言葉のバラし方

 言葉の解体方法


言葉を解体していくには、私にはもう一つの手順があって、それは使われ方を見て行く、ということです。


希望という言葉については、朝起きて、そういえば「第一希望、第二希望」のような言葉があるなと思い出しました。


電車の切符を買うとき、あるいは会社の中の配属を決めるときに使いますね。

それから、懸賞などては、「プレゼント希望」と書きますね。


これらは具体的なものや条件が「ほしい」と言っているわけです。しかし、自分の意志ではなく抽選や先方の都合などで満たされるかどうかが決まります。

だから、ダメだったら仕方ない、ということが含まれています。


これは、「人には希望が必要だ」という用法とは、別の用途です。今回の論旨からは除外したほうがいいのではないでしょうか。


他のケースもあります。


たとえば、強制収容所に収容された人々にとって生き残って解放される希望は大切なものであった、ということを読むことがあります。

希望の灯火、というような言い方もあります。


では、私たちは今、何を希望しているのでしょうか。


私たちが希望を持つとして、それは強制収容所の人々の希望と同質なものなのでしょうか。


このように詰めていって、いつまでたっても輪郭がはっきりしない言葉は、考えるときに使わないほうがいいのです。


およそ、江戸時代になかった言葉は、用心したほうがいいのです。

つまり、西洋の概念を翻訳した言葉なので、日本人の言葉として身体化されていないのです。


*


話の本筋を忘れてしまいそうになりますね。


これは、「人に期待してはいけない」という命題に対して、期待を持たないことは希望を持たないことではないか、という主要な反応がありました。

それに対して、希望とはなにか、希望を持つことは世の中でなんとなく思われているほどいいことなのだろうか、ということを検証しているのです。


こういうことは、ある速度と密度で処理しないと、自分が何を考えているのかわからなくなってしまいます。

だから、私はいつも頭の中で言葉をひねくり回して、吟味、評価しているのです。


でも、誰もがこんなことに習熟する必要はないので、このブログを読んでくださる皆さんの場合は、もっと強く単純に自分の内面に「聞く」、ということだけを覚えていただきたい。


自分は今、何を希望しているのか?


人は希望を持つべきだ、と思う人は、この単純なことを力強く検索して、言葉にしてみていただきたいのです。



**


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期待と希望についてさらに考える

 たくさんのコメントをいただいて、楽しみな展開になってきました。

というのは、私が何らかの結論をはっきり持っている事柄ではなくて、リアルタイムでみなさんと同期していっしょに考えることができるからです。

こういう状態は、パチンコで言ったらビカビカと光って音が鳴っている状態、確変中(というのだと思う)のようなラッキーでハッピーだと思います(笑)。いや、それ以上ですね。


今回は、コメントの中で主要であった次のようなことについて考えましょう。


*


>投影はぜひやめたいのですが、期待はどうなんでしょう…。

期待する心は、希望でもある気がします。


*


>私は「誰かに理解してもらえる」ということを期待していましたけど、これも適わぬ願いなのだ、と、言い聞かせています。


それはある意味本質を突いたことなのですけど、

それでもときに寂しいなあ、と思うときがあります。


*


>期待することは人にとってベースにある希望のように思われることですね。

 期待はできるだけしないように、というのは厳しい。なんというか、「精進料理を食べれば健康になれる」みたいな、「分かるんだけどー!」という実感があります。

 でも、人への期待でただれてしまった胃を修復する意味では、重要だと思います。



**


期待がなくなることは、希望を持たなくなることとイコールではないか。それはさびしいことではないか、という意見ですね。


これを考えるときに、私はまず


・「希望と期待は何が違うのだろう」、ということを調べるのです。

・それから、「『希望を持つことはいいことだ』と当然のこととして語られていることは、本当だろうか」、ということも調べます。


調べるというのは、辞書を引くのではなくて、自分の体験や心の中で調べるのです。


私はあまり希望という言葉で物事を考えたことがありません。

たとえば、このブログで実現しようとしていることは、私は希望しているというより、意図しているのです。意図して行為しています。

意図が成功したらいいな、とは思いますが、それはどうも希望という言葉ではしっくりこないのです。

むしろ野望、といったほうがしっくりします(笑)。

でも、野望というのは外から見た言葉で、自分から野望するとはいいませんね。


そういう希望音痴の私ですから、希望とは何かを調べるのに皆さんのお力をお借りしたい。


抽象的に考えるのではなく、自分の中を調べてください。次のような順序でします。


いま、現在どのような希望を抱いているのか?

過去にどのような希望を抱いたことがあるか?

その希望は満たされたか、どこにいったか?

そのように見渡したとき、希望することは自分にとってよいことだったか?


このように考えて行くと、希望というものの輪郭が見えてくると思うのです。


それから、希望と期待は何が同じで何が違うか、ということを考えるのです。


その結果を教えてください。


*


それから、人に期待してはいけない、という場合、純粋に心の領域に限定していただきたいのです。

(但し書きというのは、書いて行くと非常に煩雑になって、本筋がわかりにくくなってしまいますから、なるべく省略したいのですが、この場合、仕方ありません)


たとえば、上司が部下に、発注者が仕事先に、よい品質の仕事を期待し、管理するというのは、これは社会的な関係、経済的な関係とも絡んできますので、純粋ではありません。

それは直接的に心の消耗ということには関わりません。


もっと心の根幹の部分で何かを他人に期待するということについて考えていただきたいと思います。




*


けっこう考える手続きがあるものでしょう?


私にとって、書く、考える、というときには、いつもこうしているのです。


考えるも、書くも、言葉という道具を使うので、その道具を吟味しなければなりません。

職人さんの世界では、自分で自分の目的に合った道具を作る、自分の手や身体にあった道具を作るということは珍しいことではありません。

そうしなければある程度以上、精緻な作業はできないのです。


言葉という道具も同じです。

使いながら、吟味して、研ぎすませていかなくてはいけません。

また自分の身体の一部のように自由自在に操れないといけません。


言葉を研ぎすませるにはどうするか、というと、石を研ぐのに他の石や金属を用いるように、他の言葉と当てるのです。


「期待」「希望」。似ていますが、二つ言葉がある以上必ず違います。


同じところはどこか、違うところはどこか?

そのように意識的に照らし合わせることによって、言葉の意味やニュアンスの輪郭がくっきりします。

そのようにくっきりした言葉は道具としてより精度が上がるわけです。


「『希望を持つことはいいことだ』と当然のこととして語られていることは、本当だろうか」


ということを考えるときに、誰もが希望はいいものだと思うのは、希望の反対語として「絶望」という言葉があるからだよなあ、ということも考えます。


そうすると、「希望」と「絶望」は、幾何学的に厳密に正反対に位置するものだろうか? ということを考えます。

希望が+1であれば、絶望は-1の位置にあるか?  というようなことですね。

それはどうも怪しいぞ、という気がします。


では、絶望とは何だろう? と希望という言葉を研ぎすますのに、絶望という言葉とも摺り合わせるわけです。


そうして吟味していると、もろく崩れて道具としては使えない、使いたくない、という言葉もでてくるわけです。


*


日本の哲学用語というのは、おおむね海外からの輸入に頼っています。


つまり、他人様の道具を使って考えているわけです。

しかも、それを日本の熟語に訳しています。そのような概念を指す言葉の多くは、日本にはなかったので、造語されたり、他の意味だったものを援用したりして、間に合わせました。


そういう言葉で考えることは、日本人の日常と離れた別の空間を作り出してしまうだけで、生活を潤しません。


ふだん使っている言葉がいちばん大切なのです。

翻訳語は頭にあるだけですが、ふだん使っている言葉は、全身の細胞に染み渡っているので、じつはずっと強い力を持っています。

それを考える言葉に研ぎすませていくこと。

そこから哲学というものは始まって行くと思っています。


だから、あなたの中にある「希望」という言葉を調べてみてください。


*


言葉は道具と書きましたが、文章にしたときには、その道具自体が一つの織物の一部として編み込まれて本体になっているわけです。

そういう不思議な性質があります。


そして、私が考えていることがあなたに伝わる。

すごく面白いことですよね。



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人に期待してはいけない


最近、自己観察して発見したこと。

「人に何かを期待して報いられないことほど消耗することはない」


ふだんあまり精神を消耗しないような生き方をしているのに、先日妙にぐったりと疲れたので、これは何なのだろう、と考えたのです。


そうして省みると、他人にあることを期待していた部分がありました。それが全然思惑通りに動かなかなったのです。

他人に期待していると、報いられないときに(期待を「裏切られた」、ともいいますよね)、怒りや悲しみ、落胆などの精神エネルギーがでます。そして、さまざまな連想が働き、今度はそれを抑え補正しようとするエネルギーが出て、多量のエネルギーが相殺、浪費されるのです。

そして、人に寄りかかろうとして姿勢を崩していますから、そのあと、自分の姿勢を立て直すのも難しいことです。

人によっては、期待を裏切られたという不平不満や恨みを抱えたままになるでしょう。


最初から一人ですくっと立っているのに比べると大きな違いになります。


つまり、人は他人に(家族も含めて)何も期待しないほうがいいのです。

もちろん、生きるということは他人の恩恵は大きく受けるわけです。

それは感謝して受けるがいいのです。

しかし、期待してはいけない。


期待しないということは、ゼロベースということなので、よいことをしてもらったときに人に感謝ができます。

期待すると、期待に応えてくれることがゼロベースになるので、感謝より不満が生まれるのです。

すごく大雑把にいうとですけれどもね。


人に期待する、ということを過剰にしていきますと、確実に心のエネルギーがうまく流れないようになります。

エネルギーの流れがねじれてくるのです。それが、ねじれたまま固定されてしまうと、(つまり、うらみつらみをもったり、人のせいで自分の人生がダメになったと考えるとです)、さらにそこにいろいろなものが溜まっていって、より複雑な様相を呈するのです。


というわけで、人には何か期待するのは、非常に心にとって悪い、ということを自分の心で感じたのです。


そして、ひょっとしたら、心にとってそれがいちばん悪いのでは? と思うようになりました。

それよりも心にとって悪いことは何だろう? 

と考え始めました。


さらには! 


それ以外に心に悪いことは存在しないのではないだろうか?

というところまで、現在、私の中で仮説が広がっているのです。


この「心が大事」ブログでは、じつにさまざまな現象、領域について書いてきています。

しかし、多くの言葉を使って書くことは目的ではありません。

できればたった一つの原理に帰一したいのです。

数学でいえば、公理とか、定義とかの、一つか、あるいはごく少数の出発点を設定して、それですべて説明がつくように心理的概念をすべてゼロから構成しなおしたいのです。


とても大胆なことを言っていますけど、実際、心理学というものは分裂しすぎて力を失ってしまっています。

さらに専門用語や概念や領域がたくさんあって、たいへん難しくややこしい。でも、それを全て足し合わせたところで大したことができないのです。


そうして、そのような専門性があるがために、人々は心を専門家任せにして、人が自分でモノを考えないようになっているのです。


自分の心を自分で知るというのは大事なことです。

だったら、心を考えるのに、分裂せずに一つで、単純な原理からスタートしていて、特別な専門用語を使わないものを作ろう。

それがこのブログの趣旨なのです。


というわけで、「人に期待しない」ということは、その出発点としての要素に値するのではないか、といま考えているわけです。

人に期待しない、というのは、あまりにも部分的なことではないか、と思われるかと思いますが、これはボジティブに言い換えれば、「自分の生命を自分の価値で生きる」ということです。

いわば生きる価値の自給自足のようなことです。


しかし、「自分の生命を自分の価値で生きる」では、入り口としてあまりに抽象的なので、「そうですか」で終わってしまって実際的でもないし、ダイナミックでもありません。

「人に期待しない」であれば、誰でもそこから考え始めることができると思うのです。


この仮説の検証にぜひ皆さんの力を貸していただきたいのです。


いま、現在消耗している人、落ち込んでいる人、そういう状態を思い出せる人、それは「人に期待したからではないか?」とちょっと考えてみてください。

もちろん、自分が落ち込んでいるのは違う理由だ、というコメントも大歓迎です。

むしろ、そちらが大切です。


なぜ人は消耗するのか。落ち込むのか。

それを一つの原因で解けたらすばらしいけれども、そんなにうまくいくでしょうか。


みなさんのコメントお待ちします。


(人に期待しない、ということにはいろいろ付随的な説明が必要ですが、それは次回以降に致します)

 

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おわびと訂正と謎

Twitterのアカウントは


これが正解です。

muramatsukohei と書きましたが、
muramatsukouhei でした。

探させてしまった方、どうもすみません。


muramatsukohei は、パスポートの表記です。
ヘボン式というのでしょうか。

これだとコヘイとコウヘイの区別がつかないとつねづね思っていました。
今、確認しましたが、uはやはり省略されるようで、大野と小野も同じOnoの表記になるようです。
表音文字なのに、何でこんな表記がデフォルトなのか、全く謎です。

そんなことをいつも考えていたので、中途半端なことになりました。

筋道から行くと、名がkouheiなら、muramatsuもmuramatuでないと、たぶんいけませんが、もう設定してしまったので、このままでいいです!

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フォロー・ミー

ついにツイッター始めました。

こんなこと書いたりしています↓ 


自己保身とは生物として考えると当然のことだ。なぜ、この言葉は悪い意味にだけ使われるのか。自分を省みないのがデフォルトである、という道徳観念はどこから出てきているのだろう


ふだんこうして言葉をいじりまわして、言葉の隙間をこじ開けるように考えていくのです。




muramatsukohei
村松恒平

本名でつかまります。

ときどきこちらにも転載しようと思いますが、ツイッターしてる方、フォロー・ミー・ブリーズ!


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達磨強化月間?



我慢する人と堪忍袋

 私は人はみんなしたいことをしたほうがうまくいく、と思っています。


自分が我慢しているときは、何かがうまく行っていないと感じます。

もちろん、我慢が一切できないとか、そういう話ではありません。

ただ、

もう少しうまいやり方はないのだろうか、

もう少しいいモノの言い方はないだろうか、

もっとよくするにはどうしたらいいか、

どうしようもなければここは自分に合わない、逃げ出すべきだろうか、

と目まぐるしく物事を考えます。


それに対して、自分が我慢しているからうまく行っている、と考える人も多いでしょう。


忍耐強い人は尊敬に値します。


しかし、忍耐強くないのに我慢している人、というのは、私はたいへん警戒するし怖いのです。


その人の中で堪忍袋が風船のようにみるみる膨れ上がっていくのが目に見えるからです。

いつ破裂するか、どきどきです。


およそ、堪忍袋というのは、伸び縮みが柔軟でなければなりません。

堪忍袋は我慢を一時期貯めるだけで、どこかで小出しにする、ガス抜きする、忘れる、胃袋のように消化する、という機能と一体になっていないと、ただ貯めておいて爆発するだけの時限爆弾のようになってしまいます。


しかし、その怒りが爆発するとき、それは我慢重ねた怒りなので、本人にとって正義の怒りなのです。


そういう恐ろしい人がいました。

その人は爆発の快感に慣れてしまって、完全に脳内麻薬出してしまうのです。

だから、あきらかに爆発するために我慢と怒りを溜め込む、ということをたぶん無意識にするのです。


我慢するなら一生飲み込んで墓場まで持っていってくれれば、尊敬します。


しかし、いずれ吐き出そうと思って溜め込むくらいなら、その場で自分が我慢しなくていい解決を話し合って求めるべきだと思うのです。そういうことをしないで腹にいろいろ溜め込んでいる人は、顔を見るとわかります。

私はなるべく近づかないようにしています。

フリーだからできるのですけれどもね。職場や仕事先にいる人はたいへんだと思います。


そういう人がまた「我慢する人」になると、だんだん世の中に我慢が蔓延するわけです。

ほら、そう考えると、みんながしたいことをしないとダメでしょう?


一時期、「すぐにキレる若者」が注目を集めましたけれども、彼らもキレるときには、我慢してたまりにたまったものを爆発させていたように思います。

ただ、その我慢が人には通じない種類のものだったのです。自分勝手で狭量で頭が悪く、性格が歪んでいるところからイライラがたまりやすいので、小さくてすぐに破裂する堪忍袋がみるみる膨れ上がって行くのです。

結局、理解力も表現力もないから、自分が我慢していると思っているのです。


悪口書きましたが、ここに書こうと思ったのは、ダメな人をクサす目的ではないのです。


私とあなたのこと。


したいことをするということ。


それが大事です。



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したいことをすべし

 したいことをすべし。


これを小学校では教えませんね。


まず教えることは「人に迷惑をかけるな」「授業中は話をするな」という禁止から入ります。


「する」ほうから教えないで、「しない」ほうから教える。


教室という四角い箱の中で、いろいろな性格の子どもたちを教えていれば、そうなるのもわかります。

たとえば、大草原の青空の下で教えたら、きっと違う教え方を考えるでしょう。


しかし、教室でも、カリキュラムを作り直し、工夫をすれば「する」ほうから教えることはできると思います。


それをどうするか、という具体的な議論は教育学のほうでやっていただかなくてはいけませんが、とにかく「する」ほうから教えないと日本人の精神の土壌は変わりません。


日本人の精神の土壌が悪いというわけではありません。

しかし、社会がどんどん欧米化、アメリカ化しているからズレているのです。

ナイフやフォークで納豆や焼き魚を食べているような具合です。

最もこの現象は今に始まったことではなく、日本の知識人という人たちは、何十年も前から、必ず似たようなことを嘆いていたように思います。

それでも日本のメンタリティやシステムは少しずつしか変わりません。

日本文化と西洋文化が共生するようなシステムのデザインをもう少し積極的に考えることは有益だと思います。


「したいことをすべし」に話を戻します。

したいことをしなさい、というと「したいことをしていいなら人を殴ってもいいのか」とか、「泥棒をしてもいいのか」「痴漢をしてもいいのか」というようなことを聞き返されることを覚悟しないとけません。

そういう反問が浮かぶ人が必ず何パーセントかいるのです。


「村松がしたいことをしろと言ったから人を殴った」と言われたらかないませんから、きちんと手当しなければいけません。


論を進めるのに、そんなことは論外である、自分で考えなさい、と放り出したいのですが、よくよく考えてみると、ここにもちょっと面白さがあります。

哲学とか心理とかは、そんなことは当たり前だと放り出してはいけないのです。

当たり前のことを疑っていったときに、意外な真実が浮かび上がってくることがあります。


人を殴るとか、泥棒をするというのは、法律違反です。

したいことをしなさい、と言われてすぐにルール違反を考えるというのは、つまり、私たちの中には、「したいことをする」=「ルールを破る」こと、という考えが多かれ少なかれあるわけです。


しかし、もちろんしたいことをすることとルールを破ることは直接関係ありません。

私は将棋や碁や麻雀が好きですが、このようなゲームにも厳密なルールがあります。

しかし、そのゲームの中では、自分の考えやセンスでさまざまな選択をすることができます。

棋風という言葉があるように、プロになったからといって正解は一つではありません。

そこが面白さです。


私たちは人生の中でさまざまなゲームを選び、思い思いにゲームをします(人生がゲームだとしての話ですが)。ルールもあり、マナーもありますが、なるべく伸び伸びとプレイをして上手になり、自分らしく勝てるようになりたいものです。

誰かに教えてもらうのは最初だけでいいのです。

後ろで見ている人にあれこれ言われたら嫌になってしまうでしょう。


つまり、したいことをしなさい、と言われたときに、すぐにルール違反のことを考えてしまうのは、ゲームの中で自分を表現する可能性を十分に感じていないのです。

だから、したいことをしなさい、自由にしなさいというと、ゲームの中で工夫するのではなくて、ゲーム盤をひっくり返してしまうようなことしか考えつかないのです。


そういう頭や心のあり方は、最初に書いた


>「する」ほうから教えないで、「しない」ほうから教える。


という教育のあり方が影響しているのです。

何かしたいと思ったときに、どういうやり方でやるかより先に、何が禁止されているか、ということが気になってしまうのです。


考えてみると、じつは、このこと自体は少しも日本的ではありません。日本の伝統は「する」文化だと思います。

「西洋化した日本の教育システム」が「しないで考え込む日本人」を生んだような気がします。

それはわけて考えないといけません。

しかし、そのことはまた大テーマなので置きまして。


人には二通りのタイプがいます。


「みんながしたいことをすれば世の中うまくいく」と考える人と、「みんながしたいことをしたら世の中大混乱してしまう」、と考える人です。


あなたはどちらのタイプですか?




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yumiさんからのメール(後編)

 


■村松から yumiさんへのお返事■


yumiさん、メールをありがとうございます。

非常に冷静で明晰な文章で、たいへん多くのことがわかりました。


私はコメントにも書きましたように、対人恐怖症についてのケーススタディをほとんど持ちません。

したがって、yumiさん場合が世に言われる対人恐怖症という症例にあてはまるかどうかも判断できません。

また病名をつけるということは、事態を限定し固定して、自由なアプローチを妨げることにもなります。

だから、いったんこの対人恐怖症という言葉の枠を外して、yumiさんのケースだけをお話させていただきます。


そうすることによって、いわば、yumiさんを客観的な分析の俎上に乗せてしまう部分があるのですが、それはこのブログでの相談という性質上、また匿名でのやりとりであるという点で理解していただきたいと思います。

私が書くことは、yumiさんの表層的な意識が、今現在望んでいる答とはかなり違うかもしれません。

私はこのように書くのがいいと判断するのです。

意のあるところを汲んでいただければと思います。

これから書くことをもし理解納得していただけるようであれば、すぐにyumiさんの中で顕著な変化が始まると思います。



**


yumiさんの場合は、私が観察するところの一つのケースに典型的にあてはまります。

名付けるならば「凍った時間」のケースです。


一人の人の中に複数の時間が流れているということが想像できますか?


その中の一つの時間が、ある時点で凍り付いてしまっているのです。


yumiさんの場合は、単純に二つの時間です。二人の人物がいます。


一人は冷静で支配的な母親。

一人は涙を溜めて立ちすくんでいる少女です。


少女は立ちすくみ、母親に泣いて訴えたいのに、母親は早足で少女を置いて歩き去ってしまいます。

母親は決して振り返りませんし、立ち止まりません。

少女は涙を止めて追いかけなくてはいけません。


そういう二人がyumiさんの中にいます。




**


これはいわゆる二重人格ではありません。

二重人格は、どちらも顕在的な意識に現れてきますが、yumiさんの場合は役割が決まっています。


意識がつねに母親であり、無意識がつねに娘です。


意識は言葉という光の当たる部分、無意識は言葉の光の当たらない部分である、という私の意識・無意識の定義があります。

(すでに書いたでしょうかね?)


娘は幼すぎて、自分の気持ちを表現する言葉を持ちません。

母はつねに冷静で正しい判断をしているという自信を持っているので、反論や口出しの余地を与えません。

結論だけを口にします。

したがって、娘は言葉を発することができないまま、母に従うしかないのです。


yumiさんの言葉は、完全にこの母親をコピーしています。


コピーというのは、実際にyumiさんのお母さんがこのような性格であると想像されるからです。

あるいはご両親がこのような性格をわかちもっているのかもしれません。

心のことを考えるのは別に当て物ではありません。

だから、お母さんかどうかはわかりませんが、そういう冷静で支配的な母親の要素というのは、自然に発達するものではありません。

誰か強い影響力を持った人のコピーと考えるのが妥当です。

ここでは、その強い影響力を持った人を「その人」と呼びましょう。


yumiさんは、幼い頃からつねにその人から正しい結論を先回りして与えられていたのでしょう。

それも暗黙のうちに結論を強制されるのです。

それが焼き付いてしまって、その人からされたことをコピーしてしまった。

そして、yumiさんの意識、言葉の体系が、自分自身の無意識に対して、同じようにするようになってしまったのです。

いわば強い性格がプリントされてしまって、それが意識で機能し、支配しているのです。


yumiさんの本心は、ある時点で強い言葉の人格に押さえ込まれてしまったのです。

具体的に見て行きましょう。


>小学校で、2年間近くの不登校を経験し、


この時期です。

本当はこの時期に、泣いて甘えたり、反抗したりしたかったはずなのです。

しかし、どちらの隙も与えてもらえなかった。

だから、無言のまま、不登校という形で表現したのです。


そして、学校に復帰するときには、「その人」に同化するという形でとりあえずの解決に近い形をとったのでしょう。


そこからyumiさんの本心は発達することをやめてしまって、そのときの時間に留まっているのです。

だから、思春期を脱するどころではないのです。

こう書いていますね。



>私は、現在大学4回生ですが、

22歳にして思春期すら脱しておりません。

 

自分の人生を、自分で決断するという精神が希薄で、

アルバイトもせずに、親の仕送りだけでのうのうと生きています。

 

就職活動すらしていません。



この文から多くのことが読み取れます。


>自分の人生を、自分で決断するという精神が希薄で、


これはつねに親から結論を与えられてきたからです。

その人は、自分で決断するチャンスを与えずに、「ぐずぐずしている」とyumiさんをジャッジしてきたのです。


そして、この文章全体がずいぶんyumiさんを突き放しています。


>22歳にして思春期すら脱しておりません。

>自分で決断するという精神が希薄で、

>アルバイトもせずに、親の仕送りだけでのうのうと

>就職活動すらしていません。


この口調のはしばしにある軽侮は、母親が娘のことを母親仲間に謙遜卑下していうときのものです。


そして、さらに22歳になったらアルバイトくらいはするものだ、という断定を含んでいます。

しかし、大学卒業までアルバイトをしない学生はいくらでもいます。

まして、対人恐怖があるのならやむをえないことです。


yumiさんの中のその人は「そうするのが当然だ」という形で結論を言うのです。

冷静な論理のつらなりの中に、こういう無言の前提の圧力がうまくはめ込んであるので、反発しづらいのです。

その人はたぶん、高学歴、高収入で、決断力、判断力、実務処理能力に富んでいます。

反面、弱いもの、劣ったものに対する関心や同情心は希薄です。


それがyumiさんにもコピーされています。たとえば、


>1度目は塾の講師。

 

マイナー過ぎる個人塾です。



この文章は目立ちます。

マイナーな個人塾はいいですけれども、どうしてマイナー「過ぎる」のでしょうか。

これは自分に対する謙遜だけではない要素を含んでいます。

塾は大きいほうがいいものだ、という前提があきらかに暗黙の価値観としてあります。


だから、意識のyumiさんは、その塾をやや低く見積もっているのです。

ところが、実際にはインターホンをならせないほど緊張してしまいます。


ここで、はっきりと二人の人物がいることがわかるでしょう?


意識ではさほど高く評価していないにも関わらず、もう一人のyumiさんはあがってしまう原因。


それは、無意識の内側のyumiさんは、まだ凍ったままの時間にいるからです。


>悪戯をして、これから怒られる子供?


G・I・グルジェフという人は、人を人格と本質とに分けて考えました。

その分類でいくと、yumiさんは、人格は大人なのですが、本質が柔らかい子どものままなのです。


もう一カ所だけ文章からみましょうか。



>まあ、こんなところです。

 

2度目は、、、、

3度目は、、、、

などと繰り返しても、

退屈なだけでしょう、後は推して知るべしです。



ここでまた、娘を謙遜卑下するお母さんの人格が出てきました。

すごく苦しくて恥ずかしい辛い体験だったと思うのに、他人事のようにクールです。


多くの人は、一度ダメだったら、辛くて二度とはチャレンジしないものです。

それを意識のyumiさんは、自分を駆り立てて三度もチャレンジしています。

無意識がいやだ、辛いと言っていることと完全に分裂しているのです。


これは、嫌がる子どもに無理にお稽古ごとをさせる親と同じです。

手を引っ張り、背中を押して駆り立てても、ますます嫌いに苦手になるだけです。


強引に失敗体験を積み重ねると、ますます事態は複雑になります。

そういう解決法はダメです。


そもそも知らない場所で物怖じするというのは誰にでもあることです。

私もこう見えても(どう見えるか知りませんが)たいへん内気で小心です。

立派なホテルのロビーなどに行くと、ちょっと緊張したりします。

慣れない場だと、カップを持つ手が震えたりとか、誰でもあるのではないでしょうか。

ただ年を取って、いろいろ経験を積むと、少しだけ様子がわかって普通に振る舞えるようになってきます。


場慣れ、ということを少しずつしていくことが大切ですよね。


しかし、yumiさんは場慣れをす前に、アルバイトの面接といういきなり高いハードルに挑んでしまいました。

これは、相手に自分の価値を認めさせて、お金を払ってもらうという場ですから、いちばん緊張レベルが高いのですよ。


それでダメだった、という体験を重ねると、それがインデックスに入ってしまいます。そのインデックスは、何かのときに、あのときもダメだったから、今回もダメなのじゃないか、そもそも自分という人間はダメなのではないか、といつも簡単にひっぱり出されることになるのです。


そうなると、何が起きるかといいますと、話すべき相手と対面しているのに、自分の内側ばかり見ていることになるのです。

アルバイト先にいったら、仕事場はきっちり整頓されているか、人間関係はどうか、働きやすそうか、自分の能力をうまく活かせそうか、細かい条件は折り合うのか、いろいろな情報がいっぺんに入ってきます。そういったことを肌で感じながら話すのです。


ところが、そういうことが苦手な人は、自分ではダメではないのか、嫌われたり、見透かされたりしないか、そういう心配ばかりに心理的なエネルギーが流れる癖がついてしまっています。

外に向かうべきエネルギーが全部、自意識に向かってしまいます。自分は変に見えるのではないか、ということばかり気にしていたら、やはり変に見えてしまうのです。

そういう様子が相手にも見えてしまうので、悪循環になるのです。


いわば、そういう癖が絡まって塊になってしまったのが対人恐怖なのでしょう。

この結び目をゆっくりほどいてやらないといけません。

焦ってぎゅうぎゅう引っ張るとますます強い結び目ができてしまいます。

対人恐怖は現れ、症状であって原因ではありません。


対人恐怖そのものを相手にするのではなく、上に書いた母と娘の分裂を見つめることで解決が見えます。


*


じつは解決の道筋はたった一つしかありません。

凍り付いた時間を解凍して、少女のほうのyumiさんを大人にしてあげることです。


そのためには、まず意識のほうのyumiさんはさんには、しばらく黙って見守っていてもらわなければいけません。

本心のyumiさんが自分で行動して、小さな成功体験を積み重ねなければいけません。


>自分で決断するという精神が希薄で


と書いていますが、本心が自分で決断するまで、じっと待たなくてはいけません。

じりじりと焦って口を出したり、遅いとか、それはダメ、意味がない、とか評価してはいけません。

それから、自分のしたいことをしなければいけません。

世間並みのことをしようと思ってはいけません。

人と自分を比べてはいけません。


こういう禁止は意識のほうのyumiさんに言っています。

今までは、「人がみんなしているから」という理由で行動を選んできたはずです。

友だちを作るのまで「人がしているから」では楽しくもなんともないでしょう?

そもそも会っても楽しくなければ、それは「知り合い」であって「友だち」ではありません。

そういう行動はますますギャップを深めます。

「友だちを作る」ことではなく、「友だちと愉快な時間を過ごす」、「友だちを好きになる、うちとける」というミッションに変えてみてください。それがしたいのかどうか、心によく聞いてみてください。

ほしくないうちは友だちなんか作らなくていいです。

一人で行動してください。


前に書いたかもしれませんが、一人でも家には籠ってできることで完結するのはダメです。

ネットは人に会わなくても済むようにするシステムなので、解決を促しません。

むしろ、自己完結してしまう回路を作り出します。


小さい用事でもいいから外に出ることです。

映画やお芝居を見に行くとか、散歩する、山に登る、絵や音楽を楽しむ。

それから習い事はいちばんいいです。

陶芸など私もやっていますが、基本は土と自分の対話ですからね。


子どもの頃、得意だったこと、したくても親に認めてもらえなかった習い事があればそれをするのがいちばんいいです。


世間並みのことをするのではなく、自分のしたいことをしなさい、と言われてもすぐに何も出て来ない人は多いのです。

そんなことは考えたこともなかった、という人がけっこういます。

そういう人は宙を見つめてぼかんとしてしまいます。

機能が発達しないまま止まってしまっているのです。


今の世の中は、学校に行く、進学する、テレビを見る、ゲームをする、マンガを読む、DVDを見る、ネットを見る、となんとなく要求されていることや、みんながしていること、流行っていることで時間を埋めていけば、簡単に埋まってしまって時間が足りないくらいになります。


それを全く空白にしてしまって、自分は何がしたいのだろう? と一回も考えることなく成人してしまう人が多いのです。


私の時代には、「退屈」という言葉がもっと若者の間で頻繁に使われました。

時間はあるけれども、お金はさほどない。何をしていいのかわからない、何か面白いことないかな、といつも飢えていたのです。

若者はそのような時間の空白を持て余していました。


しかし、今の時代はその空白を黙っていても何かが消化しきれないくらいの情報量で埋めてくれます。


だから、改めて自分が何をしたいのだろうと考えると、初めてぽっかりとした空白と出会う人が多いのです。


だから、すぐにしたいことが出て来なくても、急いてはいけません。

とにかく小さなことを思いついたらやってみる、ことです。

少女は最初は聞き取れないほど、か細い声で何かいいます。

いつも聞いてもらえないので、声を出せません。

yumiさんの中のその人も聞くのに慣れていません。

だから、じっと耳を傾けなければ聞こえないでしょう。


曖昧に聞こえる小さな声でも、それを実現してあげることです。

小さな実現があれば、次はもう少ししっかりした声が聞こえるようになります。


 RPGというゲームをしたことがあればわかりますが、最初は小さな経験値でどんどんレベルが上がります。

yumiさんは、すでに大人の意識と二人連れのパーティなので、自分に与えるミッションを間違えなければ(つまり、やりたくないことをすること、それからその時点でハードルが高すぎることをすることです)、すごい勢いで少女の部分が成長します。


半年くらいの間に顕著な変化が現れるでしょう。


これはじつは、とても単純な力学です。


*


しかし、心の中でもう一つの同時に別のできごとが起きます。


「解凍」が進むに連れて、凍っていたさまざまな感情が蘇ってくるのです。


流すことができずに溜めこんでいた涙や、押さえ込んでいた怒りの炎、言おうとして言えなかった言葉、そういうものが湧き上がってきます。

あるいは、支配していたその人への反抗心、これもはっきり形に現れます。

こういう凍った感情は、何十年経っても消えません。ただ凍り付いているのです。


解凍された感情がでてくるのは悪いことではありません。

それが解けてでてくれば、正しいプロセスを進んでいると言えます。

ただ、そこに過去の思い出したくないような事柄がいろいろからんでいて、傷が癒えるには時間がかかります。

私はそれを「小骨が突き刺さっている」、と呼んでいます。

精神が生き生きとした力を持ち始めれば、相対的に小骨の影響力は小さくなります。

それは正しい方向に進んでいけば時間の問題です。


決して焦ってはいけません。


これにさらに現実のプロセスという三番目の要素が絡んできます。

家族との関係と経済的な要素です。

なるべく余裕を取って、第三の要素が他のブロセスを妨害しないようにしないといけません。


yumiさんの場合は、経済的な自立を決して急がないことです。


短くて2年、できれば3年、あるいはもっと長く親にぶら下がるつもりのほうがいいです。

焦ると、結局、失敗と自己否定のループを強化してしまいます。


その間、語学の勉強をするなり、茶道や華道、料理の修行をして花嫁修業のふりするなり、親が納得し、人に言いやすいような形を作ってあげるほうがうまくいくでしょう。


実生活でこれ以上の干渉を避けつつ、解凍作業に必要な時間と空間を手に入れなければなりません。


解凍のプロセスは単純ですが、それにまつわるさまざまなことは、ほどけていくのにそれなりの時間がかかるのはやむを得ないことです。


一通のメールから私が申し上げられるのは、以上のことです。


具体的な事柄については、可能であれば、一度セッションに来られるといいと思います。


この記事はコメント不可としますので、感想や疑問などあれば、メールで受けつけます。



******


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yumiさんからのメール(前編)

1月6日付けの記事で対人恐怖症のことでコメントをいただいたyumiさんから、メールをいただいていました。

遅くなりましたが、そのお返事を書きました。


心のあり方について、一つの新しい概念を書いています。


読者の方はメールを読んで、自分ならどう答えるだろうと立ち止まって考えてみてください。心について深く考えるきっかけになるだろうと思います。


かなりの長文ですが、相談的な内容ですので、一気に載せます。

(と思ったら、長過ぎて載らないようなので、前編と後編にわけます)


■yumiさんからのメール■


村松様、はじめまして。

 

「心が大事」に、

対人恐怖症に関しての見解をお聞かせ願いたいとコメントさせて頂いた者です。

 

この度は、リクエストに答えてくださり、ありがとうございました。

 

私のことは、ここでは仮に、yumiと名乗らせてください。

  

 

リクエストしておけば、

いつか対人恐怖症に関する話題も取り上げてもらえるだろうという心持ちでしたので、

まさか、直接メールを差し上げることになるとは思ってもみませんでした。

 

正直、コメントを頂いたときには、覚悟ができていなかったので、混乱していました。

自分のことを書くのは恥ずかしいですし。そう、恥ずかしいのです。

かといって、今更、引っ込みもつきません。

 

旅の恥はかき捨てとも言いますし、

私の“対人恐怖症“のリハビリにもなるかと思い、

こうして、メールを送らせてもらっている次第です。

 


 

私は、現在大学4回生ですが、

22歳にして思春期すら脱しておりません。

 

自分の人生を、自分で決断するという精神が希薄で、

アルバイトもせずに、親の仕送りだけでのうのうと生きています。

 

就職活動すらしていません。

 

小学校で、2年間近くの不登校を経験し、

中学校、高等学校と、少しも馴染めなかったことから、

自分の潜在的な問題には気づいてはいましたが、

今まで本気で人生と向き合わなくても、

なんとか誤魔化せていけたので、ずっと目を背け続けてきました。

 

 

私の”対人恐怖症“ですが、

ちゃんと診断をしてもらったわけではありません。

 

ですが、気の利いたカウンセラーなら、社会不安障害とか、

回避性パーソナリティ障害などと言ってくれると思います。

 

カウンセラーのブログや、対人恐怖症の本などを読む限り、

こういった用語は、どなたも割と適当に使っておられるようなので。

 

要するに、

他人の評価にさらされる場面に身を置かれることを極度に恐れる(≒社会不安障害)

重症になるとそういった場面を徹底的に避けるようになる(≒回避性パーソナリティ障害)

ということのようです。

 

 

私の場合、今現在、

回避が進行しているようです。

 

 

大学1回生の頃は、

『大学で人生を変えてやる!!』

くらいの意気込みでしたから、

そりゃ、無理してでも友達を作りました。

 

そりゃあ、もう、片方の手だけでは数えられないくらいです^^;

 

さすがに、自分からアプローチするというのは、

ハードルが高すぎでしたが、友達は本気で作ろうと思っていれば、

自然にできるものだと知りました。

 

引き攣った顔で、

どこの国の物とも知れない言語をたくさんしゃべりました。

(自分が年上のお兄ちゃんに話しかけている小学生みたいで本当に情けなくなりました)

 

誘われて、社会科学を研究するとかいう、

怪しげなサークルにも入会しました。

 

友達の趣味に付き合って、

萌えグッズとか、沢山販売されている店にもいきました。

 

正直、あまり、気乗りはしませんでしたが、

友達に付き合って、大学教員に、弁護士になる方法とか、聞きに行ったりもしました。

 

どうして、この人は、

大学教員に対して、こうも臆せず物を尋ねられるのだろうと、心から、尊敬したものです。

 

 

みんないい人だったと思います。

 

しかし、関係が長引いていくにつれ、だんだんと、

自分ひとりが“対人恐怖症”であるという事実に引け目を感じ始め、

意識的にか、無意識的にか、徐々に距離を置き始めるようになりました。

 

同時に、

「私は対人恐怖症なんだから、社会不適合者なんだから、

人とまともに付き合うことなんてできないんだ。」

「みんなも、どこか私のことを馬鹿にしているに違いない。」

などと、思い込むようになり始めました。

 

 

ここからは、悪循環です。

 

人との関係を長期にわたって遠ざけていると、

徐々に、自分の社会不適合感が強化されていき、

その裏返しとして、なにやら、プライドっぽい物まで芽生えてきます。

 

もう、アルバイトも何もできません。

(アルバイトなんて、元からしていませんでしたが)

 

 

『これでは、あまりにダメ過ぎるだろう!!』

 

デールカーネギーの名著「道は開ける」でしたでしょうか?

それとも、中村天風の「成功の実現」でしたでしょうか?

あるいは、新興宗教の経典だったかもしれません。

 

まあ、何かの名言に刺激されたのでしょう。

 

突如、そう思い立ったのが、

大学4回生になったばかりのことで、

たった3度ですが、アルバイトに挑戦しました。

 

 

1度目は塾の講師。

 

マイナー過ぎる個人塾です。大学の求人システムから探しました。

 

中学、高校の時に、個人塾に通っていて、

とてもいい思い出がありましたから。

 

(先生が、とても、生き生きした魅力的な方でした。

 塾講師としては、ある意味破綻していたかもしれませんが、

 成績とか、進路とか、あんまり深刻に考えていない人でした。

 学校では、馬鹿と、お利口さんでは、露骨に序列がつくので、

 ある意味、癒しの空間になっていたと思います)

 

まあ、とにかく、これから頑張るぞ!

ということで、アパートの一室に向かうのですが、

自宅アパートを出るだけでもガクブルです。

 

いえ、普通に外出するのは何ともないのですが、

何分、壮大なチャレンジへの前途ですので、武者震いでもしていたのでしょう。

 

まあ、目的地に着くころには心臓がバクバクになっていましたよ。

 

インターホン、鳴らせませんでしたからね。最後まで。

 

結局、塾生と思しき女の子が代わりに押してくれました。

 

 

面接では、自分があたかも、

これから裁かれる罪人であるかのように感じました、、、、。

 

すみません、ちょと、美化しました。

 

より、正確には、

悪戯をして、これから怒られる子供?

 

自分の感覚にしっくりくるような形で、言語化できません。

 

とにかく、

「怒られる」「非難される」「相手は気分を害している」

という思考が自分の中に渦巻いて統制が取れなくなるのです。

 

もう、こうなったら、

自分のことしか考えていない状態です。

 

相手とコミュニケーションなんて、成立しようがありません。

 

 

塾長さんは、大人の気配りとして、私にこう言ってくれました。

「人手が足りなくなったら、お手伝いをお願いします」

「その時は、こちらからお電話します」

 

残念だという気持ちはほとんど感じませんでした。

ただ、やっと苦しみから解放されたと思うだけでした。

 

 

まあ、こんなところです。

 

2度目は、、、、

3度目は、、、、

などと繰り返しても、

退屈なだけでしょう、後は推して知るべしです。

 

 

そして、今に至ります。

 

回避性パーソナリティ障害です。逃げです。

 

気づくと、アルバイト情報や、就職情報など、少しも収集しておりません。

(元々、ですが)

 

机の上を見ていても、

「マーケットの魔術師」「松下誠の投資DVD12枚セット」

そんな本が置いてある始末です。

 

ネットサーフィンをしていても、

アフィリエイトなどの情報を割りと精力的に集めていたりします。

 

アニメに没頭して時を忘れていることも多いです。

 

あるいは単に、ダラダラしていることもあります。

 

 

だいたい、

以上のようなことが、

私の抱えている“対人恐怖症”にみられる具体的な現象です。

 

 

書いていて、少し、ストレス発散しました。

実際、こんなことをストレートに言えそうな相手というのはとても少ないのです。

自称カウンセラーにこんな話をして何になるというのでしょうか?

おそらく、独り言を呟く以上に無益なことだと思います。

書いている途中で、絶対に、虚しくなって、止めると思います。

 

最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。



(お返事は後編につづく)


まとめ・山を降りた人々

人を勧誘するという行為は何でしょうか。


宗教なりセミナーなりに入ったときに、自分が感動したり、教えを非常によいもの、尊いものだと思うことはあるでしょう。

しかし、それが外から見たら洗脳でしかないのです。


洗脳とは何か、ということを心という観点から見ますと、まず、人の中の価値観をシンプルで反駁が難しいものと入れ替えて焼き付けます。

「この世はすべて幻影である」というようなことでいいのです。

説明は繰り返しされますが、根本的な疑問は提出できません。

その世界ではそれが真実なのです。

人を狭い場所に閉じ込めて、回り中から繰り返しこういうことを言うと、そうかなあ、と思うようになります。


「この世はすべて幻影である」という考えを受け入れれば、それまでの価値観はどうでもいいものとなり、崩壊してしまいます。

一般的な現実感覚を失います。


洗脳はこのプロセスに脳内麻薬を出す仕組みを結びつければいいのです。

脳内麻薬は、一時的に混乱やパニックに陥っても出るし、苦痛によっても快感によっても出ます。

また自分は選ばれた人間だという優越感からも出ます。


ある種の言動に、ご褒美としての脳内麻薬をうまく結びつければ、人は動機づけられます。

猿にもある種のボタン操作をすればエサがもらえると条件づければ、喜んでボタンを押します。

それと同様に人は脳内麻薬ほしさにボタンを押し続けます。


だから、宗教の勧誘をする人は目がキラキラしていることがあります。

それを本当にいきいきとしているのと混同してはいけません。

こういう状態になると、洗脳はなかなか解けないでしょう。

しばらく隔離して、根気よく脳内麻薬との関連づけを解除するしかないでしょう。


こういう偏った価値観を押し付けられるのはたいへん迷惑です。

しかし、こちらが迷惑しても、勧誘する側は善を施そうとしているわけです。

そして、それを受け入れないのは、頑迷であったり、マスコミに洗脳されていたり、悪魔に見入られていたり、と、こちらのほうが悪いことになってしまいます。


そういう間違った優越感は不愉快なので、反発しようとすると、向こうのマニュアルにはまってしまうのです。


いくらキャンペーンをしても振り込め詐欺がなくならないように、こういうセミナーや宗教にひっかかる人はなくならないでしょう。


理解してほしいことで、とても単純なことは、真理を求めるということと、それを人に広めることは違うということです。


たとえば、絵を描く人がいるとしますと、純粋に絵を描くのを楽しむ心と、それを人に売って暮らそう、という心は違うものだということです。

絵がうまくなる、よくなる、というのは無限の道のりです。

そこで、この絵はどうしたら売れるかな、と考えるのは邪念でしかありません。


真理も同様です。人が真理を極めようという努力は、ここで十分ということがありません。


ニーチェの描くツァラトゥストラは、山に籠って瞑想していましたが、ある日、自分の中で溢れかえってくるものを恩恵として人々に分け与えようとして山を降りてきます(という要約でいいと思うのですけれども)。


それを読んで以来、なにか悟ったようなことをいう人は、私にとって「山を降りてしまった人」になりました。

ああ、この人はもう山を降りてしまったんだ……

主にテレピに出るタレント学者みたいな人を見ると感じるのですけれども。

研究という聖域から俗世間に降りてきた器用な人たち。


山にいれば、聖人であり、修行者ですけれども、山を降りてしまえば俗人です。

そして、山で学んだことを高く売りつければ山師です。


山にいて真理を求め続けることは誰も利さない行為です。

しかし、十分に機が熟さないうちに、半端な知識を売りに山から降りてきたらただの商売人です。

どれくらいのものを持ったところで降りてきてしまうかで、器や志が見えてしまいます。


修行を済ませて本当に豊かさを分け与えようと降りてくる人は少ない。


あらゆる教祖というものは、中途で山を降りてきた人たちだと思えば間違いないのです。


そういう人の弟子が何かを押し売りしようとしたら、それはもう食わせ者です。

組織拡大や、売り上げやお布施をあげようとしたら、いくら立派なことを言ってもダメです。


私の『達磨』という小説は、9年間、山を降りなかったどころか、洞窟内で面壁して、一歩も外に出なかった人の話です。

9年というのは、30歳からであれは、39歳までの時間です。

長い。

9という数字は一つの永遠の象徴なのです。

山から降りて来ない人、としての達磨を描いたのです。


人のことをあげつらいましたが、ちなみに私自身は、山のふもとに住む俗人です。山もいいけど、里もいい。そういう隠遁者のようなもので、悟りをひらくほど修行もしたくないのです。


この世では、山から降りてきた人たちがさまざまな教義を売りつけようとてぐすねを引いています。


こういう被害を予防するには、とりあえず、単純な原則を知っておけばいいのです。


よいものは向こうから来ない、ということです。


電話セールスや、訪問販売にはロクなものがないでしょう。

商品性が優れていれば、押し売りのような無理な商売はしません。

本当に必要なものは人は探してでも手に入れるのです。


向こうから働きかけてきたものはすべて危ない、そう思っていれば、いちばん間違いがありません。



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