ココロを哲学するサイト

巻頭言

これは心にセンタリングするブログです。

今の世の中は中心がお金や経済で回っています。でもお金で価値が一元化していく流れは、人にはちょっとしんどいものです。だから、それとはズレた次元に、心という中心を求めて行こうと思います。

本当はセンタリングというからには、究極的には魂や霊に、あるいは神に中心を求めたほうが安定がいいでしょう。しかし、現代ではスピリチュアルな領域もすっかりカテゴライズされてしまっていて、語り口も決まりきっています。どこかで読んだようなことが順列と組み合わせを変えて書かれ、何の目新しさもありません。そういう領域で書いてもちっとも面白くないので、心という中途半端な領域で四苦八苦しながら哲学するつもりです。
そもそも、自分の心がわからない者には霊や魂のこともわからんだろうと思います。

読者の皆さんにもお願いがあります。

愛読者を自任される方は、ぜひさまざまにアクティブな応援をお願いします。
これは心を見つめる、心について考える、という運動です。
私が書く、あなたが読む、ということで完結してしまうのは意図するところではありません。

もし読むということが、お昼にコンビニ弁当を食べる、ハンバーガーを食べるということと同じような消費活動に過ぎないなら、昨日と今日と明日に何の変化もありません。

雑多な知識の断片を十分に消化することなく頭脳や心に次々に取り入れて満足するなら、それは「死んだ読書」です。
本来、読書というのは、食事を取るのと同様に書物の内容を血肉化するところにあるのです。
だから、よいものを取って、毒物は取らないようにしなければなりません。
ぜひこのブログについては、生きた読み方をしていただきたい。

なぜなら心というのは生きて、毎日変化していくからです。

もし、心は変わって行かないと思っていれば、このブログを読むことは意味がありません。
むしろ有害かもしれません。

このように読み方を読者に強制する権利も方法も、もとより、著者にはありません。
一度公開した文章を読者が「どのように読もうが勝手」だと思うことを物書きのはしくれとして僕は知っています。
僕もそのように読むことがあります。
ただ、そういう読み方をしてもらいたいと望んでいる、ということはきちんと言葉にしておく必要を感じたのです。
そのような読み方があるということも、著者がそのように思っているということも全く想像しない読者もいるように思うのです。

具体的にはそれは次のようなことです。

  1. 書いてあることを読んで知識として蓄積するのではなく、自分の心、経験と照らし合わせて吟味してください。
  2. そのときに何を感じたか、できるなら言葉にしてみてください。同意ではなく違う意見でもいいのです。
  3. 出てきた言葉をこのブログあてのコメント、メール、あるいは自分のブログやツイッターなどに書いてください。
  4. このブログへのリンク、クレジットなどもお願いします。
毎回ではなくていいのです。
心に自然に言葉が浮かんできたときに。

そのような連鎖全体を書くことととらえたいのです。

それだけは物足りない、さらに応援したい方に!

あるいは違う応援をしたい方に!

本が売れない時代になってきまして、村松も物書きとしての自分の活動を考えなければいけません。
その部分のフォローとしまして。
  1. 単なるカンパ。
  2. 著書を購入する。
  3. 心理研究会に参加する
  4. セッションを受ける
などで、心の中で思うだけでなく、力強く応援してください。
体罰は「問題」なのか?〜言語による世界の分節化について
最近、元学校の先生の話を聞くことがある。定年まで勤めた人たちだ。
先日聞いた話は、元教師同士(どちらも女性)が話し合う「刺されたり殺されたりしないことに精一杯だった」という恐ろしい話だった。

芯がしっかりした人たちだと思っていたが、そこまでハードな世界を生き抜いたとは想像していなかった。
ある割合で、そういう学校、地域もあり、教師は日々、暴力やその可能性に直面しているのだ。

僕の行っていた都立高校はわりと穏健であったと思うが、それでも、「オレ、卒業式には××(教師の名前呼びつけ)シメるからよ」とか「体育館裏に呼び出してバットでなぐってやる」とか不穏な発言をする者がいた。
実行はしなかったと思うが、教師の立場であったら聞くだけで冗談ではない。

体罰について考えるときは、こういう学校環境も照らし合わせないといけない。

「だからこそ体罰やむなし!! 」と声を大きくする人もいるかもしれないが、それでも僕は体罰はいけないと思う。

命の危険を感じていた二人の元教師も「だからといって体罰で何かを変えられるものではない」、という意見だった。

教師が命の危険を感じるという現実があって、体罰も肯定しない、という二つの離反しがちな方向を受け入れるとする。

では、どうする?

そこからが創造、思考、工夫の領域なのである。
教師の安全と体罰の否定、これを同時に実現せよ、と考えたときに、ようやく話は本質的領域に入る。

体罰に賛成、反対を言って、その根拠を持ってくることには何の矛盾もない。したがって創造の芽もない。ただ自分の既存の意見を強化しているだけだ。

これに対して、上記の二つを同時に考えて行くとどうなるか? 「体罰」の「問題」にとどまることなく、「教育」について人は考えざるを得なくなる。
体罰は教育の一部で起きる現象である。それは教育界のさまざまな要素とつながっている。
体罰を「問題意識化」することは、その部分だけを切り取ることだ。

医学でいうと、患部は切り取って捨てろ、という考えだ。橋下徹知事の発言などはそういう場当たりのイージーさに満ちている。
しかし、体罰は昔から何度も「問題」として浮上したが、何十年も解決していない。

だから、体罰だけを切り取ることなく、教育全体を見渡していかなくてはならない。

ところが教育を「問題化」すると、行政や官僚制度まで視野を広げることになる。
やがて国とは何か、まで考えないといけなくなる。
さらには世界規模でいま何が起きているのか、ということも視野に入ってくるだろう。

そうなると事態は容易に動かないとわかるから、人は絶望的になる。そして、体罰という「問題」の中で論じることに閉じこもる。

教育や国家を論じるには我々の議論の仕方はあまりに未熟である。
実のある議論は期待薄だし、議論できても結論はでない。結論が共有できても、それを実現する手段がない。実現する運動を始めても、拡大するにつれて、いつか所期の理念とは違うさまざまな原理が働きだし、あらぬほうへ行ってしまう……。

世の中の矛盾について考えるとき、我々はいつもそこで壁に突き当たって、またすごすごと個別の「問題」へと引き返してこなかっただろうか。

そこでどうするかが人によって分かれるところだろう。

僕は単純に最も可変的であるのは、我々の思考や意識であろうと思う。
だから、一人で考える。人の意見も聞き、議論もするが、それは相手を打ち負かすためではなく、結論を共有するためでもなく、思考を深めるためのものだ。
個別の「問題」には絶対に思考を分岐・分割しない。
つねに全体を考え続ける。

それは一見徒労のように思えるだろう。しかし、そのようにして練り上げたものだけが、いつか新しい世界が始まるときの設計図になるかもしれない。
今はそういう想いしかない。
その設計図は必要とされるときまでは現実のプロセスに関与しない。

亡くなった偉大な学者、井筒俊彦氏は、その著書『意識と本質』の中で「言語による世界の分節化」について語っている。

人は言語によって分節化された世界しか受け取ることができない、という所説である。

僕がいま感じているのは、分節化のあり方自体に、すでにこの世の中の仕組みを肯定保全する機能が濃厚に含まれていることだ。
言葉という考える道具自体がつねに既存の現実に吸収されてしまうクセのあるベクトルを持っている。
言葉数が多ければ多いほど、粗雑に使われるほど、既存の原理に回収されてしまう。

SBAで僕が始めたのは、分節化自体を変える運動だ。
変えると言ってもささやかにそのごく一部を揺さぶるほどのことだが。
とにかく揺さぶるのだ。

SBAでは、人の概念の分節化の仕方が二つの領域で違う。
意識/無意識の定義も違う。

そこでは、言葉はつねに体感と結びつけられる。
言葉は言葉以前のものに何度も濡れる。
言葉が乾いた言葉だけの原理で自己組織化されることがない。

あまり長く説明するのはやめよう。

言葉の分節化を変えるということは、世界の骨格をバラして再構成するほどのことだ。
それは世界を畸形化してしまうかもしれない。
99パーセントの人には、「問題が解決しないこと」よりずっと恐ろしいことであるかもしれない。
しかし、目の前の世界はどうか? すでに十分に壊れていないか。

1パーセントの人々は恐れずに進むべきだ。

- / comments(0) / trackbacks(0)
僕の年賀状
みなさま明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。

*

少し過去と少し未来の話を書きます。

2011年はひどい年でした。
僕は原発には物心ついて以来、反対でした。
3.11の事故後、これほどの過酷事故が起きても、原発推進は揺るがないのか、と震撼しました。

当時テレビは毎日、事故の影響をあきらかに過小評価した報道を流し続けました。最初は事故ではなく事象と呼んでいたのです。

それ以上にマスコミや言論人の発言は僕を失望させました。事故直後、原発へのストレートな批判はほとんど見られませんでした。
それだけでなく、フライング気味であった『アエラ』に対しては激しいバッシングが起きました。

『アエラ』を擁護するものは誰もいませんでした。僕はその状況に対して、このブログに『不安であることの正しさについて』という一文を草し、それに続く一連の原稿で一冊の本を作りました。
http://www.amazon.co.jp/不安であることの正しさについて-村松恒平/dp/4905239044

それは日本へのお別れの歌だったのです。
僕は組織や集団に帰属するのが下手ですが、それでも日本社会にずいぶん同調していたのだと知りました。
僕と日本か癒着した部分の(精神の)皮膚がタダレ落ちていく時間が半年以上続きました。
言葉はその作業の潤滑油となり、癒してくれました。

今、思うとあれは産みの苦しみではなく、生れ落ちる苦しみであったのです。
実際は苦しみではなく、名付けようのない驚愕に全身で反応していたのです。
大量の胎盤とともに僕は生れ落ちました。
生れ落ちた場所の名は「自由」です。
まだ不十分な発育ながら、僕は日本という母胎から自由へと生れ落ちた子どもなのです。

2011年の10月に、SBAが生まれました。
これから一生、これをしていこうと決めました。
2011年はそういう年でした。
3.11がなかったらSBAもなかったでしょう。

2012年は、マヤ暦が終わるから地球も終わるという終末論が一部で盛んでした。
真に受けたわけではありませんが、いつ何が起きても不思議ではない、ということを胆に銘じる年になりました。
実際4号機が倒壊するだけで日本は破滅することができます。
メメント・モリ、死を思え、は手がかりがたくさんある時代になりました。
だから、SBAをプロとして始めました。
躊躇っている時間はなかったのです。

時代はよいほうへ進むとは限りません。
ジェットコースターだって上がれば下がるではありませんか。
バブル崩壊のときに、膨らんだものは破裂する。なんでこんな単純なことがわからなかったかな、と思いました。
そう考えれば疑いもなく、これからは膨らみきったものが縮むプロセスなのです。

それは人として大切なものを学ぶチャンスです。

2012年末の選挙結果は大いに僕を失望させました。そして、政治にはもう何も期待するまい、と決めたのです。
選挙制度には、もう同調しないと思います。
選挙制度は幻想を生む装置にすぎない、というよく言われる考えをようやく体感的に納得したのです。
同調していた分の精神エネルギーをSBAの創造に振り向けます。

2013年は、逆光の年、輝かしい空虚の年になるでしょう。
逆光で未来は見えませんけれども、空虚の中で僕らは人としての働きを取り戻そうとするでしょう。

子どもの頃、宮沢賢治が「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と言ったと聞いて、子ども心にも、世界が全部幸福なんて、そんなの無理だ、と思った記憶があります。

農民芸術概論綱要
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/2386_13825.html

宮沢賢治は僕にとって「純粋すぎてイタイ人」「まぶしい人」なので、正面から読むことができません。
でも、そんな僕でもこの時代に個人に閉じた幸福を願うことは、底に穴の開いた舟で大海に船出するような気分になるのです。

何事にも自己同一化せず、自由な個人であって、なおかつ愛を失わない。
2013年はそういう姿勢で大海に漕ぎ出します。

本年もよろしくおつきあいをお願いします。
- / comments(0) / trackbacks(0)
SBAはなぜ無接触・遠隔の身体調整なのか? 【2 遠隔編】
SBAの施術が遠隔でできるというと、「怪しい」「嘘くさい」と思う人もいると思うのです。
今はけっこう「何でもあり」の時代なので、そういう反発を持つ人がどれくらいの割合でいるのか僕には実感としてはわかりません。
「インチキだ」と面と向かっていう人はいなくて、態度不明のままスルーされてしまうので、ますますわからないのです。

このような疑いを持つ人を説得する手段はありません。
また、あんまり説得したり証明したりする必要もないのです。

「うちの味噌はうまいよ」と手前味噌なことを言って、「それは嘘だ」と言われたら、「では舐めてみてよ」というでしょう?
「それは遠慮するが、うまいはずがない」と言われたら話が続きません。
興味を持った方だけが対象になります。

SBAのファースト・セッションは、5日間の後払いです。何も感じなければ払わなくてもいい、と言っています。これが「舐めてみて」の部分です。
オープンにやっていて、多くの人が利用していますから、嘘も本当もないのです。
抵抗がない人から体験してもらうということです。
オープンにやっているからといって、何も悩んでいないのに「試してやろう」という人に来られても困りますが、そういう姿勢が基本です。

**

さて、以上はいちばんの前提です。
念のために書きましたが、別にそんなに疑われているわけではないのです。
先ほど書いたように、疑われる以前にスルーされています(笑)。

さて、ここから次の段階の話になります。

今回書きたいのは、「なぜ遠隔調整が可能なのか」「遠隔にどのようなメリットがあるのか」ということです。

【なぜ遠隔調整が可能なのか】

なぜ、と書きましたが、科学的に説明することはできません(きっぱり)。
ただ意識においてこう捉えると説明として腑に落ちる、という話をします。

無接触ということを前回に書きました。
無接触であるとして、気功のようなものは、10センチは離れていても大丈夫なのか。1メートルでは、3メートルでは、どうなのか。
と考えて行くことができるでしょう。
気功はどうかわかりませんが、SBAはどれほど離れていようが同じです。

電波は遠いと弱くなり、届かなくなります。
障害物にも弱いです。
遠隔というと、電波を送るようなイメージを持つかもしれませんが、SBAは違います。

たとえば、「海外にいる家族の安全を祈る」というとき、誰も「遠いから届かない」とは思いません。国内にいようと、海外にいようと、祈りというのは相手とともに同時にあるのです。

僕はセミナーでは、紙の上にA地点、B地点と離れた場所に書いて、紙を折ってA、Bをピタリとつけてしまいます。
なんというか、距離は存在しないのです。存在してもその距離で発生するロスは問題にならないのです。

今は便利な世の中で電子メールがあります。これは海外であっても、正確に発信した通りの情報を離れた場所で再現できますね。
それと同様に考えていいのです。

SBAで送られるのはパワーそのものではありません。
パワーそのものはクライアント(依頼者)の中にあり、SBAが送るのはそれを発動するためのキーワードのようなものです。
ほんのわずかな情報だけが届けばいいのです。

こういう理屈は後づけです。
感覚が最初にあります。
遠くでも大丈夫だ、となんとなく感じるのです。
それは伝わるというより、同期する感覚です。
A地点で象徴的な動作をすると、そのエネルギーと同様のものがB地点で作用を始めるのです。
このとき、二つの地点は地球上の空間では大きく隔てられていても、象徴的な空間においては同一地点かもしれないのです。

こうなると日常の原理を全く離れてしまうので、敢えて説明をつけると……という話になります。

論より証拠、という話をしましょう。

僕は東京に住んでいますが、沖縄の方の身体の悩みをSBAで軽快化させたことがあります。これなどずいぶん距離がありますね。

地球上で日本からいちばん遠い反対側はブラジルです。
大阪で行ったSBAのセミナーでブラジリアン柔術を習っている青年がいます。SBAサイトにも最初に体験記を寄せてもらいました。
彼はブラジルにいる友人に対して施術したそうです。

格闘技は腱などを傷めやすいですから、何人かに施術しているし、自分にもしているようです。ただ、治っているけれど、自然治癒したのか、SBAなのか、いまいちわからない、と言っていました。

でも、僕は届いていると思います。
何年も苦しんだものが、ちょうど施術した時期に治ればSBAの影響だと推測できるけれども、急性のものは見分けがつかないですね。
した場合と、しなかった場合を比べることはできないですから。

【人体は実験の対象か】

同じ条件の人はどこにもいませんから、実験はできないのです。

気になったので、新薬試験をめぐる記事を探してみました。
ここにプラセボを巡る記事があります。

「使った。治った。効いた。」の経験的事実を軽視して、数をとって平均値で検証するということが科学的であると書いてあります。

http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/v/10/index3.html

いわゆる科学的な立場は、こういう論法で民間療法、民間薬を異端として排除してきたのです。
ここには、とても興味深く根深いテーマが秘められていますが、現時点で深入りして論じるのは難しいことです。

ただ、この記事は、いわゆる「無作為化割り付けの二重目隠しによる対照比較テスト」なるものが、どれほど厳密なものか、ということに対してもやもやしたものを抱かせないですか?
僕はたいへんもやもやするのです。

たとえば、ある新薬について好結果を得たい場合、操作する余地が随所にあります。多くの人間が関わり、その人々が共通の利害を持っている場合、不正な操作も不正として是正されることがない、ということを福島の原発事故で僕たちはたくさん目撃したのです。

つまり、新薬の実験環境は、人的な構成まで含めて広がっているわけです。これをいくら第三者機関に委ねようとしても、いつかその第三者は第三者ではなくなっていきます。

またこの試験方法は、倫理的な問題があると書かれていますが、短期的な実施において、「あまりいいものではない」と言えるでしょう。
これを長期間の継続的な観察にするなら、あきらかに患者を危険に晒す実験台にすることになります。

したがって、この方法では、長期に渡る効果や副作用の観察はできないはずです。
しかし、どこか裏では行われているでしょう。当然それは後ろ暗い密室の作業になるはずですから、すでに公正な実験をするような環境や当事者の倫理性は失われているのです。

僕はそのような内情を知る者ではありません。
しかし、文章や言葉もまた専門家なので、このコラムを読むだけで、「一を聞いて十を知る」ように著者が書かなかった内情が想像がついてしまうのです。
文章の端々が発する波動がこのようなことを語っているのです。

現代医学は、患者を一人一人の表情のない抽象的な「数」として扱います。
現代医学のそのような態度は、医療従事者もまた「顔」(個人性)のない人にします。
SBAでは、クライアントをこのような「顔のない抽象的な数」としては扱いません。一人一人の身体が個別の宇宙なのですから、その宇宙と一つ一つ対話していくのです。
そのことが実り豊かであると信じます。

話がかなり寄り道をしました。話のついでに、いわゆる「科学的態度」との関係を一部表明して明確にしたかったのです。
元の話に戻ります。

【遠隔にどのようなメリットがあるのか】

単純に時間が節約できることです。

たとえば、大学病院のようなところに行くと、その行き帰りだけで時間がかかる。そして、予約したのになぜか30分も1時間も待たされて。
高価な機械の検査でグルリと回り、問診は5分くらい。
「何か変わったことは? そうですか。同じお薬でいいですね」
……で、そのあと、会計と薬局でまた待たされ。

そんなことで半日が終わりますが、ふだん忙しがりの人も医療だけは聖域で、そういうことは「仕方ない」と諦めています。

鍼や整体でも、評判のいい先生にかかろうと思うと、遠かったりして、施術時間を含めると少なくとも二時間くらいかかります。

その点、SBAは朝晩施術しますが、いつ施術されたかも知らないまま終わっています。
一秒もそのために時間を割く必要がありません。
非常に現代的な方法論です。
施術側も、集中して時間をとればいいし、特別なスペースがいらないので、リーズナブルな料金が設定できます。


SBAのファースト・セッションでは、クライアントもシンボリストも、メールを書くことに時間を使います。症状や悩み事などの相談はメールでします。
むしろ、こちらのほうが時間がかかりますが、忙しいときは簡略でいいのです。
好きな時間に書くことができるので融通性が高いのです。

このメールのやりとりが持つカウンセリング機能もSBAの非常に重要な要素です。
自分の身体は自分が治すのだ、という自信を持っていただくためです。

SBAは、病気を相手にするものではありません。
病気は生命力という光が障害物にあたったときに現れる影のようなものです。
人が本来の自然のあり方に還るとき、その影は消えて行くことを体験していくのがSBAです。

だから、SBAは時間もとらず、物理的な刺激も使わず、遠隔で、人の本来の力が発揮できるように最小限の干渉だけをするのです。


SBA / comments(2) / trackbacks(0)
SBAはなぜ無接触・遠隔の身体調整なのか? 【1 無接触編】

SBAは、まったく体に触れない身体調整法です。
体に手を触れないで、象徴的動作をします。

さまざまな方法がありますが、セミナーで最初に教える基本は「ねじを抜く」という動作です。

気功などは足りないエネルギーを「与える」というイメージがあります。
SBAでは、エネルギーが足りない、ということに不調の原因を見ません。
エネルギー自体は足りています。

ただそれが浪費されていたり、相殺されていたり、あるところは過剰であるところは不足というように調和されていないと見ます。

だから、何かを足し算するのではなく、「抜く」という形でエネルギーの水位を整えるのです。

体に触れないで宙に向かってねじを抜く、それで身体が変化を始めるというのは、とても不思議ですね。

不思議というのは、もともと仏教用語です。
思議するというのは、それについてあれこれ考えること。
不思議というのは、考えてもわからない現象は、そのまま認めておく、というようなことのようです。

SBAの理論は、体系的なものですが、象徴的動作で身体が整って行く、そのいちばん芯にある不思議はいくら理論化しても不思議のままです。

その理論の全体像はとても一息で書けないので、今日は「無接触」ということの意味を説明したいと思います。


【無接触】

なぜ体に触れないかというと、触れる必要がないからです。
肉体に直接触れることなく、磁気的な身体に干渉します。
磁気的身体に伝わった情報が、次の段階で肉体に伝わります。

触れないことのメリットは、

1.確実に磁気的身体とだけ干渉できる。

磁気的身体はとても繊細で独立した領域です。体に触れてしまうと、余計な強い情報が入ります。
たとえば、指圧の場合、指の温度、何本の指が触れているか、指の大きさ、圧の強さ、といったことを体は正確に感知します。触る人に好意や信頼がもてるかどうかでも、違う反応がでます。

そういう知覚しやすい感覚に体は反応しますから、磁気的身体への干渉を純粋に取り出すことができません。

SBAは日常の刺激よりずっと微妙な領域を扱います。

だから、手を触れないのです。

2.触れないからわかることがある

a. 磁気的身体がわかる

全く手を触れないから、SBAによって変化したということがわかります。
ケーススタディが増えることによって、磁気的身体の実体性が理解されていきます。

b. 身体の自然力がわかる

薬品を投与して症状がなくなれば、「薬で治った」ということになります。
SBAは、世の中で最も「何もしない」調整法です。
何もしないからこそ「自分の内側の力でよくなった」ということがよくわかるのです。

以上が
「無接触」
ということの意味の主なものです。














   
   
SBA / comments(0) / trackbacks(0)
SBAサイト・オープン
SBAのサイトをオープンしました。

http://sba.hiden.jp/

こちらで告知するのが遅れました。
今後はモニター制ではなく、ファースト・セッションになります。

すでに体験された方は、ファーストの先のメニューからお選びください。

依頼がけっこうあり、処理能力を越えそうなので、ファーストセッションは近いうちに価格を上げるかもしれません。
体験されたい方はお早めにどうぞ。


- / comments(0) / trackbacks(0)
SBA講座やります。そして有料モニター再募集

SBA(象徴的身体調整)とは、何だ、短く言え、と言われるとたいへん困るのですが、一つ間違いがないことは、僕のライフワークの芯になっていくだろうということです。

全く新しい世界で、スキーでいったらまだ誰のシュプールもないバージン・スノーが広がっているのです。
その新世界を過去の次元の言葉で語ることはとても難しい。

麻雀の点数やルールと同じことです。最初はなんのことかちっともわからない。わかってしまえば、さほど難しくもないのですが、では、麻雀をどうやるか、何が面白いのか、短く言え、とやったことがない人に言われても難しいでしょう。

あえて説明をすれば。

象徴の力、という今まで忘れられていた、あるいはあやふやに思われていた力を、とてもシンプルに現代的に再生する技術です。

先日も、陶芸の年長の友人が腱鞘炎で手に激痛を訴えていたので、SBAをしますと、痛みがその場で消えてしまいました。
全く手は触れずに、象徴的に「干渉」したのです。この干渉は、まず「象徴的身体」に影響を与え、次に磁気的身体を整えます。
最終的に今回のように「肉体」レベルにまで影響が及ぶことがあるのです。

SBAの目的は、病気治しや痛みを取ることではなく、このプロセスにある「象徴的身体」や「磁気的身体」の原理を確定し、人の身体に関する理解を深め、さらに応用的な展開を図ることです。

このSBAを試行的に少人数に実践的に教え始めます。
SBAは、僕個人の特殊な才能ではなく、背後にある世界観を理解すれば、誰にでもできる技術である、という理解でものごとを進めています。

とはいえ、本格的に人に伝授したことはないので、どれほど早く人がそれを習得できるのかはまだわかりません。
試行的という所以です。

最初の講座は、3回連続講座で、3回続けて受講できる人のみ、とハードル高めに設定しました。
一回目で概論をやり、二回目までに誰かに実践してきてもらう。
二回目からは、実践して気づいたことから話し合う、というウルトラ超速成講座を予定しています。予定通り運ぶかどうか。

場所は滋賀県大津。
5月18日金曜の朝10時から。
日程を見て、参加可能な方はご検討ください。

SBA中心の話にしましたが、
「自分らしく自分の夢を実現する会」も5月17日にあります。こちらは、「願望実現系」とは一味違う夢の話をしたいと思います。

*

滋賀の講座は、元新橋芸者で売り上げナンバーワンだった千代里さんが僕の愛読者で企画してくれました。
詳細はこちらをご参照ください。

千代里の福ふく日記
http://blog.chiyorin.com/?eid=496

*

それから、SBAそのものの有料モニターを募集します。詳細は以下と同じです。
効果を感じなければお代はいらない、という気楽なものです。興味がある方はぜひどうぞ。

SBA有料お試しモニター募集(期間限定)
http://kokorogadaiji.jugem.jp/?eid=234

今回はとくに期限は切りません。
募集を打ち切るときは、ここの文章を削除するか変えることにします。

*

SBA講座は、おそろしく少数になりそうなので、濃くなります。お近くで都合のつく方はぜひご参加ください。
SBA / comments(0) / trackbacks(1)
SBA有料お試しモニター募集(期間限定)

SBAは、Symbolic Body Adjustmentの略です。
日本語にすると『〈象徴的身体〉調整』。

短く説明すると、磁気的身体と肉体の間の不調和を調整するものです。
長く説明すると一冊の本が書けるので、今回は書きません。

しかし、全く書かないわけにもいかないので、簡単な原理とどのような効果があるかを象徴的に言いましょう。

人が宇宙の星だとすると、それを本来の軌道に戻すものです。
人には歩むべき自然の道があります。
それからそれたときには、磁気的な不調和が生じているのです。

これに象徴的な干渉を与えると、本来の調和と軌道に戻ります。
人の身体の中の宇宙は本来調和のとれたものだからです。
水が高いほうに流れることがないように、人も本来自分自身の軌道に戻る力を持っています。

この象徴的な干渉によって、心身を癒し、運を開き、生命の活力を取り戻します。

近しい人にモニターしてもらっていくつか顕著なヒーリングの実例を得たので、今回ややオープンな形でモニターを募集します。

下記が要項です。

*遠隔でします。
*施術上、お名前、年齢、ご住所などを教えていただきます。
*ご家族の方でもかまいませんが、同居で経過が観察できる方に限ります。
*どのような現象が起きたかをブログその他に書く場合がありますが、とくに許可を得ない限り、実名、住所など個人を特定できる形で公開することはありません。
*ちらかった部屋のほうが掃除の効果があるように、何か具体的な不調がある場合が効果がわかりやすいです。
*無料ではありません。効果があった場合、後払いで自分の納得のいく金額を払ってください(0円でもいいですが、その場合は次回はありません!)

冷やかしはお断りですが、お試しはチャンスです。
とくに関心のある方向けですので、期間限定、2012年3月末で終了します。

下記へ、住所、氏名、年齢、職業など簡単な自己紹介と、困っている状態があれば

G 小文字になおして送信ください
muramurainG@gmail.com
- / comments(0) / trackbacks(0)
ある返事 災難と主体性
久しぶりです。
これは、『銀河の家』という会員制の掲示板に書いたある人へのお返事コメントの転載です。


*

災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。
死ぬ時節には、死ぬがよく候。
是ハこれ災難をのがるる妙法にて候

これは良寛さんの有名な言葉ですね。
これは災難にあった知人にあてた手紙の一節だったような。

出口王仁三郎も

「虎に食われない妙法は、虎に食わせてやることだ」といって、腕を突き出したといいます(人に聞いた話で細部はたぶん違う)

どちらもさりげなく凄まじいことを言っています。

つまり、災難を避けようとすれば、主体性を失って、より不自由な状況に追いやられると言っているのです。

僕が3.11事故後、数日間毎朝震えるほど不安であったのは、事故後すっかり変わってしまった世界への(何も変わらない世界でもあります)同調、チューニング現象であったと思っています。

いま、僕はシフトを終えて、まったく創造的、主体的な状態にあります。
しかし、ここで再び大きな震災やそれに伴う事故が起きたとき、まだあれをしておけばよかった、もっと速く対応すべきだったと思い当たる可能性があります。
しかし、それは間に合わなかった、ということで仕方ないでしょう。

僕がいちばん警戒しているのは、自分の中にうらみが残る、ということです。
東電と保安院に代表される推進派の人々は、今に至るも何の責任もとっていません。
その事態に対して、政治的、社会的になんとかするのは、とてもむつかしいことです。

だから、せめて僕はいまのうちに「馬鹿野郎、原発には反対だ」ということを書いておくのです。
書かないで心のうちに溜めておけば、それはうらみになります。
死んでも成仏できません(笑)。
いわば自分の心の健康のために馬鹿野郎、と言っているわけで、それは聞きたくない人がいても仕方ないことです。

3.11以後、何も自分の生活を変えず、何の批判も口にしない人たちもたくさんいます。
鈍感な人もいるし、もの言えば唇寒し、と思っている人もいるでしょう。

でも、僕は平然としているように見えるそういう人たちの中に、主体的でないものがあるのではないか、と感じるのです。
当然目に入っているものを見て見ぬふりをする心理的な機構が働いているので、無意識に抑圧された部分の圧が高まっているはずなのです。

それが当人の心を壊すように働くこともあるだろうし、家族への八つ当たりになることもあるだろうし、橋下支持のような社会的なムーブメントになることもあるでしょう。
僕はどちらにしろイヤだなあ、と思っているのです。

今回の事故に関して、

1.最悪の事故だ。
2.二度と起こしてはいけない
3.そのためには、事故を起こした責任者はきちんと裁かれる必要がある。

この3点だけは、全国民が一致してもいいと思うのですが、なぜか議論はここを素通りして、もっとややこしい分裂化個別化の方向に向かうのです。
マスコミが隠蔽したの、嘘ついたの、いろいろ言われますが、じつはこの素通りが最大のミスディレクションであるかもしれません。

この3つが素通りしたまま、話が進むなら、日本はまったく本質的な議論ができない国ということになってしまうで
しょう。

- / comments(13) / trackbacks(0)
バリで10万ルピアを不当に払わされたトラブルとブラックマジック情報
バリで10万ルピアを不当に払わされたトラブルとブラックマジック情報


ツイッターを読んでくださっている方ならご存知と思いますが、僕は今バリにいます。
今回はその中でのちょっと面白い珍しい体験を書きます。


さて。

ここのところ、けっこう意識してしまうほどの肩こりがあるのです。昨年の展示や、秘伝メルマガをたたんでGOLD2012を始めたことなど、いろいろ2011年の疲れが出たのかもしれません。
あるいは、運動不足など他の要因かもしれません。

先日、バリに来てからずっと降り続けていた雨が上がった夕方、「ちょっとでもビーチ行こうかな、どうしうよかな」と一人で自分相談していたところ(よく一人で対話するのです)、「やっぱダルいから行かないほうがいいや」という結論が出たのです。

しかし、この肩こりは寝れば治るというものではなさそう……。
そこで「マッサージに行こう」と思いたったのです。
海外でのマッサージはタイでさんざん行きまして、前回のバリでも温石マッサージ他、少し追加取材すれば本一冊くらいは書けるほどの経験を積んでいるのです。

アジアはなにしろ安い(高級ホテルのスパは別です)。
タイでは二時間で千円ちょっと。それにチップを500円くらいあげるのです。
これを体験すると価格的にも質的にも、阿呆らしくて、僕は日本ではほとんどマッサージ受けません。

なんか千円前後で一時間も二時間も他人が自分にかまけてくれる、ケアしてくれるというのは、すごいと思いませんか。

日本ではいまほとんど他人の身体に触らないでしょう。
握手とか、ハグとか、キスとかあまりしないですよね。
一日中人の身体に触れないことがよくありまん。
下手に触ると、セクハラだ、ホモだ、ロリータだ、変態だ、と言われかねません。
子どもの頭を撫でるというようなことも難しい時代のような気がします。

しかし、人と人が身体を接触するというのは、何か必要な気がしているのです。そこに一種の尖ったものの「中和」が起きるのではないかと感じています。
そして、うまいマッサージは、日常感覚と違う半眠半覚醒の状態にしてくれます。これがたまらないのです。

説明するとそのように長くなりますが、僕の内部は全会一致で瞬時にマッサージに行こうと決めたのです。
ネットで検索すると、マッサージについて少しは書いてありますが、地理がわからなかったり、いまいち決め手に欠けたので、「歩いていて適当に入る」という方針を取りました。
そもそもマッサージは、店によってより人によって決まる部分が多いので、ブログの情報は参考にしかなりません。

しかし、レイキのことを書いたブログがあって、ちょっと気になったのです。レイキって何? まあ触手療法です。公式的なことはwikiで調べていただくとして、僕は名前しか知らなかったので、一度体験してみてもいいと思ったのです。

それでも別にその店を目指すでもなくタンブリンガン通りを歩き始めました。すると、トラブルが訪れたのです。

スクーターに乗った男性と後ろに乗った女性が目の前をよぎりました。とくに用がある相手がいるはずもないので、通り過ぎようとしましたが、「ハロー」とか「エクスキューズ・ミー」とか呼びかける声がします。
物売りの類いにしてはしつこいので、振り向きますと、女性が伝票に細かい札をホチキスで留めたものを持っています。

黒地にRIBと書いた制服を女性は着ていて、それは入った覚えのあるレストランです。
「昨日、こちらのものを食べましたね? 勘定が10万ルビア足りないです」ということを彼女は英語でいうのです。
たしかに、前の記事に書いたステーキの英語名が伝票にあります。
そこに綴じられた札に10万ルピアの札はないのですが、そんなはずはないのです。総額で14万ルピアほどです。
間違えるわけはありません。

しかし、僕にも弱点がありました。店の人が受け取って確認するところを僕は見ていないのです。
よく外国映画で主人公の男性はさっと勘定をおいて出て行くではありませんか。あれをイメージして金額をおいて出たのです。それが失敗でした。
もちろん、店の人の確認なしで出るのですから、二度、三度と金額は確認したのです。

女性は詰問する様子ではなく、余裕で微笑みすら浮かべています。バリでは、激昂したり強い感情を現すのは恥ずかしいこととされているらしいです。

しかし、英語で払ったのだといっても全く動じません。
仕方ないからもう一度払いました。
10万ルピアというと、すごい金額のようで皆さんげっと思っているかもしれませんが、今のレートで840円ほどです。
言葉の能力が十分でないのにややこしいトラブルにしたくなかったので払いました。それに確認しないで出たのはこちらに非があります。
とはいえ、あまり愉快ではありません。

彼女は僕が支払うことに満足し、「僕はちゃんと払ったけど、誰かが持って行ったに違いない」という弁明は完全に聞き流していました。

僕は歩きながら、三つの可能性を考えました。
通りすがりの客が!0万札だけを抜いていったこと。
彼女ではない店の人間が途中で抜いたこと。
彼女と男性の2人組が組んだ新手のたかりであること。

最後のケースだったらくやしいですが、女性の落ち着いた物腰からして違うと思いました。
もし、そうだったら相当な役者です。

じつは、この日の帰り、この店の前を通ったときに、店の別の男性から「エクスキューズミー、サー、昨日……」とまた言われたのです。
例の彼女が出て来て、支払ったことがすぐに知れたのでよかったのですが、つまり、このことは店全体で話題になっていたわけで、彼女のたかりの可能性は消えました。

このときも彼女は微笑んでいましたが、どう思っているのか知れたものではありません。バリ人は感情を表に出しませんが、妬みやうらみを持つと、ブラック・マジシャンに呪いをかけさせるのです。
全員がそんなことをするわけではたぶんありませんが、すごく珍しいことでもないようです。
そんなわけで彼女は微笑みの下で、僕がごまかそうとしたと思っているかもしれません。
若いときならどう思われているか、相当に気に病んだと思いますが、今はネガティブな想像に深入りはしません。
しかし、この店の前を通るときは、そういうことで顔を知られていると思うと、いい気持ちはしませんね(サヌールは、このメインストリートとビーチ沿いの道の二本でできている街といって過言ではないのです。だから毎日通ります)。

そんなできごとがあったので、これは本当にマッサージですっきりしたいと思い僕は足を早めました。
それで建物の二階にあるレイキもメニューにあるマッサージに通りかかり入ったのです。

(レイキ体験と、その周辺のことは、『GOLD2012』に続きます)



なんか、大切なところからは有料というのは慣れないので申し訳ない気がします。もう一つネタを。

*

バリ人の友人にブラックマジックで人を呪ってもらうといくらかかるの? と聞いたのです。

すると、具体的な金額は言わなかったのですが、かかる病気などの呪いの重さによって違うというのです。

いちばん高いのは、5年くらい病気で苦しんで死ぬことだそうです。
すぐに死ぬのは、その4分の1くらいの価格らしいです。
病気で亡くなるとお金も散在するでしょう? と言っていました。
金も使わせて家ごと衰えさせてしまおうということでしょうか。

だいたいの金額を聞こうかと思いましたがやめておきました。
あまり深入りすると恐いです。
いちおう、そのような呪殺が迷信ではなく存在するという前提で二人で話しているわけです。

彼には言わせると、かつてのバリでは毎日働いて、農産物などで食べるのに困らないから、人はお金をブラックマジックに使ったそうです。他にお金を使う用途があまりなかったそうです。

ところがお金の経済が発達して、買いたいものが増えたことで、ブラックマジックを依頼する人は少なくなったようです。

この変化はせいぜいここ二十年くらいの話で、経済の波は今も激しい勢いでバリを変貌させているのです。




ティガル・サリの池  ウブド、バリ 2012.1.17
- / comments(1) / trackbacks(0)
ある返信/政治と文学をめぐって
『銀河の家』の中のあるコメントに対する返事。
とくにコメントはつけません。



*****さん


率直な言葉をありがとう。

『不安であることの正しさについて』は、はっきりとした意志として、原発の「語られ方」に対する批判でした。
今もその意志は変わっていません。

厳密に考えると難しい線引きになるかもしれませんが、原発の今後や、事故の対処について僕らは何かの決定に直接関われるわけではありません。
すると何ができるかというと、語られ方について関わるということです。

そこにおいて、僕は言論を分裂させ、拡散させるのではなく、統合させること。なるべく少ない議論で本質に至ること、というようなことを考えていた気がします。
焼け石に水かもしれませんし、議論を少なくしようとしても、ぎゃーぎゃーと騒ぐ声を一つ加えただけかもしれません。

どのように説明しても、この部分はどうなんだ、と取り出されると、たぶん大幅に逸脱していると思います。

僕の中に文学があり、芸術や哲学もあるように、政治や社会もあります。
もっと私的で雑多な欲望や方向性もあります。
その中で政治が突出して現れる場面もあります。

「文学というのは、永遠に結論を保留するための形式なのです」

と僕はたしかに書きました。

そういう意味では、

政治や法律は「つねに選択し、決断していく」形式なのです。

秘伝のメルマガでは、文学や表現の枠組みで語りました。
それは一つのメルマガのコンセプトであって、僕全体のコンセプトではありません。

ただし、僕は、いずれGOLD2012にも書こうと思っていたのですが、文学、哲学、芸術、政治、社会、教育といったものを別々のものとして扱おうというのではなく、「一つの部屋」に統合しようと思っています。
そういう意味で*****さんの語ったことは、たいへんいいところをついています。

僕の中では、原発に関する議論も哲学も芸術もつながっています。
しかし、そのつながり自体について毎回明示することはできないので、断片化することがあります。
それからあきらかにそういう説明では収まらない突出した政治性を現したものもあります。

総じて、現時点でこのことに関して、僕は論理的にも、感情的にも***** さんを納得させるために整合性のあるきれいな理屈を言おうとしておらないのです。そう思って読んでください。
ただ、触発されて書きたくなったので、僕のほうからの眺めはこうですよ、ということを書いています。

とにかくブログに関しては、僕自身の衝動としてあのときは「書かざるを得なかった」ものです。僕は原発事故に震撼していたのです。
いちばん最初に震撼したものだから、今は少し落ち着いています。
でも、四号機の倒壊が危険云々と言われると、当時の感覚を思い出します。

ツイッターに関しては、反原発ツイートを激しくやり過ぎてある知り合いからリムーブされました(笑)。それでもいいと思っていました。3.11は、僕にはさまざまな事柄のパラメーターをゼロにリセットするできごとでした。
だから、僕が発言することで、友人が友人でなくなったら、それはふるい落としてかまわないと思っていたのです。

そのようにツイートするのは、必ずしも人に影響を与えようと思っているだけではなくて、僕自身の認識運動でもあります。

「これは一体何なのだ」という、日々浮かび上がってくる知らなかった現実やニュースを消化し続けるのに、何かしら書く必要があったのです。
RTは必ずしも主張ではなく、メモ、要確認であったりもします。

あまり詳しくは知らないのですが、サルトルは「現実参加(アンガージュマン)」ということを言って、デモや運動の先頭に立ちました。
つまり、「哲学者や文学者だからといって、この場面で部屋に閉じこもっていていいのか?」という意味で、当時とてもかっこよかったのです。
しかし、やがて過度の政治主義に陥って、存在がやせ細っていったと言っていいと思います。
社会の危機にあって、なにも直接的に発言しない文学者や学者がいいのか、発言や行動をするべきなのか。二つの道があります。
どちらがいいというのは、簡単に語ると間違いそうです。
しかし、3.11 以降、ある人の言動に何の変化もないとすれば、それは現状維持のほうに自分の重りを乗せていることになるだろうと僕は思います。

とはいえ、僕は本当に政治には適性がないので、そちらの方向には踏み込まないでしょう。
もはや、いろいろな人が声を上げ始めているので、あまり僕がつけ加えることはないのです。
反原発を一つの運動としてとらえるなら、この言い方はずいぶん傲慢に聞こえるかもしれませんが、これは物書きとしての本能であって、誰もがいうのと同じことを言うなら、存在価値を失ってしまうのです。

僕の子どもの頃は、サッカーをすると、ポジションも何もあったものではなく、わーっとみんなボールのほうに走って行ってしまうのです。
そうすると、広大な人のいないスペースが生まれます。足の遅い僕はいつもそういう場所に立っていました。
僕にとって書くことは、ボールを追いかけることよりも、誰もいない場所を探すことです。
そうすれば、人より機敏でなくても、チャンスにつながるボールが来ることがあります。まあ、そういう感じでぽつりとピッチに立っています。

ツイッターやブログでは、何を書いて何を書かないというようなことは約束できないのですが(自分で自分を縛りたくないのです)、GOLD2012では、何かを批判するより、未来につながる創造的な原理について書くつもりです。




- / comments(7) / trackbacks(0)