には90点以上取ったほうがいい。
だから平均点にとらわれ、嫌われることを恐れている場合ではないのです。

もちろん、言葉遣いが美しくないとか、がさつなことを直さなくていい、ということではないのです。
欠点は「和らげ」ながら、でも長所をのびのび発揮できるようにしないといけません。

没個性化のこと、違う観点で続きます。
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【セックスはマネジメント】

【セックスはマネジメント】

前回書いた広くつきあおうというおつきあいには、必ずしもセックスも恋愛も含みません。
セックスの話は愛を考えるとき避けて通れません。
しかし、セックスが絡むと話がややこしくなるので、ガツンとまとめて書いておきます。

現代では、セックスは単なる欲望でも、本能でもありません。
それは多大なマネジメントを必要とする「何か」です。

マネジメントとは、お金に変えるという意味ではなくて、自分の目的や方向性によって管理・制御しなければならないもの、という意味です。

たとえば、女性が多くの男性とセックスしようとすれば、避妊に気をつけなければなりません。
また男性同士の嫉妬もうまくかわさなければなりません。
つきあった男性をストーカー化させるのなどはもっての他です。
たいていの場合、世間の評判も気にすることになるでしょう。

これらをうまくやるのは、高度なマネジメントが必要でしょう。

それと対極には、セックスは男性を結婚につり上げるための餌と考えている「安売りしない派」がいます。
こういうことを書くとどうしても通俗的になりますが、ここでは一つの類型として取り上げます。
というのは、欲望に基づく人の行動はとても類型的で、さほどオリジナリティはないのです。

「安売りしない派」は、自分の若さ、美貌、魅力といったものは、売り時があり、時期が過ぎれば衰えてしまうと考えています。
だから、株でいうと、いちばん「高値で手放す」ことを狙っています。

高値で手放す、ということは、結婚相手に値打ちがある、ということです。
それは心がきれい、とか、やさしいとか、そういうことではなく、収入が多い、お金持ち、かっこいい、背が高い、学歴が高い、という人と比べて自慢できる価値になっていきます。
そういう外面的、物質的なことにこそ客観性があると考えています。

これはマネジメントそのものです。

これは愛にまつわることでも、恋愛にまつわることでもなく、セックスにまつわることです。

この愛についてのシリーズで、最初に愛はリラックスを前提にする、と書きましたが、これは全くリラックスしません。
まるでビジネスです。
アンディ・ウォーホルは「セックスはビジネスだ」と言いました。
この彼らしい言葉の真意も、言われた文脈も知りませんが、言い得て妙。
まさにこういう姿勢にはビジネスという側面があります。

また恋愛でもない、というのは、こういうパートナーの探し方には、「比較する」という行為がつきまとうからです。
パートナーとしては、年収300万円よりは、600万円のほうがいい。600万円よりは1,000万円のほうがいい、ということになります。

恋愛は、このように比較するものではなく、オンリーワンのものです。
そういうものを愛というひとくくりの箱に入れているから話がややこしくなります。

前者のフリーセックス派と安売りしない派、多くの女性はこの両方の要素を持っているでしょう。
この両極の中間あたりで、揺れている人もいるのではないでしょうか。

もちろん全く違うところに力点がある人もいると思います。
ただどちらにしても、セックスにはマネジメントが必要だということです。

恋愛を純粋なものと考えていると、このマネジメントをなりゆき任せにしてしまうこともあるかと思います。

愛は純粋でいいけれども、セックスには知恵やマネジメントが必要、それがこの項で言いたいことです。
そして、愛とセックスはレイヤーが違う。
それをいっしょに考えると、混乱してしまうでしょう。

【恋愛、結婚、セックスは全く別のもの】

僕がほとんど初めて編集者らしきことでギャラをもらったのは、人類学者の西江雅之さんのインタビューのテープ起こしでした。
その中で、彼は「人類全体を見渡すと、恋愛とセックスと結婚は、必ずしも結びついていない」と言っていたのが今日まで印象に残っています。
アフリカのある部族では、ごく年少のときに集団的に最初のセックスを済ませてしまう風習か儀式があり、それは恋愛とも結婚とも関係ない、ということでした。
そもそも人類の半数は一夫一婦制でない、ということも言っていました。
これは、ずいぶん前の話ですが、イスラムもヒンズーも一夫一婦制ではないですからね。
今日でもそうかもしれません。

僕らは日本以外では、主にアメリカやヨーロッパの映画を観て世界観を作っていますから、どうしてもキリスト教下の一夫一婦制のもとで恋愛や結婚をイメージします。
しかし、それは人が作ったルールに過ぎません。

人が作ったルールである、ということは、空間や時間がズレると違うということです。
国や民族、宗教によって違うだけではなく、時代によっても違います。

先日、バリ島で僕が聞いた話で印象的な話があります。
バリの空港の送り迎えなどしてくれるドライバーの友人がいますが、彼が言うには、「一時期、一人でバリに来る女性とは100パーセント、セックスできた」というのです。彼のほうから強引に誘うようなことはなく、向こうから食事などに誘ってきたというのです。
ところが2000年を境に「5パーセントくらい」に激減したというのです。

まあ、男としてちょっとくやしい話ですが、それは置いときまして、時代の変化が、気分、行動、モラルなどの大きな変化を生むという一つの例だと思います。

バブルの崩壊は、もう1990年頃だったようですが、まだ回復に希望を持っていたり、すみずみにまで波及していなかった。
しかし、2,000年くらいには、女性の気分もたいへんな低成長型にチェンジしていったということでしょうか。

ここで言いたいことは、恋愛、結婚、セックスについて何も当たり前のことはない、ということです。
ただ時間と空間の文化的要素が支配しているということです。
それからだんだん自由になりましょう。

自由になるというのは、何も反発したり、攻撃的になる必要はありません。
日本の今の時代の雰囲気に適応してうまく行っているのなら、それでいいのです。
ただ当たり前とされていることで、自分の感覚にそぐわないものがあったら、それを広い視点から本当に必要か考えることです。

何かを我慢しているということは、それだけで愛を阻害しますから、自分の感覚で納得いかないことにはとことん対処することです。

小さな違和感でも放置しておくと、やがて大きな悩みやトラブルになります。





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愛の3【女性はたくさんの男性とつきあったほうがいい】
具体的な愛の話の第一は、「女性はたくさんの男性とつきあったほうがいい」ということです。

つきあうといっても、飲み友だち、映画やコンサートを観に行く友だちなどもあります。
必ずしも恋愛やセックスと結びつける必要はありません。

これはとりわけ新しい説ではありません。先行していろいろな人が言っています。
ただ現実に一人の男性にとらわれている女性が多いので、僕なりに書く意味があるでしょう。

たとえば、ラーメン屋を開くときに日本中のラーメンを食べ歩く、という人がいます。「いちばんおいしいラーメンは何か」を追求するためです。
このラーメンを男性にあてはめると、「自分にとっていちばんいい男はどんな男か」ということになります。

もし、おいしくないラーメンしか知らないでラーメン屋を開業すれば、「井の中の蛙」で、あとでたいへん後悔するかもしれません。

しかし、数を知っていればいいというものでもありません。
日本全国を旅しなくても、健康な感覚があれば、おいしいラーメンは作れます。作るラーメンの味が食べたラーメン屋の数に比例するのではないことは言うまでもありません。

いわば直感的で勘のいい人は、一を聞いて十を知るということがあるのです。
しかし、一を聞いてせいぜい一か二しか知ることができない人は、ある程度経験を積んだほうがいい。
一を聞いても0,5くらいしか知ることができない人は、経験を積むほど屈折した考えになってしまうかもしれません。

まあ、つまり一般、「普通」の圏内の人は、ある程度のおつきあいは経験したほうが賢くなる、と言えるのです。

ですから、恋愛という枠組みではなくても、気楽にいろいろ接点を増やすようにすると、いいですね。
その点、音楽や美術などの芸術や、さまざまな趣味、なんとかソムリエとか、自分の興味のあるものに対しては腰が軽いほうがいいです。
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愛のワークショップはなぜ女性専用なのか?
愛について考えることは、たいへん面白いものですが、きっとみなさんはあまり概念には興味ないと思うのです。
抽象的な概念も、どのように愛すべきか、愛されるべきかに根底的に考えるには大切です。
筋のよい考え方や判断ができるようになって、トラブルが減るのですが、それが実践につながるまで待てない、すぐに役立つ情報がほしい、という人が多いと思います。
今回は僕としては珍しく、極めて具体的な話から書き始めましょう。

それから、3月の「愛のワークショップ」が女性向けであるために、女性を中心に書くことをお断りしなければいけません。
しかし、男性にも全く同じことが言える部分も多く、また女性独特の部分も男性にもいわば「敵情視察」的に面白く読めるのではと思います。

さらに女性専用については二つのことを断り書きする必要があるでしょう。

【なぜ女性専用?】

一つは「なぜ女性専用セミナーなのか」です。

これは女性参加者に自分を解放してリラックスしてもらうためです。
いま、女子会が流行っていますが、これは女性にとってたいへんな開放感であると思います。男性が混じるとさまざまな配慮から、また男性はノリが違うために、女性たちが充分に自分を解放できない面があるのです。
女性は何かを演じなければならなくなり、ふだんと同じになってしまいます。
ですから混合ではないのです。

その二は、なんで僕が男なのにそれを主宰するのか、女の仲間に混じるのか、という当然派生するであろう質問に答えましょう。

かなり個人的な話になりますが、僕は週に一度陶芸教室に通っています。この日は、教室でご飯とお汁を作っておかず持ち寄りでご飯を食べる日なのです。
僕も余裕があるときには、何か一品作って、そうでないときは買って参加します。なにしろ、野菜料理を中心にたいてい十以上も料理が並びます。食いしん坊としては参加しないわけにはいきません。
この昼食会のメンバーが、先生も含めて五、六人くらい全員女性なのです。
僕の子どもの頃には「女の仲間に男が一人♪」という囃し言葉がありました。
まさにそういう状況です。
これは貴重な体験です。
最初はおとなしく肩身狭くしていました。
でも、だんだん慣れますね。
そんなことを何年もやっていますので、女性の話を黙って聞いていることもできるし、流れに合わせて話に参加することもできるようになったのです。
今は普通に料理の話や世間話に参加しています。

さて、次は本論に入りましょう。
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3/14土曜日 愛のワークショップ(女性専用)
[愛のワークショップ]女性専用 3月14日
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ラブ

彼氏がいない。恋人、夫とうまくいかない。家族に不和がある……などなど、
女性の愛の悩みは尽きません。

このワークショップは、愛し愛されやすい、愛らしい女性のあり方に向うもの
です。
いわば愛情体質を作り出します。

愛という言葉はいろいろな使われ方があり、混乱しています。
この講座は単なる恋愛成就の方法論を提供するものではありません。

愛の促成栽培ではなく、もう少し深く畑を耕して大きな実を収穫します。

愛とはどういう状態でしょうか?

それは緊張がない状態です。

今までの恋愛講座は、「こうすると好かれますよ」、「こうすると嫌われます
よ」と言います。
そうすると、好かれるようにふるまわないと、嫌われることをしてはいけない、とたいへん緊張するのです。
ただでさえ、対人緊張が高い人が多い世の中で、より緊張する要素をインプッ
トすれば、好きな人といるほど態度が硬く不自由になってしまいます。

このワークショップはそういう心身の反応を解きほぐすところから始まります。

人といて、リラックス。
たとえば、なんでも話せる友だちといるときに、あなたはリラックスして生き生きとしています。
生き生きとした表情は魅力的です。

そういう状態を他の人といるときにも作り出しましょう。
新しい友だちを作りましょう。

結婚していても、夫婦の間で緊張している人がいます。
「そんなことは信じられない」、という人と、「うちはそうだ!! 」という人
がいるでしょう。
そんなケースで考えればわかるように緊張はエネルギーの浪費なのです。
生きる喜びはその分、少なくなります。

緊張を解くための講座か、というと、それだけではありません。
あれこれもっと奥行きがあります。
リラックスを前提に、人と仲よくなるためのコミュニケーションを考え、実践していきます。
また具体的なケースも考察していきます。

論より証拠、ぜひご参加ください。
この講座は第一回です。みんな初めての方ばかり、すぐに打ち解けられます。

そこで、「どんな人が来るだろう?」と緊張や警戒をしすぎる方。
肩に力が入っていませんか?
肩に力が入ると自由に動けません。

10代から60代以上まで、恋人や旦那がいる方、いない方、
「私は場違いではなかろうか」という緊張も解いて、ぜひ軽い好奇心で参加してください。

愛に差別はありません。

ただし、女性に思い切り自己解放してもらうために男子禁制にしました。
どんなことになるのか、とても楽しみです。

参加費3,000円。懇親会費を含みます。
ただし、事前に、あるいは当日、メール会員になっていただきます。
会員外は4,000円です。

WSは2時間程度。
そのあと、ワイン、ビール、お茶で懇親会。
持ち込み歓迎。

お申し込みは、entry@hiden.jpまで。
『愛のWS参加』というタイトルでお送りください。
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第一回「自然の道」ワークショップ概要
「自然の道」だけだと、わからないと思いますので、内容を公開します。
全部オリジナルなので、公開してもわからないかもしれません(笑)。

1 30ドル  直観と短い文の表現のゲーム
2 マンダラ 美術的感覚と創造のゲーム
3 内臓ダンス  新しい内観芸術 
4 シンクローム手ほどき 現代の象徴的秘術公開

今回は、一つ一つ独立したワークショップにできるものを、幕の内弁当的にぎゅう詰めです。
全体に人がふだん使わずに眠らせている能力、感覚を喚起します。
難しいことはありません。
二時間あっという間だと思います。

これがどのように一つの「道」に通じるか、ということは、折に触れて少しずつお話します。
老子の「道」と同じで、

道の道とすべきは、常の道にあらず
名の名とすべきは、常の名にあらず

雑巾を縫うときと同じです。
針が表と裏交互に移動する。
実際のワークをして、少し言葉で理解をする。
そのようにして前に進みます。
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『自然の道』村松恒平の新ワークショップ始動!
ここでいう『自然の道』は、

「その人の本来のあり方を最高に表現する道」

です。

自然といってもアウトドアライフを満喫するということではないです。
人の魂と身体の中に最高の自然があります。
その自然の力、感覚を活かして生きていく道(理念)と術(方法)があるのです。

20世紀後半から今に至るまでの時代の変化は激しく、昨日までの常識は今日の非常識になり、非常識は常識になります。
時代は日々荒々しくなり、複雑になっていきます。

我々は何を基準に物を考え、生きていけばいいでしょうか?

その基準が自然です。

自然に生きる、ということに反対の人はいないでしょう。
「いや、自分は不自然に生きたい!」という人は、ひねくれ者です。

自然に生きるなんてできるのか?
という反問は当然あるでしょう。

人に自然という基準はありうるのか?
と問いたくなるかもしれません。

それに具体的に答えるのがこのワークショップです。

:
自然とは何でしょう。
ゲーテは「自然は開かれた秘密である」と言っています。
人の中にこの自然の秘密がたくさん詰まっています。

その秘密をノックし、花開かせてみませんか。
次のようなオリジナルメニューがあります。
謎のメニュー。
しかし、難しかったり、緊張を強いたりするものはありません。
メニューも自然だからです!!

身体、健康の自衛           シンクローム
内観法、瞑想、イマジネーションの訓練 内臓ダンス
哲学・理念              道話 トーク・セッション
芸術感覚の育成            マンダラ(アート・ゲーム)
コミニュケーション・直観       30ドル(アート・ゲーム)
他、いろいろ。

一つ一つ体験すると驚くような感覚があると思います。
現代の日常生活では味わえないない純粋な時間と感覚を体験できます。
毎回、これらのメニューを組み合わせ、ときには新しいことをするかもしれません。

日常とかけはなれた濃密な時間を体験しましょう。

お楽しみに。

・・・・・

2015年2月14日14:00 - 16:00
豊島区目白3-2-9-3階 子どもの文化研究所ホール

終了後、同場所にて懇親会。軽い飲み物、つまみがでます。
つまみ持ち込み歓迎。

参加費は4,000円。
これはメール会員価格で、事前、あるいはその場でなっていただけます。

メールが来るのがイヤな人は、通常価格5,000円。

(メールはイベント告知や、ちょっと書いたことなど送ります。そんなにすごい頻度でメールしません)

お申し込みは、entry@hiden.jpまで。

お名前と住所の都道府県、『自然の道ws参加』というタイトルでお送りください。
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7/12 7/13 連続ワークショップ@大阪のお知らせ


久しぶりにセミナー、WSやります。
むずかしいことや、コワいことは何もありません。
面白いことや役に立つこと、視野が開けるようなことはたくさんあります。

今回のテーマは、「見えない力とつきあう、遊ぶ、制御する」です。

見えない世界を感じる人はたくさんいますが、それは特別な人ではないのです。誰でもじつはいろいろな宇宙と接点を持っているのです。
ただそれとつきあう方法を知らないだけです。

今回、それをいろいろな形で遊んでみます。

12日は本当にいろいろな角度から、見えない世界をいじってみましょう。

13日は、シンクロームという技法です。これは「30世紀へのおまじない」と呼んでいます。身体を元気にする、その場で感じ、その場で覚えられるおまじないです。

だまさないですから、だまされたと思って来てください(笑)。

なお、両日とも、WSの前に楽しいイベントがセットされていますが、それは煩雑になるので、省きます。
お時間が許す方はそちらにもぜひご参加ください。

【その詳細は、世話人の浜田えみなさんのブログをチェックしてください
http://emina21.blog9.fc2.com/blog-entry-663.html】

第一次〆切はもう過ぎていますが、まだしばらくは滑り込めるようになっています(6/28日現在)。お早めにお申し込みください。

◆「表現の会&内臓ダンス」◆7月12日(土)
 
14:15〜16:50(14:00〜受付)
場 所 くるみハウス →大阪府 枚方公園駅近く
http://npo-kurumi.net/access/
定員  10名
受講料 5000円
持ち物等 筆記用具・ 動きやすく、横になれる服装
備 考 終了後、17:30〜懇親会(枚方市周辺)

経費及び受講料は事前振込とし(参加者にご連絡します)、送金後は、いかなる理由があっても返金されません。
14:00〜14:15に、直接、会場へお越しください。

◆懇親会◆

日 時 7月12日(土) 17:30〜
場 所 枚方市周辺(未定)
経 費 4000円程度(実費ご負担ください)


7月13日(日)開催 

◆「シンクローム」◆7月13日(土)

14:20〜16:50(受付 14:00〜)

場所 SOHO BOX 北浜 フリースペース① 
http://www.sohobox.jp/article/355963952.html
定員  20名
受講料 5000円  
持ち物 筆記用具      

受講料は事前振込とし(参加者にご連絡します)、送金後は、いかなる理由があっても返金されません。
直接、14:00〜14:20に会場へお越しください。

★12日、13日とも参加されるかたへの特典★

村松恒平氏 シンクローム体験セッション(遠隔) 
2日間(朝晩の2回、計4回)
1年以内の好きなときに受けられます。詳細は、当日、村松先生にお尋ねください。

申込フォーム

PC・スマホ共用 →http://ws.formzu.net/fgen/S32049227/
携帯用 → http://ws.formzu.net/mfgen/S32049227/
申込期限 6月28日(土) 23時
振込期限 7月5日(土)
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体罰は「問題」なのか?〜言語による世界の分節化について
最近、元学校の先生の話を聞くことがある。定年まで勤めた人たちだ。
先日聞いた話は、元教師同士(どちらも女性)が話し合う「刺されたり殺されたりしないことに精一杯だった」という恐ろしい話だった。

芯がしっかりした人たちだと思っていたが、そこまでハードな世界を生き抜いたとは想像していなかった。
ある割合で、そういう学校、地域もあり、教師は日々、暴力やその可能性に直面しているのだ。

僕の行っていた都立高校はわりと穏健であったと思うが、それでも、「オレ、卒業式には××(教師の名前呼びつけ)シメるからよ」とか「体育館裏に呼び出してバットでなぐってやる」とか不穏な発言をする者がいた。
実行はしなかったと思うが、教師の立場であったら聞くだけで冗談ではない。

体罰について考えるときは、こういう学校環境も照らし合わせないといけない。

「だからこそ体罰やむなし!! 」と声を大きくする人もいるかもしれないが、それでも僕は体罰はいけないと思う。

命の危険を感じていた二人の元教師も「だからといって体罰で何かを変えられるものではない」、という意見だった。

教師が命の危険を感じるという現実があって、体罰も肯定しない、という二つの離反しがちな方向を受け入れるとする。

では、どうする?

そこからが創造、思考、工夫の領域なのである。
教師の安全と体罰の否定、これを同時に実現せよ、と考えたときに、ようやく話は本質的領域に入る。

体罰に賛成、反対を言って、その根拠を持ってくることには何の矛盾もない。したがって創造の芽もない。ただ自分の既存の意見を強化しているだけだ。

これに対して、上記の二つを同時に考えて行くとどうなるか? 「体罰」の「問題」にとどまることなく、「教育」について人は考えざるを得なくなる。
体罰は教育の一部で起きる現象である。それは教育界のさまざまな要素とつながっている。
体罰を「問題意識化」することは、その部分だけを切り取ることだ。

医学でいうと、患部は切り取って捨てろ、という考えだ。橋下徹知事の発言などはそういう場当たりのイージーさに満ちている。
しかし、体罰は昔から何度も「問題」として浮上したが、何十年も解決していない。

だから、体罰だけを切り取ることなく、教育全体を見渡していかなくてはならない。

ところが教育を「問題化」すると、行政や官僚制度まで視野を広げることになる。
やがて国とは何か、まで考えないといけなくなる。
さらには世界規模でいま何が起きているのか、ということも視野に入ってくるだろう。

そうなると事態は容易に動かないとわかるから、人は絶望的になる。そして、体罰という「問題」の中で論じることに閉じこもる。

教育や国家を論じるには我々の議論の仕方はあまりに未熟である。
実のある議論は期待薄だし、議論できても結論はでない。結論が共有できても、それを実現する手段がない。実現する運動を始めても、拡大するにつれて、いつか所期の理念とは違うさまざまな原理が働きだし、あらぬほうへ行ってしまう……。

世の中の矛盾について考えるとき、我々はいつもそこで壁に突き当たって、またすごすごと個別の「問題」へと引き返してこなかっただろうか。

そこでどうするかが人によって分かれるところだろう。

僕は単純に最も可変的であるのは、我々の思考や意識であろうと思う。
だから、一人で考える。人の意見も聞き、議論もするが、それは相手を打ち負かすためではなく、結論を共有するためでもなく、思考を深めるためのものだ。
個別の「問題」には絶対に思考を分岐・分割しない。
つねに全体を考え続ける。

それは一見徒労のように思えるだろう。しかし、そのようにして練り上げたものだけが、いつか新しい世界が始まるときの設計図になるかもしれない。
今はそういう想いしかない。
その設計図は必要とされるときまでは現実のプロセスに関与しない。

亡くなった偉大な学者、井筒俊彦氏は、その著書『意識と本質』の中で「言語による世界の分節化」について語っている。

人は言語によって分節化された世界しか受け取ることができない、という所説である。

僕がいま感じているのは、分節化のあり方自体に、すでにこの世の中の仕組みを肯定保全する機能が濃厚に含まれていることだ。
言葉という考える道具自体がつねに既存の現実に吸収されてしまうクセのあるベクトルを持っている。
言葉数が多ければ多いほど、粗雑に使われるほど、既存の原理に回収されてしまう。

SBAで僕が始めたのは、分節化自体を変える運動だ。
変えると言ってもささやかにそのごく一部を揺さぶるほどのことだが。
とにかく揺さぶるのだ。

SBAでは、人の概念の分節化の仕方が二つの領域で違う。
意識/無意識の定義も違う。

そこでは、言葉はつねに体感と結びつけられる。
言葉は言葉以前のものに何度も濡れる。
言葉が乾いた言葉だけの原理で自己組織化されることがない。

あまり長く説明するのはやめよう。

言葉の分節化を変えるということは、世界の骨格をバラして再構成するほどのことだ。
それは世界を畸形化してしまうかもしれない。
99パーセントの人には、「問題が解決しないこと」よりずっと恐ろしいことであるかもしれない。
しかし、目の前の世界はどうか? すでに十分に壊れていないか。

1パーセントの人々は恐れずに進むべきだ。

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僕の年賀状
みなさま明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。

*

少し過去と少し未来の話を書きます。

2011年はひどい年でした。
僕は原発には物心ついて以来、反対でした。
3.11の事故後、これほどの過酷事故が起きても、原発推進は揺るがないのか、と震撼しました。

当時テレビは毎日、事故の影響をあきらかに過小評価した報道を流し続けました。最初は事故ではなく事象と呼んでいたのです。

それ以上にマスコミや言論人の発言は僕を失望させました。事故直後、原発へのストレートな批判はほとんど見られませんでした。
それだけでなく、フライング気味であった『アエラ』に対しては激しいバッシングが起きました。

『アエラ』を擁護するものは誰もいませんでした。僕はその状況に対して、このブログに『不安であることの正しさについて』という一文を草し、それに続く一連の原稿で一冊の本を作りました。
http://www.amazon.co.jp/不安であることの正しさについて-村松恒平/dp/4905239044

それは日本へのお別れの歌だったのです。
僕は組織や集団に帰属するのが下手ですが、それでも日本社会にずいぶん同調していたのだと知りました。
僕と日本か癒着した部分の(精神の)皮膚がタダレ落ちていく時間が半年以上続きました。
言葉はその作業の潤滑油となり、癒してくれました。

今、思うとあれは産みの苦しみではなく、生れ落ちる苦しみであったのです。
実際は苦しみではなく、名付けようのない驚愕に全身で反応していたのです。
大量の胎盤とともに僕は生れ落ちました。
生れ落ちた場所の名は「自由」です。
まだ不十分な発育ながら、僕は日本という母胎から自由へと生れ落ちた子どもなのです。

2011年の10月に、SBAが生まれました。
これから一生、これをしていこうと決めました。
2011年はそういう年でした。
3.11がなかったらSBAもなかったでしょう。

2012年は、マヤ暦が終わるから地球も終わるという終末論が一部で盛んでした。
真に受けたわけではありませんが、いつ何が起きても不思議ではない、ということを胆に銘じる年になりました。
実際4号機が倒壊するだけで日本は破滅することができます。
メメント・モリ、死を思え、は手がかりがたくさんある時代になりました。
だから、SBAをプロとして始めました。
躊躇っている時間はなかったのです。

時代はよいほうへ進むとは限りません。
ジェットコースターだって上がれば下がるではありませんか。
バブル崩壊のときに、膨らんだものは破裂する。なんでこんな単純なことがわからなかったかな、と思いました。
そう考えれば疑いもなく、これからは膨らみきったものが縮むプロセスなのです。

それは人として大切なものを学ぶチャンスです。

2012年末の選挙結果は大いに僕を失望させました。そして、政治にはもう何も期待するまい、と決めたのです。
選挙制度には、もう同調しないと思います。
選挙制度は幻想を生む装置にすぎない、というよく言われる考えをようやく体感的に納得したのです。
同調していた分の精神エネルギーをSBAの創造に振り向けます。

2013年は、逆光の年、輝かしい空虚の年になるでしょう。
逆光で未来は見えませんけれども、空虚の中で僕らは人としての働きを取り戻そうとするでしょう。

子どもの頃、宮沢賢治が「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と言ったと聞いて、子ども心にも、世界が全部幸福なんて、そんなの無理だ、と思った記憶があります。

農民芸術概論綱要
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/2386_13825.html

宮沢賢治は僕にとって「純粋すぎてイタイ人」「まぶしい人」なので、正面から読むことができません。
でも、そんな僕でもこの時代に個人に閉じた幸福を願うことは、底に穴の開いた舟で大海に船出するような気分になるのです。

何事にも自己同一化せず、自由な個人であって、なおかつ愛を失わない。
2013年はそういう姿勢で大海に漕ぎ出します。

本年もよろしくおつきあいをお願いします。
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